唄えなくなった鳥のうた

 ドロテアが歌を歌わなくなってから、どれくらい経つだろう。五年前のエーデルガルトとの約束を思い出して、孤児院の子供たちとともにガルグ=マクを訪れて――少しは、落ち着けるのかと思ったけれど、そうではなかった。それでも子供たちは、あの孤児院にいるよりはずっと自由に、生活も満足とはいえずともまともに生活できてはいるのだが。
 けれど、そのエーデルガルトとも袂を分かち、ここは戦争の最前線でもある。だからだろうか、この場所は想い出の場所であり懐かし友人やベレスがいるというのに、気分がすぐれたためしはない。
 歌うことをやめてしまった歌姫に、存在意義などはあるのだろうか。何度も、考えた。それでも、ドロテアにできることはしたかったし、友人たちはいつだってひとりで寂しそうにしているドロテアを気にかけてくれている。それでも、この漠然とした寂寥感と恐怖感はなくならない。なくならないから、ドロテアはひとりで修道院の高台に立ち、ぼんやりとただ風景を、眺めていた。誰かと一緒にいると、なぜか余計に自分の無力感を感じてしまうときがあるからだ――もちろん、それは本質的には違う。ドロテアの魔術は戦場では仲間を大いに助けるし、癒す。けれども、そいうことではない。ドロテアの本質は、歌を歌う事。歌で、皆の心を癒し、掴み、楽しませることなのだ。だから、戦争というものをドロテアは憎むし嫌いだった。


 こうしてだけいれば、眼下の光景は平和そのものである。ところどころ戦争の傷跡は残るものの、市場を行き交うひとびとの雑踏、時折風に乗って聞こえてくる子供たちの声。さざめく風に乗る草葉のささやき。やさしい陽光の中に響く鳥たちと声。
 そこに、明らかにそういった自然の音とは違う歌が、きこえた。
 それは、歌、というよりも誰かが何かを口ずさんでいるような、素朴なものだ。決してドロテアが歌っていたような誰かに聞かせるような、美しく朗々と、力強く訴えかけるものではなくて、けれどもなぜだかその音と声に、ドロテアの心は強く、つよく揺さぶられた。
 素朴で、言葉は決して華美ではなくて、風に乗るゆるやかな音――まるで子守唄のようなそれを木陰でうたっているのは、よくよく見ればドロテアもよく知っている青年だった。そして彼の周囲には子供たちが数人集まり、彼に寄り添うようにして眠っている。

「……アッシュくん……?」

 ドロテアの声にアッシュは慌てて顔をあげ、見られてしまった、とばかりに未だ素朴さが残る顔をやや朱に染めてぽかんと口を開けた。

「ド、ドロテア?もしかして、いまの……」

 声をかけてしまったことで、安らかだった歌が途切れてしまったのを、ドロテアは少し残念に思う。けれども、そのあまりにも平和な光景にほっとして、声をかけずにはいられなかった。そこにあったのは、ドロテアがこの五年間、ずっと自分が努力して維持しようとしてきた、やさしい景色そのものだったから。当然だが、子供たちの中にはドロテアが連れてきた子たちもいる。彼らはすっかりと安心しきってアッシュに身を委ねて眠っていた。

「ふふ、ごめんなさいね。でも、とてもやさしくて、おちついて……なんだか私、聞いてて、泣きそうになっちゃった」

 それは、本当だった。アッシュの優しい歌声は、ドロテアが幼いころに欲しくてほしくてたまらなかった安らぎと居場所の象徴のような音で、胸の奥がひどく疼いて、何故だか泣きたくなってしまったのだ。本当は自分が歌姫と呼ばれるようになったのは、こういう歌をフォドラに響かせたかったのだと、そういうことを思い出した。

「あ、ちがうの、ちょっとね……アッシュくんの歌が悪いとか、そういうのじゃないのよ。ただ……とても素敵な声だったから」
「そんな……ドロテアにそんな風に言われるような歌じゃないよ。ただ、この子たちが少し落ち着かなかったみたいだから、子守唄代わりに歌っていただけで」
「そう、……うん、そうね。多分、だからだと思う。この子たち、戦災孤児でしょう。誰にもすがれなくて、どこにも居場所がなくて、安心して寄り添えるひともいなくて……だからね、アッシュくんの声が、すごく落ち着くんだと思う」

 それは、自分自身のことだ、とドロテアは思いながら話していた。アッシュの声は優しい。それは生来のものであり、聞くものを穏やかにする音だとドロテアですら思うくらいに、穏やかなのだ。だから、ドロテアはこの友人のことが好きだった。こうしてただ話をしているだけでも、どこか寂寥感と嫌なことを、忘れることができるから。
 アッシュは特にドロテアの事情を尋ねることもなく、ただ「そうなんだ」とだけ答える。

「アッシュくんて、お兄ちゃんなんだっけ。なんとなく、それっぽい」
「そうなのかな……。でも、こうして子供たちの面倒を見るのは、好きなんだ。この子たちを見ていると、何があっても勝たなきゃ、何をしても生き延びて、この子たちを笑顔にしなきゃって思えるし」

