「だから、同じことを何度言われても無理です。ダメなんです」
そっけない、けれどもどこか寂し気な言葉を、幾たび聞いただろう。その都度落ち込みながら、それでもシルヴァンは諦めるという事を知らない男だった。そもそも諦める理由がなかった。元々家を出奔したのだって殆ど彼が理由だ。それについてあれこれと不愉快な噂が飛び交っているのは知っているし、恐らくシルヴァンの提案を彼が万が一にも受け入れたらそれはそれでその先にあるものは決して安泰とは言い難いだろう。それでも、だったら、それらすべてから彼を守ればいい――最も、あの跳ねっ返りはきっと、大人しく守られているだけの姫君ではないことは容易に想像ができて、シルヴァンは少しだけ笑った。
その日、帝都アンヴァルの通りを堂々と征くシルヴァンの表情は、それは晴れやかなものだった。何故ならようやく長年の夢が叶うからだ。シルヴァンのその執着心と気の長さに流石のエーデルガルトも嘆息しながら「貴方になら北方を任せても問題なさそうだということだけは確かね」と、褒めているのか皮肉かわからない言葉と共に「貴方にとっても都合がよいでしょうから」そこまで言われてシルヴァンは苦笑したのだが、何はともあれこれで大義名分はできた。皇帝陛下と枢機卿に慇懃に会釈をし、衛兵には微笑ましく見守られながらシルヴァンは謁見の間から出て行ったのだ。
ファーガス最北端に位置するゴーティエ領の内情はある程度落ち着いては来たものの、スレンとの関係はまだ安定したとは言い難かった。それでも、以前よりも大分改善してきたのも事実で、それはシルヴァンや彼の父親の手腕によるものでもあるし、帝都から派遣された人材の優秀さも手伝っていた。エーデルガルトはシルヴァンが提案したスレンとの話し合いの場を設けるという目的まで同意してくれ、その為の下準備を水面下で今も進めてくれているだろう。
そしてある程度内情が落ち着いた頃を見計らい、シルヴァンは少し家を空けると伝え、従士だけを連れて旅に出たのだ。父親はその軽率さそのものには渋い顔をしたが、息子のここ数年の働きを認めてはいたので、多少の休暇をと考え、黙って送り出してくれた。そうして長い時間をかけ帝都アンヴァルへと上り、皇帝直々に受け取った剣には当然意味がある。本来であれば皇帝たるエーデルガルトが任命の儀を行うのが通例であるのだが、枢機卿の「例外があってもよいでしょう。何も以前の慣習に合わせる必要はありますまい」という一言にエーデルガルトも同意し、帝都アンヴァルで鋳造されたその剣はシルヴァンの手に渡ったのだった。
「ガスパールの事に関してはもう彼に一任してあることだし、今更私たちは口を出すつもりはないわ」
付け加えられたエーデルガルトの言葉の意味を、シルヴァンはしっかりと理解していた。
そもそもアッシュがガスパール領主に、というのも仮の措置だった、とエーデルガルトは言っていた。彼は王国を裏切る形で帝国――つまりはエーデルガルトの側に付き従い戦った。今でこそガスパール領も帝国領ではあるものの、元は王国領である。そして北方の民の気質は保守的で、それでもファーガス北部よりは幾分か南部の風潮や文化に慣れ親しんでいるとはいえ元王国領という事実は歪みない。ゆえに、帝国兵として戦っていたアッシュよりは、戦争時にもガスパールに滞在し、不足ながらも領主不在の領地を必死にどうにかしようと努力していたアッシュの兄弟たちの方が領民らに受け入れられやすいのは当然と言えば当然の話であった。そして、一番上の弟は兄に負けず劣らず努力家で、ロナート卿に引き取られてからも勉学に勤しみゆくゆくはクリストフのよき補佐になれるであろうとまでロナートに言わせる程であった。だがそのクリストフは戦死し、ロナートも死を覚悟した叛乱の後討死し、ガスパールは領主不在となった。その際に領民をまとめていたのは、ロナート卿の元で働いていた文官たちとアッシュの一番上の弟だったのだ――だから、アッシュも士官学校滞在時は彼に負けぬようにと勉学に勤しみ、貴重な修道院の資料などをこっそりと書き写して送ったりなどもしていた。そういった経緯もあれば、領内がある程度安定すればアッシュは領主の座を弟に譲るだろうというのは、誰しもが考える事であった。
