みち ゆくさき

 暗がりの中で何も頼れるものがない。だから、感覚を限界まで研ぎ澄ます――そして鋭利になったそれは皮膚を通して温度や空気の流れを伝えてくれる。何かがそこにあればそれは違和感となり澱みとなる。
 そうやって極限まで集中してゆくと、やがて視界は無になる、いや、無にするのだ、とカトリーヌは言っていた。他のものは何も意識するな。他のもの、とは、自分以外のものすべてだ。自分だけがそこにある。そうして意識を研ぎ澄ました先に見えたのなら、そこに剣を向けるのだと。言葉にすれば簡単かもしれないが、感覚として理解するまでに何度身体を打たれ叱咤されたか知れない。
 自分とは明らかに戦い方のタイプの違うアッシュに、それでも根気強く剣を教えてくれた義兄の仇であり教師でもあった彼女に対するアッシュの中の感情は、非常に複雑だ。それでも感謝はしていた。それは間違いない。彼女の鍛え方はベレスのそれよりも容赦なく、だからこそアッシュは必死についていこうと努力した。必死だった。

 彼女がにやりと笑って、初めて剣を持ったアッシュに剣の握り方から教えてくれたときのことを、ふいに思い出した。

「ふうん、いい剣じゃないか。それならいいかい、アンタにひとつ剣の極意をおしえてやるよ」

 その日は、何故だか級友のシルヴァンが贈り物だといってよこした細身の剣を見たカトリーヌがそう言うなり、アッシュの背後に回りこむとアッシュのてのひらごと剣の柄を握り、動かし方まで教えてくれたのだ。

「アンタにはアタシやフェリクスみたいな戦い方はできない。だから、迷わず、ココを狙うんだ」

 ぐっと重ねた手ごと力を籠められ、筋肉の動きを無視した強烈な速さで自分の腕が剣を動かして藁人形の一部を見事に貫いたことしか、その時のアッシュは認識できなかった。貫かれた箇所は、人間でいえば心臓の部分だ――心臓を、ひとつき。迷うな。そういうことなのか、と言葉にならない感情を視線に乗せてカトリーヌに問うように見上げると、彼女は満面の笑みで頷く。

「鎧には隙間がある。そんな強靭な鎧だって、所詮着ているのは人間なんだ、だからそういう時は隙間を狙う。どこでもいいんだ、そこにあるのは、脆弱な肉だけだ。肉だけなら、アンタのこの針みたいな剣で刺すことだってできるからね」

 彼女は肉だ、といった。

「肉の中身ぶっさしちまえば、まあだいたいどこでも致命傷になる。一番いいのは、ココ、この、心の臓。けどまあそこを狙えない時もあるだろう、だから、とにかく、迷わず、まっすぐ、だ」

 迷わず。まっすぐ。肉を、刺す。

 そう、殺すとは、ただそれだけのことなのだ。

 相手は人間ではない。敵、ですらない。肉だ。そう思え――そんな言葉を、そういえばベレスからも聞いた気がする。ロナート卿の件で落ち込んでいた時だったろうか、励ますというにしてもあまりな上的外れな言葉に逆にあっけにとられて気が抜けてしまったことを、よく覚えていた。けれどもそれがあったからこそ、彼女に金鹿の学級にこないかと誘われ、迷わずに従ったのだが。
 元は弓手兵として訓練を受けていたものを、剣を扱わないかといってきたのもベレスだった。アッシュの小柄さと器用さを見込んだのと、弓手兵は接近されてしまえば反撃の手段に困窮する、といわれてしまえば断りようもなかった。元は槍の技術を磨きたかったのだが、ほぼ同じ時期に金鹿の学級にスカウトされたシルヴァンやイングリットに比べてしまえば自分が劣るのは目に見えていたし、何よりあのベレスが自分にと、わざわざ時間を割き指導をしてくれていたのもあった。そしてベレスの見込み通り、剣を振るうことを覚えたアッシュの戦場での動きは見違えるようになったのだ。



***


 きっかけは、よく覚えてはいない。ただ、なんとなく気になったのだといったらイングリットには呆れられ、フェリクスに至っては何故か妙に納得されたのもなにやら癪だった。さらにはどうして納得したのかと問うても幼馴染みはお前が一番わかっているだろうとしか、答えない。それ以上問うのも面倒だったのでその件に関しては追求することはなかったが、考えてみればイングリットにせよフェリクスにせよ、シルヴァンという男と付き合いは長いから、分かっていたのだろう。



 シルヴァンが無意識に、年下の同級生に求めていたものを、だ。

 けれど、それを認めるのはやはりどこか敗北感を覚えてしまうから、あえて自分の中で明確化することをシルヴァンは避けていた。そんな矢先である。

「アッシュが、金鹿の学級に移籍するそうだ」

 級長ディミトリから端的に告げられた言葉は妙に現実感がなかった。あいつが、別の学級に。ただ級友が別の学級に行くのだというだけの話なのに、その時のシルヴァンは余程ひどい顔をしていたらしい。「あの時のシルヴァンは、この世のお終いみたいな顔をしていたわね〜」とはメルセデスの言葉だったが、ディミトリにまで苦笑しながらも同意されてしまえばどうやら相当動揺していたらしいとわかる。

 何故かなどは、追求したくもなかった。

 だから、シルヴァンは明くる日に金鹿の担任であるベレスに自ら軽く告げたのだ。先生の学級に興味があるのだと。 


「何をこそこそしているかと思えば……女への贈り物にしては、物騒だな。あのカトリーヌとかいう講師でも口説くのか」
 ふとかけられた声に驚くも、すぐさま聴き慣れたそれだとどこか安堵してシルヴァンは表情を緩めた。

「ああ、まあ、当たらずとも遠からず、てやつか。まあ、こりゃ俺やお前向きの作りじゃあないしな」
「アッシュにでも贈るの?でも彼、受け取るかしら。高価な贈り物は逆効果じゃない?」
「げ、イングリットまでいたのかよ。って言うかなんだお前ら、二人揃って俺を監視でもしていたのか」
「それこそ当たらずとも遠からず、だな。だいたいお前の素行は悪すぎる」
「冗談にならないから、シルヴァンなのよね」

 酷い言い草ではあるが、己の言動を顧みれば決して言い返す言葉はない。へいへい、と適当に返事をしながらシルヴァンは鉄を打つ鍛冶屋の火元を眺めた。火が鍛えた鉄は職人の手で見事にその姿を変えようとする瞬間は、何度見ても美しい。刀身は細めに、軽く、子供でも扱えるように。そう告げれば鍛冶屋は心得たと張り切って鉄鉱石を受け取ったのだ。遠征時に手に入れたそれを、ベレスに無理を言って貰っておいたものだ。君が自分用の武器を?と怪訝そうに問われるも、適当に誤魔化せば彼女はそれ以上を問うてはこなかった。

