私は、出来損ないの子供でした。だから両親にも棄てられた。愛される視覚なんて、私にはなかったんです。そう、突きつけられた気がしていた。
けれども、そんな私をロイと教皇猊下は愛情を注いて育ててくれました。
そのお陰で、人並みの信仰心と奇蹟を示すことも出来るようになりました。
そんな私が、教皇を喪った時に出会った青年、クリック・ウェルズリー。彼は清い蒼き聖火を体現したかのように目映い青年でした。少々危うさを秘めている程に純真で、真っ直ぐで、正義に燃える青年。彼を、私は一目見て気に入りました。昔のロイに、少し似ていたからかもしれないね。けれども、そんなことはお構いなしに、私は彼に惹かれていきました。
だから、彼の命の灯火が私の所為で失われそうだと知った時、私は祈り、奇蹟を願いました――それくらいは、私にだって赦されてもいいでしょう、聖火神エルフリックよ。
私は、祈りました。限界を超えて、命も、魂も、全てを捧げて、祈りました。
その祈りが届いたかどうかはわかりません。
ただただ、私は、祈り、願いました。
お願いです、聖火神エルフリックよ。
この敬虔で、健気で、聖火の申し子のようで、そして、かけがえのない青年を、もう一度この世に戻してください。
それさえ適うのならば、私の命を、魂を、全てを捧げましょう。
ですから、彼を、連れて行かないでください。
お願いです。テメノス・ミストラル、この年になって、心の底から祈ります。
彼を、取り戻してください。
その為に、私の全てを捧げます。
気が付けば、知らない場所にいた。
足元はふわふわとしていて、定まらない。辺りの景色もぼんやりとしていて、何一つ具体的なものはなかった。
ただ、はっきりしていたのは、クリックの中にある意志。
この足の行く先に、信じた人がいる――だから、このまま前に進もうとする、クリック自身の意志だけだった。
この場所は暖かくも寒くもない。甲冑の重みも感じなかった。ただ、ぼんやりとした輪郭が視界を通り過ぎてゆく。
――あの人は……テメノスさんは、どこに居るんだろう。
テメノス・ミストラル――行動を共にしていた彼のことをクリックは多くを知らない。
ただ、彼の存在はひどく高潔で、綺麗で、そしてかけがえのない人だったということだけはわかる。
時として破天荒な行動をすることもあるが、彼は敬虔なエルフリックの使徒だ。
彼の祈りは魂を浄化し、傷と心を癒す。その手腕は見事なものだった。クリックも何度か世話になった奇跡の術は、彼が間違いなく聖なる炎の導き手であるということを示していた。
それ以外にも、クリックは個人的に彼という人が好きだった。その好意は、どう表現すべきなのかははっきりとはしていない――というよりも、定められない、という方が正しいかもしれない。人間的に好ましい、と考えているし、傍にいて守護らなければならないと強く思う。強く、彼の神の剣でありたいと思う。
勿論彼は決して弱い人間ではなく、むしろクリックと共に肩を並べて戦えるほどの実力のある人間だ。それでも――それでも、聖堂騎士としてこの剣に誓って守りたいと思うのは彼だけだった。
それは、彼がクリックの導であり、光でもあるから。
その光は暖かく、時に厳しく、けれども優しい。
親というものに良い感情を持っていないクリックにとっては、そうした感情を持てた、二人目の人間だ。
そんな光に満ちた世界に、クリック・ウェルズリーは導かれていた。
ところが、行けども行けども、この世界には輪郭というものがない――なにもかもが、はっきりしないのだ。草木が生えているようで、それは幻のようにも見える。草や土の薫りも感じられるにもかかわらず、だ。
建物が建っているようにも思えるし、だだっ広い開けた場所のようにも思える。ただ、時間の流れだけはゆっくりとしていて、あたたかくぼんやりとした中天の日差しがあたりに降り注ぎ、心地よい空気に満ちている場所だった。まるで、彼の存在そのもののように。
「テメノスさん、いるんですか?」
ふと、声に出してみた。けれども、その声に答える音はなく、穏やかに流れる空気の中に霧散してゆき、やがて蒼穹の彼方に消えていった。
「いないのかな……それにしても、本当にここはどこなんだろう。ソリスティアにこんな場所があるなんて、聞いたことがなかったよな……」
ひとりごちながら、クリックは歩みを進めていた。この先には必ず導きがある、と強く信じていたからだ。
そして手にしているものを、テメノスに届けなければならない、とも。
