逃げるの?意気地なし

 温室に行くと、いつもその大きな背中が出迎えてくれた。最初はおっかなびっくりで、しかもダスカー人だというから少しだけ警戒しなかったわけではないのだが、アッシュはそういうものの考え方は好きではなかった。例え義兄がダスカーの例の件に関与していたのだとしても、それとこれとは別だと思いたくて、料理当番が一緒になった時にこれを機にと声をかけた。すると意外にもドゥドゥーは会話に付き合ってくれたが、何故構うのか、と逆に問われた。ダスカー人が王国で叛逆者のように扱われているからなのだろう。けれども、それを言ったら自分だって貧民だ。ドゥドゥーはそれでも貧民とダスカー人とでは全く違う、と答え、アッシュはおかしな考え方をする、とまで真顔で応えた。それでもアッシュは、ドゥドゥーというダスカー人と話が出来たことが嬉しくて、彼の料理の腕も含めてもっと彼のことを知りたい、と思った。
 そこから始まり、ドゥドゥーという人間に対する好奇心はやがて純粋に好意へと変じていった。どこまでも真っ直ぐ揺るがないほどに主思いの、まさに王の従者であり騎士たる人物の鏡のようなドゥドゥーを、アッシュは敬愛すらしていた。こうありたい、と強く思った。だが、心の中に在ったのはそれだけではなかった。もっと近づきたいという想いは物理的であり精神的な距離でもあり、それが友情であるのかそれ以上のものであるかもわからないまま、アッシュはドゥドゥーとの平穏な時間を愛していた。


「これは、ダスカーの花だ……フォドラで見られるとは、思っていなかった」
「そうなんだ。見たことがないけど、凄く綺麗なんだね。綺麗だし、なんだかやさしい香りがする。僕もいつか、行ってみたいな」

 ぽつりと落とした言葉に、ドゥドゥーがやや驚いたように眉を動かした。彼の表情はあまり動かないのだが、共に行動する時間が増えるにつれなんとなくわかるようになってきていて、アッシュはそれが嬉しかった。

「ダスカーには、何もない」
「そんなことないよ。きっと、僕からしたら沢山知らないものが在ると思う。だから、本当に、いつか、一緒に、いけたらいいな」
「アッシュ、それは」

 言ってからアッシュは自分の言葉の意味を理解して、口を閉ざす。これでは、まるで告白しているようではないか。頬が熱くなり、ドゥドゥーからさっと視線を外した。だが、少しだけ遅かった。ドゥドゥーはなぜか目を細めると、ぽん、とアッシュの頭に大きな手を置く。そしてそのままその手は耳から頬へと移り、顎まで至るとそっと離れていった。その意図のわからない、ほんの少し期待してしまいそうなドゥドゥーの行動にアッシュの心臓は早鐘のように鼓動を打ち、きっと今自分はとんでもなくひどい顔をしているのではないかと気が気ではなかった。

「……そうだな。お前となら、行ってもいいかもしれん」

 そう告げるドゥドゥーは、確かに微笑んでいた。触れられた温かさとその笑みに、にアッシュは、気が付いてしまった。ああ、自分はこのひとが好きなんだ。好きで好きで、仕方がないのだと。心臓の鼓動は、未だ早い。


 エーデルガルトの挙兵と共に、突然戦争が始まった。平穏だった時間はあっという間に終わりを告げ、明日をも知れぬ日々に、皆疲れていた。級長ディミトリはすっかり様子が変わってしまっていたし、ドゥドゥーもどこか憔悴しているように見える。だからだろうか、アッシュは思い切ってドゥドゥーを温室に呼び出した。時刻は夜、それでも修道院内はかがり火が焚かれ、いつ敵襲があってもおかしくない状態を保っている。そんな中だからか、ドゥドゥーはアッシュの呼び出しに不審そうな顔をするものの、アッシュの真剣な表情を見て承諾してくれた。
 夜の温室は、静かだった。管理人も戦時下の準備に駆り出されており、人気はない。ただ、周囲に焚かれているかがり火でほんのりと灯が漏れなんとも不思議な雰囲気ではあった。

