>Seven kisses

■ 涙のキス


 ガルグ=マクで雪は決して珍しくはない。それでも、ドロテアは雪が降るとどこか憂鬱になってしまうのは恐らく幼いころの苦労のせいなのだろう。雪は冷たく石畳を濡らして隠してしまうし、寒さを防ぐ手段を得るために幼い少女ができることなどは限られていたから。
 それでもこうして女神の塔に上って見上げる雪空は、なかなか風情があると思えるようにもなっていた――それはたぶん、ドロテアが一時とはいえ安寧の場所を得ることが、できたから。担任教師だったベレスと再会できて、その思いは一層強まった。きっと、ここが自分の場所だから――エーデルガルトの始めた戦争が終わり、世の中は今復興に向けて慌ただしく動いている。帝都アンヴァルはミッテルフランク歌劇団に戻り、忙しない日々を送っていた。ガルグ=マクへは友人たちと久しぶりに旅行がてら訪れたのだった。友人たち――エーデルガルト、リンハルト、カスパル、それにベレス。皇帝がお忍びでこうした旅行時見たことをするのは少なくはなく、必ずといってよいほどベレスが付いてきた、彼女たちの間柄は既に大陸中に祝福され知れ渡っているから隠す必要もないのだが、それでも堂々と皇帝とその伴侶が旅行となれば大仰になってしまう、エーデルガルトは気を抜きたいときはこうして数人の友人たちを伴い少しの遠出をすることがままあったのだ。

「あれ、ドロテアこんなところにいたのかよ」

 窓の縁に肘をかけて寒空を見上げていると、声をかけてきたのはカスパルだった。五年前からそれなりに仲が良かった自覚はあるが、再会してから戦争終結した今でも、実は少しだけ彼とは距離をおいていたのだ――その理由は、誰にも告げていない。エーデルガルトやベレスにも、だ。
――だって、私よりも背の高くなった彼にちょっとだけ見惚れただなんて、絶対に言えないじゃない。

「あら、なあにカスパルくん。もしかして、私を迎えに来てくれた、とか?」

 けれどもそんなそぶりも思いも胸の奥にしまいこんで、ドロテアは五年前から大事にしている絹の外套をふわりと翻しながらカスパルに向き直る。いつの間にか少年から青年へと成長したその体躯は立派だが、どこか逸らされた視線だけは彼らしいというか。何やら両手を背後に隠しているということは、恐らくは何か目的があってこの場所に――否、ドロテアに会いにきたのだろう。しかも、この曰くのある場所に。そのことに、ドロテアはちょっとだけ期待に胸を高鳴らせる。

「いや、その、お前なあ……まったく、なんだって、今日に限ってどこにいるかわからんねえんだから」
「え?私ってカスパルくんにいちいち居場所教えなきゃならないような関係だったかしら?それとも何か私に用があって探してたの?」

 けれども、青年の分かりやすい意図を敢えて探るように甘い声で囁くと、カスパルの頬が一瞬にして染まる。
 彼とはつかず離れずのような間柄ではあったのだが、互いに淡く意識しあっている、という気はしていた。カスパルは貴族の次男坊ではあるから玉の輿相手としてはあまり適切ではない、けれども、彼と共に居ると素直に楽しくて、ほっとできるのだ。実際自分に弟がいたらこんな感じなのかもしれないというのは、彼をからかいながら気づいたことだったが、それは置いておいても男性として見ても十分に魅力的ではある。いささか猪突猛進すぎるのは玉に瑕だけれど。でも、こんな気楽な男女の仲もよいのかもしれない。
 心の中でため息を落としてから、ドロテアはくすりと笑った。それを見たカスパルは何か憤慨したように鼻を鳴らし、それで意を決したのか表情を改める。

「……今日、ここの落成記念日だろ。女神の塔の噂、……お前なら知ってると思ったけど」
「……え?」

 カスパルは真っすぐな目をしていた――そのまなざしは、五年前と変わらない。そう、変わらないから、ドロテアの胸の奥にしまい込んでいた熾火のような想いに直接突き刺さる。

「ほら、これ。オレ、お前の喜びそうなものとかわかんねえし、お前はオレと結婚とか、か、考えてねえのかもしんないけどさ」

 言いながら真っすぐ差し出されたのは、戦時下にしては珍しい深紅の薔薇だ。確かベレスとアンナが季節の花を売りに来た商人がいたとかいう話を朝にしていたのは小耳に挟んではいたけれど、まさかカスパルがこんなことをするとは、思っていなかった。だからアッシュあたりは喜びそうでも自分には関係はないな、程度にしか思わなかったのだが。

「いちおう、エーデルガルトとかベルナデッタとかイングリットとかに聞いて、オレなりに考えて、選んだんだ。これ、お前にやる」

 ぶっきらぼうにまっすぐに差し出された深紅の薔薇。冬場だというのに瑞々しくてその深い紅がひどくうつくしかった――ただ、それだけなのに、ドロテアの胸がいっぱいになる。ドロテアは気が付いたら唇を強く噛んでいた。よくわからない、自分自身でも整理のつかない感情がたくさん溢れてきて呼吸がくるしい。

 彼がこんなに直接的に想いを伝えてくるのは、初めてだ。それまでは良い友として――そう、そういう言い方をしたのは自分の方だったのだが、もしかすればそれは自分に対する言い訳と、戒めだったのだろうか。