「なるほどな、この細身の剣ならば小柄で力不足なアッシュでも使いようによっては敵を圧倒できる」
「私は剣のことはあまりわからないけれども、これならば天馬に乗っていても使えそうで重宝しそうね。私も作ってもらおうかしら」
「いやいやいや、何、お前らなんか勝手にきめつけてるけど、別に」

 そこまでを言うと、イングリットとフェリクスは顔を見合わせて、ため息をつく。

「自覚がないというのは、それはそれで酷いな」
「そうね。ねえシルヴァン、本当に自覚がないわけじゃないんでしょう?」

 これ以上敢えて言わないのは、おそらくは彼らの優しさだ。シルヴァンは内面を暴かれることをひどく嫌っていて、それは幼馴染みたち相手にしても同様だということを、この二人やディミトリはよくわかっているのだ。だから、彼らは敢えてシルヴァンの内側には踏み込んでこないし、それでいいと互いに思っていた。それでも彼らとは意思疎通ができるだけの時を共に過ごしてきていた。
 けれど、アッシュは違っていた。初めはやたらと頼りなくて危なっかしい子供だと思って保護者気分で眺めていたが、少年は強かった。彼は絶望してもその目の光を失わず、ディミトリはその強さを心の底から褒め称え、自分にはないものと羨んですらいた。シルヴァンもその件に関しては同様だったが、ディミトリ程素直に評価するよりはどこかざらついた感覚を覚えていたし、もっと言えば誰にも言えないような情けない感覚まで覚えたのだ。



――兄貴。


 誰にも言えない、そう、心の内の、さらに奥、底の底に閉じ込めた情けなくて惨めで酷く生々しい感情を、アッシュを見ていると呼び起こされるのだと。そして、そのたびにいいようのない苛立ちと悲しみと苦しみと、ほんの少しだけ居場所を得たような奇妙な感覚を覚えているのだと。

 言えるわけもなかった。アッシュ本人にもだが、幼馴染みたちにも、決して話すことはないだろう。

「いやまあ、お前らの言う通りこれはアッシュにやろうかと思って鋳造してもらってるけどな。あいつ、最近先生やカトリーヌさんに師事しているだろう、けどまあ見てられないっていうか」
「そうね、そういうことにしておくわ」
「お前でも一応友人を気遣う心遣いができるんだな」
「何なに、お前らの中での俺の評価ひどくない?あのなあこれでも俺、それなりに人格者だって」
「誰も言ってないわよそんな話。でもさっきも言ったけど、アッシュはこんなに高価な贈り物はかえっていらないとか言いそうだけど。イグナーツやレオニーみたいに彼と仲良しとかいうならともかく」
「いいえこれでも俺、部屋に匿ってもらう仲なので」
「なんだそれは」
「なによそれ」
「なんかすいません……」

 三人が他愛のないやりとりをしているうちに、鍛冶屋は剣を完成させていた。見事な刀身はただの鉄鉱石だけではなく希少なダークメタルまで混ぜ込んだ鋼は見事な鈍色をたたえ、その殺傷力を裏付けるかのように切先は鋭い。真直ぐに伸びる鉄の先端に午後のやわい日射しが反射してきらりと光る。この光のように、きっとアッシュはまっすぐにのびやかにこの剣を振るうだろう。弓手兵としての訓練の傍ら、身体中打身だらけになりながらも剣術を学ぶその姿に単純に感激したのだといったところで、あの生真面目な少年は、イングリットの言う通りきっと首を縦に振るまい。ならば適当に理由をつけておしつけるだけだ。少なくともその為の口と頭の回転の速さだけは自信があるのだ。  シルヴァンのそんな目論見を知ってか知らずか、幼馴染み二人は呆れたような視線をよこすものの、刺さる視線など気にするそぶりもなく、シルヴァンは上機嫌だった。



***



 遅い時間に訓練場で訓練をするのは、かつての級友たちに顔を合わせづらいからではない。ただ、独りで訓練をしたかったのだ。カトリーヌに視界が悪い状態でも戦えるようにと強く言われていたこともあり、篝火はほとんど消している。真っ暗では流石に怪我をするだろうし、修道院の人間にも怪訝に思われるから一つはつけたままにしてはいるが、それだけだ。

「おーおー、真っ暗中で訓練しているって噂はきいてたけど、マジでなんも見えねえなあ。こんなでも動けるのか?」  緊迫した空気の中で剣を振っていれば、そぐわないような気の抜けた声がする。シルヴァンだ――アッシュが金鹿の学級に移動した直後くらいに、ベレスの元で学びたいだとかある意味彼らしい理由で学級を移ってきたのは知っていた。その後イングリットやフェリクスも同様にベレスに誘われたということまでは聞いていたけれども、それにしても何故彼がこんな場所を訪れるのか。らしくない行動を不審に思ったのが顔にでていたのだろうか、シルヴァンは苦笑しながら動きを止めたアッシュに近づいてくる。ああ言った割に迷うことなくアッシュに近づいてくるのだから、やはり彼も相当なものだと思う。
「どうしたんですか、シルヴァンがこんな場所に、こんな時間に」 「それはこっちの台詞だっての。なんだってこんな時間に、暗い中一人で訓練なんかしてるんだよ。お前が真面目なのは知ってるけど、少し根詰めすぎじゃないのか」
「君には関係ありません」

 そこで会話はお終いだ、とばかりにアッシュはシルヴァンに背を向けようとしたが、それは当のシルヴァンの手により遮られた。

「ちょい待って!ほら」

 言ってシルヴァンが手渡してきたのは、アッシュが普段使っているものよりも幾分か刀身は長いものの、細身で鋭く軽い剣だった。

「……これは?どうしたんですか?シルヴァンには軽すぎるから譲ってくれるとか、ですか?」 「あのなあ、どうしてそうなるんだよ。これはお前に、だよ。誕生日だろ」
「ああ、……はあ、ええと……」  それは事実だった。昼間は級長のクロードを始めとした金鹿の学級の生徒たちに盛大に祝われて(ヒルダあたりは完全に面白半分だったが)ベレスですらもうこれは授業にならないと課外授業だと言い出してやりたい放題やった一日で、それはそれでとても楽しかった。だが祝いの品なら皆から既に貰っている。

 その上、急ごしらえでできるようなものではないというのは、手にしただけでわかる。これは逸物だ。

「ありがたいんですけど、僕はこんなものを君から貰う理由が、ありません」
「いやいやお前、他の連中からの贈り物は素直に貰って喜んでたじゃないか」
「何、子供みたいなこと言ってるんですか」

 ほんとうに、子供みたいなことを言い出す人だな、とアッシュがわざとらしく息をつくと、シルヴァンは肩を竦めてほとほと困った、とばかりに頭部を掻き毟って見せる。その表情がどこか苦しそうなのは、気のせいだろうか。

