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女の子と揉めただの、面倒な事になっただの、最初は真実だった。けれどいつのまにかそれは理由になっていたのはいつ頃だろうか。呆れたように、けれども毎回律義にシルヴァンをかくまってくれるアッシュも漠然とはわかっているだろうに、面倒そうな顔をしながらも決してシルヴァンを拒否しない。だから、甘えていたのかもしれなかった。
ここはどこよりも安全な場所なのだと、理屈ではなくシルヴァンは感じていた。
シルヴァンが部屋にいる間、基本的にアッシュが特に構うことはない。逆もまた然りだが、座学が苦手だというアッシュが時折シルヴァンにアドバイスを求めたり、他愛のない会話をする。だが、それだけだ。ただ、そんなゆるい時間がシルヴァンにはひどく居心地がよかった。余計なことを気にせずに、ただぼんやりと机にかじりつくアッシュの背を眺めて見たり、時々こちらを振り返っては不思議そうにする顔に笑みを向けてみたり、ただただそういう時間が好きだった。
その日は夕刻から雨が降っていた。冷たい冬の雨は、嫌な過去を思い起こさせる――シルヴァンは食堂から出ると、特にこれといった理由もないにもかかわらずアッシュの部屋に向かった。
ずぶ濡れで現れたシルヴァンに、当然アッシュは困惑し、慌てて大判の毛布を持ってきて手渡してくる。士官学校の生徒皆に配布されるものだが、つつまれるとアッシュの匂いがした。
「どうしたんですか?今日は、切羽詰まってる、って感じじゃないですけど」
「いやいや、これでも切羽詰まってるんだぜ。いつもみたいに、匿ってくれよ」
「匿うって……また何かやったんですか?」
「いいや?ただ、さ。俺、こういう雨の夜は嫌いなんだ。匿ってくれよ」
シルヴァンの少しばかり低い声に、アッシュは一瞬押し黙る。けれど、その扉が閉められることはなかった。
部屋に入るや否や、寒い寒いとシルヴァンは勝手にアッシュの寝台に座り、毛布にくるまり寝転がってしまう。流石にその行動には呆れてアッシュも文句を言おうと近づくと、突然腕を取られて抱き寄せられた。
「シ、シルヴァン?」
「あ〜……ようやく人心地ついた気がするなあ……」
「は??え?いや、なに、なにしてるんですか?」
「なあアッシュ、他人の体温て、温かいって知ってるか?」
質問に質問で答えられ、かつ要領を得ないシルヴァンにアッシュはどうしてよいのかもわからず、自分よりも一回りも逞しい腕の中に閉じ込められたままに、それでも一応不承不承なのだ、とばかりに小さくため息をつく。
「お前結構体温高いんだなあ……」
「シルヴァンの身体が冷えすぎなんですよ。暖炉にもう少し薪を足しますから……」
そういって腕の拘束から逃れようとアッシュが身じろぎをするのだが、逆に強く抱きしめられてしまった。
「駄目」
その言動ときたら、まるで、子供の我が儘だ。
「……どうして」
「んー?俺が、こうしてたいから。それじゃダメか?」
「駄目ですよ、僕には意味がわかりません」
「そっかあ?お前、割と聡いと思ってたけど、鈍いのか?」
「何の話ですか」
「うーん……なるほど……」
要領を得ない会話をしている間にも、シルヴァンはアッシュを抱きしめたままその頭や肩を撫でたり、時折縋るように顔を寄せてくる。そんな仕草は、今の今までされたことがないし、何よりもシルヴァンの言葉や声が上滑りしているのが気になっていた。敢えて道化を演じているような、そんな軽薄さが目立つのだ。
「シルヴァン。何か、あったんですか?」
アッシュがシルヴァンの胸元から顔をあげてじっとその双眸を見つめると、ため息を落とすのはシルヴァンの方だった。
「お前、ほんと、そういうところがさあ……」
「誤魔化さないでください。今日の君は、最初から変でしたよ」
「……まあ、何。こういう冷たい雨の夜ってのは、色々……思い出すんだよ。色々、な」
シルヴァンはアッシュのつよい視線から目を逸らして、自分よりもずっと細い肩に顔を埋めて、小さな溜息のような声で呟く。アッシュもその言葉と様子に流石にこれ以上の追及は出来ないと感じ、シルヴァンの顔に頬を寄せた。その行動は、完全に無意識だった――雪や雨が降る寒い夜に、弟たちにするように、彼らをこの冷たい世界から守ろうとするように。
「アッシュ」
シルヴァンの口から洩れる声は、ひどく震えていて、幼かった。
彼の心の中のことはわからない。けれど、彼は何かから逃れたくてこの場所に来たのだいうことだけはよくわかった。
「アッシュ」
もう一度名を呼ばれると、ひどく整った顔立ちと琥珀の瞳が目の前にあった。鼻先と鼻先がぶつかりそうな、ほんのわずかな距離。アッシュは何度か瞬きをしてから、薄く目を閉じる。完全に目を閉じる前に、唇に触れる柔らかくて暖かい感触があった。頬に冷たい手が触れて、もう一度、唇が重なる。小さな音とともに繰り返される儀式が、降り続く長雨の音をかき消してゆくようで、今度はアッシュから唇を重ねてみせると、シルヴァンはまるで怯えたように一瞬だけ身体を震わせてから、まじまじとアッシュの目を見つめ、琥珀の瞳をゆるりと緩める――その表情があまりにも幸福そうで、不思議とアッシュは自分が泣きそうになってしまい、逆にシルヴァンの肩に顔を埋めた。
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彼のことを意識し始めたのはいつだったか、正確にはわからなかった。
最初はまるで物語の騎士のような――アッシュにとって、理想の騎士のような言動が素直に恰好いいと思えたのだ。けれども、次に気が付いたのはなんだか軽薄で浮ついた言動と、時折見せる対照的な昏い表情だ。それで、気になってしまった、というのが正しいのかもしれない。以降、同じ教室にいる彼の背中を、姿を、目で追っている自分に気が付いた。
気が付いてしまうと、持ち前の性分でどうにも放っておけなかった。いつでも笑顔でいる彼の時折見せる別の表情や、どこか何かを厭うようなまわりくどい言動も、気になっていた。それは直感的なものではあったが、間違いだったとは思っていない。
だから、何かにつけて部屋にやってくる彼を招き入れない、という選択肢はなかったのだ。
それから、五年以上も経っているはずだが、今日もこうしてシルヴァンはアッシュを訪ねてくる――あの時とは状況も変わって、今は戦争の最中だというのに、それでもシルヴァンはひと時のやすらぎを、この場所に求めてくれるのだと思うと、拒む理由はなかった。