「ドゥドゥー、急にごめんね。その、どうしても伝えたいことがあって」

 きゅ、と唇を結んでアッシュは少しだけ俯いてから、顔をあげる。はるか上にあるドゥドゥーの表情は、決して硬くはなかった。むしろどこか柔らかく、やさしい。それを見ているだけで、アッシュの胸にこみあげるものがあった。こんな状況だというのに、本当はディミトリの傍にいなければならないだろうに、自分のところに来てくれた、ただそれだけでこんなにも胸が満たされるとは思わなかった。
 本当は、これは告げてはいけない言葉なのだろうと思っていた。それは、ドゥドゥーを迷わせる、縛り付ける、いわば呪いのような言葉だからだ。それでも、それでもアッシュは自分の正直な気持ちを、この状況下だからこそ、伝えておきたかった。もしかすれば帝国軍の兵士にあっさりと殺されるかもしれない、こんな時だからこそ、せめて自分という存在を覚えていて欲しかったのだ。

「……どうした、アッシュ。まるで泣きそうな顔をしている」

 ドゥドゥーの言葉にアッシュは目を瞬かせる。自分が今どんな顔をしているかなんてわからなかった。ただ、顔がとても熱くて、鼓動は早鐘のようで、極度に緊張していることだけは、わかる。

「ドゥドゥー、あのね……好きなんだ、君のこと。ずっと、好きだったんだ」

 泣きそうな、弱弱しい声でアッシュが告げると、ドゥドゥーの表情が少しだけ動いた。そして、以前触れられたように、今度は耳元に大きな手が触れ、ゆっくりと頬を撫でられる。そのやさしい温度が心地よくて、アッシュの若草色の瞳からぽろりと一滴零れ落ちるものがあった。ドゥドゥーはそれを指先で掬い取ると、再びアッシュの頬に触れ、手を後頭部に回すとそのまま抱き寄せられる。

「……ドゥドゥー?」
「アッシュ。おれも、同じだ。いや……正直、この感情を、お前のそれと同じなのだと言ってよいのかはわからん。おれの命は殿下のものであることは変わらない。だが、それでも、いつの間にか……お前のことを考えない日がなくなっていた」
 ドゥドゥーの体温は思っていた以上に高く感じる。彼もまた、緊張しているのかもしれない。抱き寄せられた胸元から聞こえる彼の鼓動も早く、抱き寄せる手は少し汗ばんでいる気がした。そして、アッシュが何も言えずにいると、もう片方の腕で腰を抱かれ、ドゥドゥーの逞しくも男らしい顔がゆっくりと下りてくる。
 そして、軽く触れる温くて柔らかい感触。ああ、キスをされた、とアッシュは思った。また眦から涙が零れ落ちた。


 死んだと聞かされていた。だから、何度も何度も繰り返し名を呼びながら泣く夜が続いていた――死んだとは、信じたくなかったからだ。だから、死者に語り掛けているディミトリの背を見るたびに、理解してはいけないものを理解できるとすらアッシュは考えてすらいた。その矢先のことだ。
 まさか、生きているとは思わなかった――誰しもがその生還にそう思ったことだろう。実際にその姿を見ても、にわかには信じられなかった。それほどにディミトリの落胆は凄惨といってもよく、だからこそあれほどまでに変わってしまったのだと思っていたからだ。
 そのドゥドゥーが、帰ってきた。帰ってきたのだ。戦場の最中だというのに、その姿を認めた瞬間、アッシュは泣きそうになってしまった。だがそこはもはや一軍の将となって短くはない年月を過ごしているアッシュも気持ちを切り替え戦いに集中した――余計なことを考えている余裕などは、戦場にはないのだから。



