例えば、このまま目が覚めなければと願う

 視界のまぶしさに、目が覚めた。
 妙に気分は悪く、頭が少し痛い気がするが、昨晩調子に乗って酒を飲みすぎたせいか。ふう、とため息を落としてから、そういえばなぜか見慣れない天井だな、と奇妙なことをシルヴァンは考えた。そこから、昨晩の記憶をたどる。
 昨晩はこっそり寮を抜け出して、馴染みの店でよい具合の女の子と盛り上がった――のはよかったのだが、シルヴァンの聞こえの良すぎる甘い囁きがどうも彼女は気に入らなかったらしく、それまではそれなりに楽しんでいた風情の赤ら顔が一気に真顔になり、にっこりと笑みを作られて、それじゃあね、と別れたのだった。嗚呼、そうだ、あの細身ながら柔らかそうな身体と珍しい銀髪の巻き毛、それと泣き黒子がとても色っぽくて、ぜひこれは、と思って気合を入れすぎたのか。まあ、ダメだったものは仕方がない、去る者は追わずだ、そう割り切っておめおめと寮に戻ってきた――というわけでもない。曖昧な記憶はそこから更に続いていて、要するに気になった女に振られ、どこか腐っていたシルヴァンはどうもそれが顔に出ていたらしく、すれ違いざまにチンピラに絡まれて面倒を起こしたくはなくなりさっさと修道院に駆けこんだのだった。予め断っておけば、勝ち目がないと判断したからではない。ただ、酔い覚ましの良い運動だ、と考えらえるような機嫌でもなかったのだ。そう、ただなんとなく面倒くさかった。
 修道院は、聖域でもある――修道院や教会といった場所に逃げ込めば、基本的にどのような人間でも追い立てる事は不可能だ。ただしそれが明らかに犯罪者であったり、セイロス教の教義に反する行いをした者であれば大司教の名のもと別途裁かれることにはなるのだが。そういういうわけでさっさと修道院に逃げ込んだのはよかったのだが、中途半端に酔った所為かはたまた目当ての女性に断られたせいか、気分はよくない。自室に帰る気にもなぜかなれなくて、そう、いつものようにアッシュの部屋に転がり込んだのだ。
 アッシュとは、そういう仲だと自負している――つまりは、何かあった時に匿ってもらうだとか、転がり込むだとか、そういう意味での仲だ。勤勉なアッシュは夜半過ぎというのにまだ参考書とにらめっこをしていて、転がり込んできたシルヴァンに呆れつつも拒まず、シルヴァンもその態度に甘えてそのまま眠ってしまった――それが、昨晩のシルヴァンの行動のすべてだった。
 それは、まあよい。よいのだが。
 隣に、アッシュが眠っている。
 正確には寝台をずうずうしくも占領したシルヴァンに遠慮してか、シルヴァンの身体の上に上体をもたれかけて眠っていた。恐らくは椅子で眠ろうとしたのだろうが、なぜだか彼のてのひらがシルヴァンの手を握っている。そこで、ああ、と再びシルヴァンはため息をついた。
 寝覚めが悪いのも、頭が悪いのも、女に振られたり面倒な輩に絡まれたことだけが理由ではない。
 忘れたくても忘れられない記憶が、悪夢が、まだしこりのように早朝の明るい空気の中、シルヴァンの脳裏にこびりついているからだ。兄マイクランが悪鬼―魔物に変じたこと。盗賊の頭領などをやって弱者を虐げていたこと。そしてその兄に自ら刃を向けたこと。そういったことが、悪い酔い方をしたシルヴァンの思考を冒していたのだろう。だから、頭は痛いし気分は悪い。
 大方夜中に呻いていたか、そんなところか。それを見かねてアッシュは付き添ってくれたのかもしれない。友人の、というよりかどこか目の離せない弟分のようなアッシュだが、妙に聡くて人の弱みを見るとそうっと寄り添い宥めてくれる――そういうアッシュの性根が、シルヴァンは好きだった。だからあらゆる理由をつけて彼の傍にいるのかもしれない。
 アッシュの、自分よりもずっと頼りなく小さい、けれども傷だらけの手は、とてもあたたかい。金鹿の学級に移った彼は、担任ベレス自らの指導で弓のほかに剣の訓練もしているのだということは知っていた。確かに小柄で俊敏なアッシュに向いているのは、剣かもしれないとシルヴァンも思う。そしてその努力の証拠に、彼のしろい手は剣ダコだらけだ。
 それでも穏やかに眠るアッシュの顔はひどく幼くて、鼻まわりに残るそばかすと、意外に長く朝日にきらきらとひかるまつ毛を見ていると、なぜだかこの存在を守ってやらなければないな、と胸の奥でつきりと痛むものがあった。その感情の由来も、よくはわからない。
 そのはっきりとしない感情のことを考えていると、気づけば頭痛も気分の悪さもどこかへといっていた。

 そしてシルヴァンは、この朝の穏やかな空気の中で、すやすやと自分の傍で安心しきって眠っているアッシュの寝顔を見ている時間がもう少し続けばよいなと、それだけを思った。