何を手にしているのかは生憎失念していたが、テメノスに渡せば彼は理解してくれると思っていた。彼は、時に魔法のように事態を解して解決してみせる。自分も何度かその洞察力と集中力には驚かされた。代償に、その過剰な集中の所為で無防備になってしまう彼を護るのが半分自分の仕事になっていたのだけれど。ああ、一人でまた考え事をして他のことがおざなりになっていないだろうか。あの人はしっかりしているようで、どこか抜けているところもあるからな……詮無き心配をしながらも、クリックは徒を進める。
風は穏やかに頬を撫で、まるで眠気を誘うような陽気だ。けれど、歩みを止めてはいけない、と思うから、クリックは歩き続けていた。
やがて景色が少しずつ変わってきた。見慣れない広い草原から、見慣れた紅葉の聖火の郷のそれへと、徐々に変化してきたのだ。
ここならばテメノスがいるかもしれない。そう思うと、自ずと足も速くなる。殆ど駆け足でクリックは見慣れた山道を駆け上がっていた。
ここは聖火の郷・フレイムチャーチ――によく似た場所だった。よく似た、というのは、記憶しているものとは聊か違うように思えるからだ。けれどもクリックにはその違和感の正体まではわからなかった。わからなかったがこの郷のどこかにテメノスがいるのではないか、という期待から、深く考える事はなかった。
そしてテメノスの自宅らしき場所も、殆ど記憶通りの場所に在った。扉をノックしてみるが、返事はない。このうすらぼんやりと明るい時間帯が、一体朝方なのか昼間なのかもわからないが、不在だとは不思議と思わなかった。そして、何かに導かれるように、クリックは扉を開いた。
そこで目にしたものは、寝台で滾々と眠りにつくテメノス・ミストラルその人だった。
まずは脈を確かめた。確かに動いている。続けて、心音。とくとくと微弱ながらも感じる規則的な脈に、クリックはほっとした。
改めて生きているのか確かめてしまう程に、テメノスの顔色は白かったのだ。まるで血の通っていない人形がそこに寝ているのかと錯覚するほどに。
それからクリックの行動は決まっていた。
ここには、自分とテメノスしかいないらしい。だから、自分はテメノスの為に行動しても、誰にも咎められない。この場所に来るまでに誰にも出逢わなかったことを根拠に、そう考えたのだ。
テメノスの自宅はやたらと他の景色と比べても立体的で克明でしっかりとしていて、そもそもが流動的なこの世界で、ここが居るべき場所だという根拠になるには充分だった。
クリックは目覚めぬテメノスを、看病し続けた。
生きていることを確かめてから、その身体を清め、同じ部屋で食事をする。テメノスの様子に変化があったらすぐわかるように、極力家を出なかった。不思議とこの場所では植物や動物が豊富で、クリックの基礎的な狩りの知識でも質素に生きてゆくには十分だった。
それでも、テメノスは目覚めなかった。
そして、どれくらい繰り返したか、もう忘れた頃。
テメノスの鼓動が、止まった。
元々低かった体温がどんどん下がり、蝋のように白く透き通った肌には血の気は一切失われ、静かに、その身体が終焉を迎えた。
クリックは何も出来なかったのだ、と、ただ、絶望した。後悔もした。自分は生きているのに、どうしてテメノスが、と嘆いた。ここには導きが在るはずだと、強く信じていたのに。それに、この手にしたものを見せて、一体何か、説明をして欲しかったのに。
だからだろうか、その裏に静かに蠢いていた忌々しい闇が近づいていることに生憎と気が付けなかった。
それは静かにクリックに近づくと、耳元でおぞましく囁いた。
「テメノスを生き返らせることができるなら、貴方は何をしてくれる?」
そのあまりにも不気味で不快な声に、クリックは反射的に剣を抜こうと腰に手をかけ、そして帯剣していないことを悔やんだ。
テメノスのことだけを考え、過ごしていた時間は、判断力を鈍らせるには十分なほどにぬるま湯だった。
「……貴様は……」
「名乗る程のものでもないわ。ただ、そうね、私の眷属になるのなら、そこに在る人形に、命をまた吹き込んであげる」
何故、と問うまでもなかった。
長い黒髪を翻し柔らかく微笑む修道女の姿をしているそれは、とてもではないがこの世のものとは思えない。クリックの中にある違和感は、正しくそれを深淵の闇だと導き出していた。
長らく使っていなかった壁に立てかけられていた剣を、手に取る。まだ、重いとは感じない。