ただ、アッシュはそれ以上のことを求めなかったし、やることもなかった。ただ二人で静かに過ごし、シルヴァンは気が済めば部屋に戻る。或いはそのままベッドを借りて勝手に寝てしまう。
そうなるとアッシュの寝床がなくなってしまうのだが、それはそれでシルヴァンの寝顔を横に見ながら椅子にもたれて眠るのも悪くはなかった。彼は時折うなされて、苦しそうに何かを呟くことがあり、そういう時に傍らにいることができる特権は、自分に許された特別のものなのだと思いたかったのだ。
今晩も、眠ったままのシルヴァンはうなされていた。戦争が始まってからはその頻度が大分高まっている、とアッシュは感じていたから、自らシルヴァンの傍に赴くこともあったほどだ。だいたいは兄の名を呼ぶことが多いのだが、時折アッシュが聞いたことのない名前らしきものがシルヴァンの口から飛び出すこともある――それは、家族なのか、或いは親戚なのか、知り合いなのかはわからない。ただ、アッシュにわかることは、シルヴァンが夢の中で苦しんでいて、自分はその彼の傍らにいることしかできない――いることができる、ということだった。だから、怖い夢を見たのだと泣いて縋る弟妹たちにそうするように、汗にまみれた額をひんやりとした布で拭ってやり、何かを求めるように縋る手に、体温を分け与えるように指を絡めてゆるく握りしめ、そっと指先に順番に口づけを落とす。
それは、弟妹たちによくやっていたおまじないだ。効果のほどなどはたかが知れているし、民間伝承の類のようなものでもない、アッシュが編み出した、本当に手前勝手な気休め程度のものだった。
「大丈夫、大丈夫ですよ、シルヴァン。君は、ひとりじゃありません」
そうして、何度か繰り返し、静かに声をかけながら頬や肩に触れる。するとシルヴァンはアッシュの温もりを感じて安堵するのか、少しずつ荒い呼気は収まり、寝息が規則正しくなってゆく。
それを確かめれば、アッシュも安堵して、気づけば眠りに落ちているのだった。
ところが、今宵は違った。シルヴァンが落ち着いたのを確かめ、アッシュも目を閉じようとしたその時に、ぐい、と腕を引っ張られたのだ。
「……アッシュ……」
「起きて、たんですか?」
「いや……ただ、お前の声が、聞こえた気がして、なんだか目が覚めちまった……」
ぼんやりとした声ではあったが意識ははっきりしているのか、そのままアッシュをベッドの中に引っ張り込むと、シルヴァンはアッシュにぎゅっとまるで子供がしがみつくように腰元を抱きしめてくる。
「そしたら、何だか妙に安心できた」
それは、ほんとうに安堵した幼子のような声と表情で、アッシュは安心すると同時に心臓がどきりと跳ねた。この早鐘のような鼓動が彼に聞き取られなければ、よいのだが。
「そ、それは、よかったんです、けど……」
「ああ。だから、こうして眠ればもう悪夢は見ないかなと思ってな」
先程までの態度はどこへやら、一転して悪戯が成功したような笑みは、はっきりと意識が覚醒しているのだという証拠だ。寝ぼけたふりをしてアッシュをベッドに引き入れ抱きしめて、シルヴァンはしてやったりといった風に片目を瞑る。
「……最初から、そのつもりだったんですか?」
「いや?ただ、ぼんやりとお前の声が聞こえたからさ。こうしたくなっただけで」
まったく、というつぶやきは声にならなかった。シルヴァンから軽く唇を重ねられ、アッシュもまたそれに応じる。二人の関係は恋人というにはまだ曖昧なものだったのだが、少なくともこうして触れ合い、触れ合っているとお互いに落ち着くのだ。それは、戦争という非日常の中の刹那的な関係なのかもしれない。それでも、アッシュはシルヴァンのことを厭うことはできなかったし、シルヴァンも同様なのだろう。
シルヴァンは満足げにアッシュを抱きなおすと、自分よりも細い肩に顔を埋め、そのまま目を瞑りすんなりと寝息を立てる。今度こそ彼は安眠できるだろう――そう思い、アッシュもずっと逞しい背に腕を回し、シルヴァンの顔に頬を寄せて目を閉じるのだった。
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初めは困惑していた、というのが、正しい表現かもしれない。自分をまるで理想の物語の騎士のように語る少年の口ぶりはあまりにも自分に向けられる言葉としてはまばゆすぎて、面映ゆくて、けれど、どうしてだろうか不愉快ではなかった――自分にしては珍しい、と、シルヴァン自身が不審に思ったほどに。
理由を色々考えてしまうのは我ながら面倒な性質だとは思いながらも、恐らく彼には本当に「裏」がないからなのかもしれない、と思う。否、この世の中に裏の顔がない人間などは存在しないし、その性質だって決して善良なものではないとシルヴァンは思っている。それもなお、彼――アッシュは、信じがたいほどに善良で、純粋で、裏のなさを感じさせるほどに真っ直ぐにシルヴァンには見えた。いっそ眩しくて見てはいられないから、ついつい茶化してしまったり、けれど不思議と気が惹かれ理由をつけては構ったり無理矢理構わせたりもしていた。
それをシルヴァンは恋なのだとは思ってはいなかった。けれども、ふとした時にこれは恋なのかと気づいたのだ。
同じ教室で、ふとアッシュの癖毛をぼんやり眺めていた。特に理由はなく、自ずと視線が向いてしまうのだ。
アッシュは何事にも前向きで努力家だから、授業についていけるよう必死に集中していた。灰色の癖毛が午後の穏やかな陽に透けて透明に見えた。ゆるやかな光に照らされているまだ幼さが残る顔は真剣で、若草色の瞳は一点に注がれている――穏やかな時間なのだというのに、まるで戦場に立っているかのような真剣で、つよいまなざしで、それに気が付いたときに、シルヴァンはすとんと「おちた」と自覚した。
ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒して、授業をしているベレスの声がよく聞こえる。
「シルヴァン」
ぼんやりとしていたことを咎めるような呆れた声でベレスに名を呼ばれ、シルヴァンは小さく謝罪して気持ちを切り替えようとした。けれども、どうにもだめだった。一度おちてしまったそこから這い上がることは、多分不可能なのだと、漠然とこの時シルヴァンは理解していたのかもしれなかった。
