▼ 誕生日おめでとう


「誰かの誕生日を祝えるっていうのはね、幸せだと、私は思うんですよ」

 台所で料理を作りながら、テメノスさんがぽつり、と言った。

「それだけ大切な人がいる、ってことですから」
「そう、なんですか」
「はい。私は、あまりそういうことに頓着しないもので」

 僕は知っている。テメノスさんは自分の誕生日を知らないのだ。前に聞いたことがあった。孤児だから、生まれた日なんて考えたことがないんですよ、と何気なく行った時の貴方の寂しげな表情も、よく覚えている。その次に僕の誕生日を聞いてきて、教えたら、それは嬉しそうに「そしたら毎年君の誕生日を祝えますね」だなんて言ってくれて。
 だから、僕だって祝いたい。けれどもテメノスさんには誕生日がない。

「ねえ、テメノスさん。テメノスさんの誕生日も、お祝いしましょう」
「君、何をいっているの。私の誕生日なんて、わからないんですよ」
「だったら、僕とテメノスさんが出逢った日にしましょう」

 差し出がましいかな、と思ったけど。意外にテメノスさんは顔を赤くして、もごもごと何かつぶやいて。それから料理をする手を止めて、きゅっと僕に後ろから抱き着いてきた。

「ありがとう、クリックくん」

 確かに、小さな声でそう聞こえたんだ。


▼ 願うことも


 凍える空気が頬を裂く。
 ごうごうと音を立てて流れてゆく雪と風は柔肌を裂き、容赦のない冷気を身体の芯まで感じさせてくる。痛みを伴う風雪は視界を阻むだけでなく、慣れぬ身体を痛めつけてくる。頬に張り付く冷たい氷の結晶に、かじかむ手を襲う吹き溜まりに、溜息すら付けない。
 テメノスは、この街がどうしても好きにはなれなかった。聖火教会に所属する人間としては、聖堂機関のあるこのストームヘイルはどちらかといえば馴染のある街である。過去に、何度も訪れたこともあり、見知った景色の筈だった。
 それでも、だ。
 音を立てる吹雪と容赦のなく霊峰アルタヘから吹き付ける強い風には辟易するのだ。
 同じ北方ウィンターランドのウィンターブルームはそれでもどこか温もりが残っているように思えるのは、領主の違いだろうか。否、それは己の記憶がしてだ。
 忌まわしく、呪わしく、決して忘れられない記憶は泥濘と心の奥に鎮座して、夜毎テメノスを見舞う。そうして眠れぬ夜を、何度数えたことだろう。
 それでも、ここには心を通わせた人がいる、というだけで訪れる理由にはなる。
 早く、あの笑顔を見たい。
 クリック・ウェルズリー。若き聖堂騎士。その聡明さと持ち前の勇気で、教会の裏の闇を暴いた、張本人だ。一度は命を失いかけたが、テメノスが必死の祈りと献身で現世になんとか引きとどめたのは、記憶に新しい。
 そう願うようになったのは、きっとその温もりを一度失いかけたから。
 もう、二度と失わない。喪えない。そう彼に告げたことはない。彼の前では、自分はあくまでも食えない二流の異端審問官でよい。
 テメノス・ミストラルは祈る。
 だれもでもない自分自身に、それは、戒めと、願い。
 嗚呼だから。初めて身勝手に願うのは、ひとりのひとの命の炎が、輝き続けることだけ。エルフリックよ、子羊の願いを、どうか、どうか、お聞き入れ下さい。
 エルフリックに、否、己にそっと誓う祈りを聞くのは宵闇を舞う吹雪のみ。


▼ はじめて


 大きな手は、本来神の剣を携えるべきもの。その逞しい手が、優しく、おそるおそる、私の頬に触れている。まるで、壊れ物でも扱うかのように。まるで、年頃の生娘に触れるかのように。
 触れた箇所はひどく熱くて、まるでそこだけが燃えているよう。
 嗚呼、エルフリックよ。
 私はどうしてしまったのでしょう。
 心の臓は先程から破裂してしまいそうな鼓動を鳴らして止まらず、視点は定まらず、胸の奥がとても、とてもあつい。
 こんな感覚は、知らない。
 誰も、教えてはくれなかった。教皇も、ロイも、誰も。
 それならば。
 それならば、目の前の若き騎士に尋ねてみようか。
 そんなことを脳裏に描いた瞬間に、思考回路は焼き切れる。
 とても冷静では、いられない。嗚呼、どうしたら、どうしたらよいのでしょう。


▼ 後悔させませんと、彼は誓った


 「好きです」 

 その一言のに、胸の奥が沸き立った。それと同時に、耐えがたい痛みにも襲われた。
 私が、好き?本当に、それでいいの?そんな疑問が頭に浮かぶ。
 彼は、優秀で将来有望な騎士だ、私なんかが彼の想い人で、よいわけがない。そんな常識的な考えが真っ先に思い浮かぶ。けれど、本当のところは――怖かった。真っ直ぐな、その、好意が。
 私は職業柄人を疑うことを常としている。だから、何事も疑ってかかる――そう、だからこそ、今クリックくんが嘘をついていないことくらいは、簡単に分かってしまう。
 分かるからこそ、怖かった。
 彼の将来を、閉ざしてしまう、その可能性を私が持っている、ということを。