「この世界は生ぬるい偽物だ。お前を見てわかった。テメノスさんは、ここにはいない」
クリックの言葉を受けたそれの表情が裂け、膨張し、おぞましく膨れ上がり、闇の力がクリックを襲った、その瞬間。
世界が、一気に光に満ちた。
焼けるように眩しいその光は、クリックの視覚も奪った。
けれど同時に、甲高い断末魔を耳にして、闇が霧散してゆくのがわかった。
「クリックくん……!!」
懐かしい、自分を呼ぶ声。クリックを呼び戻してくれた声は、テメノス・ミストラルのものだった。
気付けばクリックは見慣れた部屋――テメノスの自宅のベッドに寝かされていた。
そして、クリックの手を強く握りしめながら破顔するテメノスは、浅い呼吸をしていた。整った顔立ちは疲労感に満ちており、秀麗な額には、汗が幾筋も流れている。
「テメノス、さん?僕は……」
「よか……った……」
それだけを告げると、テメノスの体重が自分の方に凭れ掛かってきた。それも全体重が、だ――とはいえ、鍛えている自分とそもそも痩身のテメノスではその重さは比べるべくもなく、腕の中に納まったそれは軽すぎるとすら思えた。慌ててクリックが抱きとめると、テメノスはそのまますぅすぅと寝息を立てだした。
「魔力の使いすぎだ。再三警告をしたが、聞かなかった」
静かなバリトンが耳に届く。聞き覚えのあるそれは、確かテメノスの仲間の一人のものだ。声の元を確かめれば、家の中には数名の人間が入り込んでいた。そして、恐らく外にも待機している気配がある。
「え、ええと……」
「オズバルド。それよりも、テメノスは放っておけば、死ぬ」
そう言われても、状況が分からなかった。
だが、告げられた端的な言葉に、とっさにその体温と脈を確かめた――生きている。まだ、この人は生きている。
「テメノスはね、貴方を引きずり込もうとする暗黒の残滓……なんて説明したらよいのかわからないのだけど、闇の力とか、貴方を襲ったカルディナも侵されていた暗黒の力……かしらね。その力から貴方を救うために、魔力を使い果たしていたの。しかも介入は強い光の力を持つテメノスしか出来なかった。それに加えて、それでも起きない貴方を蘇生するために、魔力増幅の禁薬を躊躇いもなく口にして、蘇生魔法と超過回復の魔法を何度も使った。だから、もうその身体には生きる力が、残されていないのよ」
彼女は、確かキャスティという名の薬師だ。自分も何度か世話になったから、よく覚えている。オズバルドの言葉少なな説明よりも自分が告げた方が良いと判断したのだろう、キャスティが全てを告げるとオズバルドは小さく頷き、部屋を出て行った。もう一人部屋にいる獣人の少女は、クリックよりもテメノスの方に意識がいっているらしく、その豊かな尾を静かに振りながらテメノスの腕に触れている。
「テメノスの匂いが薄いよ、おふくろ」
「……そうね。今のテメノスは、生きている、とは、とてもではないけれど、言えない状態だから」
「テメノス、いなくなるの?」
彼女の率直な問いに、キャスティは複雑そうな表情で応える。言葉がないというのは、それが答えなのだ。
キャスティから告げられた事実だけでもついていくのが精一杯で、そして認めたくなかったのに、獣人の少女の言葉が追い打ちをかけた。
認めたくはなかった。けれど、きっとそれは、間違いのないことなのだ。クリックは息を呑むと、意を決し言葉を告げた。
「キャスティさん、今のは……真実、ですか」
クリックの問いに、キャスティは頷いた。薬師が、誰よりも患者を選ばずその生を望むであろう彼女の肯定は、この上ない真実の証左だった。
「それなら、テメノスさんが目を覚ますまで、僕が傍にいます。こうなったのは、元々僕の責任。そうなんでしょう?」
答え辛いことを訪ねている自覚はあった。けれども、この細い身体の温もりを喪いたくはなくて、クリックは腕の中の体温を抱えなおして、キャスティに向きなおる。
「クリック、それは……」
「違いません、よね」
「そう、ね。テメノスは貴方のために命も魂も、すべてを使い果たした。もう、本当に力が尽きかけている。もってあと何日……そんなところよ」
吐き出される言葉は、ひどく苦しそうだった。
世界を明日に導いた英雄の一人でもある彼女ですら、どうにもならない、できない、その無力感に打ちひしがれながらも、それでも事実を告げてくれたことは、有難かった。
「……わかりました。それなら、やっぱり僕がテメノスさんの傍にいます。傍に、いさせてください」