「だからなんで……ああもう、ったく。あのな。お前が最近剣の訓練してるだろ、けどお前のそのちっさい体躯じゃ剣に振り回されてるようだってフェリクスのやつがいうから」

 ほんの少しだけ同情を誘うような表情を気に留めた自分がバカだった、とアッシュはもう一度ため息をつく。まったく、わざわざこんな時間にこんな場所まできて、この人は自分をからかいたいだけなのだろうか。余暇を使うにしても、もう少し有意義に、それこそ好きな女の子とでも過ごせば良いものを。

「悪態つきたいだけなら、他をあたってもらえませんか。それこそ剣に振り回されてるように見えないようになるため、僕も必死なので」
「アッシュ、おい、アッシュ、アッシュ、頼むから話を聞いてくれ」
「聞いてます」
「聞いてねえだろ!ほら、とりあえず貰っとけ。お前でもこれなら使えるだろ」
 そういって強引にシルヴァンが渡してきた剣は細身の剣の一種だろうが、こういう作りのものは市場でも見たことはない。渋々、という風にではあるものの受け取ってみれば手に異様に馴染み、アッシュはそのまま剣を軽く振り回してみる。ひゅ、ひゅ、と空気を切る音が軽快で、手首や腕が感じる重さも殆どない。一歩足を踏み出し、もう一度軽く振り回し、返す手でもう一度、振り回す。

「へえ、なかなか、どうして様になってるな」
「茶化さないでください」

 言いながらも、確かにこれならば、とアッシュは思った。ベレスやカトリーヌが訓練の時に持たせてくれる鉄の剣は聊か重くて扱いづらいのは、自分の体格や力がないせいもあるだろうと半ばあきらめていたからだ。

「ま、それなら先生たちともいつか渡り合えるようになるかも、な?」
「……君は僕をバカにするためにこれを渡しにきたんですか?」
「いやいや、まるきりこれっぽっちも!っていうかアッシュお前ほんっと俺に対して冷たいよなあ。善意は素直に受け取っておけ、な?」
「……はい、まあ……その。ありがとう、ございます……。この剣は、きっと、僕でも使えると思います。何も、お礼はできないですけど……」
「ハハ、ほんと、お前は真面目だなあ。そしたらまた部屋にかくまってくれよ。それでいいからさ」

 どこか囁くように優しく告げると、シルヴァンは手を振ってそそくさと訓練場を後にした。  それは対価としてあまりに安すぎやしないか、と剣の意匠や作り込みからアッシュも思ったのだが、本人がそれでよいと言っているのだし、これ以上どうこういうのは贈り物をわざわざ準備してくれた彼にも失礼にあたるだろう。シルヴァンの姿がなくなってから、アッシュはもう一度細身の剣を掲げて眺めてみる。きらりと鋭く光る切っ先は、まるで針のようにも思える。まっすぐな剣身を確かめるようにひゅっと前方に振るうと、空を切り裂く澄んだ音がした。空気を切る、という感覚が手に伝わる。特別な武器、というのは、振るった感覚も違うのだな、と思うとアッシュは知らず知らずのうちに頬を緩めていた。
 そうしてそれから小一時間ほどだろうか、アッシュはろくろく足場も見えないような訓練場で手渡された剣を無中で振り、動かしたのだった。



***



 アッシュの未だ幼さが残る顔とそばかすは、自分を弱者に見せるためにはとても役に立つと覚えたのは、ガルグ=マクを離れて三日ほど経ったときだった。
 殺気を感じて、次の瞬間に風が動く。動いた、と感じた箇所にアッシュは迷わずそこに剣を差し入れた。鈍い手ごたえを刃越しに感じ、温いものが身体にふりかかる。剣を抜きざまに逆手に持ち直して勢いを殺さずに背後にそのまま刺す。やや遅れて右斜めにも感じるものには腰に携えていた短剣を突き刺した。
 続けざまに生暖かいものを顔に浴び、両の重さが刃に乗る前にアッシュは立ち上がり短剣と細身の剣をそこから抜き取った。
 カトリーヌがこの場にいたのなら、及第点といわれただろうか。それともギリギリ落第か。ベレスならば笑ってよかったところと悪かったところを指摘してくれたろう。
 自分でも聊か無駄な動きが多かった、と思う。多勢に無勢と思えるほどの人数ではなく、三人まとめて始末したことで戦意を失ったのだろうか、相手にしやすいと踏んだ野盗が襲い掛かってきたのだが、結果はこの通りだ。アッシュは無様に逃げてゆく残りの野盗を顧みる事もなく、剣についた血のりを布できれいに拭ってゆく。こうしてゆくと真っすぐで繊細な刀身は輝きを取り戻すのだ。そうしてかざした刀身はまっすぐで、きれいだ。そう、まるでこの剣を贈ってくれた送り主のように気高くて、うつくしい。
 襲ってきた野盗たちの持ち物を検分するが、ろくなものをもっていなかった。せいぜい、寒さを防げる外套が使えるくらいだろうか。だが、それも修道院から持ってきたものに比べればみすぼらしい――が、逆に上等なものを身に着けていれば襲われやすいだろう。アッシュは動くことのなくなった野盗から外套を剥ぎ取り、ついで雀の涙ほどの路銀を奪い、街道を進んだ。まずはガスパール領に向かおう、と思った。