「な、なに……カスパスくん、エーデルちゃんにまで相談したの?」

 ドロテアがくすりと笑うと、カスパルは真剣な表情のまま真っ赤になる。

「しっ、仕方ないだろ!」
「ううん。ごめんね。そうじゃなくて……」

 そういってから、差し出された花束に触れる。まったく、花を彩る包み紙なんて特別なものではなくて、全然豪華でもない。カスパルに贈り物用に包装してもらうという発想はなかったのか、あるいはそこまでの余裕がなかったのか。それでも、この素朴できれいな紅の薔薇は、ドロテアが今までの人生で贈られた贈り物の中で、いちばん嬉しい贈り物だ。こんなにもきらきらと輝くような薔薇の花は、見たことがない。

「ありがとう、カスパルくん」

 にこりと笑って、ドロテアは花を抱きながらカスパルに口づけをする。軽い、口づけ――唇に触れるか触れないか、絶妙な場所に、ほんとうに、ささやかに。

「ドド、ドドドッ、ドロテア?!」

 ちゅ、というリップ音がして、ドロテアが唇を離すと、カスパルはまるでそのまま沸騰するのではないかという勢いの声で叫んだ。その反応がらしいというか、なんというか、肩の力が抜けてしまい、ドロテアは花束を抱えたまま笑う。

「もう、カスパルくんたら、ムードもへったくれもないんだから。そういう時はね、女の子をちゃんと抱きしめてあげないと」

 ね?そういいながら首を傾げると、「そうか」と小さく納得したカスパルが、ドロテアの腰に逞しい腕を回してきた。素直に従うのは彼の良いところでもある。

「あ、あのな、ドロテア……オレ」
「うん、カスパルくん。なあに?」

 至近距離で見つめあうと、僅かに羞恥心がわいてくる。それでも、触れている体温は暖かくて、この場所が寒いことも忘れてしまいそうだ。心に溢れるこの幸福感は、今まで味わったことがない。

「好きだ。ドロテア。お前のこと、ずっと、忘れられなかった。五年間、戦いばっかだったけど、お前の事ずっと考えてて……死ねないって、思ってた。だからさ、戦争が終わったこれからも、ずっと……一緒にいてほしい」

 真っ赤になりながら、それでも真剣な表情で告げてくる青年は、震える手でドロテアを抱きしめた。

 ドロテアの眦から、ぽろりと涙が零れ落ちる。そして、寒さを忘れた手を逞しい背にそっと回すと、少しばかり上になった目線が静かに、おりてくる。

「うん、カスパルくん……」

 再び、重ねられる唇。もうそこに、寒空に震えていた寂しい少女の影はない。ドロテアはようやく見つけた自分の居場所の中で、震えるように幸福をかみしめていた。



  □ 朝


 久しぶりに帰郷したカスパルと共に一晩を過ごした次の朝は、やはり清々しくそしてひどく安らいだ気持ちになれる。けれども、次にやってくるのはどうしようもなく取り残されたような気持ちだ。いくら許嫁になっているとはいえ、カスパルは何やら目的があるのかないのか、諸国漫遊の旅にしょっちゅう出ていて帝都アンヴァルを訪れることは年に一度、あるかないか。もちろんそういうカスパルのことをドロテアは理解しているし、愛してもいる、だから文句があるわけではないのだが、それでも再会すると喜びと共にその薄情さを詰るのも、それに対してすまないと苦笑するのも、二人の当たり前のやりとりになっていた。
 ともかくも起きよう。カスパルは旅の疲れも相まってかいまだぐっすりと夢の中である。ドロテアを抱く逞しい腕は名残惜しいのだがそれをゆっくりと引き離すと部屋着をまとい、台所へと向かった。
 学生時代は苦手だった料理の腕も、ベレスのアドバイスや歌劇団の仲間たちの協力で人並みにはなっていた――それもこれも、大食漢でもあるカスパルに手料理を食べさせたい、という一心からだ。とはいえ作れるのは単純なものが多く失敗も少ないものが殆どではあるが、それでもドロテアの料理をカスパルはそれは喜んで食べてくれる。それが嬉しく、そして自分の料理を食べるカスパルの笑顔を見るのはとても幸せな瞬間でもあった。
 だから、彼の温もりが少々名残惜しいのだが、台所に保管していた卵と砂糖、それから少しの塩に芋と人参、玉ねぎにセロリを次々と調理台の上に並べてゆく。主食は昨日のうちに買ってきていた近所でも評判のパン屋のバゲットだ。そこにニンニク入りの香辛料とバターを塗って焼いたものが、カスパルは好きだった。買い置きしていたベーコンを軽く焙って香ばしさを出してから、そこに刻んだ野菜を入れてオリーブオイルで炒める。そうして炒めたら、今度は水と牛乳を加えて塩コショウで味を調えたスープにするのだ。ベーコンを多めにしておけばカスパルも文句を言わずに野菜入りのスープを食べてくれるからだ。それから、卵は必ず甘さを控えめにした卵焼きに、干し肉炒め。そこにたっぷりのバゲット。ドロテア一人ならば朝は軽く済ませるのだけれども、カスパルがいるとなれば話は別である。食材や調味料を備蓄しておくようになったのも、カスパルとこうして共に暮らす(といっても時折帰って来るだけなのだが)ようになってからだった。これだけの量を作るとなるとそれなりに一苦労ではあるのだが、カスパルから帰って来るという手紙が届いていたのであらかじめ準備や仕置きをしておいたのだ。そうでなくとも、二人で過ごす時間は決して長くはないのだから、できるだけ共に居たいという思いもあった。

「……お~……いい匂いがする……」
「あら、カスパルくんお寝坊さんね。もう少しで朝食ができるから、座って待ってて頂戴」
「……わかった……」

 ぼやぼやとした返事は、恐らく半分ほどまだ眠っているからなのだろう。その格好も、素肌に軽く上着を羽織った程度だ。カスパルはその格好のまま椅子に座ると、半ば船を漕ぎながら料理をするドロテアの後姿を眺めている。