 戦いが終わり、皆が一息つき今後の事を協議し終えてそれぞれの天幕に戻った後も、アッシュは未だに昼間のことが信じられないでいた。ドゥドゥーは死んだと思っていて――信じたくはなかったけれども、あの体温が傍らに立ってくれていないという事実は残酷にもその死を如実に告げてくるから、信じるほかなくて、諦めていたのに。それなのに。怒りなのか、嘆きなのか、歓びなのかわからない感情が溢れて、居ても立ってもいられずにアッシュはドゥドゥーの元を訪れた。ドゥドゥーは基本的にはディミトリの傍らに居る――実際に彼の天幕を訪れてももぬけの殻で、ディミトリの元にいるのだろうというのは想像に難くなかった。そういうことは、わかっているはずだった。  だが、逆に言えば居場所はわかるのだ。そう自分を奮い立たせ、アッシュはディミトリがいるであろう天幕に向かう――彼の天幕は直ぐに判るからだ。案の定、その入り口には主人を守るようにドゥドゥーが立っていた。

「ドゥドゥー……」

 名を呼ぶと、初めてそこに存在を認めたのだというかのように顔を上げ、一瞬目を見開く。そういえば、再会してからまともに会話もしていなかった気がした。アッシュが近づくと、ドゥドゥーは少しだけ表情を緩める。その態度に、心臓がきゅっと縮む、それが期待なのか不安なのかは、わからない。

「生きてて、よかった。君が生きていてくれて、うれしいよ」

 声をかけると、何かを察したのだろうか、ドゥドゥーは一度アッシュに待ってくれ、と告げて天幕の中に入ってゆく。アッシュがドゥドゥーの言葉通りにその場でそのまま待っていれば、少ししてからドゥドゥーは出てきた。

「おれの天幕へ行こう。話があるのだろう」

 その言葉に、アッシュは思わず泣きそうになってしまった。こちらの気持ちを、察してくれたのだろう。そして並びながら歩いてゆくほんの短い距離ですら、現金ながらもアッシュは自分がとても満たされていると感じていた。


 ドゥドゥーの天幕の中には殆ど物がない。着の身着のままで援軍に駆けつけたのだろう。それでも個人用のものを与えられるほどに、ドゥドゥーという存在は王国軍にとっては大きいのは、当然だろう。彼はディミトリの側近なのだ。そのことを改めて感じさせられて、アッシュはやや臆してしまう。けれども、それ以上に今の彼に伝えたい言葉があった。伝えきれなかった想いを、この五年間のことを、彼が死んでしまったと聞いたときの絶望を、すべて、洗いざらい伝えたかった。

「ね、ドゥドゥー。五年前のこと、覚えてる?」

 小さくぽつりと囁くように言葉を落とすと、ドゥドゥーはゆっくりとではあるが、頷いてくれた。「そっか」アッシュは思わず破顔する。純粋に、嬉しかった。嬉しかったと同時に、歯がゆくも感じた。ドゥドゥーともう二度と離れたくはない。けれどドゥドゥーの第一は、先ほど痛感させられた通りにディミトリなのだ、それは五年前からわかっていた。わかっていたのだが、初めて純粋に覚えた感情を巧く制御できるわけもなく、その姿を見たいと彼の元を訪れてしまったのだ。
 そしてドゥドゥーの姿を見てしまったが最後、募っていた想いが溢れ出てしまう。先ほどは外だったということもありまだ遠慮があったのだが、今は二人きりだ。乏しい灯の中、静かな空間にドゥドゥーと二人きり。その事実が、アッシュを積極的にさせていたのかもしれない。

「好きだよ。君が死んだって聞いたときも信じられなくて……今でも、ずっと、君のことが」
 告げながらその逞しい身体に触れる。触れて、背中に手を回し、抱きしめた。触れていると余計に気持ちが膨らみ、触れてほしいと、もっと共に居たいと強く思ってしまう。そんな浅ましさに嫌気がさしながらも、アッシュは口づけをしようとするが、ドゥドゥーがそれを拒んだ。

「逃げるの?……意気地なし。五年前は君からしてくれたのに」

 アッシュの口から出た言葉は、アッシュ自身でも意外なものだった。どこか怒るように、けれどもそも表情は哀し気にドゥドゥーを見上げている。若草色の瞳は濡れていて、その言葉と表情にドゥドゥーは何も言わず、唇を噛みしめている。

