「ローラナさん」

 名残雪を解かす春風のように穏やかで陽だまりのような声が、ローラナを呼んだ。

「オフィーリアさん、どうしたのですか?その恰好は……もしや」

 普段の聖火教のローブの上に、防寒用の羽織、そして背負った荷物。一目見て旅支度だとわかる。

「はい。私もそろそろ、フレイムグレースへ戻ろうかと思いまして。リアナから便りが届いて、私の帰りを待ち望んでいるとあって、よい機会かと思ったのです」
「そうですか。では、これ以上ここに留め置くわけにはいきませんね。今までウィッシュベールのために、本当にありがとうございました」

 正直なところ、彼女の存在は祖母ヤヤを喪い、同時に贖罪を願いながら祈りに務めるローラナにとっては大いに頼れるものだった。些細なことでも相談出来たし、何より彼女の常に理知的で落ち着いた優しい声は、ローラナの心を癒してくれた。
 だが、彼女にはローラナにとってのウィッシュベールのように彼女にとっての故郷がある。そこに、待っている人がいる。フレイムグレース大聖堂で待つ義父と義姉が、オフィーリアにとってかけがえのない存在であることも、彼女と長く付き合いがあれば深く理解していた。自分の我儘で彼女をこの場所に留め置くことは、できない。

「ふふ、心配しないでください。私ないなくなっても、この教会は、ケルザスさんが守ってくれることになっていますから」
「……彼が?」

 以外そうな人物だが、アスターからは彼はあれでいてひどく信心深いのだとは聞き及んでいた。マフィア時代にあった事件から、その生き方を後悔し聖火神に務めることを選んだとも。

「今宵共に食卓を囲む機会をフェンさんが準備して下さいましたので、詳しい話はそこで」

 たおやかに笑うオフィーリアに、ローラナは疑念を持つことはやめた。



 そして、その晩。フェン手ずからの料理は、集った面々を大いに満足させた。その中心にあったのは、ウィッシュベールから旅立つことを決めたオフィーリアとサイラスだった。
 彼らはアスターの旅路を良く助け、特にサイラスに至っては最終決戦後まで共にしたことをかの学者先生にしては饒舌に語り、その語り口が遺跡を語るアレクシアのそれに等しくて皆の笑いを誘った。当の本人は憮然としていたが。

「アスターさんには本当にお世話になりました。私自身、この街の復興を手助けすることで、多くのものを学び、得たと感じています。本当に皆さん、ありがとうございました」

 オフィーリアもまたこの街で多くのものを得たことに感謝し、提された食事を存分に味わっていた。特に彼女はラムシチューを好み、この味がアスターを育てたのだと思うと感激だと、フェンにレシピまで教わったほどだ。

「ヨーゼフ義父さまやリアナにも、ぜひ、食べさせたいのです。この、ユーシアさんの味はとてもやさしくて、元気がもらえますから……」
「そうだね。フレイムグレースはとっても寒い土地だから、きっとお父さんも、リアナさんも喜ぶと思うよ」
「はい、スティアさんの言われるように、フレイムグレースでは温まる料理はとても喜ばれますから……リンユウさんのシチューも、もっと食べたかった……」

 そこで一同はしんみりする。アスターが救いたいと願い、けれども結局彼女と彼女の恋人ヴェルノートの魂は辺獄で散っていった。そこに救いがあったかどうかは、当人たちにしかわからないことで、アスターはそのことをひどく悼んでいた。

「リンユウ、か……つよい女性だったよな」
「本当に、……本当に、つよくて、まっすぐで、光そのもののような人でした。だからこそ、彼女は彼女自身の結末を選んだのでしょう」

 オフィーリアのてらいない言葉は、一堂に染み入るように響いた。ローラナも、彼女の意見に異するところはない。
 愛する人のためにすべてをささげたリンユウは、確りと彼女の生を満足に生きた、と思う。
 そして、そのリンユウに恥じないように生きるのが、残された自分たちの仕事だ。

「さて、湿っぽい話は終いだ。オフィーリアの旅路に聖火の祝福があらんことを」

 ケルザスが、まるで神父のような口ぶりで蒸留酒を掲げれば、皆が軽快に笑った。だが当人は気にする風もなく、続く言葉をローラナへ向ける。

「ローラナ、明日からは俺が教会の用心棒だが、まあ、安心してくれ。あんたに何かあったら、アスターに怒られちまうからな」

 かつては鋭い光を宿していたであろう瞳は、やさしくローラナを映す。まるで父親のようなあたたかな眼差しがこそばゆく、ローラナは少し頬をゆるめた。

「はい、そのことはオフィーリアさんから聞いています。よろしくお願いしますね」
「なんだ、その、……俺が自慢できるのはナイフ捌きくらいだが、これでも信心深い方でな」
「はい、その話もアスターから聞いています。その腕も、頼りにさせていただきます」
「任せてくれ。それに、あんたには話しておきたいこともたくさんあるんだ。こちらこそ、よろしく頼む」