「なあにカスパルくん、そんなにおなかすいちゃったの?」
「うぁ~……そうじゃねえけどよう、なんか、こういうの、……いいなあって」

 カスパルの思わぬ発言にぎょっとなるのはドロテアの方だった。彼とは確かに婚約もしていたし、彼が帰って来るのはドロテアの家であるから、同棲しているといえばその通りである。ただし、カスパルの放浪癖を除けば。基本的になのでドロテアはこの家に一人でいることが多いので、よく帝都に住んでいる友人やそれこそエーデルガルトの伴侶であるベレスですら訪れては色々な話をしたり食事をしたりしてくれる――彼らなりに、カスパルの不在を埋めてくれようとしているのだった。

「まったく、何言ってるのよ。はい、朝は濃い目のテフに少しのミルクでしょ」
「おお~、そうそう。やっぱ帰ってきたら、これ飲まないと始まらないからなあ!」
「はいはい。さてと、朝食もできたことだし食べましょうか」



「それにしても、ドロテアが料理をこうしてやってくれるのは、結構意外だったんだよな」
「何それ、どういう意味よ
」 「いやあ、学生時代のなあ……」

 学生時代、誰が言い出したのかドロテアの料理の腕は壊滅的で凄惨だ、と、当時はフォドラの言葉がそこまで達者ではなかったペトラが言い出したことがあった。その場にたまたまいたカスパルが爆笑して、そのカスパルを懲らしめたことがあったのだが、帰郷するとなぜか彼は決まってこの話をしたがるのだ。

「ちょっと、皆まで言わせないでよね」
「はは、わかってるって!でもオレは、ドロテアの料理が一番好きだぜ!そりゃ、アンヴァルには色々旨いメシ屋もあるし、ガルグ=マクの食堂の味もなかなかだったけどよ……」
「……正直、そのカスパル君の感覚はわかりかねるわ……」
「なんだよ、とにかくオレは、ドロテアの作るメシが一番好きって話じゃねえか、素直に喜んでおけよー」
「はいはい、ありがとね。それよりちゃんと野菜も食べてよね、折角カスパルくんでも食べられるように毎回工夫してるんだから」

 そう言ってくれるのは嬉しいのだが、見れば、案の定スープのベーコンや干し肉だけを先に食べている始末。実はドロテアは干し肉炒めではなく昨日たまたま見つけた新鮮な野菜を刻んで、以前ベルナデッタに教わった人参ベースのドレッシングで食べている。朝からカスパルと同じような食事を摂るのは聊か胃に厳しいし、何よりも今をときめく歌姫は食事にも決して妥協はしていなかった。朝から肉を食べるような真似は流石にできない。

「……う、ま、まあ、……普通にそのまま出されるよりは、い、いいけどな」

 不承不承、ではあるものの、そういうところは素直なカスパルは言われるままに残りのスープにも口をつけてくれるのだ。そういうところは、相変わらずなんともかわいらしいと思う。もはや彼も三十路を過ぎてかわいらしいなどとはとてもではないが言えるような年齢でもないのだが、ドロテアにとっては何時までも、こうして婚約をしていても、カスパルはカスパルのままなのだ。
 ドロテアはといえば、カスパルよりも少量の朝食は既に食べ終えており、食後のテフを味わっているところだった。カスパルが戻ってくると聞いてわざわざヒューベルトが推薦するテフ専門店から買ってきたものなのだが、彼にその差が判るかどうかは怪しいところだった。とはいえこれはドロテアの自己満足的な側面もあるので、彼が気づこうがそうでなかろうが問題ではなかった。彼がこうして二人の食卓を楽しんでくれさえすれば、それでいいのだから。


 そうしてふたりの食事を終えて片づけをしていると、いつのまにやら旅支度を整えたカスパルがやってきた。

「あら、もう行っちゃうの?」
「うん、まあ……なんていうかさ、ドロテアと一緒にいると、な~んか出かけるのが億劫になっちまうっていうか、まあその、なんていうか、離れがたいっていうか……な!」

 いつの間にこんなことを素で言えるようになったのだろう。唖然とするドロテアににやりと笑みを浮かべると、改めてドロテアに向き直り、その両肩に逞しい手を乗せてくる。そして至近距離で触れ合う鼻先と、唇。ほんのり暖かくてかさついた、いとしいひとのそれ。

「……暫くまた会えなくなるからな。でも、多分これが最後だと思う」
「……カスパルくん?」
「オレもなんだかんだ、色々なところに行ったしさ。もういい加減落ち着けよって、まあ、行くところ行くところで散々言われちまって、そりゃそうなのかもなあって。お前にも会いたくなるしなあ」
「そ、そうなの……」
「そういうこと。だからさ」

 そして、カスパルの逞しい腕がドロテアの背中に回り、もう一度キスをされる。少しだけ、それでも二人の愛情を交わすには十分な、甘やかなキス。

「待っててくれよな、ドロテア。そして帰ってきたら、ちゃんと結婚しようぜ」

 その言葉を聞くのは、二度目だ。十年近く経って同じ言葉を聞くとは思わなかったドロテアは呆然となり、言葉を失う。それでもふつふつと湧き上がってくるあたたかくてやわらかな感覚はとても幸福で、カスパルの逞しい背中にその腕を回して、胸に顔を埋めた。