事実、二節ほど前にアッシュが直々にそう宣言し、領民たちからも特に不満は出なかったという手紙をシルヴァンは受け取っている――不満は出なかったというよりか、おそらくは安堵した、が正しいのかもしれない。戦時中五年間不在だった領主よりも、不安定なその時期に自分たちと共に生き、共に暮らしていた人物の方が信頼できるのは、当然の感情だろう。
飛竜の節、十七日。逸る気持ちを抑えながら、シルヴァンは久しぶりに訪れたガスパールの街並みを馬上から眺める。
街は以前よりも遥かに活気づいていた。行商人たちが行き交い、市民たちが街道に溢れている――治安がよい証拠だろう。アッシュの手紙には少しずつ安定はしてきた、と控えめに書かれていたが、それどころではない。市民は仕事を得られ、農民は安心して土地を耕すことができる。ファーガスでも比較的温暖で土もそう悪くはないガスパールであればこそだろうが、今年も安定した収穫が得られ冬を越せそうだとも手紙には書いてあった。
シルヴァンは従士を滞在予定の宿場につれて行き、あとは自由に行動してよいと告げガスパール城へと向かった。従士らはそれでは自分たちが付いてきた意味がないと一度は反論してみせたのだが、あまりにも真剣な表情で主の一世一代の勝負の邪魔をしてくれるな、と低い声で告げられてしまえば、彼らはそれ以上何も言えるわけもなかった。
まだ日は高い。だがもう逸る気持ちを抑える必要もないのだと、シルヴァンは一気に馬で駆けてゆく。心なしか蹄の音すら軽やかだ。
やがて認められたガスパール城の衛兵に軽く挨拶をすれば急な来訪を驚かれたが、厩に騎馬を繋ぎ城門をくぐると、ばたばたと騒がしい音と声が響いてくる――その懐かしい足音と声に苦笑しつつも胸の奥が温かくなり、シルヴァンはぐっと手に携えている剣を握りしめた。この懸想は最早十年以上になる。何度も断られ、それでもシルヴァンは諦めきれずにあらゆる手を尽くし、あらゆる準備をしてきた。今回は皇帝のお墨付きだ。断れるわけがない。自らに言い聞かせるようにシルヴァンは心の中で唱えると、顔をあげた。
「シルヴァ……いえ、ゴーティエ辺境伯……一体、急に、どうしたんですか?何か至急の所用でも……」
慌てて居住まいを正すアッシュに変わらないなと苦笑しながら、シルヴァンは携えていた剣を掲げてみせる。
「久しぶりだな。つーか他人行儀な呼び方はよしてくれよ」
「君の突拍子もない行動はいつもですが、今回もまたひどいですね。一体どうしたんですか。せめて来訪することくらい予め知らせてくれてもよかったんじゃないですか」
シルヴァンが相好を崩した途端、どこか詰問口調なアッシュの機嫌は決して悪くはなさげだが、かといって不審そうな表情はまったく隠れてはいない。どこか拗ねているような学生時代を髣髴とさせる言動にシルヴァンはまたしても笑い、アッシュの眉が顰められた。
「いや、お前を驚かせようと思ってさ」
「まったく、何が目的なんです……?」
呆れたように見上げてくるアッシュはあれから五年以上も経っているというのにまったく年齢を感じさせない。その顔を、その若草色の眼差しを見ると思わず抱き寄せたい衝動に駆られてしまうのだが、ますますアッシュを混乱させるだけだろうし、何よりも事情を説明しなければ納得もしないだろう。
「いや、こいつをお前に渡すことが目的だったんだがな。外で立ち話もなんだし、中に入れてくれるか?」