***



 一緒に来ないか、というクロードの誘いを断ったのは、ロナートのこともあったが、自分一人でどこまでやれるのか、それを見極めるためでもあった。彼らと共にいれば明らかに安全であったろうし、賢いクロードのことだからアッシュが望む立ち位置を確保もしてくれたろう。それでも、そういうことを彼に頼むのはいささか悪い気がして(クロードは遠慮することはない、折角金鹿の学級の仲間になったのだからとまで言ってくれたのだが)ひとり、ガルグ=マクをあとにしたのだった。
 ガスパール領に戻ろうとも考えたが、ゆく先々で戦火にあえぐ人々を見て考え方が変わった。自分にできることはないのかと、そんなことをアッシュは考えだしていたのだ。アッシュにあるのは、士官学校で鍛えられた弓と剣、それから少々の用兵術だけ。それでも、目の前で困窮する人々を救うことはある程度は可能だった――たとえそれが本質的な解決になるわけではなくとも。
 なぜ、こんなことをしているのかはわからなかった。ただ、地下の住人だったと嘯くユーリスという少年がいつだかアッシュに語った言葉が、多分強く残っていたからだ。「俺様は目の前で困っている奴がいれば助ける。手の届く範囲で、できることをする」彼はアッシュと同じく貧しい暮らしをしながらも強かに、時にその美貌すら利用して成り上がり、今はアビスと呼ばれたガルグ=マク地下の住人たちをまとめている、年若くして才気溢れる人物だ。何故か彼はアッシュを気にして折に触れ食事や訓練に付き合おうと誘ってきて、それなりに仲良くしていたという自覚はある。ガルグ=マクを去るアッシュをひどく複雑そうに見つめていた彼は、結局最後は何も言わずにアッシュを送り出した。
 そして、シルヴァンから誕生日の贈り物だと押し付けられた細身の剣だ。これこそ特別に鋳造されたと後日聞き及んで、そんな大層なものはもらえないと別れる際に改めて返そうかと思ったのだが、シルヴァンにははっきりと断られた。  どころか、小ぶりな短剣まで渡されて、意外な言葉を告げられたのだ。 ――好きなんだ。そばにいてほしい。
 男前の顔を泣きそうにくしゃりとゆがめて、堪えきれないとばかりにアッシュを抱きしめてきたシルヴァンのあの声は、今でも覚えている。
 彼が短剣をアッシュに手渡してきた意味はわかる――ファーガスにおいて短剣を手渡すことは、未来を切り開くことにつながる、相手の未来を願う、いわば儀礼のようなものだ。剣まで受け取っておいて、と断ろうにも、シルヴァンの鳶色の瞳がどこか潤んでいるように見えて、受け取れないという喉元まで出かかった言葉を、表には出せなかった。  それでも、その胸と腕を拒絶したのは、自分だった。彼の傍にいることは簡単だ。
 アッシュとて、彼のことを嫌いなわけではなく、むしろ逆だ。色々と世話焼きで好人物のくせにやたらと女癖の悪い、けれどもどこか頼りなくて甘えたがりの年上の友人のことを、アッシュが考えない日はなかったといってもいい。それはおそらく、シルヴァンが告げた言葉に応えるには相応の感情なのだろうという自覚もおぼろげながら合った。相手が男性だとか、身分差のある貴族だとか、紋章持ちだとか――そういったことを考えさせないほどに、アッシュはシルヴァンに対して好意的な感情を自ずと抱いていたのだ。
 それでも、共にはいけなかった。
 彼と共に居れば、自分は多分弱くなるから。そしてなにより、彼と共に歩む未来は、けっしてあってはならないことだから、だ。血と紋章とかいう、アッシュとは無縁の世界に縛られている彼は、その血を残す義務があるのだ――そう、だからきっと、アッシュに対する彼の感情は、そういった彼を暫くたくさんのものからの逃避だ。そう、思わなければ、どこかつらかった。  シルヴァンの言葉には素直に頷けなかった。そのあたたかな腕を引き離して、アッシュは極力感情を見せない顔をつくって、そして別れた。傍にいたドロテアとイングリットが何かを言いたそうにしていたのだが、それも見ないことにした。



 甘やかで優しかった記憶は過去のもの。彼らの顔を忘れるほどに、五年間は地獄の上塗りの連続だった。途中帝国兵に捕らえられ幽閉されたこともあり、逆に王国兵に尋問されたこともある。いくらガスパール領の養子なのだと告げても、統率が取れず帝国に圧される一方で焦る王国兵は聞き入れてはくれなかった。アッシュに脱獄できる手段がなければ、今ころは暗い牢の中で飢え死にしていたかもしれなかった。
 帝国兵に捕らわれた時は、偶然ではあるがグロスタール領内で、捕らわれた賊の名を聞き及んだ嫡男ローレンツが慌てて牢を訪れアッシュを解放した一幕もあったが、アッシュの存在が同盟軍に必要なのだとあらゆる言葉を並べて告げてきたローレンツを説得するのは難しかったから、ただ静かに首を横に振るだけで礼を告げて去った。
 アッシュが今まで生き延びているのは、女神の恩寵なのか、偶然なのか、そういうことも考えなくなっていた。そもそも女神などはどこにおわすのか、わからない。今のアッシュが信じられるのは己の身ひとつのみだった。そして、その生きるための糧になっているのは、けっして長くはなかった士官学校時代の想い出と、養父の言葉。真っ直ぐに生きるのだと優しく告げてくれた老人は、もうこの世にはいない。
 生きるために褒められないような真似をせざるをえない時もあった。野兎や鹿を狩り、川の水を飲んで命を長らえた日もある。行商の一行に出会えば護衛を申し出て、そのかわりに対価と寝場所を得ることも少なくはなかった。
 そうして放浪して、どれくらい経っただろうか。盗賊の集団に襲われている貴族を助けたことがあった――見過ごすのは、忍びないと思ったからだ。何よりも遠目に見て襲われている方は三人、盗賊は集団で十人ほど。三名は武装しているものの、それなりに立派な鎧を着ている老騎士以外は護衛ではあるものの若く従士だろうか。アッシュは気づかれないよう死角から数名の盗賊を狙い撃ちにした後、足音を消して背後から近づき、残り二名ほどの首を一瞬で掻き切り、向かってきた一人は心臓を一突きした後に首を落とした。そうしているうちに、上等な鎧をまとった老騎士が残りの盗賊を蹴散らしていた。
 彼はグェンダルと名乗り、ローベ伯の騎士団の団長だとアッシュに告げた。彼は厳つい顔に笑みを浮かべてアッシュの腕を称え、その腕ならば我が騎士団に加わらないかと誘いまでしてくれた――ローベ伯といえばアッシュですらよい話は聞いてはいないものの、王国領主でもありロナートが仕えていた人物でもある。恐らくロナートが存命であれば、かの伯爵の軍勢に協力したに違いないだろう。渡りに船とばかりにアッシュはグェンダルの申し出を受け、晴れて騎士団の一員となった。



***



 これは、この戦いには正義はないのかもしれない。それでも、そんなことは関係はなかった。
 ローベ伯の軍隊はグェンダルの騎士団はともかく、傭兵など金銭で雇われた者たちはお世辞にも統率が取れてるとはいいがたく、そもそもが王国を裏切り帝国の配下についたとあって、どこかピリピリとした空気が漂っていた。だがそんな中でも特別知り合いもいないアッシュは気楽なもので、敵を作らないようにしながらも目立たぬように生活していた――そういう生き方は、幼いころに学んだ知恵だったが、今になって役に立つのはどこか不思議で皮肉だと思う。
 一度、傭兵崩れらしき男がアッシュの持つ剣に対して分不相応と訓練中に揶揄ってきたことがあった。だがアッシュはその己よりも大分体躯の立派な男の言い分も、妙になれなれしい態度も気にせずに、ただ無言で矢を射ってみせた。アッシュの射った矢は男の首元をかすめて的の中央に命中し、それ以降アッシュに対してのそういった行為はその男を含めてなりを潜めたのだった。  更に戦場でのアッシュの的確で容赦のない行動を見た仲間たちは、アッシュのことを顔に似合わず冷静で、というよりか冷徹な戦い方をする人間なのだと認め、敢えて近づこうとはしなくなっていて、それは、特にこの中で慣れあいなどは望まないアッシュにはちょうど良かった。
 こうしてひとりで生きることなどついぞなかったことなのに、どこかほっとしていて、けれども寂しい。
 寂しかったが、これは自分が選んだ道だった。己の信念を曲げぬために、友も恩師も切り捨てたのだ。自分はこの道を選んだ、ただ、それだけのことだ。
 それでも、この手にした細身の剣、そして短剣。何故だか捨てられなくて、何度もアッシュの命を繋いでくれた命綱でもあるそれらは、懐かしい過去の記憶を呼び起こす。こんな場所でも、どんな時でも、彼らの笑顔を、声を、姿を、アッシュは思い描けてしまうのだ。