そうして、未だにシルヴァンはアッシュに恋をしていた。彼に名を呼ばれることも、一時でも共に在れることも、ただそれだけで幸福だと思えた。自分がそんなに単純な人間なのだと、シルヴァンは生まれてこの方初めて知ったのだ。数多の浮名を流しているという現状とは裏腹に、シルヴァンは本気の恋などはしたことがなかった。恋をしたいとも、思ってはいなかったのだ。そんなものは一夜限りで充分で、甘い囁きとまぐわいでおわるものだと思っていた。それが、知ってしまえばこんなにもままならなく、苛まれ、苦しく切なくて、なにひとつ、よいことなどない。それなのに、アッシュと再会した瞬間にそれらのすべては吹き飛んでしまった。五年間のあらゆる苦悩も、忘れてしまえるほどに、彼との再会はシルヴァンにとっては衝撃的で、そして喜ばしいことだった。
その彼に、呼び出された。
まして場所は女神の塔だといわれてしまえば、勝手に期待もしてしまう。落成式当日の夜に男女がそこで落ち合い約束を交わせば幸せになれるという言い伝えがある場所だ――何かを期待するな、という方が無理なのだ。アッシュにしてみれば人気のないところがよかったのかもしれないが、ならば自分たちの部屋でも十分だし、この巨大なガルグ=マク修道院には死角などはいくらでもあるはずなのだ。
指定された時刻は宵の刻。実際に赴いてみれば、五年前とは変化したとはいえ、あの落成式の夜を思い出して勝手に鼓動が高鳴る――あの夜は、何人かの女生徒を誘い踊ったのち逃げるように外に出てきてみれば、疲れ果てたアッシュと出会い、二人で適当に雑談をして、それで終わったのだ。それでも十分シルヴァンは当時は満たされていた――満たされた、と思っていたのだ。だが今は、それ以上をどこかで望んでいる。まだアッシュに気持ちも伝えてはいないのに、勝手に彼の手を取りたいと、触れたいと強く思うようになったのは、五年の歳月の長さがそうさせたのか。
暗く灯もない階段をゆっくりと、確実に上ってゆけば、果たしてそこにはアッシュが立っていた。足音で気が付いたのか、ぼんやりと灯された細い灯の中でゆっくりと笑みと共に振り向くさまはあまりにもきれいで、シルヴァンは言葉を失う。
「ほんとうに、来てくれたんですね」
アッシュは、それは嬉しそうに瞳を細めて笑う。心臓は早鐘のように鼓動を打っている。何かを言うべきはずだと思うのに、いつもは饒舌なはずの言葉はすっかりなりを潜めてしまっていた。ただ、目の前にいる五年前よりものびやかに、そしてきれいに成長した青年を眺める事しかできない。
「あ、の……。ええと、こんな場所で、こんな時に、少し変、なのかもしれないんですけど」
不思議とアッシュの言葉は歯切れも悪く、普段よりもどこか弱気に思える。シルヴァンに対してこんな態度をとったことは、記憶に間違いがなければなかったはずだ。その頬がどこかほんのりと染まっているのは、灯の所為なのだろうか。思わず、そうでなければよい、と思った。
「シルヴァン、君にずっと、お礼をしなきゃって、思ってたんです」
「……お礼?」
「はい。君は五年前、まだ学生だった時、僕に贈り物をくれましたよね。あれからずっと、僕は君に何かを返さないとって思っていて」
「あ、ああ、そんなこともあったか。けどなんだって……お前も律義だな。別に、何かが欲しくてやったわけじゃないんだぜ」
それはそうだ。あれは、シルヴァンのただの自己満足だった。ただ、このまっすぐで素直な性根のアッシュの未来は輝かしいものであってほしいと、ただそう自分が願いを込めた、それだけの贈り物だ。返礼などは最初から期待していない。
「君はそうかもしれませんけど、僕の気がすまないんです、それに……」
アッシュからシルヴァンに歩み寄られ、シルヴァンは唇を噛んだ。跳ねた鼓動が悟られないように、反射的な癖だ。アッシュのまなざしはちらちらとシルヴァンを伺いみるようで、何か不安でも抱えているのか、落ち着かない様子に思えた。それでも、彼は迷わずにシルヴァンに近づくと、たいそう丁寧に――まるで騎士が淑女の手を取るようにシルヴァンの手を取り、そっと何かを握らせてきた。
「見て、みて、ください……」
ふい、と視線を一瞬逸らされるが、その後アッシュはどこか挑むようにじっとシルヴァンを見つめてくる。宵の刻、灯は決して多くないこの暗い空間の中だというのに、彼の若草色の瞳はそこだけが輝きを放っているようだ
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いわれるがまま、シルヴァンが手をひらくと、そこには宝石が嵌められた首飾りがあった。白色と青の光が角度によって色を変える石だ――貴族であるからこそある程度知識のあるシルヴァンはその石を敢えて選んだアッシュの意図を測りかねた。これは、一般的にはシルヴァンの誕生石である宝石のひとつで、相手に安定や癒しを願う祈りの込められた月の名を冠する石だ。
「アッシュ、これは……」
「あ、その!石そのものはイグナーツと一緒に見てもらったので、真贋に間違いはないです。生憎と僕はそういうものに疎くて……、ただ、どうしても、どうしてもシルヴァンにはそれを渡したくて。その……君はこういうものは、たぶん、たくさん持っているんでしょうけど」
まさか、という思いからシルヴァンは再び言葉を失ってしまった。それこそ家に帰れば山ほど贈り物の中に似たようなものはあるだろう。けれども、アッシュが友人と懸命に選んでくれた簡素な銀の鎖と細工に嵌められた宝石は、今まで見た贈り物の中で一番うつくしく、そして輝いているように見える。まさに名として冠する月のように、控えめながらもうつくしいひかりを湛えているアッシュそのもののようだとすら、思った。
「お前が、俺のために、選んでくれたのか?わざわざ慣れないもの、こんな……」
鼓動はいよいよ早くなり、顔が熱くなってきた。それでも、さきほどまでとはうってかわって言葉が止まらない。状況を受け入れたいのに受け入れるがなにやら恐ろしいような、不思議な気分だった。ただ、目の前のアッシュはシルヴァンの言葉にこくりと頷いて、ちいさく返事をした。
「アッシュが……俺のために」
「な、何度も言わないでください!気休めかもしれないんですけど、その、君に、持っていて欲しくて」
シルヴァンはアッシュの言葉をすべて聞くまえに、片手でその手を握り、もう片方の手を背に回してアッシュをゆっくりと抱き寄せる。極度に緊張してしまっていたが、それでもシルヴァンの頭の回転は鈍ってはいない。
多分、これは、つまり――そういう期待から、自然とシルヴァンの身体は動いてしまっていた。
「アッシュ……ありがとな」
自分でも驚くほどに蕩けるような甘い声で囁くと、目の前の薄い唇に静かに己のものを重ねる。そして、唇を一瞬で離してから「好きだ」と小さく囁いた。