「でも、貴方の仕事は、大丈夫なの?」
クリックは聖堂機関に所属している聖堂騎士だ。だが、もう、一度は死んだ身だった。
――そう、自分は死んだのだ、一度。
聖堂機関の暗部に触れ、騎士団長カルディナの剣にかかって、死んだ。
何故忘れていたのだろう、と今更のように思う。
そして、一瞬であらゆることを思い出した。
生前の記憶と、それから、知らない記憶と言ってよいのかわからない情報までもだ。
自分が死んだあと、聖堂機関と月影教、そして聖火教会の関係や真実はテメノスたちの手により白日の下に晒された。そして一度世界は夜の闇に呑まれ、その闇を払ったのはテメノスたちだった。何故自分がそのことを知っているのかは、わからない――もしかすれば、あの不思議な空間にいた、その影響かもしれない。闇の残滓に触れたからかもしれない。いずれにせよ、今のクリックにとっては好都合だった。
「キャスティさん、お尋ねしたいのですが、今、聖堂機関と教会はどうなっているんですか?」
クリックの問いに、どう答えたものかと思案する素振りを見えてから、薬師は応えた。
「そうね、詳しい話はわからないけれど、私が知っている範囲で話すわ。今、聖堂機関にはあなたの友だち、オルトが副機関長として働いているわ。そして、聖火教会は、テメノスを中心にして動いていた。けれど、あなたが……あなたをここに運んでくれたのは、オルトの部下たちよ。何故だかまだ脈がなくなっていなかったあなたを、そのまま埋葬は出来なかったし、聖堂機関の直轄地で隠し通すことは、困難だったから」
キャスティの言い分では、自分は完全に死んだわけではなかったらしい。
そして成程、聖火の郷でもあるここも、捜査の手が入らないとも言い切れなかったが、逆に異端審問官であるテメノスの自宅に勝手に入り込む教会関係者はいない。灯台下暗し、というやつなのだろう。テメノスらしい考え方だとクリックは思った。そして、今腕の中にある動かない温もりに、胸の奥がひどく痛んだ。自分という存在のためにそこまでしてくれたひとに対して、一体自分が出来ることは何か、と。
「僕は一度死んでいます。事件のどさくさに紛れて、オルトは巧く処理したんでしょう。そうでなきゃ僕は今この場所にはいません。きっとテメノスさんも便宜を図ってくれたんでしょうね。だったら、僕は、この場所にいます。聖堂騎士であるクリック・ウェルズリーは、もう死んでいますから」
「そう……それなら、これを渡しておくわ」
クリックの言葉に、キャスティの硬い表情が少しだけ解れた。そして、テーブルの上に置かれた、遮光の小瓶には何か液体が入っている。
「テメノスが目を覚まさなくても……少しだけ、口に含ませてあげて。もう治る見込みのない患者に使う栄養剤、のようなものよ。もしかしたら……。いえ、下手に不確定なことは言えないわね。少なくとも、今のテメノスには生きようとする意志が感じられないの、だから……どんな薬も、効かないのよ」
「ありがとうございます、キャスティさん。使わせていただきます。それから、僕なら、大丈夫です」
大丈夫だ、そう、思っていた。
獣人の少女・オーシュットの澄んだ瞳がクリックを見つめている。
「大丈夫だよ、オーシュット。僕がついていれば、きっとテメノスさんは、目を覚ますから」
根拠はなかった。けれども、クリックの意を察した少女は、静かに頷いた。
それからの日々は、ひたすらに繰り返しだった。
その日あったことを静かに眠るテメノスに事細かに告げ、日記をつけるようになった。どんな些細なことも、ささやかな変化でも、出来うる限り細かく書き綴った。
聖火の郷の村人たちは、クリックの正体を知っていたが、何も言わないでそっとしておいてくれた。そして、いつしか村人として歓迎してくれるまでに至った。
同じ聖火を信じる人々たちだからかもしれない。クリックの人柄もあっただろうし、何よりテメノスが村人たちに慕われていたのもある。
今日はテメノスにこれを届けてくれ。明日はこっちを。温かい布が手に入ったから持って行ってくれ。気付けの茶を手に入れたから、使ってくれ。新鮮な野菜が獲れたから食べてくれ。そんな、ささやかな贈り物で家は一杯になっていた。食べられるものは、有難くクリックが頂いていた。そうでないものは、クリックが使うことにしていた――だから、きっと村人たちもわかっていたのだろう。
テメノスは、戻らないかもしれない、ということを。