「……シルヴァン……」

 何よりも、さようなら、と告げたとき、彼の顔を見ることが出来なかった。
 今生の別れになるかもしれなかったのだが、それこそ顔を見てしまえば決意が揺らぐのだと、どこかでわかっていたからだ。

 ぶっきらぼうに、適当な理由をつけて剣を手渡してきたときも。
 アッシュの奇妙な稽古になぜだか真剣につきあってくれたときも。
 あまりに厳しい師カトリーヌの指導に、それでも歯を食いしばってついてゆくアッシュを掛け値なしにすごいと、根性があると褒めてくれた年上の青年の顔は、アッシュを見る顔は、いつだって穏やかで、やさしかった気がする。

「思い出すな。思い出すな。思い出すな」

 今は、思い出すときじゃない。

 何よりも自分にいいきかせるように、アッシュは小さく呟く。そのかすかな声は、夜の闇の中に吐息と共に消えていった。


 そしてあれから何度、この剣で命を奪ったのだろう。刺したのは、肉だ。肉だが、それは元は人間であったもの。だがそれだけだった。これは、何かの命を奪うのではなく、アッシュの身を護るためのものだ。そして、アッシュの生きてゆく道を示す真っ直ぐな光なのだ。生きている理由だ。過去の想い出で、忘れてはいけない日常だ。だから、手放せない。
 剣の扱いは士官学校時代にカトリーヌやフェリクスから細かいことまで教えてもらっていた。だから、この剣だけは決して手放さないように、大切にしていた。この剣には、アッシュがまもりたいものが、すがりたいものが、すべて詰まっていたのだ。
 懐かしい面々。懐かしい記憶。もう、何年前になるだろう。彼らと再び会えるときは、おそらくこの剣を交えることになるだろう。それでも。
 それでも。できれば、できれば、この剣をどこか嬉しそうに手渡してきたシルヴァンとは戦いたくはないな、と小さなため息をアッシュはその場に落とした。



 けれども望まぬ戦いは訪れてしまった――何れそうなるとわかっていても、やはりどこかで辛く思う自分を、アッシュは自ら必死に拒絶しながら剣と弓に手をかける。案の定そこには見知った顔がいた――ユーリス、ベレス、クロード、そして、シルヴァン。他の金鹿の生徒であった仲間たち。彼らに弓を引くことが、剣を向けることが、こんなにも自分の中で苦しいとは思わなかった。それでも己を奮い立たせ、アッシュは必死に戦った――戦おうと、した。
 けれどもアッシュの矢はユーリスに弾かれ、アッシュの剣技はベレスのそれには確実に劣り、結果満身創痍になりアッシュは戦場で膝をつく結果になった。ああ、もう、これまでだ――それで、よいのか、そう思う気力すらなく、ただ命乞いをする気もなく、剣を向けたままのベレスに首を垂れた。もうこれで、彼女に自分の命は委ねたも同然だ。これで殺されるのならば致し方あるまい、ここは、戦場で、この戦いに参加することを選んだのは自分自身なのだ。

「アッシュ。君は本当に、それでいいの」

 問うてくるベレスの声は、穏やかだった。それは、今までのアッシュの五年間を否定するものではなかった――ただ、本当にこのまま死を選んで、それでよいのか。ただ、純粋にそれだけを問うていた。だからかもしれない。本来ならば、騎士として死に場所を選ぶのも一つの生き方だったのかもしれない。

 けれどもアッシュは、ベレスの手を取った。もう一度、皆と共に戦いたい、と願った。



 それはひどく都合の良い話だった。当然だが、一度敵対した将である以上一応は捕虜という扱いだ。それでもマリアンヌやリシテアはアッシュの酷い怪我を心から心配して率先して治癒してくれたし、レオニーやイグナーツも差し入れだと多めに配給を持ってきてくれたり、ヒルダやラファエルなどは特に用事もなくとも心配そうに声をかけてくれた。ローレンツは一度従軍を断られた手前複雑そうではあったものの、君が無事でよかった、とそう呟いた声に嘘はないのだろう――彼は嘘がつけない人間だということは、アッシュもよくわかっていた。捕虜というには厚遇にも思える扱いなのだが、そこはクロードやベレスといった指揮官の人柄が出ているのか、戦力が足りていないのか、あるいは両方なのか、アッシュに対する風当たりはそこまで強くはなかった。
 あれから、イングリットやフェリクスといった元青獅子の学友やドロテアたちとも再会し、言葉を交わした。皆あの場に現れなかったアッシュを心配していたらしく、フェリクスには彼らしい厳しく端的な言葉を言われもしたが、それは彼の不器用さの表れであることがわかっているのでどことなく懐かしく、ほっとしてもいた。同様にユーリスにもしっかりと怒られ、それからおかえり、とひとこと告げられたのだった。
 ただし、まだ、彼とは――シルヴァンとは顔を合わせてはいない。そのことを告げると、フェリクスとイングリットは顔を見合わせてため息をつく。あんな別れ方をしたのだ、本来であれば此方から出向かねばならないだろうとは思う。あんな風に必死なシルヴァンも、あんな切なそうな表情も見たことはなかった。そして、その彼を突き放したのは自分なのだ。彼からもらった剣と短剣はアッシュの思い出で五年の間拠り所ではあったにせよ、シルヴァンがそれを知る術はない。
 そうして五年ぶりに仲間たちと言葉を交わして、ようやく眠りにつこうとした矢先、控えめに扉を叩く音がした。

「起きてるか?」

 五年ぶりに聞いたその声は、間違いなく、シルヴァンのものだ。返事をしようかどうか迷っていると、扉の外で立ち去りそうな気配を感じ、アッシュは慌てて「入ってください」と声をかけると、そっと扉が開けられて、一番会いたくなくて逢いたかった相手が静かに入ってきた。

「……お前が無事で、とりあえず、よかったよ」

 相変わらずシルヴァンの声は、優しい。何故だろう、彼は昔からそうだった。自分を見るまなざしも、まるで何か特別な――大切なものを見るような、そんな深さがあるのだ。その理由は、五年前に別れる時に判明したのだが、それが判っていてもなお、アッシュには未だにその彼の優しさを受け入れられる理由がなかった。受け入れては、いけないのだ。