 彼の隣には美しい女性が似合う。そして、可愛らしい子供がそこにはいて――

「テメノスさん。何を考えているか、貴方にしては分かり易い。僕は本気です。僕は、僕自身の将来のことくらい考えられる程度には、もう大人です。その上で、貴方が欲しい。年を取って、老人になったとしても、貴方に隣に居て欲しいんです」

 そう告げて、クリック君は私の手を恭しくとると、口づけてくる。
 その唇は柔らかく、温かく、私の心の中の迷いを、簡単に払ってしまうのだ。
▼ オルターガーデン(書下ろし)


 灰色の世界に色がついた、と思った。まるで子供の様に、ただ、素直にそう思えたのは、君という存在があまりにも目映くて、清い心を持っていたから。
 それがロイの導きからなるものだと知った時の、私の心の内から震える様に湧き上がる歓喜を、どう言い表せばよいのだろう。それこそ聖火神エルフリックの導きだとでも、言うべきなのかもしれない。ロイを止めることが出来ず、教皇を目の前で救えなかった私の目の前に現れた、清き炎を具現化したような青年の名はクリック・ウェルズリー。まだ若き新米聖堂騎士だけれど、神の剣を名乗るだけあってその筋は良かった。めきめきと成長する彼を見ていると、どこか嬉しかった。頼りになると思えるように、そう時間を必要とはしなかった。
 そして彼は、いつしか私の隣に立ち歩くようになっていた。
 本当に、眩しかった。同時に、心がワクワクと子供の時分のように湧いていた。こんな感覚は、久しぶりだった。彼には私の言葉が、そして心が、届いていると思えたから、何も怖いものはなかった。ロイと教皇を喪ってどこかで人に対して怯えていた私は、そこには居なかった。
 まるで生まれ変われたかのように、世界に色が灯る、というのは、こんなにも喜ばしく美しく、そして生きていると実感していた。
 そんな世界が崩れるだなんて、その光が陰るだなんて、想像もしていなかった。
私は愚かで、伝るべき言葉も、伝えなければならなかった言葉も、何も、彼に伝えることが出来なかった。
 世界は無常で、きらきらと輝いていた色のある世界も、そこに在ったはずの想いも、すべて、無情にも消え去ってしまった――真実という青い炎と、引き換えに。
 それは決して優しくはなかった。
 私の信じたものは、音も立てずに崩れ去ってしまっていた。
 それでも、私の言葉と歩みは涙にはならなかった。泣いている暇なんてなかったから。君が、前を向かせてくれたから――君が導いてくれた炎は、確かに、そこに在ったから。

「クリックくん、君はそこにいるんですね」

 白い花を手向けた無機質な石造りの墓標は、吹雪の中で静かに佇んでいる。彼の顔も、声も、今は思い出せる。今は――けれども、いつしか流れる時の中で、きっと忘れていってしまうのだろう。それでも。それでも、きっと、クリック・ウェルズリーという青年が存在したという傷痕は、私の中で優しい痛みとして残り続ける。
 ただ、愛していた。
 そう、彼を、愛おしいと思っていた。それは、否定できない願いであり、祈りだ。
 それを誰にも傷を付けられないように、ひとりで抱えて。頭の中で、心の中で叫び続けている言葉は、悲しみではないのだから。
 この疵だけは、誰にも触れさせない。奪わせない。これは、私のものだ。私だけのもの。
 だから、私はその傷痕を抱えて生きてゆく。
 携えた彼の剣を、そっと抜いてみる。彼が持っていた時と寸分たがわぬ光を称える騎士の剣は、墓標にひどく不釣り合いに思えた。そこに、彼の光が在るように思えた。その重さが、彼の重さのような気がした。
 これは、今はもう聖堂機関副機関長となっているオルトより譲り受けたものだった。貴方が持っている方がよいだろう、彼はそう一言だけ言って、私に渡してきた。
 私が持つには重い、重すぎるもの。けれども、私以外が持つには、重すぎて耐えきれないものなのだろう。私は彼の重さを携えて生きてゆくのだから、当たり前のようにそれを受け取った。

「私は生きます。たとえ、君のいない、色のない世界であったとしても。私の言葉は悲しみからくるものだけではないと、知っている大切な仲間たちがいるんです。そして、私は君が望んだ世界を、真実を、探求しなければならない。その為には悲しんでいる暇なんて、ないんです。残念ながらね」

 だから。
 だから、君は安らかに眠って。そしていつか私が君の元へ行くことがあったら、この剣を渡そう。そして、私の言葉を、想いを、全て打ち明けよう。

「愛していますよ、クリックくん。他の、誰でもない、君を。聖堂騎士クリック・ウェルズリーという真っ直ぐで清き炎を心に灯した青年のことを、誰よりも」

 静かな墓地に落とされた言葉を、霊峰アルタヘから吹き付けてくる風が広い、白い天へと舞い上がっていった。備えた白い花びらも、一緒に舞い上がってゆく。
 まるで、君の声が聞こえたみたいだ。そう思った。