掲げる剣を、アッシュも気になっていたのかチラチラとは視界に入れていた――それはそうだろう、儀礼用でありながらも実用的なそれは、控えめにいっても人目を惹くような代物だ。
「君は何時でも順番がおかしいんですよ。突然訪ねて来て理由もろくに言わずに剣を渡そうだなんて」
もう、と小声で続けるアッシュも、領主自ら供もろくにつれずに慌てて飛び出してきたことは棚に上げているのだ。それ程に逢いたいと思われていたことが嬉しくて、シルヴァンは口角が自然と上がってしまうのを抑えられなかった。
堅牢で質素ながら品格のある部屋に案内されれば、メイドがすぐさま茶と季節の果物、茶菓子を運んできた。あとは自分がやるとアッシュが手を掲げればメイドは一礼して引き下がる。
「菓子はともかく、果物は珍しいな。このあたりでは確かに昔からある程度栽培されてはいたが」
「弟たちが品種改良を繰り返していて、ガスパールの土でも収穫できるようになったんですよ。お陰で収入も大分安定するようになりました」
果物など、高級品だ。それこそファーガスでは珍しい部類になるし大貴族のシルヴァンですらそうそう口にしたことはない。思わす手にしてしまいそうになるのだが、それではまるで子供のようで浅ましいか。そんなことを考えながら心地よい香りの茶を口に含んでからシルヴァンは改めてアッシュに向き直る。
「なあ、アッシュ。いきなり本題から入るが、ゴーティエに来て欲しい。この剣は皇帝陛下が認めた者にしか与えられない叙勲用のものだ。俺は、今日は皇帝代理としてこのガスパールを訪れた」
流石にそこまでを言われ理解できないアッシュではなかった。
だが、理解はしても感情は追いついてはいないのだろう。シルヴァンは今なんと言ったのか?ゴーティエに来てほしいと、皇帝が叙勲に使う剣を渡すために、ガスパールを訪れた――その意味するところを理解するまで、若干の時間を要したらしく、茶菓子にも果物にも、茶にすら手を付けずに考え込むアッシュに、けれどもシルヴァンは答えを急かさずに待った。
これは押し付けではない――限りなく周到に外堀を固めて逃れられないようにはしたが、最終的な選択はアッシュ自身にして欲しかったからだ。
無論、悪あがきはするつもりだった。その為の言葉ならば頭の中に山ほどあるし、何度もその場面を想定して繰り返し試行錯誤してきた。それでも、当の本人を目の前にすると自信は喪失してしまう。アッシュの若草色の瞳が瞬きを繰り返す時間ですら、ひどく長く感じていた。
「アッシュ。ゴーティエの騎士になってくれないか。領地を弟に任せると聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだ。本当なら……」
いざ言葉にすれば感情が逸り、余計なことを言ってしまいそうになったシルヴァンをアッシュが遮った。
「待ってください。それは、お願いですか」
アッシュの言葉にシルヴァンは一度息を呑み、深呼吸をする。言葉を間違えればアッシュは応じてはくれないだろう。それでも、アッシュが弟に領主の座を譲るという旨の手紙を受け取った時は、僅かながら希望を持てたのも事実だし、アッシュ自身が何らかの意図でその手紙を送ってきたのだろうと思う。だからこそシルヴァンは勝負に出たのだ。
「……そうだな……いや、俺自身にもよくわからないんだ。本当なら判断はお前に任せるつもりだったんだが、実際に断られたら俺は傷つきそうだからなあ」