「ありがとう、ございます……」
「腹でも減ってるかと思って少し食料をもらってきたけど、食えるか?」
「え?あ、……はい、でも、その」
「怪我人が遠慮するなって。お前の仕事は、まずは身体をしっかりと治して、体力をつける事だろ。もう殆ど同盟軍の戦力なんだし」
「……一応まだ、僕の扱いは捕虜なんですけど」
「一応は、な。けど、この軍の連中は誰もお前のことを捕虜だなんて思っちゃいない。お前は、この軍には必要な存在だよ」
「それだけ……戦況は、悪いんですか」

 シルヴァンが用意してくれた軽食を口にしながら、アッシュは問うた。捕虜というにしては扱いが良すぎるのも気にはなっていたし、そもそも圧倒的な帝国軍に対していくら優秀な策士であるクロードと指揮官ベレスがいたとしても、数と練度の問題はどうにもならないのだ。だからこそ、ローベ伯も帝国軍についたくらいなのだから。

「まあ、良くはないな。むしろお前が寝返ってくれて大分助かるくらいには。それより、さ……アッシュ」

 ああ、この声だ。この声は、ダメなのだ。

 アッシュは寝台から動けないのをよいことに、唇を噛みしめて俯く。あまりにもあからさますぎたかもしれないのだが、この感情は――シルヴァンのことを慕う己の感情は、けっして表に出してはならないものなのだ。自分は彼には何も与えることが出来ない。そんな自分を、彼が選んではいけない。

「その剣、大事にしててくれたんだな」

 けれどもめげないのか、シルヴァンは元来の甘い顔立ちを更に緩め、まるで眩しいものでも見ているような視線をアッシュに向ける。サイドボードに立てかけられている剣は五年前の光沢を保ったままに美しかった。

「それ、は……その……。使いやすくて、何度も、僕の命を救ってくれましたから。手入れくらいはきちんとしておきたくて」
「そっか。それならよかった。ま、とりあえず食っとけよ。俺は迷惑なら退散するからさ」
「あ!その、迷惑とか、そいういうことではなくて……」

 とっさに口をついて出た言葉に、アッシュ自身が驚いていた。そのまま立ち去って貰ったほうが楽だったはずだ。何よりも、彼とふたりきりというこの状況が気まずい。

「おいおい、そういうこと言うと、期待するぞ?」
「それはダメです!ダメです、やっぱりダメです!」
「冗談だって、そんな怒るなよ……まあ、このまま話でも出来たら俺は御の字だと思ってる程度だからさ」
「本当に不思議なんですけど、どうしてシルヴァンはそんなに僕に優しいんですか?そうされる理由なんて、ないのに」
「理由はあるさ」

 シルヴァンはやや遠慮がちにサイドボードの脇にある椅子に座ると、じっとアッシュを見つめてくる。優しい鳶色の瞳は弧を描いていて、今まさに満たされていると言わんばかりだ。けれど、彼からそれ以上の言葉は紡がれない。それはおそらくは、五年前のことがあるからなのだろう。その彼の過ぎたやさしさが、アッシュには苦しかった。胸の奥が痛くなるような、心の臓を掴まれているような、息苦しさがあった。そのくせその優しい顔を、目を、見ていたいと思うのはあまりに矛盾していて、身勝手だと思う。

「……すみません。今、たぶん、ひどいことを聞きました」
「んなこたぁないさ、俺だって無理に俺の気持ちを押し付けるつもりはないからな。ただ、こうしてアッシュが俺と話をしてくれてるだけで嬉しいんだ」
「本当に、ごめんなさい。でも、何を話していいかもわからないし、何をいうべきなのかも、わからなくて」
「別になんだっていいさ。話したいことがないなら、メシ食ってりゃいいし」
「それじゃ、意味ないじゃないですか」
「アッシュには意味ないかもしれないけど、俺にはあるからな」

 それは、本当に言葉通りなのだろう。頬杖をつきながらこちらを眺めているシルヴァンは真実満たされているのだろうという穏やかな表情をしている。

「前から思ってましたけど、シルヴァンは変な人ですよね。僕なんかといて楽しそうにしてるし、……好きだ、なんて、言うし」

 最後の方は、やや尻すぼみになってしまった。羞恥心と、猜疑心が混ざった何とも言えない奇妙な感覚だ。アッシュは、それでも未だにシルヴァンが何故自分にここまで感情を傾けるのかが、理解できないのだ。何もできない、何の役にも立たない――シルヴァンは理由はないというかもしれないが、それではアッシュが納得できなかった。そうでなくとも、自分は彼の隣に立ち共に生きる資格はひとかけらもないのだから。

「それだけで変人扱いか?そりゃひどくないか?」
「十分変ですよ。僕は君になにも、してあげられません。何も、与えられないんですよ。なにも……君は得るものなんて、ないのに」
「なあ、アッシュ、何か勘違いしてないか?別に俺は対価が欲しくてお前に好きだって言ったわけじゃないし惚れてるわけでもない。そもそも、そんなもの求めちゃいない」
「でも、君は辺境伯の嫡子で……」
「アッシュ」

 シルヴァンの声色が急に変わる。今までとは打って変わって、低い、どこか怒りと悲しみを孕んだ声だ。

「そんなものはどうでもいいくらい、俺はお前が好きなんだ」

 一番聞きたくて、聞きたくない言葉がシルヴァンの口から実際に出てきて、アッシュは思わず泣きそうになってしまった。そう言わせてしまったのは自分なのだ。本当は、彼に――彼のような立場の人間には、そんなことを言わせては、いけないのに。

「……だったら!だったら、尚の事ダメです……僕は、君の気持を受け入れることは、できません……」
「じゃあどうして、そんなに辛そうなんだよ」
「……それは」

 アッシュは再び俯き、唇を噛みしめた。これ以上何かを言ってしまったら、どこかで本心が漏れてしまいそうになる。だから、自ら言葉を封じるしかなかった。それでも、感情というものは溢れてしまう。本当は会いたかった、本当は会いたくて、話をしたくて、傍に居たかった、そんな風に告げられたのならば、どんなに楽なのだろうと思う。  けれど、それは決して告げてはいけないことばなのだ。

「……食事、ありがとうございました。マリアンヌたちに早めに休むように言われたので、もう、寝ることにします。折角来てくれたのに、楽しい話をできなくて、ごめんなさい」

「ん、まあ、いいさ。とにかくゆっくり休んでな」

 そういうと、シルヴァンはいつもの笑みを作ってアッシュの頭をくしゃりと撫で、食器を持って部屋を後にした。ぱたん、と扉が閉まる音を聞いてから、アッシュは小さく言葉を落とした。

「……シルヴァン……ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」

 噛みしめすぎた唇から血が滲み、きつく瞑った目からは熱いものがこみ上げてきそうになってアッシュは慌てて目元を抑える。こんな苦しい想いをするのなら、どうして、こんなにも好きになってしまったのだろう――そんな無為な自問をしながら横になり、その夜は静かに更けていった。



