闇の底に近い土の精霊たちの冷ややかさは肌を刺すほどで、そこに悪意や敵意は感じられなくとも、明らかに自分たちは歓迎はされていないようだった。
聖光石の坑道には幾度か来た事があったが、ここまで得体の知れない何かを漠然と感じたことはなかった。先を行くジラークの足音と心許ないカンテラの光だけが今は頼りだ。
ゆらゆらと、今にも消えそうな灯火を唯一の光として、二人のコーンスは奥へ奥へと進んでゆく。
「不思議かね。ここは、我々しか知らぬ抜け道だ。闇の力が濃すぎるのか、精霊力が歪んですらおってな。魔物どもも近寄らん。………この先にあるものを考えれば、当然かもしれぬな」
最後の言葉は、つぶやくようにジラークの口の中に消えていったお陰で、ナッジの耳には届かなかった。が、ジラークの言葉はナッジの記憶と知識に、ひっかかりを覚えるそれだった。
元来、バイアシオン大陸でも闇の影響の濃い場所として広く知られているのは、大陸でも南部に集中している。
ルンホルスの森であるとか、或いは闇の軍勢との戦いの最後の牙城でもあった城塞都市跡であるとか、大陸から遥か水平線の彼方に存在する闇の門の島などといった場所だった筈だ。滅びの都アハブは確かに死霊と屍鬼の支配下にあるが、それはかの都市が滅びに然る理由を持ち、滅ぼされた場所だからに過ぎない。少なくとも、そこには人為的な力が働き、結果として闇に近しくなっただけのことで、元から闇の影響を色濃く残していた場所ではない。
その歴史から、聖光石の坑道もまた同様と考えられなくもないのだが、それでも明らかな遺恨や怨嗟の残るアハブとこことは、比較にはならない。
迷いのないジラークの足取りにすら、ひたひたと知らぬうちによってくる闇の恐ろしすさすら感じる。この閉ざされた闇は、幻惑の光すら放ち地上の生き物を惑わすおかしな気に満ちていた。
そう、これは、かの城塞都市跡で感じた、絶対的な闇の気配。それに近い。
なれば、ここは闇への入り口なのだろうか。否、そのような噂は冒険者ギルドでも聞いた事はない。おそらくは、ここにある何かが、そう思わせるのだ。神聖王国アルレシアの滅びの要因にもなったという聖光石、そして、その聖光石の眠る、閉ざされた坑道。普段であれば、厳重に閉ざされているはずの場所。
通常の神経の持ち主なれば、悪寒を抱くな、というほうが無茶だったし、冒険者として幾多の困難を経験してくればこその直感で、ナッジは、この奥底に眠る何かの危機性を感じた。
喉元まで出かかった名前を、けれどもナッジは飲み込んだ。今更、縋れるわけがない。縋れるわけがないのだ、なぜなら、それが、自ら望んでした事だったからだ。力なき同朋のため、少しでも助力したい。そう考えていた、それは今でも間違いのない。
ナッジはジラークの後に黙ってついてゆく。
こんなところに一人、取り残されるのも不安だったし、ここまで来て引き下がるという事も出来ない。そして、何故ジラークは自分をこんなところに連れてきたのか。老人の意図を知りたくもあった。
せめて絶望するのなら、己の選んだ道の果てを見てからでも遅くはないのだ。
だから、イアルパとヴァンの面影を、ナッジは脳裏に描く事を必死に否定し続けた。
どれほど闇の中を進んだろう。時間の感覚も、とうに消え失せていた。と、突然、重たい音と共に岩盤に揺らぎが走る。足元からくる揺れに、ナッジは狭い坑道の壁にとっさに手をつき、身体の安定を保った。ぱらぱらと崩れた岩盤の欠片が降ってきた。
が、ジラークは特に臆した様子も無く、立ち止まったナッジを一瞥しただけで再び歩みを取り戻していた。
「ジラーク将軍!」