それでも願いを、祈ることだけは赦されてもよいのではないか。それは、クリックひとりだけの思いではなかった。
そんなある日、ささやかな奇蹟が起きた。
朝、何時ものように眠るテメノスの身体を清めようと寝室に向かうと、そこには目を覚ましたテメノスの姿が在ったのだ。
流石にベッドからは起き上がれなかったようだが、上体だけを起こし、入ってきたクリックを見ると、それは嬉しそうに表情を崩した。テメノスの笑顔を見るのは、本当に、久しぶりだ。
「クリックくん、おはようございます」
「―――っ……!」
言葉に、ならなかった。
涙が零れた。そして、その身体を、抱きしめていた。確かな温もりが、そこには在った。
「君と旅をするのもいいかな、なんて考えた日も、あったんですよ」
テメノスは巧く動かなくなった手足のことを何とも思っていないように、甘い夢を語るようにそんなことを零した。
けれどもそれは叶わない夢だということも、互いに知っていた。
テメノスの脚は動かない。その身体は痩せこけて衰え、腕をあげることすらも儘ならない。
そんな状態なのに、ひどく澄んで、うつくしい光沢を放つ翆の瞳の光は煌煌と輝いていて、まるで、少年が将来の夢を語るようだとクリックは思った。
同時に、なんて残酷な夢を見ているのだろうと思った。
この人はもう何も望めないのに。
この人はもう何も享受することもできないのに。
それでも呪文のように繰り返す言葉を、テメノスはそれはそれは大切そうに呟くのだ。そして決まって優しく、ほんとうにやさしく微笑む。
その穏やかすぎる笑みに、クリックの胸の奥はつきつきと痛みを訴えた。
この人は知っている。
もう、自分が長くないということを。
だから、だから毎日夢を語る。日常を語る。優しく、愛おしそうしそうに、過去を、今を、そして決して訪れない未来の事まで、語る。
それがどんなに残酷で優しい物語なのかも、知っている。
ある日、堪えきれなくなり、痩身を抱きしめた。テメノスは驚いたように目を丸くしてから表情を和らげて、クリックの背に細い腕を回すようなそぶりをみせてから、持ち上がらないことに気付いて吐息を落とし、小さく笑った。
「すみません、もう、君を抱きしめることも、できないみたい」
クリックは返す言葉に詰まった。何を言えばいいのか、わからなかった。残酷な真実を知るあいするひとに、どういう言葉を言えばよいか、わからなかった。ただ、胸の奥が酷く痛かった。
そのことが悔しくて、哀しくて、情けなくて、泣きたくなかったのに涙が零れた。
涙を止めようとすればするほどに、零れてゆく熱を止めるすべを知らなかった。力を籠めれば折れてしまいそうな身体を、まるで壊れ物のように抱きしめながら、ただただ泣くことしかできなかった。泣きながら、クリックは告げるべき言葉が何なのか考えていたが、伝えるべきものなどは最初からひとつしかなかった。ひとつしか、なかったのだ。
「愛してます、テメノスさん。僕は、ずっと……あなたを、愛しています。好きです。傍に、いたいと、ずっと、傍に、隣に、立ちたいと、思って……」
「知ってましたよ。君が、私にしてくれたことも、全部、知っていました。君の声がね、眠っている間も、聞こえていたんです。嬉しかった、んでしょうね。君の声に呼ばれて、私は一時でも戻れた。君に、また逢えた。きっとね、私の願いは、君にもう一度、逢うことだったんです」
応えるテメノスのそれは、決して強い声ではなかった。クリックの腕の中で、小さな囁きのような、胸元に落とされたそれを、けれどもクリックは一言も漏らさずに音を拾った。決して逃してはいけないと思った。
そして、伝えた言葉が間違いではなかったのだと思い、涙に濡れた顔のままで、テメノスの表情を伺うとひどく穏やかで静かな表情を湛えていた。
痛かった。胸が、身体が、頭の中が軋む気がした。泣き叫びたかった。幼子のようにそうできなのなら、どんなに楽だろうと思った。
「さて、私の願いは叶いました。もう、未練はありません。君には残酷かもしれないけれど、私は思い残したことは、案外ないんですよ」
テメノスの言葉は、クリックにとっては追い打ちでしかなかった。
けれどもいとしいひとは残酷でうつくしい言葉を続ける。もう未練がないだなんて、それは、真実ではないだろうに、どうしてそんな風に笑うんだろう。
「君が生きてくれていれば、それで。本当に、いいんです」
そこで、クリックは決定的に知ってしまった。
このひとに もうじぶんことばが とどかないことを。