***



 静かな雨の夜だった。それは、たくさんの死者の霊を慰めるがごとく降り続く、鎮魂の雨なのかもしれないとアッシュは思う。自らも多くの人を殺したその手で祈るのは烏滸がましいから、アッシュは祈りはしなかった。ただ、死者が安らかに眠れることだけを願う。そして生き延びた自分は再び明日からまた誰かの命を奪うのだ。
 グロンダーズ会戦――帝国軍、同盟軍、そして旧王国軍の三軍が激突した戦闘は、辛くも同盟軍の勝利に終わった。それでも各陣営の被害は甚大で、同盟軍とて素直に勝利を喜べるような勝ち方ではなかった――なにより元々王国出身のアッシュにとっては天の上のような存在ではあったにせよ、死んだと聞いていたディミトリが戦場に現われたという情報と、訃報は心をざわつかせるには十分だった。シルヴァンら幼馴染たちは尚の事だろう――そう思い、自然と足はシルヴァンの休む天幕へと向かっていた。
 けれども、いざ入ろうとすると足が竦んでしまう。そもそも、自分は彼と悲しみを分かち合えるほどの仲ではない、というよりかそうなることを拒み続けている――それに、同じような悲しみを分かち合うのなら、シルヴァンはもっと適切な相手がいるのだ。自分はそこに割って入る権利などはない。そう考え、立ち去ろうとしたその時だった。
「アッシュ⁈お前、こんな、雨の中……ともかく中に入れよ、そのままじゃ風邪をひいちまう」
「あ……その」
「ああもう、いいから入れって!」

 強引に天幕に引きずり込まれ、すっかりと濡れてしまった外套を脱がされ、毛布を手渡される。アッシュはそのまま濡れたままの衣服を上半身だけ脱いで、身体を毛布でくるむ。同性とはいえ、一度告白されている相手に濡れたままの裸体を晒すのはなにやら忍びなかったし恥ずかしくもあったのだ。

「すっかり冷えちまってたみたいだな、ま、それでも被っておけよ」

 手渡された毛布は、王国でも北部でよく使われるような上等な毛皮のものだ。確かに冷え切った身体にはあたたかい。

「でも、これはシルヴァンの」
「俺はいいんだよ、それよりどうしたんだ、まさか俺を慰めにきた、とか?」

 冗談めいて笑うシルヴァンに、アッシュは何も答えずに俯き目を逸らす。その様子にシルヴァンも何かを察したのか、直前までのへらりとした表情が真顔になった。

「マジかよ……いや、お前、ほんとうに……?」
「殿下が……、亡くなったと、聞いて。僕なんかよりも、シルヴァンはずっと、ずっと辛いんじゃないかと思って、それで」
「辛くないってのは……嘘だな。まだ、実感もわかないんだが」
「フェリクスやイングリットたちとは、もう?」
「ああ……けど、もう、終わったことだ。終わったことなんだよ、アッシュ」

 そのあまりにも疲れた、寂しそうな声と表情に、アッシュは衝動的にシルヴァンに触れた――触れてしまった。自分よりも一回り大きな身体があまりにも頼りなく寂しそうで、抱きしめていた。

「……アッシュ⁈」

 驚く声よりも、シルヴァンの体温がどうしようもなく温かくて、同時に哀しかった。彼の喪失感を、自分はどうにもしてやることができない。同じように悲しむこともできない。何も、してやれることはないのだ。本当に、自分は彼に何も与えられないのだと思うと、だったらせめてこうして触れる事くらいは、そう、衝動的に思ってしまった――今の今まで、五年以上も抑えてきたものが、ここにきて決壊して溢れてしまった。

「僕は、何もできません……君に、何もしてあげられない、何も、与えられない……それでも、……それでも、本当に、いいんですか?」
「アッシュ……お前」

 抱きしめた身体を離し、じっと鳶色の瞳を見ると、その双眸はどこか潤んでいるように見え、感情の揺らぎが垣間見えた。その悲しみにつけこんでこんなことをしている自分を、アッシュは最低の人間だとすら思う。それでも、溢れてしまったものは最早止めることはできなかった。

「こんな時に、たぶん、僕は、最低な人間です……君の弱みにつけこんで、……君に……」
「アッシュ、何か勘違いしてないか。殿下の件とお前のことは、全くの別件だ。確かに、俺は参ってるよ、ああ、間違いなくな……一緒に戦わなかったこと、最期を見届けられなかったこと、何も、できなかったこと……けど、それとお前のことは、全然別だ。そうだろう」
「それは理屈ですよ。でも、僕は、今、君の傍にいたい」

 言葉を続ける前に、軽く触れるあたたかな感触があった。最初は鼻先に、そして、頬に。アッシュはそのまま目を閉じて自らシルヴァンの唇に己のそれを重ねる。改めて背に回された腕に力が籠められ、二人の身体が密着する。このままではシルヴァンの体温を奪ってしまうのではないかと思うほどに、シルヴァンは強く、つよくアッシュを抱きしめてきた。

「ごめんなさい、君が、好きなんです……ずっと、好きだったんです……でも僕は」

 か細い声でアッシュが呟くと、その続きを言わせまいとシルヴァンが唇を重ねる。冷え切ったアッシュにとって、シルヴァンのそれはとてもあたたかくて、やさしくて、それだけで感情が飽和してしまいそうになる。

「アッシュ、お前の言いたいことはわかってるつもりだ。でも、そんなものは関係ないくらい、俺はお前に惚れてる。五年前からずっと、惚れっぱなしだ。お前さえ受け入れてくれるなら、俺はお前のことを離さないからな、アッシュ」

 まるで泣きそうな笑顔で言われてしまい、アッシュは言葉を喪った。これ以上何を言えというのだろう。あの五年前の告白から、シルヴァンはずっと自分を想っていてくれたのだ。そんな都合のよいことが、現実に起きるわけがないと思っているのに、当の本人から告げられている。

「前も言いましたけど、君は本当に……変な人ですよ。僕に惚れるだなんて、ほんとうに……」
「誰かに惚れるのに理由なんかいらないだろ。俺はお前が好きで、どうしようもない。不器用で、危なっかしくて、まっすぐで、どうにもならないくらい融通がきかなくて、扱いづらいくせにきれいな人間なんてアッシュ、お前くらいしか俺は知らないよ」

 シルヴァンのアッシュを見つめる瞳はどこまでも優しい。おおきな手が、アッシュの濡れた髪を愛おしそうに掻き分けてくる。その感触ですらもゆっくりと特別なものに触れているといった具合で、それだけでも彼がどのくらいこの瞬間を待ち望んでいたのかわかる気がした。だから、思わずアッシュは少し目を細めて憎まれ口を叩いてしまう。