言いながら少し冷めてきたセイロスティーを口に含む。シルヴァンの好きな高級茶葉をアッシュはわざわざ用意してくれていた。脈はあるはずなのだが、どうにも臆してしまうのは致し方なかった。学生時代から懸想し、一度こそ恋人のような関係になったものの、戦後は互いにやるべきことがあると告げてきたのはアッシュの方で、距離を取らざるを得なかったのだ。共に来て欲しいという誘いをなんども断られてもいた。それは至極当たり前のことであったし、シルヴァンも文句の言いようはなかったものの、感情の処理はそう簡単にはいかなかったのだ。自分がそこまで彼に入れ込んでいたという事実も意外ではあったものの、一度だけ触れた肌も、彼という存在も、なにもかもがシルヴァンにとっては衝撃的ですらあり、忘れ難かった。そのあまりの執着を仲間たちに良くも悪くも揶揄られる程、シルヴァンはアッシュが好きだった。恋情なのか執着なのかすらもよくわからない、ただ、感情をひたすらに揺さぶられる存在だった――一度は実家を出奔するほどにだ。
実際、今も緊張して握りしめた手のひらは汗で濡れているし、正直なことを言ってしまえば怖くて仕方がなかった。アッシュに告げた言葉は冗談でもなんでもなく、真実だ。だが、何度もこの状況を想定し試行錯誤してきたではないか、と己を奮い立たせてシルヴァンは顔を上げ、改めてアッシュと真正面から向かい合う。
「ああ、もう、言っちまおうか。お前の力を借りたいっていうのが本音なんだよ。スレンとの関係は手紙でも書いていた通り、大分安定はしてきている、ただなにせ俺たちゴーティエは長年連中と敵対してきていた……無論、話し合いを試みたこともあったが、親父の世代になってからは殆どなかったな。だから向こうも警戒して、話し合いをしようにもなかなかうまくいかない。皇帝陛下が取り持ってくださるとまで言われてるし、流石にダスカーの悲劇みたいなことは起きない、いや、起こさせないが、それでもお前の力を借りたいんだよ。アッシュ、お前自身の、な」
シルヴァンの、どこか頼りない本音にアッシュの眼差しが動く。その意図を反芻するためだろうか、自らも茶を含んでから喉を潤すと、アッシュは小さく息を零した。
「僕自身の、といっても……北方の、それもスレン族を相手にたいしたことはできないと思いますけど。まず彼らの知識も殆どありません」
「あのなアッシュ。お前は平民あがりなのに数年でここまでガスパールをまとめ上げて安定もさせた。戦時中だってそうだ、皇帝の銀の牙と言われたお前の働きを知らないフォドラ人は大陸中探したってどこにもいやしない。枢機卿の刃であり矢だったお前が、役に立たないわけがないだろう。スレンの連中の事なら、ゴーティエに来れば嫌って程教えてやるさ」
やや怒気を含めた声にシルヴァン自身驚くが、アッシュのこの自分を過小評価しすぎる点だけは昔から頂けなかった。公私共にアッシュという人物をシルヴァンは評価している。だからこそ、それが許せなかったのだ。
「要するに箔をつけたいってことですね。でも、シルヴァンがこの剣を持ってきた以上、僕に断る理由は……ないんでしょうね」
ぽつりと落とされた言葉はけれども意外なもので、シルヴァンは一瞬呆気にとられる。
「それに、渡すものはそれだけじゃないんでしょう?」
先ほどまでの神妙な顔つきはどこへやら、何やら悪戯を企む子供のような顔でアッシュは笑う。まったく、そこまで見抜かれていたか、とシルヴァンは大仰に目元に手のひらを当ててから苦笑した。
「はは、やっぱりお前にはかなわないよ。だが先にまずこれだ」
シルヴァンは片目を瞑ってみせると、すくと立ち上がり、剣を掲げた。アッシュもまた観念したように小さく笑い、倣うように立ち上がり、シルヴァンの前に跪いた。
「アッシュ=デュラン、皇帝エーデルガルト=フォン=フレスベルグの代理としてこの辺境伯シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエが貴殿を騎士に任ずる」
とん、とアッシュの肩に剣の先が置かれる。
「謹んで拝命致します、ゴーティエ辺境伯」