「いってらっしゃい、カスパルくん。私、待ってるから」



■ 衝動


 すっかりと慣れてしまった――慣れたくはなかった、戦場の空気。殺気が届く前に、ドロテアは黒魔法を編み、撃退する。直接手を下さない代わりに、魔法は自分自身の力を消耗してしまう、だから立て続けに使役はできない。ゆえに基本的に魔法を扱うものは後方で戦う。
 自ら傷つけ殺した相手は、自分と同じ人間だ――それも、かつては同じ目的を持っていた同志。担任であり今の自分たちのリーダーでもあるベレスが帝国・エーデルガルトと決別してからこちら、こうした戦いが続いていた。中には士官学校で見知った顔すらある。それでも、ドロテアは戦っていた。覚悟は決めていた、そう、もう決めていたのだ。だから、ベレスの元に駆けつけた。彼女がいるならと、奮起もできた。
 でも。それでも。
 命を奪う感覚は、慣れることはない――ドロテアは元々戦いなどは嫌いなのだ。ガルグ=マク修道院跡に来る前は戦災孤児たちの面倒を見ていたりもして、どちらかといえばそういう生活の方が性に合っているとすら思ってもいる。ならばなぜ。

「ドロテア!」

 呼ばわる声に顔をあげると、返り血に塗れたカスパルが駆け寄ってきた。

「カスパルくん……どうしたの、その格好」
「別に、ただの返り血だ、それより単独行動なんて危険だろ、オレから離れるなって言ったじゃないか」
「あら、私は一人でも戦えるわよ」

 カスパル相手だとつい素直ではない言葉が口をついて出る。今でもそうだ、精神的に余裕が全くなくて、だからこそ言葉に棘があったと自分でもわかる。
 案の定カスパルは奇妙に顔をゆがめて、ドロテアに近づいてきた。むせかえるような鉄と泥と血の匂い。思わず、ドロテアは顔をしかめてしまう。

「ひでぇ顔してるぜ」
「……カスパルくんも、似たようなものじゃない」

 よくよく見れば、カスパルの汚れは返り血だけではない。至る所に細かい傷がある。彼の戦い方は後先考えずに猪突猛進するような戦い方だから、恐らくは意識せずについたもので、当人も気にしていないのだろう。ドロテアはため息をつくと、カスパルの傷の目立つ左腕にてのひらをかざす。

「また、無茶な戦い方でもしたんでしょう」
「……まあな……」

 はあ、と大きくため息を落としながら治癒魔法で治療を施せば、この程度の傷はすぐ治ってしまう。それでも、ドロテアはカスパルが傷を作って来るたびに胸の奥がちくりと痛み、その痛みは少しずつ蓄積していっていつでもドロテアのことを苛むのだ。例えば一人でいるときでも、誰かといるときでも、ふとその痛みを思い出してしまう。

「でも、無茶でもしなきゃ、この戦いは終わらない。そうだろ」

 カスパルはこの上なく真剣なまなざしで告げる。彼の言わんとすることはわかる。いかに教団という後ろ盾と大義があろうと、大司教レアの不在や圧倒的な兵力の差、そういうものを考えれば気楽には考えられないのが現実だった。だから、ドロテアはいつでも胸を痛めてしまう。カスパルがいつ負傷するのか、はたまた――

「ドロテア」

 見れば、汚れたカスパルの顔が目の前にあった。そして、ドロテアが何かを言う前に抱きしめられて、口づけをされる。それは一瞬の出来事で、カスパルの顔も温もりも、すぐ離れてしまった。

「そんな顔すんな。特に、戦場ではな。気を抜いたら、死んじまう」
「……カスパルくん……」

 少しばかり照れたようにふいと横を向きながらも、それもほんのわずかの出来事で、次の瞬間にカスパルはいつものカスパルの笑みを浮かべていた。

「オレはドロテアに死んでほしくないし、オレも死ぬつもりはない。大丈夫だ、オレたちは死なねえよ。先生もついてることだしな」

 カスパルの言葉に論理的な根拠などはひとつもない。けれども、その笑顔と力強い言葉は、少しだけドロテアの胸の奥の痛みを和らげてくれた。ドロテアは疲れた顔にほんのわずか笑みを浮かべて、頷く

。 「……ありがと。励ましてくれて」
「そ、そんなんじゃねえけどな……さあ、行こうぜ。お前ひとりじゃ危なっかしいし、もうすぐ戦闘も終わる」

 照れ隠しなのかささっと背を向けて先をゆくカスパルの背中は、いつの間にかとても大きくて、広い。その背中を追うように、ドロテアは駆けだしていた。



   □ 誓いのキス


    これで戦争はようやく終わりだと、そう、ドロテアはカスパルと顔を見合わせていた、そのときだった。突然の轟音、咆哮。戦いが終わった、そう思っていた二人は何事かと天を仰ぐ。同時に叫ぶベレスとセテス。セテスが苦渋に満ちた表情で何かを告げて、ベレスは僅かに逡巡するも、力強く頷いた。

「先生……」

 わからない、わかりたくない、二つの想いが瞬間的に交錯した。認めたくない、きっとこれはよくないことの前触れだから。けれど、知らなければならない、たぶん。漠然とした予感にドロテアはベレスを見つめる。

「カスパル、ドロテア。……レア様、……白きものを、討つ。そうしなければ、このまま世界は、滅んでしまうから」

 告げるベレスの声は、少し震えているように思えた。目を伏せて拳を握りしめている、きっと彼女にとってもこの決断は辛いものなのだろう――それはそうだろう、ようやく助け出したレアを、討たねばならないのだ。

「レア様を……」

 絶句するドロテアとカスパル。ドロテアは呆然と、カスパルは唇を噛みしめてから、ぽつりと言葉を落とす。

「よりによってレア様と闘わなきゃならないのかよ……なんで……」
「レア様の体力は……限界だった。もう、ヒトの形も保っていられないくらい、衰弱していた。放ってはおけない、放っておいては、いけないんだ」