シルヴァンの言動にあっけにとられたのか、アッシュは一瞬呆けたように瞬きをするが、やがて遅れて状況を理解したらしく、大きくそして熱い吐息を零した。少しばかり目元が潤み、瞬きをした弾みに零れ落ちるものがあった。
目の前にあるこのうえなくいおとしい顔は、シルヴァンの言葉をどう受け止めたのか、それで充分理解できた。だから、シルヴァンはもう一度、今度ははっきりと告げる。
「ずっと、好きだったよ、アッシュ。ずっとな」
「はい、その、……僕も、……でも」
もう一度口づけを落とそうとするシルヴァンを拒絶するように、アッシュは首を横に振る。
「……なんでもないです。よかった、君が、喜んでくれて」
一瞬、どこか寂しく悲しげな表情を見せるも、やがてすぐそれは苦笑にかわり、アッシュの方から今度は唇を重ねられた。あたたかくて柔らかい、眩暈のするような感触だ。
「誕生日、おめでとうございます、シルヴァン」
「ああ、こんなに嬉しい誕生日は、人生で初めてだよ、ほんとうに」
控えめに背中にまわされた腕の温かさの中で、シルヴァンの胸は一杯になってしまい、直前のアッシュの変化には気づかないことにした。気づいてしまえば、多分この幸せな時間は終わりを告げてしまうだろう。だからシルヴァンは、今は、と初めて恋焦がれたひとを抱きしめて、胸の内に満たされる喜びに少しでも浸りたいと願った。
「それにしても、どうして首飾りなんだ?」
なんとなく理由はわかるのだが、シルヴァンは敢えてそれをアッシュ本人から聞きたかった。人間とは本当に欲深い、と思う。先ほどまではアッシュの挙動ひとつひとつにいちいちかき乱されていたというのに、気持ちを伝えたことで逆に肝が据わってしまったのか、アッシュの声を、言葉を、よりもっと聞きたいと思っていた。
「男性に宝石を送るなんて、あまり一般的ではないですし……でも、色々と考えたら、どうしても、この石を君に渡したかったんです」
「さっきもそれ、言ってたよな。何か理由があるんだな?」
「はい。本を読んだ時に知った知識なんですけど、この石には相手の安寧や癒しを願う祈りが込められているそうです。君はいつでも前線で戦うし、それに……苦しんでいたから、せめて、おまじない程度にでもって」
そんな想いを込めてまでいてくれたと知り、シルヴァンは思わずくしゃりと顔を歪めた。
喜びの感情で泣きそうになるなど、一体何年振りなのか――否、そもそもそんな経験が、あったかどうか記憶に定かですらない。たまらなくなり、目の前の身体を今度は腕の中に閉じ込める。ぬくもりが、愛おしくて、胸の奥が切なくて、本当に泣きそうだ。
「アッシュがそう思ってくれてるなら、まじないなんかじゃないさ。きっとな」
こみあげてくるものを抑えるように、ぐっと腕に力を込める。アッシュは抵抗することなく、静かにその中に納まってくれていることが、この上なく嬉しかった。
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「よっ、奇遇だなあ」
奇遇だ、などとまったく食えない相手だと思いながらアッシュはため息をつく。今日この日この時間――ガルグ=マク落成式の夜の女神の塔。その場所に呼び出すということがどういう意味かを、このゴーティエの御曹司は本当に理解しているのだろうか。階下から漏れる灯を見ながら、アッシュはもう一度、あからさまなため息をついた。
「奇遇も何も。なんですか、これ」
ひらりと目の前にかざして見せるのは、一枚の紙きれだ。流麗な文字で今まさにこの刻限に女神の塔最上階で待っている、という一文がしたためられた、正真正銘アッシュ宛の手紙である。ただし差出人の名前はない。とはいえ、こんな莫迦げたことをする人間を、アッシュは他に知らないし、自分で言ってしまうのも何だが青獅子の学級の中でさして目立つ方ではない自分にわざわざこんな面倒な、しかもとびきり高級な羊皮紙とインクをわざわざ使って悪戯を仕掛けるような人間は他に知らない。
「なんですかって、見ての通りだけど。お前宛の、招待状」
「招待状って……そもそも記名もしていないくせに、招待も何もないじゃないですか。第一、ここがどういう場所かわかっているんですよね」
疑問ではない、確認だ。この女神の塔の伝説の話をアッシュは言っている。その上でシルヴァンは心得ている、とばかりに満面の笑みを浮かべているのだ。これにはほとほと困り果てて、アッシュはため息どころか肩を落として、くるりと階段に身体を向ける。
「君の莫迦みたいな冗談に付き合うくらいならもう少し有意義に時間を使います」
そのまま階段を下ろうとしたその足は、シルヴァンの強引な手によって止められる。そして一瞬のうちに腕の中に収められ、熱い吐息と共にそっと告げられた。
「でもお前は来てくれた。だから、帰らせない。帰らせる気も、ないからな」
しまった、と思った時にはもう遅かった。これでも逃げ足は速い方だったのに、よりによってこの面倒なゴーティエの御曹司に、アッシュはついに捕らえられてしまったのだ。それは野兎が目の前に餌をちらつかせて哀れにも狩られる姿と一緒だ、と、アッシュはこの時に痛感した。
アッシュは、シルヴァンが好きだった。これでも人を見る目はそれなりに鍛えられているつもりだ。貧民街では様々な大人の姿を見てきていたし、その優しさも悪意も知っている。女神の教えがあったとしても、セイロス教の教義と違える思想であったとしても、アッシュ自身人間とは本来であれば悪に近いとすら思ってさえいる。だが、だからこそアッシュはひとがひとたりうるための善性を信じたいと思うのだ。そしてその希望は、未だに捨てていない。その希望は、このシルヴァンという年上の青年と出会い、確信に変わった。
彼は、弱い。弱い人間だ。けれども強くあろうとしている。軽薄な振る舞いの幾重にも重ねられた衣の下には聡い頭脳と繊細な心がひっそりと存在していて、いつだって彼は王国の騎士たらんと生きているのだ。その本質に気づいたときに、アッシュはシルヴァンという人間に強く惹かれていた。それは、自然なことだった。
だが、同時に彼は王国屈指の重鎮ゴーティエ辺境伯の嫡子であり、その相続者だ。自分のごとき貧民が近づけるような人間ではなく、何よりその血を残す義務がある。だから、自分は決してこの心の中を彼に悟らせてはいけない。気づかせてはいけない。見られては、いけないのだ。そのようにふるまうのは、容易だった。それは、嘘ではあるが嘘ではない、アッシュの本心による振る舞いだ。何よりも同性同士の婚姻などセイロス教はおろか王国では認められてはいない。あらゆる意味で、自分の存在は彼にとって枷にしかならないのだ。だから、彼の注意を、好意を、惹きつけるようなことがあってはならない。
