ほらごらん、そこにある世界は 2

 少年は名乗らるどころか、一言も口をきかない。その頑に引き締められた唇を解すために用意された蜂蜜湯は、冬の空気にすっかり冷めてしまっている。

 なんとか家屋に招き入れたはよいものの、イアルパは色素を見いだせない灰色の瞳をぎょろつかせ、剣呑な光を絶やす事なく、目の前の二人の異種族に対して警戒の姿勢を解く事はない。落ち着きなくあたりを見ていたかと思えば、家の住人を刺すような目で観察している。
 ナッジは困ったようにジルダに助けを求めるも、穏やかさを絶やす事の無い老人はただ、珍客のための寝床を作り、彼の仕事に没頭している。

 少年との交流などはついぞまともに出来ないまま、一日は過ぎていった。ジルダは三人分の食事を律儀につくり、うち一人分は確実にそのままになってはいるものの、老人とその孫はそれを捨てるなどということはしなかった。
 夜になり、その日の最後の食事とその片付けを済ませ、家屋の中に蝋燭の灯だけが赤々と燃える時間になっても、イアルパは出された食事や水に手をつけようとはしなかった。

 その頑さを、ナッジは理解出来なかったのだが、祖父の様子からあえて問いただす事は避けていた。やがて瞼が重くなり、少年の剣呑な目の光より、一日の疲れがコーンスの少年を眠りへと誘う。

 ゆらゆらと瞼を閉じても感じられる橙色の光は、暖かい。
 そばにある祖父のぬくもりと、未だ隅に縮こまる子供の事を考えながら、やがてナッジは寝入っていた。

「孫も眠ってしまったようじゃし、儂もそろそろ眠るとするよ。お主も少し眠るとよい……おやすみ」
 ジルダの言葉に、イアルパの眉が一瞬ぴくりと動くも、結局その日、彼が眠る事はなかった。


 翌日もやはり早朝から霜が降りた。

 木材を組み合わせて作られた小屋は、見た目よりも頑丈で、家屋としての役割を果たし、木の温もりは夜の寒さから守ってくれる。テラネの町でもひときわ大きなオークの大樹の上に巧みに作られた住居は、町の厄介者の住まいとしては、十分すぎるほど快適なものだった。
 ナッジは彼の朝の仕事でもある水酌みに出かけ、ジルダは、孫と少年のために、豆とじゃがいもにベーコンで味をとった簡単なスープを用意してくれていた。

 木製のいびつなスープ皿から漂うあたたかな湯気と、空きっぱなしのお腹には、この上ない御馳走に見えた。
 が、彼はジルダの姿とスープ皿とを交互に見つめながら、動こうとはしなかった。

 その孤児の様子に思う所があったジルダはおもむろに立ち上がると、「孫を迎えに行く」などとうそぶき、小屋を後にした。
 木戸がしまいまで閉じ、はしごの軋む音が聞こえなくなってから、少年は飛びつくように目の前のスープをかきこむ。久しぶりのまともな食事を味わう、などという余裕はイアルパにはなかった。
 ただ、空腹を満たしてくれることのみが、簡素なスープを極上のものに変えていた。

 
「しばらくここにおるか」
 孫をつれ戻ってきたジルダは、空になったいくつかの皿を見て満足げに頷くと、あの初老の神官と同じ言葉を、けれどもまったく違う穏やかな調子でイアルパに問うてきた。
 言葉の穏やかさは、殆どない筈のなつかしい父の記憶を呼び起こしそうになって、だから少年はぎゅっと唇を噛みしめて、両の拳を握りしめた。予想外の他人の優しさを振り払おうとしたのだ。

 頑に悪意から心を閉ざし、口をも閉ざしつづけていた所為で、逆に善意というものにすっかり疎くなってしまった子供は、肩に触れた骨張ったてのひらの温かさにも、はじかれたように飛び退き、まるで野良犬のように、低くうなり声をあげながら肩をいからせた。

