朝、目が覚めて隣にあるはずの体温を探す――が、今日に限ってその慣れた体温がないことに、エーデルガルトは奇妙な予感がした。もっとも、それは決して深刻な「いやな」予感ではない。別の、もっと、強いて言えばなにかしてやられるのではないか、という類の予感だ。
伴侶であるベレスは、皇位を引き離宮で過ごすエーデルガルトと寝食を共にしている。それは、伴侶であれば当然のことであるし、彼女とこうしてゆっくりと年を取ってゆけるということはとても幸せな――普遍的な幸せを感じることが出来る。そんなものは、自分には許されるることはないだろう、とエーデルガルトは思っていたからだ。
それはそれとして、そのベレスの姿がない。朝から彼女が精を出して料理を作る、だとかそういうことも無きにしも非ずではあるが、多分そうではない。それならこのような妙な予感はしないのだ。
「まったく、ベレスときたら何年たってもやることがよくわからないんだから……」
今日は、エーデルガルトの誕生日だ。その話を昨日も彼女はそれは愉しそうに話していて、もう何度も季節を廻り繰り返しているというのに、その都度エーデルガルトは自分の誕生日を、そして彼女の誕生日を愉しむようになっていた。彼女は冬の生まれであるから華美な祝い方はあまりできないのだが、それでもエーデルガルトが精一杯彼女なりに――皇帝エーデルガルトとしてではなく、ひとりの女性として祝ってくれるそれを楽しみにしてくれていた。そしてエーデルガルトもまた同じだったのだ。
ふう、と吐息を落としてエーデルガルトは寝台から起き上がり、着替えようとした、その時だ。
「エル、お誕生日、おめでとう」
「ベ、ベレス⁈」
突然扉をあけてその手一杯に野の花を抱えてベレスは満面の笑みを浮かべている。寝台と扉の距離は相当あるというのに、朝露とともに匂いたつような甘い香りがエーデルガルトの鼻孔を刺激した。ふわりと薫る、優しい匂い。手に抱えられている花は、小ぶりな百合のようにもみえるがもっと控えめで細長い花弁の、白と黄色が混ざったもの――確か数年前に、ベレスがエーデルガルトの誕生日の花なのだという事を知り、わざわざパルミラの東方から取り寄せた花で、離宮の片隅に植えられているものだ。
「ほら、エルの花が沢山咲いていたからね、こうして束ねてみるとなかなか綺麗だと思わない?」
そうはいうが、彼女は飾りっ気などは毛頭ないから、ただ花を束にして抱えているだけだ。それだというのに堂々としていて、エーデルガルトは思わず笑ってしまう。
「確かにスイカズラの花はそうやって束ねているだけでも綺麗だけれど、ベレス、もう少し気を使ってもよくはない?今日は私の誕生日なのに」
くすくすと楽し気に笑うエーデルガルトにベレスは歩み寄ると、まだ纏められていない白銀の髪にそっと口づけを落とす。
「そう。今日は大切なエルの誕生日だから、こんなものも作ったんだけど」
そういって、スイカズラの花冠をエーデルガルトの頭にそっと乗せる。ふわりと薫る甘くて心地よい香りはまるでベレスのようで、手渡された花束にと顔を埋めながら、エーデルガルトは深呼吸をした。
「もう。私もあなたも、いい加減年なのに、あなたはいつまでもこんなことばかりするのよね」
二人とも、もう何十年と齢を重ねていた。かつて士官学校で学んだ学友たちも、この世を去ったものも少なくはない。共にその手も顔も細く皺が目立つようになり、それでも二人はまだ共に在るのだ。
「それは、だって君はいつまでも私のかわいいエルだもの」
花冠ごとゆっくりと頭を撫でられ、抱き寄せられる。エーデルガルトは逆らわずに、自分よりも少しだけまだ逞しさの残る身体に寄り添う。甘い香りと、ベレスの体温に包まれているこの一瞬、一時が、この上なく幸せな時間で、かけがえのないものなのだと思えばこそ、その背に腕を回して、互いにかさつき始めている唇を寄せた。
朝の光が、二人を包み込む。
「エル、今日はまだ始まったばかりだから。色々覚悟をしておいて」
「ええ、わかったわ、ベレス。せいぜい楽しませて頂戴ね」
二人はそうして、しばらく互いの顔を見ながら笑い合い、触れ合い、朝の空気の中で他愛のない時間を過ごすのだった。