なのに、シルヴァンはいつでも不思議とアッシュに構う。理由を問うても「まあ、いつものアレから逃げるための口実や貸しは作っておいて損はしないだろ」などと嘯かれ、結局は関わってしまう――否、関わること自体は同じ学級の学友としてはおかしなことではない。そこに余計な感情が付随しなければ、よいことなのだ。自分が呑み込んでさえいれば、間違いなど、起こるはずもなかった。
だというのに、今はその腕に閉じ込められ、逃げようもなく捕らえられている。暗闇の中、シルヴァンの瞳だけがじっとアッシュに注がれていて、それは真剣そのものだ。腕に込められた力は強く、言葉以上に雄弁に彼の心境を物語っている。こんなふうに封じ込められてしまったら、逃げようがない。否、逃げようと思えば、逃げられたのだ。招待状を無視することもできた。階段を降りようとしたときに引き留められた際、その腕を払う事もできた。いくらでも、逃げられたのだ。
それでも逃げなかったのは、アッシュ自身の中の感情がそうさせているからだ。
彼に欲してほしい、彼に触れたい、そう思う気持ちが微々たりとはいえ存在していれば、結局はそれを好機にとアッシュの足は女神の塔に向かい、そして結果がこの様だ。
「ばかみたいですね……ほんとうに……」
「ばかはお互い様だ。こんな時間にこの場所に、男二人で抱き合ってるんだからな、アッシュ」
耳障りのよいシルヴァンの声が、好きだった。少し低めのトーンが耳元でゆるりと囁かれて、そのままあたたかな感触が触れる。食まれた耳たぶからシルヴァンの唇はそのまま顎へと移り、頬へと移動して、最後はうっすらと開かれたままのアッシュのそれに淡く、重ねられた。
「きみは、狡いですよ」
逃げ道を塞いで。続けようとしたが、もう一度口づけで抑え込まれる。シルヴァンは好きだとも、愛しているとも告げない。ただ唇を重ね続けるだけだ。重なる淡い温度と、身体に回される腕、密着した身体、それだけで、シルヴァンがアッシュにどういった類の感情を抱いているのか、嫌でもわかる行為を繰り返される。そんな表現の仕方は、ただただ狡い、と思った。拒絶しようがないではないか。
だから、とアッシュは心を決めた。
彼に、告げよう。自分の、洗いざらいを。そうすれば、もしかすれば彼は心変わりをしてくれるのかもしれない。確信はなかったが、賭ける価値はあると思った――というより、それしかもうアッシュに残された手札はなかった。
「シルヴァン。少し、僕の話、聞いてくれますか」
シルヴァンがしつこいほどに重ねてきた唇を離した瞬間に、アッシュは再び近づくそれをてのひらでおさえ、言葉をようやく吐き出す。シルヴァンも流石にやりすぎたと思ったのだろう、素直に承諾してくれた。というよりも、アッシュから話を切り出すこと自体が稀なので、そういう理由もあったかもしれない。
「ほんとうは、離してほしいんですけど……」
「それはダメだ。お前は捕まえておかないとすぐ逃
げる気性の荒い野良猫だろう」
「……そういう言い方をする相手に、こんなことを君はするなんて、大概いい趣味ですね。ほんとうに、いい趣味をしてますよ……君は、信じられないくらい」
アッシュの声は自ずと自虐的になり、シルヴァンはそのあまりにも整った顔を顰める。それでもアッシュを抱きしめている腕の力は緩むことはなくて、仕方なくアッシュはそのままの態勢でシルヴァンの胸に額を押し付けると、言葉を吐き出した。
「君は僕がただの貧民の、盗みをしなければ生きられないような、可愛そうな子供時代を過ごしてきたとしか思ってないですよね
」
「そういう苦労をしてきたお前を嘲笑うような悪い趣味は、生憎持ち合わせてないぞ」
「話の腰を折らないでください。そういう子供が、親の庇護のない貧しい子供が、どうやって幼い兄弟を養う手段を得るか、考えたことは、ありますか?」
挑戦的な物言いはわざとだった。そう、そうして、呆れてしまえばいい。自分は卑しい人間なのだ。この身体はとっくに他人に暴かれ好き放題されている、穢れたものだ。そんな汚辱に塗れているような人間をきれいなものを、眩いものをみるような目で見てほしくはない。彼のアッシュを見る優しい目線は、辛かった。
シルヴァンは答えない。それは、そうだろう。金鹿の級長と対等に口が回るのは士官学校でも彼くらいだろうと言われるそのシルヴァンが、言葉をあえて紡がないのには理由がある。今は、何を言ってもアッシュに「負ける」からだ。ただ、シルヴァンはアッシュを離さなかった。その手も、腕も、緩めなかった。
「売ることを覚えたのは、十になる前でした。盗みがバレたことを許す対価に……もっと金を得られるのだという対価に、足を開きました。それは有効で、簡単で、効率的でしたから。腐りかけのパンや豆もろくにはいっていない味のないスープを食べなくてよい生活は、実際に経験したら忘れられません。だから、僕は繰り返しました。盗みも、身体を売ることも。女神の御心に背くとわかりながら、汚辱にまみれました。わかっているんですか?君が今腕を伸ばしている相手は、そういう人間なんですよ」
それは告白で、だから問いかけることはしなかった。選ばせる気はなかったのだ。これでおしまいだ、とアッシュは思った。おしまいにすればいいのだ。
けれども、シルヴァンの腕も、緩まなかった。そのことにアッシュは憤りを覚え、ぐっと身体中に力を込めて脱出を図る。けれども力で劣る相手の力任せの拘束から逃れられるはずもなく、努力は無駄に終わった。
腕は緩まず、どころかシルヴァンはアッシュの細い肩に顔を埋めて、小さくことばを囁いた。耳元で、そっと、アッシュだけに、聞き取れるように。
アッシュは今度こそ、大きなため息をついた。
そして、唇を強く、噛みしめる。もう、この腕からは逃れられないのだと悟ると、胸の奥からこみあげてくるものがあった。それが喜びなのか怒りなのか、安堵なのか哀しさなのかもわからずに、アッシュの目尻から零れ落ちるものがあった。
「僕の負けですよ、シルヴァン」
もう、取り繕う必要もないのだろう。そう、せいぜいこれは、彼にとってはこの士官学校生活の中での一幕の、その一部なのだ。彼は卒業すればゴーティエ領に帰り、やがてその嫡男として必要なことをすべてつつがなくこなすだろう。彼は、間違いなくそういう人間なのだ。