ナッジは先往く老人に思わず声をかけてしまう。重苦しく薄い空気と、闇の濃厚な気配からくる不安が極限まで達していたとは言えなかったが、相当に滅入っていた。そこに、この揺れだ。
「慌てるな。崩れる事は無い」
ぴしゃりと制するジラークの言葉は素っ気なく、不安を助長させるでもなく、かといって和らげる事もなかった。
ナッジは唇を噛むと、滞りがちな足を無理矢理闇に突っ込む。自分のあまりの弱さに、憤りを感じた。この程度で。イアルパがいなければ、ヴァンがそばにいなければ、自分は何も出来ないというのか。闇の中を進む事にすら、臆してしまうような、臆病者だったのか。そもそも、こんなことで挫けるようでは、話にならないのではないか。
口数も少なく、親交を深めたわけでもない同族の老人と二人、ただその意図を掴みたいがために、正体の知れない闇に包まれながらも、まだナッジの心は折れたわけではなかった。
そして感覚が麻痺しそうになる頃、急に視界が光に包まれた。
というよりも、そのまばゆさに、まるで網膜に焼きつくかのように、強烈な光が急に開かれた空間に現れたようだ。
岩盤に、それこそ上下左右に余すとこなくちりばめられた、闇の奥底に眠る、青白い美しい結晶。その輝きは、黄金に匹敵するか、或いはそれ以上の魔を秘め魅了してくるかに思えた。
「……これ、…は……聖光石………?」
呆然と呟くナッジに、ジラークは得たりと頷きを返す。
「流石に、察しがよいな。そうだ、我らは……この至宝を、手にしている」
聖光石の欠片は、ナッジも幾度か手にしたことがある。手にしただけでも、かつてそこに在った魔力の片鱗を感じ、また、歪まされた精霊力を感じた。が、今ナッジが目の当たりにしているのは、規模がまるで違う。
俗な言い方をすれば、魔力の結晶とでも言えようか、そこに集約されているものそれは、まさに奇蹟という呼称に能うものかもしれない。
……けれどそのような無邪気な感想を抱くほど、ナッジは無垢ではなかった。
ごくりと喉を鳴らしながら、ナッジは確信に至る。これはまさしく破滅だ。滅びの象徴だ。
なれば、アハブの町はこれを手にしようとして滅ぼされている。そして、神聖王国アレルシアもまた、この光のお陰で滅びた。美しく、青白く輝く結晶には常に滅びの歴史がつきまとう。ナッジは膝から下の支えを失い、その場にがくりと膝をつき、力なく垂れた頭を左右に振った。違う、これは、違う。
「大きすぎる力かもしれぬ。だが、この光に滅びてしまったのは、人間が愚かだったからに過ぎぬのではないか?かの分別すらない愚か者どもには、扱いきれなかっただけだ」
追い打ちをかけるかのようなジラークの言葉は、更にナッジを打ちのめした。顔を上げたくはない。この光には、確実に意思を歪め狂気に導く禍々しき凶暴さが宿っている。意思を持ち生きるものは、これを手にしてはならない。
「…ジラーク将軍…これは…、これは、僕らには…」
かたかたと、自然に震えのくる身体を持て余しながら、ナッジはなんとか言葉を紡ぎ出した。これは、だめだ。
「案ずる事は無い。間違いは、せぬよ。私は己のソウルまで魅入られてはおらぬ」
存外にはっきりとした口調とともに、ジラークはナッジを助け起こすと、その心の奥底まで覗き込んだのか、ナッジの懸念に答えた。だが、その程度の言葉で不安と恐怖が消失するわけではない。
「でも、アハブも……そして天空神の加護すらもあったアレルシアですら、滅びました。……今の僕たちに、果たして、そのような加護があると、将軍はお思いでしょうか」
助けには会釈することで礼をし、目の前のまばゆいばかりの光より、せめて顔をそむける。
すると、ジラークに告げるべき言葉はすんなりと、出て来た。無礼は承知だった。だが、言葉は止まらなかった。