 想像以上の拒絶に、ジルダはしばし手の行き場をなくしたが、もう一度、少年の見開かれた目に優しく頷いてみせ、ぽかんと惚けたように口をあけたままの孫を促す。
「ここには、十分な寝床くらいならば用意できる。行く宛がないというのなら、ここにおぬしが住まうのも、構わんよ」
 ジルダの言葉は、やはり穏やかで、優しかったが、手にしたスープ皿の小綺麗な様子を見る眼差しは哀しげだった。


 大人というのは、必ず見返りを要求してくる。
 十分に親の庇護を受けることなく世の中に放り出されれば、子供は子供なりに己を守るしかない。もっとも手早い手段は、順応になることだった。

 そして、その順応の必要性を教えてくれた老神官は、何かあれば唾を飛ばしてヒステリックに怒鳴り、イアルパをぶった。
 彼はイアルパが手持ち無沙汰でいることを許さず、毎日欠かさず天に祈り、古びた教会の掃除をし、家畜の世話をして、食事の支度をする、それらすべてをまっとうに遂行することを望んでいた。
 それらを欠かさず実行し、かつ彼の虫の居所がよければ自由な時間は与えられることもあったが、少年が町の人間から何かを与えられたりすれば、それこそ烈火の如くに怒りだす。いわく、十分に食べさせているのだから、よけいな親切などはむしろ迷惑なのだ、と。
 老神官は温情から少年を引き取った訳ではない。イアルパに望まれた役割は、使用人だった。
 だから、何の代償も無しに親切にしてくれる人間なんてのはいない。
 親切には、何らかの見返りが必要だ。
 幼い少年にとって、短い人生経験の大部分から導き出された一つの哲学が、それだった。

 だからイアルパはジルダから必死に距離をとろうと、再び部屋の隅に踞った。そして、まるで恐ろしい怪物を見るかのように老人を見つめる。
「いや、咎めてはおらん。これはお主のためにこしらえたものだからな」
 イアルパの怯えは、決してジルダの表情が原因ではないだろう。だが、彼をこれ以上追いつめるような真似は出来ない。
「水瓶を使ったのか?……そのようなことは、孫に任せておけばよい。お主のあかぎれた手が治るまではな」
 ジルダは迷っていた。迷っていたが、やはり、少年のこの様子は尋常ではない。ナッジがイアルパを住処に招き入れたときから、ジルダの心は決まりきっていた筈なのだ。ただ、覚悟を決めるとなるとまた別だった。ジルダは、その覚悟に迷いを覚えてしまうほど、齢を重ねすぎていたのだ。


「ねえ、君、名前は?僕ナッジっていうんだ」
 簡単な朝食を済ませ、老人が片付けをしている間、少年の相手は孫のナッジが担当になった。しばらくはイアルパから距離をおいて、自分のもちまわりの片付けやら掃除やらをこなしていたナッジだったが、少年の警戒心むき出しの視線をちらちらと目の端に盗み見ていた。
 やがて、堪え切れなくなり、近付く素振りを見せたところ少年の拒絶があまりにも激しく、仕方なくその場で向き直ることにしたのだ。
 そして手始めに、こちらから名乗ってみようと考えた。
 けれども、そのナッジの行動には、少年は少し考えたふうだったけれど、小さく唇を震わせただけでそれきり押し黙ってしまう。
 決して声を発しようとはしないイアルパの頑なさに、ナッジはややうんざりしていたが、それでも怒る気にはなれないでいた。そこは穏やかで理知的なコーンスゆえの自制心なのだろうか。けれども、結局のところ子供は子供だった。大きな黒目には、好奇心の色がしっかりと宿っている。それに、町の人々がこぞって言うように、まるでピクシーの取り替え子じゃないか、なんて風評と、目の前で怯えている少年がまるで合致しない。
「ね、そこ、寒くない?」
 質問を変えてみることにした。けれど、やはり反応はない。それどころか、与えられた毛布ではなくて、わざわざ最初から持っていた粗衣を胸の前でかき寄せるように抱いて、プイと背中を向けてしまった。
 なんて強情な子なんだろう。ナッジは思わず嘆息しそうになったのだが、多分それすらこの子供を刺激しうる材料になるだろう。寸でのところで自制心が働いた。
「ここは、おじいちゃんのお陰で風の精霊が寒さを少しやわらげてくれるんだ。でも、外から好きなように入ってきちゃう風は、関係ないから、やっぱり外側に近いと寒いと思うよ。君はもしかしたら寒いのには強いのかもしれないけど、あんまり、無理はしないでね」
 少し考えてから、ナッジは出来るだけ少年を刺激しない言葉を選んだつもりだった。
 その配慮が効を奏したかどうかは、どうもイアルパの反応からは判断しかねたのだが、ここまでくると逆に過敏に反応されなければよい、とナッジは思っていた。
 少なくともこちらに害意を持っているようではないし、邪魔をしてくるでもない。
 ただ奇妙な空間の下で同居しているだけなのだが、そんな空間の共有を、人間の子供とコーンスの自分がしているんだ、と考えると、おかしな事態とは思うけれど、そんなに悪い気分でもなかった。