 珍しく戦うことに戸惑いを隠せないカスパルは、ベレスの言葉を受け、自らの武器でもある拳を握りしめて、唇を噛みしめた。それでも、その表情は苦渋に満ちており、彼らしくない。戦いの最中は滅多に迷いを見せないカスパルだが、やはり相手が白きもの――レアだからなのだろうか。彼はことさらに信心深い方ではなかったが、人並みの信仰心もあったし、レアのことは決して嫌いではなかったのだろうことが伺えた。

「でも、これが最後の戦いよ……」

 カスパルを諭すように――或いは自らを鼓舞するように、ドロテアは呟く。あの白きものを相手にしなければならないという恐怖、相手がレアであるという事実は、お世辞にも信心深くはないドロテアにとってもそれなりに思うところはある。恩師ベレスは尚の事だろう。けれど、それならば、ベレスがそうだと決めたのだから、自分たちは従うだけ。ベレスが迷わないのならば、自分も迷うまい。ドロテアの聖歌を美しいと喜んでくれたレア、信心深くはない、それでも時折礼拝堂を訪れるドロテアにも親し気に声をかけてくれたレア、あの優しい声と笑顔が決して嫌いではなかった大司教レア――そのレアが苦しんでいるのだ。その苦しみから、せめて、解放してやりたいと思うのは、当たり前の感情なのだろう。ドロテアは、毅然と顔をあげる。

「カスパルくん」

 ドロテアに振り向くカスパルの表情は、やはりどこか迷いがある。ほんとうに、らしくない。ドロテアは困ったように曖昧な笑みを作り、目の前の唇に徐に口づける。確かに触れる温もりは、彼も自分もまだ生きているのだと伝えている。そう、まだ生きているのだから。そして、レアを苦しみから救えるのは、きっとこの場にいる、自分たちだけなのだから。

「私は、私たちは死なないわ。生き残るの。ねえ、前にカスパルくんは私に言ってくれたじゃない。死ぬつもりはないって。私も、こんなところで死にたくない。だって、これからカスパルくんと一緒に、生きていきたいもの」
「ドロテア」
「私が信じてるのは、先生と、みんなと、それからカスパルくん、貴方よ」

 ドロテアの言葉に、カスパルの表情が少しだけ変わる。それは、やるべき事を思い出した戦士の顔だ。

「皆で、レア様を救わなきゃ。苦しんでいるのだもの。それを終わらせるのは、私たちの最後の役目。終わらせなきゃ、そうでしょう」

 だってあんなに苦しんでいる。
 言いながらカスパルの頬にゆっくりと指で触れて、もう一度口づけをする。私たちが、やらなきゃならないの。そう告げるように。

「……そう、だな」

 ドロテアの手を無意識にとりながら、カスパルも頷く。その真っ直ぐな瞳には、いつもの迷いない光が宿っていた。

「オレたちが、やらなきゃな」

 カスパルはまだどこか辛そうに、それでもドロテアには無理に笑みを作って応える。少しばかり痛々しかったけれど、きっと彼は、大丈夫。

「いきましょう」
「ああ」

 そして二人は最後の戦場へと向かう。遠くレアの苦し気な咆哮が聞こえる。終わらせて、そしてその先にはきっと救いと希望が残されていると、信じて。



■ ふいうち


 カスパルと結婚してから数年、ようやく彼の放浪癖も収まり、ふたりは帝都アンヴァルの下町に構えた自宅で共に暮らすようになっていた。カスパルはその持ち前の明るい性格と人好きのする性格で、力仕事や工事関係の仕事に引っ張りだこだ。ドロテアもまた返り咲いた歌劇団で再び歌姫として脚光を浴びる日々に戻っていた――ただし、孤独だった十代のころとは違う、より美しさと魅力に磨きのかかった希代の歌姫の人気はすさまじいものがあり、ドロテアの舞台や演目があるとなればそのチケットはまたたくまに売り切れてしまうほどの評判だった。
 彼女の歌は、ことばは、けれどもたったひとりのために紡がれていることは有名で、そしてその相手が時折劇場に姿を現すことも帝都では専らの噂だった。とはいえそこはカスパルのことなので、あえて目立つような真似をするわけでなく、至って自然体なものだから余計噂にはなるものの、何よりも当人たちが殆ど気にしていないものだから、ゴシップなどにはなりようがなかったのだ。
 そして今日は千秋楽。無事に演目を終えたドロテアが楽屋に戻ると、そこには深紅の薔薇を持ったカスパルの姿があった。

「よお、お疲れさん」
「……カスパルくん?どうしちゃったの?」

 彼が手荷物持参で楽屋を訪れるのは珍しい。しかもその荷物というのが、また彼には似つかわしくはないものなのだ。楽屋にいたドロテア以外の役者は感嘆の声をあげ、はたまた笑みと共に囁きを交わしあい、いずれにせよこれから始まる夫婦の会話に興味津々であった。

「カ、カスパルくん……何?何か、欲しいものでもあるの?それともまた、旅に出たくなった?」

 肝心のドロテアといえば、幾度となく詩人に謡われたその美しい翠の瞳を見開き夫の手元を凝視している――視線の先には、至って簡素な深紅の薔薇の花束だ。ただし、ドロテアは意味するところを知っているから、驚いているのだ。

「劇場に来る前にほら、花屋があるだろ?たまたま目に入ってな!そういやあお前も今日千秋楽だったし、って、思い出して買ってみたんだ。なかなか綺麗だろー」
「あ、あはは……そうよねえ、そういうことよねえ……」
「ん?まあいいや、とりあえずお疲れな。舞台、今日も最高だったぜ」