迷うことなく応えてアッシュは立ち上がり、シルヴァンから剣を受け取りその場で鞘から抜けば、軽く切っ先は鋭い、アッシュが以前から愛用していた細身の剣と瓜二つの作りをしている。通常儀礼用の剣といえば一般的な大きさのものを用いるが、これもまたシルヴァンが特別に鋳造させたものなのだ――以前アッシュが愛用していた剣も、同じように学生時代、シルヴァンが特別にとガルグ=マクの鍛冶屋に作らせたものだったことを思い出し、アッシュの頬が緩んだ。
「ありがとうございます。この剣、昔君に貰ったものと同じような作りなんですね……」
感慨深そうに剣を手に側面を撫でるアッシュの表情は、柔らかい。昔を懐かしんでいるのか、それ以外の何らかの感情を胸に抱いているからなのか、それはわからなかったが、シルヴァンは目的の一つを達成できたことでひとまずは安堵していた。だが、シルヴァンの言う勝負というのは、これからだ。
アッシュが剣を鞘に納めるのを見計らい、シルヴァンは懐から小箱を取り出し、けれどもアッシュには直接手渡さずにその目の前にかざしてみせる。
「シルヴァン?」
アッシュのあまりにも不思議そうな顔つきに、シルヴァンは思わず吹き出してしまった。
「おいおい、こっちが本命だぜ。お前だってわかってるんだろう」
どこか照れたように頭部を掻きながら、シルヴァンはアッシュの手を取った。長いこと戦いから遠ざかっていたものの、相変わらず傷の残る手は、いつ見ても愛おしく温かい。この手は数多の敵を殺し、或いは必要であれば帝国の尖兵として決して口外できないような事ですら行っていた。それでも、アッシュという青年はいつだってシルヴァンの心の中では輝かしく、純粋で、まっすぐなのだ。
「俺としては、どちらかといえばこっちを受け取って欲しいんだ。こんなこというと、皇帝陛下の美しいご尊顔が曇って枢機卿に嫌味を言われるんだろうけどな」
軽く流すように告げるも、シルヴァンの心臓は早鐘の様に鼓動を刻む。それこそ、先ほどの比ではなかった。アッシュの手に小箱を握らせて、シルヴァンは時を待つ。アッシュは静かに、丁寧な仕草で華奢な小箱を開けて、ひゅっと息を呑んだ。
「シルヴァン……」
ぱちぱちと瞬きをしてから、小さな震える声でアッシュはシルヴァンの名を呼ぶ。その声からは、その答えがどちらなのかは判断が付かなかった。こうしたやりとりには自信があった筈のシルヴァンの頭の中は真っ白で、まるで審判の鐘を待つ罪人のような心地だ。早く応えてほしい、けれども応えて欲しくはない、矛盾した感情が胸の中で渦を巻いてシルヴァンを追い詰めてゆく。まるでじっとりとしたような時間の流れに、シルヴァンは嘆息すらできない。
繊細な作りの小箱の中に在ったものは、ゴーティエの紋章の中に緑色の宝石を誂えた指輪だった。その意味することを理解したアッシュは、困惑したように再び瞬きを繰り返してから、そっと、大切なものに触れるように指輪を取り出すと、握りしめた。
「これを、……ほんとうに、……僕に?」
アッシュの声は、ちいさく震えていた。先ほどまでは流暢に話していた青年は、今は俯いてしまいその表情は伺えない。
「こんな、ほんとうに……こんなこと……」
独り言のように続く声はどこか涙声になっていて、シルヴァンは思わず自分よりも背丈の低い青年の身体に腕を伸ばすと、抵抗なくすとんとそのままアッシュはシルヴァンの腕に収まってくる。そして胸に頬を寄せたまま俯き、暫く声も出さずに震える吐息を漏らしていた。
「俺もさ……いい加減、お前と離れているの、限界だった。本当はスレンとの問題を解決してからお前を迎えに来るつもりだったんだ。けど、お前ときたら想像以上に早くガスパールをまとめちまって……皇帝陛下も、好きにしていいなんて言うからさ。あの皇帝陛下が、だぜ。お墨付きだ。流石に親父もお袋も文句は言えないだろ」