そう思えばこそ、今は敗北を認めてもいいだろう。アッシュがそう思い、頬を緩めたその時だった。
噛みつかれるように、口づけをされた――それも、項のあたりにだ。一瞬、つきりとした痛みが走る。思わず小さく声を上げると、シルヴァンの唇が血で濡れていた。そこでようやくアッシュは自分が彼に噛まれたのだ、と理解する。しかも、血が出るほどに強く、だ。
シルヴァンの目は真剣だ。この上なく真剣に、アッシュを見つめている。そしてその中に、感じてはいけないものを、見てはいけないものを見てしまった。
ぞくりと沸き起こるのは、恐怖なのだろうか、それとも愉悦の喜びか。ただただわからないままに、アッシュはその一回り大きな背中に、腕を回すしかなかった。
果たして、狼に口説き落とされた野良猫は寝台に優しく横たえられていた。その丁寧さときたら、結婚初夜の花嫁を相手にするかの如くに恭しくて、逆に気味が悪いほどだ。そのままの意を告げるとシルヴァンは愉しそうに笑った。
「そりゃあそうだろう、ようやく面倒ですばしっこい野良猫を捕まえられたんだからな」
相変わらず憎まれ口の応酬だが、その声は明らかに浮ついていた――可笑しな話もあるものだ。何人もの女性と浮名を流し、涙させているという放蕩男がどうしてここまで、まるで初めて恋というものを経験した少年のような純な笑みをみせるのか。或いは本当に、そうなのか。先ほどは思わず感極まってしまったが、あれは嘘でも方便でもなく、彼の真実なのだろうか。彼の言葉の裏表はどこまでも不透明で、よくわからない。だからアッシュは常に疑ってかかっているのだが、その中に真実がいくつも含まれている可能性も、否定はできないのだ。
遠慮なく触れてくるおおきなてのひらは相変わらず穏やかで、指先ひとつひとつでアッシュの頬を、そばかすの残る鼻筋を、顎を、くちびるをゆるゆると撫でてくる。そんな子供じみた仕草をしているシルヴァンの琥珀色の目はあまりにも甘く幸せそうで、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだ。
「その、それ、恥ずかしいんですけど」
「俺はいくらこうやっても物足りないんだけどな。いやまあ、これからもっと色々触るけど」
「いくら何でも不躾ですよ。そんな言い方、女性に嫌われて当然です」
「そうだなあ、よく言われるよ」
でもまあ、お前になら悪い気はしないな。まったく物怖じせずに、また唇を重ねられた。今度は唇から舌を割り入れられ、ねっとりと嘗め回すような、もっとしつこくて深いもの。アッシュとて経験がないわけではないから、応えるように舐る舌を捉えて吸い付けば、またしても琥珀色の瞳は弧を描いてより一層貪欲に求めてくる。いつの間にか後頭部に回された腕はアッシュを離すまいと必死なように思えるほど力強く、アッシュも気づけば一回り大きなその肩に腕を回していた。互いに荒い呼気とともに唾液の混じる淫らな音に酔うように、何度も、深い口づけを繰り返す。
やがてどちらからともなく唇を離すと、アッシュがシルヴァンの衣服に手をかけようとしたところで、制止された。まずは自分から、ということだろうか。特にどちらでもよかったアッシュは、好きなようにさせようとシルヴァンのてのひらが自分の纏う制服を脱がせてゆくさまをぼんやりと眺めていた。こういう行為ですらも様になるのだから、このシルヴァンという男は本当に食えないし、悔しいほどに男前だ。それが顔に出ていたのだろうか、シルヴァンが苦笑する。
「お前、今ものすごく変な顔してるぞ」
そうは言いながら、暴いたアッシュの肌のしろさと身体の頼りなさにシルヴァンは息を呑み、肩から腕を撫でられてなんとも奇妙な心地になる。
「どうかしたんですか?平坦な胸と骨っぽい身体にがっかりしました?仕方ないですよ、君が選んだのは、女性じゃないんですから」
「い、いや……」
そこまでの強気さはどこへ行ったのか、口元を抑えてふいとシルヴァンは目を逸らした。自ら抱こうとしてきたくせに、アッシュにしてみれば意味がわからない。わかっていたことではないのか、と憤りすら感じる。
「いやなら、やめますけど」
言って上体を起こそうとするアッシュに、慌ててシルヴァンは首を振りそれを押しとどめる。そして、再び先ほどの――女神の塔で見せた、真剣でその奥に深い感情が隠れた眼差しで、アッシュの肩口に吸い付いてきた。噛みつかれた痛みほどではないものの、チリ、と少しだけ痛みが走る。シルヴァンはなんども、首筋に、鎖骨に、口づけを落とす――それはまるでこれは自分のものなのだという印をつけている行為に思えた。幼いころにこういった行為をされたこともある。それを思い出してアッシュは一瞬息を呑むが、相手は誰とも知らない男ではない。シルヴァンだ――気が付けば同性だとか、ゴーティエ御曹司だとか、そういうことを抜きにして惚れてしまっていた、シルヴァンなのだ。それだけでも、胸の奥に何やら灯るものがあった。相変わらず呼気は乱れて、しっとりと汗に濡れた薄い胸が上下する。
「お前、ほんとうにむちゃくちゃやらしいな……全部、食っちまっていいか」
ぞくりとするような低い声で囁かれる。そこに居るのは調子のいい兄貴分のシルヴァンでも、面倒見がよく頭の回転が速いシルヴァンでも、アッシュが騎士の理想像として憧れているシルヴァンでもない。ただひとりの、男としての、シルヴァンだ。アッシュはその視線に縫い付けられてしまったかのように動けなくて、ただこくりと頷くことしかできなかった。
自ら衣服を乱暴に脱ぎ捨てたシルヴァンも、どうやら余裕はなかったらしい。それを機に早急にアッシュに触れ、鎖骨から胸元を、それこそ余すことなく舐りだした。そうされると、既に性感帯になってしまっている薄い乳首は直接的な刺激を受けてもいないというのに紅く染まりぷくりと立ち上がる。シルヴァンはそこに目をつけるや思いきり吸い付いてきた。
「ひ、ああ……!やめ……!」
「ろくに触ってもいないのに、男でもこんなふうになるんだな?」
乳首から口を離して意地悪く笑いながら、シルヴァンは指先で捏ねるように乳頭に触れる。その触れ方はやはり慣れたもので、乳房もないのに薄い胸をてのひらで何度もしつこくすくうように触れたり、ひくりと物欲しげに立ち上がっている乳輪や乳首をかすめる程度に触れたり、舌先で舐ってみたりと気まぐれのように責めてくるものだから、アッシュはもうそれだけでも下腹部が熱くなり、後孔が疼いてきた。腰がゆらゆらと誘うように動き、シルヴァンの逞しい太ももに触れる。すれば彼の下腹部もまた熱く、固くなっており、確かに彼が自分に欲を抱いているというのがわかって、不思議とこみ上げるものがあった。目元が潤み、ぽろりと涙が零れる。それを見たシルヴァンが驚いたように胸元から顔をあげ、アッシュの頬を両手で包み込んで心配そうにのぞき込んできた。