 言いながらカスパルはドロテアを抱き寄せると、自然な流れで結ったままの頬に唇を寄せる。

「え?え?カスパルくん……?」

 お熱いねえ、などと楽屋に控えていた役者仲間からヤジが飛ぶ段階で、ようやくドロテアは我に返った。家ではよくカスパルがやる行動なのだが、それを外で、しかも仕事仲間がいる前で、である。

「あのなぁ、ドロテア……別に、そういうんじゃねえよ。労っただけじゃねえか、今日の講演、無茶苦茶よかったぜ、って」

 当のカスパルはといえば、抱き寄せた手はそのままに何やら面白くなさそうに眉を顰める。彼にしてみれば見せつけるだとかそういう意図は皆無で、いつもの愛情表現のつもりなのだろう。場所を選ばずストレートにそれを表現するのは彼らしいといえば彼らしいのだが。

「……でも、カスパルくんからその、……キス、とか……しかも、こんな、場所で……」
「へへへ、いいだろ。まあ俺たちもう夫婦だし、さ」

 にこりと人のよい笑みを浮かべられて、ドロテアは脱力すると同時になにやら理不尽な怒りが沸いてきた。これは、おそらく、しばらく仲間内で酒の肴にされてしまうだろうことが想像に難くないからだ。

「あのねえ!それはそうだけど、場所とか考えなさいって言ってるの!ここには皆もいるんだから!」

 ドロテアはぱしりとカスパルの手をはたき身体を離すのだが、カスパルは不満そうに唇を尖らせるし、実際に周囲にいる役者仲間たちは二人をほほえましそうに眺めているだけだ。

「相変わらず仲良し夫婦だなあ」
「でも、痴話げんかは家でやってね、これから打ち上げなんだし」
「なんなら旦那さんも一緒に来ればいいじゃない」
「も、もう!皆やめてよ……私たちだって、結婚してもう十年以上になるわけだし……はぁ……」
「おっ、それいいな!そいやこないだ皆で行った店は魚料理が旨かったもんな~、オレは肉が好きなんだが、最近は魚の良さもわかってきたんだぜ!」

 ドロテアは大仰なため息をつくのだが、カスパルは逆にその場のノリでそんなことまで言い出す始末。ああ、カスパルの人好きのするところが悪い方に出た、とドロテアはこめかみを抑えながらもう一度ため息をこぼした。

「それもこれも奥さんの手料理のお陰なんでしょう」
「まあなー。ドロテアの料理って適当だけど、この適当さがまたよくてさあ」
「ははは、結局惚気られてるだけだな」
「もうほんとに……やめてちょうだい……」

 呆れながらも真っ赤になるドロテアと話を続けるカスパル。そうしてわいわいと楽屋で過ごす時間も、二人にとっては楽しいひとときなのだった。



  □ 唇以外に


 戦いに赴く支度をするために、衣装をまとい髪を整える。やっていることは舞台前とさほど変わらないというのに、心の重心は重たく灰色によどんだままだ。それでも、ドロテアは望まぬ戦いのために、己を鼓舞するために化粧を施すのだ――戦化粧、という言葉がたしかブリギットにはあるのだとペトラが言っていた意味を、なんとなくこの五年でドロテアは理解していた。これは仮面を被るための儀式だ。人を殺めて、それでもその先にある道を進むエーデルガルトをささえるための、彼女の力になるための。
 ドロテアは、単純にエーデルガルトが好きだった。彼女の夢、理想の為ならば、たとえ心底厭っている戦でもしてみせるくらいの気概はあった。彼女の語る夢が、その先にあるものが、きっとドロテアが描いている世界につながるのだと確信できるから――それはまた、エーデルガルトの傍にベレスという存在がある今だからこそ、強く確信ができる。ベレスという存在を再び得たエーデルガルトは、まさに両翼を得た鷹だった。その鷹が導く先にはきっと価値がある。
 紅を引いて身支度を終えたドロテアが立ち上がろうとすると、ぶしつけに扉をたたく音がした。応じれば、怪訝な表情をしたカスパルが立っている。

「なあ、ドロテア。大丈夫なのか?」

 ぶしつけな質問に、ドロテアは眉をひそめた。

「何のこと?準備はもう、できてるわよ」
「そうじゃねえよ。お前、辛くないのかって」
「辛く、って……それこそ何の話?私はべつに……やることを、やるだけだわ」
「そういうことを、当たり前みたいに言うことだよ」

 きっちりと扉をノックして反応を確かめたその丁寧さがうそのように、カスパルは無遠慮に化粧台に座ったままのドロテアに近づき、整えたばかりの頭部をいささか乱暴に抱き寄せる。

「ちょっと!折角整えたのに……!」
「オレは大丈夫なのか、って聞いてるんだ。無理、してるだろ」
「……カスパルくん……」

 抱き寄せられた箇所から感じるカスパルの体温は、あたたかい。彼の、いつの間にかずっとずっと大きくなっていた手はしっかりとドロテアの頭を支えている。そのぬくもりと逞しさに、ドロテアは少しだけ寄り添うことにした。

「……無理、ね。少しくらいしなきゃいけないもの。しなきゃだめ、でも、それは、私が、やりたくて、……いいえ、やりたくはないけど、でも、やらなきゃって、思っていることなの」
「そうか」

 カスパルの声はそっけないのに、ひどく優しく聞こえる。耳には彼の鼓動がゆっくりと響いていて、その音を聞くと少しだけドロテアは安心していた。誰かの温もりがこんなに心地よいと思えるのは、いつぶりだろう。