「我らが主たるセリューンすらも、答えてはくれません。それでも、将軍はこの忌まわしい光を、奇蹟と呼ぶのですか」
一度懸念を口にしてしまうと、その言葉の一言ひとことに、ナッジは勇気づけられたる。己は、決して意思なき力、分不相応な力などは手にせぬという、それは、己自身への誓いでもあった。
冒険の合間にも、ナッジはエンシャントやロストール、果てはこのアルノートゥンですらも、ザギヴやベルゼーヴァ、ゼネテス、イオンズといった立場のある人間の誼を通じ、各国の史書や地理書、学術書などに目を通す機会を得ていた。そして、テラネにいた頃からは考えられないほどの知識を得ていた。だからこそ、ジラークに意見する事も出来る。確固たる信念を持てば、それを他人に提示する事に迷う必要は、なかった。
「僕たちは確かに、…確かに、分別に優れてて、…それは、人間より、もしかしたら優れている、と言えるのかもしれない。でもそれは奢りです!」
何よりも、この光の空間の静けさは、この場が生きとし生きるものにとって…たとえ闇の軍勢に姿形を変えようとも、生きるものとしての本能でこの場を避けている魔物たちですら、わかっていることではないのか。これほどの力を、何故、闇の者どもですらも封印したままにしているのか。答えなどは、提示されるまででもなく、それは立場や価値観を超えた真理として、揺るぎないからだ。
「僕たちだって、闇に食われます。時に間違い、罪を犯します…長老シェムハザ殿のように」
シェムハザの名をナッジが口にすると、ジラークの表情はわずかに動いた気がした。魔法都市ウルカーンの長老の悲劇からまだそれほどの時を経ているわけではない。彼の犯した罪は、結局はその自制心のなさが招いたものだったが、結果的には皮肉にもいくらコーンスと言えど、時に人間のように間違いを犯す存在と、世に知らしめる事件となった。
闇の神器を用い、結果としてシェムハザは命を落した。それによりコーンスの迫害が悪化した、などという事件は耳にはしなかったが、同族にしてみれば、甚だ迷惑な事件だった。そしてまた、あの事件に直接関わったうちの一人として、ナッジは事の真相を知っている。あれは、愚かすぎる、そして哀しすぎる事件だったのだ。
ジラークが果たしてどこまで知っているのか、それはわからない。
「…行き過ぎた探究心は、或いはその判断に迷いを生じよう。その先にあるものは、ただの自己満足でしかない」
「では、違うというんですか。将軍は、違うと」
興奮はしていなかった。しかし、だからこそ、ナッジにはジラークの言葉が恐ろしく聞こえた。
「私怨によって立つわけではない。我らには大義がある。そしてまた、君を含めたコーンスの、すべての同朋の命を背負っている」
きっぱりと、強い言葉で言い放つジラークは、真正面から、ナッジを見ていた。
その眼に迷いなどはなく、眼光に宿るものの純粋さたるや、鋭利な刃物のごとき鋭く、そして揺るぎない。
ナッジはついに絶望を感じた。
大義、その言葉の元に、一体どれだけの血が流れたか。それを知らぬジラークではあるまいに。むしろ、冒険者として国家間の争いに直接関与しない自分よりも、より多くその悲劇を体験してきているのではないか。
そのジラークが、臆面も無く大義などという言葉を口にする。
まばゆすぎる光が、こと冷静で慎重なはずのジラークですら魅了し、狂わせたのだろうか。冷ややかな汗が、ナッジの背を滴り落ちていた。
ジラークは答える事なく、ただ、硬質な瞳を向けてくる。その視線を、その奥底にある真意を問うべくナッジもまた正面から視線を受け止めた。
廃鉱の闇は、深く、寒い。