愛おしい、触れたかった身体を抱きしめながら、言い聞かせるようにシルヴァンは言葉をひとつひとつ、丁寧に紡いでゆく。一度は出奔しながらも帝国の将としてその名を大陸中に轟かせることができたのも、その後スレンとの関係修復に尽力できたのも、今日この日の、アッシュ=デュランという青年を手にするためだった。出奔し戻ってきた息子を当初こそ認めはしなかったゴーティエ家の人間も、その後のシルヴァンの働きや皇帝の後押しもあり少しずつ彼を次期当主として認め、彼ならばと言われた、まさにその矢先のタイミングが今だった。
だから、アッシュを騎士として、そして人生の伴侶として迎えに来たのだ。彼がこのフォドラに誕生した、祝福されるべき日を敢えて選んだのも、そのためだった。
シルヴァンはそのままアッシュの顎に手を乗せると顔をあげさせて、軽く唇を合わせる。
「アッシュ、一緒に来てくれ、いや……共に、生きてくれ。俺にはお前以外の人間と生きていくことが、考えられない。公私ともに、お前が必要だ」
唇を離してから自分よりもやや狭い両肩に手を置きじっと若草色の瞳を見つめていると、みるみるうちにその表面に水の膜ができて、ぽろりと零れ落ちる。シルヴァンは柔らかく零れ落ちた水滴を掬い上げてから、もう一度触れるだけの口づけをした。
「そんな、急に、一度に、……僕は、僕だって……君が」
アッシュの要領を得ない言葉ですら、いまのシルヴァンにとっては愛おしくて仕方がない。そのまま胸元に押し付けるように灰色の頭を抱けば、ぐす、と鼻をすする音が聞こえてきた。アッシュの身体は震えていて、言葉にならない言葉がはくはくと呼吸音としてシルヴァンの胸元から聞こえてくる。
「君が……今日、何の知らせもなく急に訪ねてきたからには理由があるんだと、思ってましたけど、まさか、こんな、そこまで、だなんて、思わなくて」
「ああ、ごめんな。色々急ぎすぎて、お前を困らせちまったか?」
何度も、なんどもシルヴァンはアッシュに口づけを落としてから優しく微笑む。先ほどまでの緊張はすっかりほぐれていた。今はただ、アッシュが愛おしくて仕方がない――まだその答えもはっきりとされていないにも関わらずだ。最も、アッシュの様子を見れば拒絶される心配はなさそうなのだが。
「本当ですよ……君は、ほんとうに、バカですよ……一気に色々ありすぎて、もう、頭が混乱して……」
「でも、受け取ってくれるんだよな」
シルヴァンの念を押すような強気の言葉に、アッシュは躊躇いながらも頬を僅かに染めて、小さく頷く。声が聞き取れなかったのは残念だが、唇も僅かに動いていた。
「君は本当に何をするかわからないから……僕が傍にいないと、駄目ですね」
潤んだ瞳で見上げながら告げられる言葉は甘く蕩ける砂糖菓子のようで、シルヴァンはもう一度、うっすらと濡れた唇に口づけを落とす。この感情を、なんと言い表せばよいのだろうか。何度触れても飽き足らない温度を、これからはいつだって味わえるのだ。ただただ沸き起こってくるものは、シルヴァンの胸の内を温かく、そしていっぱいにした。
「ありがとう、ございます……わざわざ僕の誕生日に合わせて来てくれて、ほんとうに、うれしい……うれしいです。領地を弟たちに譲ったら、僕から君を訪ねるつもりだったのに、先を越されちゃいましたね」
涙をこぼしながらも笑顔で告げるアッシュの表情は本当に幸せそうで、シルヴァンの胸の奥は温かくなると同時に奇妙にざわついた。これ以上を望みたいと、瞬時にそう思ってしまったのだ。
「なあアッシュ。今日は宿は取ってあるんだが……泊めてくれるか?」
そっと耳元でそう囁けば、柔らかくはにかんでいた表情が一気に真顔になり、次いで真っ赤になる――数年ぶりだからだろうか、学生時代のような初心な反応がひどく愛らしくて、シルヴァンは再びところかまわず口づけを落とすのだった。