 むずがるように動いて、寝ぼけ眼をあげた少女の癖毛をゆるやかにアッシュが撫でると、少女は再びアッシーュの膝によりかかるようにして眠りに落ちる。

「そういうふうに考えると、怖くなくなる?」

 ドロテアは敢えて主語を伏せた。けれども聡いアッシュはその意図を理解し、子供たちを抱き寄せながら少しだけ考えてから、応える。

「怖い、か……。最近はあんまり考えないかもしれない。必死なだけかもしれないし」
「……アッシュくんは、強いのね」

 ぽつりとつぶやいた声は、驚くほどに小さかった。ドロテアの中の不安な感情が、そうさせていたのかもしれない。ドロテアも、アッシュと同じように想っている、けれども、それ以上に、そうしたことを考えることが怖くて、未来のことを考えるのも嫌で、だからといって日々の現状を見ているのもつらくて、ただ、ただこうして日々を過ごしているだけだった。もちろん自分にできる限りのことはしていて、それは、きっとそういった思考からの逃避なのだろう、と思っている。

「そうなのかな。でも、僕はドロテアも同じくらいに強いと思うよ。何より君には、武器があるもの」
「……私の、武器?」
「君の歌は、癒しと同時に武器なんだよ。きっと、戦争の最中でも、戦争が終わってからでも……みんなを幸せにできる。皆に勇気を与えることが出来る。君の歌には、それくらいの力があるんだよ。それは、君にしかできないことで、殺すことしかできない僕とは違う」

 苦笑するアッシュの表情は、それでもどこか堂々としていた。彼は、彼がしていることに決して負い目を感じることはないのだろう――否、そこまではっきりと割り切っているのかは他人のドロテアにはわからないが、彼と話をしていると、ドロテアの中にある戦に対する嫌悪感や気分の悪さは少なからず和らぐのは事実だった。彼はそれを今生きる手段と割り切り、当たり前のことだと受け入れている、強さがある。

「そんな……アッシュくんにだって、きっと」

 ドロテアが続けようとする言葉を、アッシュは若草色の瞳を緩めることで続けさせなかった。わかっているよ、といわんばかりに。

「ドロテア。君の歌は、武器だし、何よりも君自身の宝物だよ」

 寝息を立てる子供たちを、人を殺して血で汚れた手で、優しく撫でながらドロテアに柔らかく告げるアッシュの言葉に、ドロテアは胸の奥が詰まった。唇を、噛みしめた。この戦いが始まってから、そんな風に他人にはっきりと、自分の価値を言われたことは、なかった。

「君の歌は、君自身の中から出てくるものだから。誰かに寄り添える、誰かに寄り添おうとする君の優しさが、たくさんの人の共感を呼ぶんだと思う。そんな君の歌は唯一無二で、そして、歌で誰かを笑顔にできるなんて、そうそうできる事じゃないんだから」

 そうなのだろうか。ほんとうに、そうなのだろうか。こういう言葉は歌姫時代に何度も、それこそもっと飾り立てられた言葉で聞いたはずなのに、友人に言われると、こんなにも心に染みて、あたたかいものなのか。
 不安が、少しだけ、やわらいでゆく。ドロテアは、ようやく自分を少しだけ肯定できそうだ、と、思った。アッシュのいうように、自分の歌には、そういう力が、あるのかもしれないと。  ドロテアは目を瞑り、小さく息を吐く。 
 そして久しぶりに、歌を歌いたい、と思った。

「……ありがと、アッシュくん。ね、私も一緒に、子守唄、歌っていいかな」

 控えめに告げると、アッシュは当然というように微笑む。

「もちろん。あ、でも……静かにね。ドロテアの綺麗な歌声だと、子供たち、かえって起きちゃうかもしれないから」

 アッシュは冗談めいたように笑う。ドロテアもつられて笑みをつくった。なぜだろうか、彼はドロテアとは違い前線で戦い、その手で多くの命を奪っているというのに、ほんとうにやわらかくておだやかな存在だと思う。そして、彼とこうして話をしていると、ドロテア自身の不安や恐怖も、不思議と消えてゆくのだ。

「あら、歌姫に不可能はないわよ、そんな真似するわけないじゃない」

 ドロテアがそういえば、アッシュは苦笑して、それじゃあお願いします、と首を傾げてみせるのだった。


 それは、アッシュには聞きなれない言葉だった。フォドラの共通語ではないだろう。パルミラやブリギット、ダグザやスレン、ダスカーのそれとも違う。もっともっと、遠い場所の、或いは古い言葉なのかもしれない。それでも彼女の綴る旋律はとても心地よく、けれどもどこか寂し気で、きれいで、澄んだ旋律だった。

「聞いたことがない歌だけれど、とてもいい曲だね」
「この歌は、私が小さかったころ……母さんがね、良く歌ってくれた歌なの。歌の題も言葉の意味もわからないしどこか寂し気だけど凄く綺麗で、私はすぐ真似をしたわ。でも、母さんみたいには上手に歌えなくて……未だにたぶん、母さんみたいには歌えないと思う」

 そんなことはないよ、とアッシュは口にしかけてやめた。アッシュはドロテアの過去を多くは知らない。まして彼女の実母のことなどわからないのだ。

「そうなんだ、でも、僕は好きだよ」

 別の言葉を告げれば、何かを察したようにドロテアは少しだけ相好を崩して「ありがと」と小さく応えた。