   そしてオフィーリアとサイラスを見送り、少しの静寂がウィッシュベールの教会に戻った。
 ケルザスは成る程豪語する通り、朝夕の祈りを欠かさず、教会を清める仕事にも文句ひとつ言わず、ローラナの助祭としての仕事も先んじて手伝ってくれるほどだった。その立ち回りの速さや機転にに、ローラナが驚いたほどだ。

「ケルザスさんは、その……教会で働くのは、初めて、ですよね?」
「そうだが、あんたのことは、アスターから頼まれてな。俺がウィッシュベールに残るなら、教会の仕事はおのずとすることになるだろうから、観察させてもらってたよ。勝手にやってたことは、謝るぜ」

 存外礼儀をわきまえている男に、かえってローラナは恐縮してしまう。

「い、いえ、とても助かります……。ケルザスさん、その、……よろしければですが、あなたのお話を、聞かせていただきたいのです。これから、この教会を共に守る人間として、あなたを知ることは……必要だと思うから」
「そうだな、何も隠すような話じゃない。オフィーリアからある程度は聞いたかもしれんが、元はマフィア者だった」

 静寂と精霊石で作られたステンドグラスの光の中、ケルザスは己の過去をぽつぽつと語りだす。ローラナは彼の次の言葉を寂として待った。

「だがな……抗争の最中、その抗争の所為で死んだ子供を見ちまって、無力だと思った。俺にはナイフがあった、力があると思っていたし、力の使い方も間違っちゃいないと思っていた。だが、そのナイフは子供一人救えなかったんだ」

 言葉の端々に、後悔が滲んていた。そして、ローラナは悟る。彼が聖火神に求めているのは、おそらくは自分と同じものなのだ、と。

「……私は」

 ぽつり、とローラナが呟くと、ケルザスはそれまでの流暢な言葉を沈め、彼女を静かに、けれども柔らかく見守るように視線をよこした。

「私は、おばあさまを救うために、このウィッシュベールを、売りました。その行動の先に、何があるか、想定できなかったわけではないのに……。その結果、アスターは両親を失い、スティアも父を亡くしました。でも、ふたりとも、私を……責めなかった。責めなかったんです……いっそ、悪しざまに罵ってくれれば……怒りに身を任せて……」

 声が震え、思考が濁り始めたころ、間髪入れずにケルザスが言葉を紡いだ。まるで、そのタイミングを測っていたかのように。

「ローラナ。それ以上はいけない。あんたは、あくまでもあんたの信念に従った。アスターやスティアも、そうだ。知ってるか?アスターは、旅の目的を復讐だといったよ。だが、その目に宿る炎は、キレイだった。信じられないくらいに、な。俺はその瞬間、魅入られた。そして、きっと神サマも同じだったんだろうよ。その証拠に、神の指輪はアスターを選んだ。そして、アスターはあんたを許した。それで、いいじゃねえか」
「……そう、です。理屈では、わかっているんです。でも、それでも、私は、自分で自分を、まだ、赦せません。私は一生、この罪を償いながら、生きていくことを、皆に願った」

 一気に吐き出したローラナの震える肩に、傷跡の残る手がそっと添えられた。その手は、温かく、そして安堵を覚える温度だった。

「あんたは、その矛盾を一生抱えて生きていく。俺も、救えなかった子供の無念を、多くの命のことを一生抱えながら生きていく。それは、贖罪の旅路だ。俺とあんたは、似ていたんだな。だからアスターは俺をずっと目にかけていた……は、まったく、俺の半分も生きちゃいないだろうに、なんて慧眼だ」

 幼馴染を語るケルザスの観念したような言い草に、ローラナの瞳に光が戻った。

「ふふ、そうですね。私も、そんなアスターがいたから、こうして前を向こうと思えます。さ、もうすぐお祈りの時間になりますよ、支度を急がないと」
「おっと、そうだった。これからも、よろしく扱き使ってくれよ」

 冗談めいて続けるケルザスに笑みを深くして、ローラナはステンドグラスを仰ぐ。そこから漏れる朝の薄い光は、まばゆい。まるでこの世界を祝福しているようだと、率直に思った。