「だからね、私は、戦うためにお化粧をしてドレスを着るわ。それが必要なら、戦場でも歌うし、殺すわ。大丈夫、まだ、私は……まだ、大丈夫よ」
「……そうか」

 カスパルの手に込められている力が、少しだけ強くなる。嘘はついていない。そう、嘘はついていない――この独白は自分のためでもあって、自分の中で揺らぎそうになっている決意を確かめるためのものだ。

「戦いは怖いし、嫌だと感じているのもほんとう。でも、だからって……逃げようとも、思わないの。なんでかしらね、私、戦う事なんて好きじゃないのに」
「……そうだな」
「エーデルちゃんと先生のことが好きだから、かな。……それくらいしか、私にはわからない」
「いいんじゃないか、それで」
「……そうかな」
「それがわかってるなら、きっとドロテアは大丈夫だろ」

 きっぱりとそうカスパルに言い切られると、何故だろうか本当にそうなのだと思えるから、不思議だった。彼は昔からそういうところがあった。彼の言葉には不思議と力があるような気がして、きっとそれは、彼が余計なことを一切考えていないからなのだろうとも思う。だからこそまっすぐで、力強いのだ。

「それに、オレもついてるからな」

 突然静かにそう告げて、カスパルはドロテアの綺麗に整えた癖毛をやさしく掬い取ると、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと口づけをした。その様があまりにも彼に似合わなくて、けれどもそこから彼の優しい体温が伝わってくるようで、ドロテアは息を呑む。
 弟のようだと彼をからかったのが、遠い昔のようだ。今、傍らに立っているカスパルは、もう弟のような、ではないかもしれないと、ふとドロテアは思う。自分の中でも未だその線引きも曖昧なのだが、彼とと自分がとても自然体で過ごせていることには漠然とではあるが気づいていたし、だからこそ、特に戦いが苛烈さを増せば増すほどに、彼の傍らに立ちたくなることが増えたように思う。

「……ありがと、カスパルくん」

 改めて真正面から礼を言ってにこりと微笑むと、カスパルはぎょっとしたように手を離し、直前までの頼もしさはどこへやら、急に慌てふためいてみせる。そんなところもまた彼らしいと、ドロテアは幾分と軽くなった心で思った。



■ ファーストキス


「ねえ、カスパルくん、折角だし踊らない?」

 にこにこと近づいてきたドロテアは、少しだけいつもと雰囲気が違うなと思った。それは、この舞踏会という特別な場所だからなのかもしれない。カスパルには全く縁のない場所ではあるものの、担任ベレスに言われて仕方なく参加して、食べ物はまあ上等なものが出ているので、決して悪くないと思っていたところにドロテアから声がかかったのだ。

「あ?まあ、いいけど。けどオレ、別にうまく踊れないぜ?」

 するとドロテアは心得たといわんばかりに腰をかがめて笑みを深め、カスパルをわざわざ下から覗き込んだ。

「ふふ、そこは私がリードしてあげるわ、ね?お兄ちゃん」
「あのなぁ!ったく、それはやめろって言ったろ!」

 他の男子生徒ならばコロリいってしまうはずのドロテアの目線と声色も、カスパルにしてみればただの友人の悪ふざけにすぎない。冗談で「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」などと呼びあって以来、ドロテアはことあるごとにカスパルのことを「お兄ちゃん」といってはからかうのだが、まったく勘弁してほしい、とカスパルは頭を掻く。それでも彼女の踊りの誘いを断る理由もないので、その細い腕をとって踊りの輪の中に入ってゆくのだった。


「あ~~~!なんか、落ち着かねえ!落ち着かねえぞ~~~ッ!」
「カスパル、騒ぐか暴れるか訓練するか、どれかにしたら?とりあえずうるさくて周りにも迷惑だし」
「くそっ、リンハルト、聞いてくれよ!」

 流石のカスパルもリンハルトの言葉で己の行動を振り返れたのか、周囲で訓練している生徒たちに悪い、と小さく頭を下げてから訓練場の端であくびを噛みしめながらこちらを眺めているリンハルトの元へと移動する。

「……はいはい。で、今度は何をやらかしたんだい?」
「いや、お前、オレがなんかやらかすのが前提かよ、そうじゃねえよ……」
「じゃあ、何さ」

 ある意味でいつも通りの友人の冷たい言葉に、カスパルは少し冷静になる――それでも、もやもやとしたこの心のうちは晴れるわけではないのだが。

「……なんかなあ。ほら、オレ、こないだの舞踏会でドロテアと一緒に踊らされてただろ?」
「ああ、見た見た。流石歌劇団にいただけあって見事なステップのドロテアと、まるで子供の踊りみたいな君の足さばきの対比は傑作だった」
「感想じゃねえよ。でな……なんか、あれからなんだけど、妙に頭の中にアイツのことひっかかって、こう、もやもやっとして。訓練しててもさっぱり晴れねぇし、動きも鈍るし、走り込んでも何してもダメで、どうしたもんかなと」

 カスパルは真剣そのものといった表情で言っているのだが、対するリンハルトはといえば途中から何かを察したらしく、大きなあくびをして再び訓練場の壁にもたれかかると、居眠りの準備を始めた。

「……はあ。なるほど」
「!なるほど、って、お前、わかるのか?」

 友人の眠そうな(できればもうこれ以上話はしたくはないという)意思表示を無視してカスパルはぐいと顔を近づけ、大声で叫ぶ。

「いやまあ、そうだね、割と一般的に見たら大体の人が判るんじゃないかな……わからないのは君くらいなもんだよ、カスパル」
「何!なんだよ、頼むよ。教えてくれよ!」
「う~ん……さて、どうしようかな。こういのは、誰かが教える事でもないし……別に僕もヒマじゃないからなあ」
「いやお前基本ヒマしてんだろ」
「いやいや、昼寝をする時間を捻出するのに大忙しだから。まあ、そうだね……そのもやもやとか、わけのわからないやつは、肝心の彼女のところに行ってみたらいいんじゃないかな」