 そんな風にして、奇妙な関係のまま、三人は生活を共にするようになった。

「儂も孫も、お主が新しい家族になりたいと願うのなら、拒みはせぬよ。孫に言葉をかけたお主が、さて本当に不幸の子なのかと疑問に思うた。……人は、、単純な見た目に惑わされやすい。或いは、それは、哀しい事かもしれぬな」
 優しく、ゆっくりと、呟く老人の言葉は、少年には半分も理解できなかった。
 ただ、この角の生えた風変わりな老人と子供は、自分の敵ではなさそうだということだけは確かだ。
 精霊憑きそこない、と罵ることもなく、指をつきつけることもなく、疎ましいものを見る目つきで睨んでくることもない。温かなスープと、寝床をくれた。
 イアルパは、未だに触れようとするとおののくも、それを拒絶するようなことは、なくなっていた。
 老人は皺だらけの顔に笑みを浮かべ、イアルパの頭をゆっくりと撫でる。
 久方ぶりの他人のぬくもりは、イアルパの唇をふるわせ、身体を固くさせたものの、少年にとってはやはり不快ではなく、心地よかった。昔の記憶は、確かに封じ込めたはずだのに。イアルパは混乱していた。
 なぜ、この二人はこんな風に、自分に、してくれるのだろう。老人は理由をいっていたかもしれないが、いまひとつ理解できなかったし、けれども、この質素な小屋の中はとても、あたたかい。
 よくわからないことだらけだ。
 イアルパはジルダの手を乱暴に振りほどくと、狭い小屋の端に蹲り、顔をそむけた。

 口は頑に閉ざし続けていたイアルパだったが、それでも食べさせてもらうという代償に、掃除や片付け、家畜の世話といった子供でもできる仕事は黙ってするようになっていた。口をきかないという他には、これといって悪さをするわけでもない。
 だが、己の役割というものを心得、常に仕事を探してまわる、幼子らしからぬその素振りが気にならなかったわけではない。それでもジルダは少年のやりたいようにやらせていた。
 思えばこの子は、初めて招き入れたあの時から、与えられた食器を綺麗に洗うだとか、自分に与えられたものは丁寧に扱うだとか、野生児じみた外見からは想像出来ないほど、「躾」の良さを伺わせている。それを思うとジルダの心は、さらに沈むのだ。
 少年の頑に強ばった頬が緩み、薄汚れた顔が小奇麗な、それなりに子供らしい顔になる頃、白い獣が牙を剥く厳しい冬は通り過ぎ、森には鳥のさえずりが響き、テラン川の流れは穏やかに恵みをもたらす。

 季節は、夏に向かっていた。