「……嫌だったのか?だったら……」
「ちがっ……そうじゃないんです、僕にも、よくわからないんです、ただ、……たぶん、うれ、しくて」
アッシュの言葉に、シルヴァンがぽかんと口をあける。今までの獰猛な牡の気配は一瞬にして霧散してしまい、「いつもの」シルヴァンが顔を出した。
「……優しくされるのは、慣れてないんです」
恥じ入るようにアッシュが告げれば、シルヴァンは再び琥珀色の瞳を緩め、乱れたアッシュの癖毛を混ぜるようにと撫でると、いよいよ下肢へと手を伸ばした。
「優しくするさ。なにせこちとら随分我慢してたんだからな」
「ずいぶん、て……君、一体、いつから……ァあ!」
既に反応していた性器に衣服の上からではあるが触れられて、アッシュは思わず甘い声を上げてしまう。シルヴァンは満足げに笑みを作ると、そのままアッシュの下肢を露わにしながら、自分自身も全ての衣類を脱ぎ捨て、その逞しい裸体を晒した。
既にお互いに反応しているものを見比べても、既に大人の男性といえるシルヴァンのものはアッシュのそれよりも遥かに大きくて、見慣れていなければどくどくと脈打つさまや赤黒さに躊躇する乙女は大勢いるかもしれない。だが、アッシュは初心な処女ではない。これ以上の凶器を幼い孔に無理矢理ねじり込まれた経験もあるし、口に強引に含まされて精を飲み込まされたこともある。それに比べれば、好意を持つ相手の性器などはかわいらしいものだ。そう思うと、自ずとアッシュはシルヴァンのものに手を伸ばし、口に含んでいた。
「お、おいアッシュ……!」
まさか、突然そんなことをされるとは思っていなかったのだろう。流石に驚いたシルヴァンはアッシュの頭を押しかえそうとするのだが、アッシュは頑なに竿の部分を握りしめ離さなかった。男の弱点でもあるそこを握られてしまえば、シルヴァンとて強くは出られない。これは、ちょっとした意趣返しだ。おかしな手段で自分を誘って、逃げられないようにして、捕らえた悪い狼への、野良猫の反撃だ。男を悦ばせる手段くらいは身に染みて知っている。どこが弱いかも、よくわかる。まるで上等の娼婦のような口淫と器用かつ強弱をつけた指先の動きに、流石のシルヴァンも音を上げはじめていた。やがてアッシュがつま先で裏筋をなぞりながら口で思いきり吸うと、口腔内に粘っこく青臭い精液が吐き出される。アッシュはそのままそれを、すべて飲み込んだ――幼いころの無理矢理の行為にくらべたら、なんてことはない。どころか、どこか心の内が満たされる気すらしていた。
「お前、本当に、何やらかすかわからない野良猫だな……」
呆れるように呟くシルヴァンに、アッシュは満面の笑みで応える。意趣返しが成功したことと、単純に好まく思う相手に触れ、こうして情を交わすことができているからだ。
「でも本番は、これからですよ?」
まだまだ余裕があるのだ、といわんばかりの顔をしてみせれば、その言葉に火がついたのか、シルヴァンがアッシュを抱き寄せ、自らの膝の上にのせる。そして臀部に手を伸ばし、すでにひくついている後孔へと指先で触れた。
「ちょ、………いき、な……や!」
「お前も相当だな……俺の咥えてただけで反応するなんて、無茶苦茶やらしい」
煽るような言い方だが、その表情は蕩けきっていて甘い。そのままシルヴァンは自ら唾液を指にまとわりつかせ、アッシュの後孔をほぐしてゆく。既に後ろでも感じることを覚え込まされているアッシュの身体は反応してしまっていたから、その緩い刺激では物足りず、自ずと腰を、シルヴァンの武人らしい指が好いところを掠めるように、せがむように動かしていた。
「あ、ひゃっぁ、あ、ン!!」
くい、と指を曲げられた瞬間にソコに当たり、アッシュは今までない甘い声を上げてしまう。シルヴァンは心得たとばかりに指を二本、三本と増やしてゆき、重点的にそこを攻めてくるものだから、アッシュはひたすらシルヴァンにしがみつく様に身体を密着させ、切ない声を上げ続けた。
指だけでは物足りない。もっと、熱いものが欲しい。目の前にある、その熱くて太くて狂暴な熱で思いきり、犯してほしい。
「も、もう……シルヴァンのが……ほしい、です……」
向かい合っているのをよいことに、アッシュは腰をあげると、後孔をシルヴァンのモノへと押し付けるように動かした。その熱だけで軽く意識が飛んでしまいそうだ。ああ、はやく、はやく挿れてほしい。
「ほんと、やらしくて、かわいい」
馬鹿みたいに優しく穏やかな声で耳元でささやかれると、やがてアッシュが待ち望んでいた刺激が来た。
「あ、あーーーッ、はいって……きて……ッ!!」
久しぶりの感覚に、意識が持っていかれそうになる。昔は苦しいだけで何も感じなかったそれが、持て余すほどの快楽と幸福感を齎して、頭の中が、意識が蕩けそうになってしまう。しろい喉を無防備にのけぞらせ、より一層深く感じたいのだと、シルヴァンのモノを全て胎内に収める前に、アッシュは腰を上下に動かしてしまっていた。
「ちょ、っと待てって!アッシュ、待て!おま……っ、ほんとに気性の荒い野良猫だな!」
呆れたようなシルヴァンの怒声も甘く、大きな手で細腰を掴まれたかと思うと、ぐい、と思いきり身体を押し付けられた。
「アァアア、あああ!深……っ、熱、くて、きもち……い……!」
「まて、待てって、……くそっ、キツいな……!!」
お互いに、これでもかといわんばかりに肉と肉をぶつけ合い、胎内にシルヴァンのモノをより深く感じようと動くアッシュの貪欲さに、シルヴァンのほうが悲鳴とも怒声ともつかぬような声をあげる始末だ。
それでも、その整った顔が汗と欲に塗れて自分だけを見ているという状況が、この上なくアッシュを満たしていた。何よりも自分の胎内に彼のモノを受け入れているという事実が、嬉しかった。うれしかったのだ。
やがて吐き出されたシルヴァンの欲を、一滴残らず零さぬように、搾り取るようにアッシュの胎内は蠢き、そして果てた。
「ああ、やっちまったなあ」
疲れはてたのか、シルヴァンの腕の中で安らかに寝息を立てて眠るアッシュの寝顔を穏やかな表情で眺めながらも、裏腹な発言をしながらシルヴァンはため息をつく。
本当ならば手を出すつもりなどはなかった。