「君が死んだって、聞いてから……僕はずっと、ずっと後悔してた。ほんとうに哀しくて、やりきれなくて……正直なことを言うと、……殿下の事を恨みそうにだってなった」

 ぽつり、ぽつりとアッシュは静かに言葉を吐き出す。それは静かな告解だ。その表情は硬い。けれども、ドゥドゥーの目を見上げるアッシュの瞳は決して逃げてはならないという強い意志を感じさせるものだった。

「アッシュ……」
「ごめん。多分、僕は今君にとって、すごくひどい話をしていると思う。でも、これが僕の本音。僕は別にできた人間じゃない、身勝手で、自分の事で精一杯の、ちっぽけな人間なんだ。立派な騎士を目指したいって思っていても、この程度なんだよ」

 アッシュは自虐的に笑って身体を離す。ドゥドゥーの体温は相変わらず高くて、温かくて、離れがたかった。けれども。

「だがお前だって、殿下を守ってくれただろう」
「……それは……先生や、シルヴァンたちがね。僕はたいしたことはできてないよ。そりゃあ、お役に立たなきゃ、とは、思ってはいたけど、でも」

 それ以上の言葉を告げると、恐らくドゥドゥーには呆れられる、否、もう二度と以前のような関係には戻れなくなるだろうと思った。だから、アッシュはその言葉を呼吸と共に飲み込んだ。

「……ごめん。勝手に押しかけて、こんな嫌な話して。多分、疲れてるからだと思う、だから……」

 そのまま立ち去ろうとするアッシュの手を、ドゥドゥーはぐい、と強い力で掴む。アッシュが見上げると、ドゥドゥーは真剣な表情でアッシュを見ていた。その射貫くような瞳からは、決して逃さないという強い意志が感じられ、アッシュは動けなくなる。

「アッシュ、逃げるな。お前はそんな意気地なしだったのか?」

 五年前の意趣返しなのだろうか、ドゥドゥーは低い声で告げてきた。そもそもわざわざアッシュのためにディミトリを守るという任務を放棄すらしてくれたドゥドゥーに対し、確かに今の態度はなかったのかもしれない。

「……ドゥドゥー……僕は」
「お前の……気持ちは、おれ個人に向けられた気持ちを、おれがどう思っているかも聞かないで、逃げるのか?」
「でも!」

 言葉と共に逃れようとするアッシュを、ドゥドゥーは強引に抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。そしてそのまま唇を重ねる。重なった唇を割り開き、肉厚な舌がアッシュのそれを捉えようとする。突然のドゥドゥーの行動に、アッシュはついてゆけず、ただ必死に呼吸をしながらされるがままにドゥドゥーにしがみつくだけで精一杯だった。五年前の優しい口づけとは違う、確実に欲をともなくそれに、アッシュは何故だか泣きそうになってしまう。

「……おれの第一は、命は、確かに殿下のものだ。だが同時に、お前のことも、同じくらいに大切に想っている。ああ、死ぬのか、そう思った時に思い出した顔は、お前の……おれを好きだと言っていた、お前の笑顔だった」

 ようやく唇を離し、それでもアッシュの身体を強く抱きしめたまま、ドゥドゥーはゆっくりと告げると、もう一度アッシュの唇に己のそれを、今度はやわらかく、触れるようにだけ一瞬重ねて、離した。

「ドゥドゥー、……それって……」

 アッシュの若草色の瞳が見開かれ、潤む。ドゥドゥーはアッシュを抱え上げると、寝台へと運び、そっと横たえた。

「アッシュ。はっきり告げなかったおれが悪かった。おれは、お前が好きだ。それは、殿下の件とは別だ。おれが、今欲しいのは、アッシュ、お前だ。お前だけだ」

 彼にしてはひどく情熱的な言葉を繰り返されるだけで、眩暈がしそうになる。だがそれは現実で、再び唇が降ってきた。アッシュは目を閉じると、自分よりも一回り以上大きな背中に腕を伸ばす。
 触れる唇は、甘く、やわらかく、そして温かかった。
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