 リンハルトは何やら小声で付け足していたのだが、そんなものはカスパルにとってはどうでもよかった。とりあえず、このよくわからないモヤモヤの解消法が見つかったのだ。善は急げ、というやつだ。

「お、おう?そうか……そうだな、確かに、原因はアイツと踊ったからだもんな……よし!ありがとな、リンハルト!オレちょっと行ってくるぜ!」
「はいはい、じゃあ頑張ってね~……ふぁ~あ」

 その場で寝てしまいそうな勢いのリンハルトを置き去りにして、カスパルは一目散に駆けだした。


 訓練場を出ると、既に陽は傾いている。成程空腹なわけだ。ところが、いつものカスパルならばその空腹を満たすことを優先して食堂に向かうのだが、リンハルトから言われたわかるようなわからないようなアドバイスで頭がいっぱいで、とにかくドロテアの姿を探そうときょろきょろとあてもなく周囲をぶらついていた。
 すると、運が良いのかそうではないのか、ふらりと大聖堂の方へと歩いてゆくドロテアの姿があった。彼女がこんな時間に一人でいるのは珍しい――それこそ、婿探しに余念のないドロテアはこの時間帯はよく男子生徒と行動を共にしていることが多かったのだが。

「あ、あれ、アイツどこに行くんだ……?」

 カスパルは意を決して、そのまま後を追うことにした。



 ふらりとドロテアが向かった先は、女神の塔だ。普段は入れないはずで兵士が番をしているのだが、休憩にでもいったのかさぼっているのか見当たらない。ドロテアはそそくさと扉の陰に入ってゆく。カスパルも周囲に人がいないかを確かめてから、まるで身を隠すように扉の中へと入っていった。
 階段には灯もなく、塔の上の窓からわずかにこぼれてくる夕日だけが視界を明るく照らしている。そうすると世界はオレンジ色に染まり、ふわふわと不思議な心地になると同時にどこか物悲しいような、寂しいような空気も醸し出すのは、これが冬場の日暮れだからなのだろうか。
 階段を上り切れば、果たしてドロテアは所在なげに窓辺に腰を掛けて外の景色を眺めていた。その横顔は夕日に照らされてひどく孤独に見えて、カスパルは思わず声をかける。

「ドロテア」
「なぁんだ、カスパルくんか」

 声の主を認めたドロテアは一瞬悲しそうともうれしそうともつかないような表情をするのだが、その不安定な色はすぐ隠れてしまい、軽快な足音と共に彼女は窓辺から床に飛び降りてみせた。その何気ない仕草に、不自然に胸が高鳴る感覚を覚えて、カスパルはごくりと唾を飲み込む。ああ、これだ、この、変な感覚だ。それを誤魔化すように、カスパルはあえてぶっきらぼうに告げる。

「なにしてんだよ」
「別に」
「ふうん、まあ、いいけどな」
「そんなカスパルくんこそどうしたのよ。こんな場所に来るなんて」
「いやまあそれは……な、なあ、ドロテア!」
「何よ急に大声だしたりして」
「い、いや、その、お前、この塔の噂って知ってるか?」
「……意外。カスパルくんからそんな話題が出るなんて。でも残念だけど、その話は落成記念日の夜に落ち合う、よ。まあなんていうか、その変の頓珍漢なところ、カスパルくんらしいけど」
「同じようなもんだろ」
「同じじゃないわよ……もう……ほんっと……お兄ちゃん、しっかりしてよね?」

 ドロテアがくすくすと笑い、またしてもお兄ちゃん呼ばわりするものだから、腹が立つやら悔しくなるやらで、とっさにカスパルはその細い手をとってひっぱる。

「わ、な、なにするのよ」

 驚くものの拒まないドロテアの顔が間近にある。自分とは全然違う、訓練相手とも全然違う、あまくていい匂いがする。つかんだ手もひどく頼りなくて折れてしまいそうで、再び胸の奥が鼓動を刻んだ。なんなんだ、この感覚、熱くなってくるし、けれども何だかこの手を離したくはないし。間近で見る手入れをされた肌はきめこまやかできれいで、唇はやわらかそうで、思わず喉を鳴らしてしまう。
 すると、急にドロテアが近づいてきた――そして、軽く、触れるようなキス。

「んなっ」

 驚きのあまりカスパルが声を上げると、ドロテアはおどけてみせた。

「あれ?違った?もしかしたらカスパルくん、期待してたのかなって」
「お、お前、だ、誰とでもこういうこと、す、すんのかよ!見損なったぜ!」

 そういうと、ドロテアはくすりと笑ってカスパルから離れる。ふわりと薫るのは、やわらかな髪を手入れしている道具のにおいか、香水の類かまではカスパルにはわからなかった。

「あら、少なくとも私は気のない人間にこういうことする趣味はないわよ」

 ふふふ、と人差し指をくちびるに宛ててドロテアは笑い、片目をつむってみせる。その桜色の頬がほんのり上気しているように見えるのは、夕焼けのせいなのか、それとも思い込みだろうか。

「そ、それはその、つまり」
「でもまあカスパルくんだしねえ、ねえ、お兄ちゃん?」
「お前なあ……!どっちなんだよ!」
「ふふ、どっちでもいいじゃない。ともかく、戻りましょう、いつまでもこんなところにいたら、カスパルくんはともかく私、風邪をひいちゃうから」