ただ、確証だけが欲しかったのだ。アッシュはただ人が良く、素直で正直なだけの少年ではないことはすぐわかった。どころか、それこそ気性の荒い野良猫と例えるのが一番しっくりくるような、跳ねっ返りだ。それでも性根が真っすぐで頑固で一途なところはあるし、正しさを正しさだと追い求める強さがある。その強さを妬ましいと思うよりか、ただただ眩しいと思ったのが事の始まりだった。貧民の出だというのに変に卑屈なところもなく、青獅子の学級の中でも勤勉であるし、苦手なものは苦手と認め努力をする。愛らしいのは本当に姿かたちだけで、頑固を絵にかいたような少年だったが、それでもやはり彼を好ましいと思う心に変わりはなかったのだ。それがいつか別の感情に変化して、欲しいと思ったのはいつだったかもはっきりしない。ただ、それでも、誓って手は出すまいと思っては、いたのだが。
だから、あの招待状は賭けだった。もし彼が来たら、その時はこの想いを告げて彼を手にいれる。そうでなければ潔く諦める。
果たして、シルヴァンは自らの賭けに勝ったのだ。そして、野良猫は狼に捕らえられ、こうして腕の中で安堵の吐息を漏らしながら眠っている。
自分よりもひとまわりもちいさな身体を抱き体温を感じながら、灰とも銀ともつかない長いまつ毛が時折動くさまを眺めながら過ごすこの時間は至福としかいいようがなかった。
「離さないからな、アッシュ。もう、一生お前のことは……離せそうにない」
すっかり寝入っている耳元で囁き、やわらかな頬に口づけをすると、アッシュは一瞬だけむずがるように動くが、目を覚ます気配はなかった。シルヴァンは満足そうに笑みを浮かべ、くしゃくしゃになった癖毛を混ぜっ返して自らも目を閉じた。
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静かな浜辺に、波の音だけが聞こえてくる。そこは、ほんとうに静かだった。普段の喧騒から離れてみると、初めて来たこの海という場所はなんだか不思議な場所のようにも思える。それは、もしかすれば夕暮れ時の、この少しだけさみしさが漂う時間帯だからかもしれない。
昼間はあれだけはしゃいで、塩辛い水と身体がぷかぷかと浮くことに驚いて、たくさん笑って、とても楽しかったのに。楽しい時間というものは、あっという間にすぎてしまうのだ。
そもそもアッシュは海というものを本の中だけでしか知らなかったから、初めてこの広大な水たまりを見て驚いたものだ。すると、隣にいるシルヴァンは笑った。いやいやお前、海なんてそう珍しいものじゃないんだぜ、ああでもお前はガスパール出身だから、殆ど見たことがないのか。からかうような言葉は、けれどもその視線の柔らかさで決してからかっているわけではないとアッシュにもわかっていた。何より、この海に連れてきてくれたのは彼なのだ。
休息日だし、どこか出かけるか。そんな約束をいつだったかも覚えていないのだがしていたのだが、それをきちんと覚えていたシルヴァンが海を見て見ないか、と誘ってくれたのが半節ほどまえのこと。義父を討たねばならなかったアッシュの内心を慮ってなのか、シルヴァンはあえて軽く声をかけてきた。アッシュ自身も、自分が前を向くために気分を変えねばならないとシルヴァンの誘いにありがたく乗ることにして、それからは出来るだけ約束のことだけを考えるようにしていた。何よりも、生まれて初めての海だ。なんでも、海で遊ぶにはそれなりの装いが必要だからと、シルヴァンに街につれて行かれ準備まで整えてくれて、そこまでされるのは申し訳ないとアッシュがせめて代金だけでも払おうとすれば、また何かあった時に部屋に匿ってくれればいい、とだけ言いシルヴァンは笑った。その笑顔はいつも見るような、女性を口説く時の作り笑顔ではなく、心の底から笑っているように見えて、アッシュは少しだけ鼓動が早くなった。その感情がどういう意味なのかまでは、アッシュ自身よくわかってはいなかった。
「アッシュ」
木陰でぼんやりと波打ち際を眺めていたアッシュの傍らに座っていたシルヴァンが、耳に心地よいほどに穏やかな声をかけてくる。その声を聞いて、一度は顔をあげるのだが、まっすぐこちらを見ている目とぶつかると、戸惑いと、よくわからないが恥ずかしさでいっぱいになってしまい、ふい、と顔をそむけてしまった。するとシルヴァンは少しだけ笑い、アッシュの頭を被ったままのフードごと撫でるように軽く手をおいてから、わざとらしく顔を覗き込んでくる。きゅっと噛んだままの唇と俯いたままのアッシュの頑なさにシルヴァンは苦笑するのだが、かといって覗き込んでくるのをやめるわけではない。
「なんだよ。楽しくなかったのか?」
「そ、そうじゃないんです!とっても、とても、楽しかったんです……だから」
アッシュは反射的に顔をあげて必死に弁明するように応えると、シルヴァンは弾かれたように笑う。それがあまりにも愉しそうで、けれどどこか甘く優しくて、アッシュは頬に血が上る気配を感じた。とても、熱い。なんだか、恥ずかしくて仕方がない。これ以上言葉を告げるのも、本心を言うのも、ためらわれて、けれども中途半端に切った言葉を紡がないのもおかしなはなしだ。アッシュは深呼吸をすると、もう一度波打ち際を眺めてから、シルヴァンに向き直る。
「君とふたりで、今日一日こうして海で過ごして、すごく楽しくて……帰るのが、勿体ないな、って、思っちゃったんです。ば、莫迦みたいですよね、子供じゃああるまいし……」
ふるふると首を振りながら告げれば、シルヴァンはふ、と小さく笑ってアッシュの頬に触れてくる。
「俺も楽しかったよ。お前と一緒でさ。だから、俺も、実は帰りたくない」
その声はとても甘やかで、耳に心地よく、頷いてしまいそうになる。フード越しに触れている体温はほんのりとあたたかくて、冷えた身体には優しい感触だった。何よりもシルヴァンの表情は、今まで見た中で一番優しくて柔らかい。その誘惑をアッシュはどうしても、断れなかった。
アッシュがこくり、と頷くと、シルヴァンはそれは嬉しそうに目を細めて、そっとアッシュの頬に触れた。触れた温度は少し冷えているようで、アッシュは無意識に己の手を重ねていた。じっとその瞳を見ていると、なんだか吸い込まれてしまいそうな気がする。耳に届くのは、静かな波打ち際の水とさらさらと軽い葉擦れの音だけで、まるでこの世界にはシルヴァンと自分だけしかいないような気になってしまう。
恥ずかしい、という感情よりも、なぜだろうか、もっと、もう少しだけ、彼に触れていたい、このままでいてほしい、とアッシュは思っていた。