「それ、褒めてるんですか?」
「おうさ。お前が好きな理由を言えっていったんだろ?」

 な?と額を合わせられ、至近距離にシルヴァンの鳶色の潤んだ瞳がある。態度こそふざけているように見えるが、彼の言動は本気だ。その声色も真剣だし、なによりもアッシュに触れている腕が如実にそれを物語っていた。もう絶対に離すまいとする強い意志を感じる。アッシュは決して近づいてはいけない相手に結局は捕らえられてしまって、それでも良いと、嬉しいと思っている自分を否定できなかった。

「それよりお前、ほんとに冷え切ってるじゃないか……ったく、なんだってこんなになるまで外にいたんだよ」

 軽く口づけをされてから、頬をするりと撫でられ、今度は背後から抱きしめられた――どうも本当に、離す気はないらしい。

「それは、その……」
「……お前のことだ、変に気でも使ってたんだろ。まったく……そういうところも、好きなんだけどな」

 今度は背後から耳元に口づけをされる。そのくすぐったさと生温さにアッシュが一瞬びくりとなると、シルヴァンは面白そうに喉の奥でくつくつと笑った。

「なあ、アッシュ。……ちょっと、このままでいさせてもらっていいか?」

 その声は、直前とはうってかわって驚くほど低く、そして頼りなく、小さかった。アッシュがこくりと頷くと、シルヴァンはアッシュの肩口に顔を埋めてゆっくりと目を閉じる。そんなことをしたらシルヴァンこそ冷えやしないかと思うのだが、どうにも離れる気はないらしく、また、アッシュを抱く腕が小刻みに震えているのは決して冷たさのせいではないのだと憶測もできれば、突き放す気にもなれなかった。
 だからと言って何か提供できる話題もなく、アッシュは途方に暮れるのだが、シルヴァンの方はといえば逆に少しずつ腕の震えも収まり、耳元に聞こえる呼吸音も少しずつ穏やかになっているように思えた。
 そういえば以前、彼とこんな雨の夜は好きではないのだ、という話をした記憶が、アッシュの中で蘇る。たしか彼と初めて口づけを交わしたのは、あの時だった。  そもそも、いつ頃からかははっきりとはしないが、アッシュもシルヴァンのことが好きだった。けれども、当時から自分の存在は彼の将来にとって何も益にはならないとわかっていたから、積極的に気持ちを表現はできなかったし、極力そういう話題避け、想いを抑えてきた。だというのに、結局はそれも無意味になってしまった。こちらから手を伸ばせば、シルヴァンは喜んでその手を取り共に歩んでくれるとわかっていて、その道は決してシルヴァンにとっては生易しい道ではないことも知っていながら、伸ばしてしまった。
 後悔していないといえば嘘になる。けれども同じくらいに、この触れている体温と時間がいとおしくて、アッシュは自分を抱きしめてる大きな腕に、恐る恐る、触れた。

「そういえば君は、僕が綺麗な人間だ、って言いましたけど……決して、そんなことはないんですよ」
「そうかもしれないな」

 かすかな吐息のような声に、シルヴァンはアッシュの肩に顔を埋めたままに応える。

「……そうかも、って。僕が君と離れていた五年間、何をしていたんだ、とか、聞かないんですか」

 尚しつこく、確かめるように問うても、シルヴァンの様子は変わらない。アッシュを離さずぴたりと身体を密着させ、落ち着いた呼吸を繰り返していた。

「アッシュが話したいなら話せばいい。話したくないなら、話さなくていい」

 耳元で応える声はおだやかだった。ただ、言葉と共に、もう一度頬に軽い口づけを落とされた。先ほどから何度もシルヴァンはアッシュに、それはいとおしげに口づけを繰り返してくる。
 それほどに想われていたのだという事実に、アッシュはひどく胸の奥が苦しくなってきた。五年も同じ想いを抱え続けて、それで単身戦い続けていたシルヴァンの心持を考えれば、自分の経験などたいしたことにも思えない――そんなことすら、考えてしまう。何故ならアッシュはこの五年間、ただ、自分が自分の信念のため生きることしか考えてはいなかったからだ。ひどく身勝手な生き方だ。そして、誰のことも考えなかった、考えないようにしていた。
 それなのにシルヴァンはそうではないという。そのことが信じられず、同時に同じくらいうれしくて、哀しくて、やるせなかった。そんなシルヴァンに自分が一体何をできるというのだろう、こんなにもひたすらに優しさと愛情だけを注いでくれる相手に、何を返せるのだろう。きっとそれを問えばシルヴァンは笑ってそんなものはいらないと言うのだろう。けれども、それではアッシュの気が済まなかった。

「シルヴァン……慰めて、欲しいですか?」

 シルヴァンの腕の中で身体をの向きを変えて、真正面からその顔を見つめる。アッシュの突然の行動に、シルヴァは一瞬意味がわからなかったのかぽかんとなり、それから漠然と意味を察したのだろうか――唇を噛みしめて、目を閉じた。

「アッシュ、お前、本気なのか?」

 見開かれた鳶色の瞳は、揺れていた。揺れているその奥に灯っている感情を、アッシュは見逃さなかった。

「僕は他に……方法を、知らないんです。言葉もうまくはないし、まして君と殿下の関係だって多くを知っているわけじゃない。何も、知らないし、出来ないんです。ほかに、出来ないんです」

 言いながらアッシュはそのままシルヴァンを寝床へと押し倒す。シルヴァンは特に抵抗することもなくされるがままに、ただ、不安げにアッシュの顔を見つめ、両手で頬に触れた。

「お前、本当に、無理はしてないんだな?」

「大丈夫です、そんなことはしませんよ……ただ、僕ができる事を、君にしてあげたいんです」

 少し寂しそうに笑うと、アッシュはシルヴァンに覆いかぶさるように唇を重ねる。今までのような淡いものではなく、唇を割り開き、舌同士を絡めてその熱を交換しあうような濃厚なものだ。

 初めはアッシュから始めたそれを、シルヴァンはどこかたどたどしいながらも追いかけ、やがて心得たといわんばかりにアッシュの舌を捉え、絡めて舐ってくる。二人の唇の間では繰り返し淫らに水音が響き、荒い呼気と共に双方の頬は上気していった。
 だが、その口づけの途中でアッシュはほんのわずかな違和感を感じた。あれだけ女性と浮名を流していた割に、シルヴァンに慣れている感じがしないのだ。
 アッシュを大切に想う気持ちが先立ってなのか、そうではないのかはわからないのだが、それを訪ねるのは野暮な気なしてアッシュはそのまま唇を食み、歯列を舌で舐ってシルヴァンの口腔内をたっぷりと味わうようにねっとりと舐める。シルヴァンも濃厚な口づけに応えるようにアッシュの舌を捉え絡めてはなんども音を立てては吸い付いて離すまいとした。互いに、どちらの唾液なのかもわからなくなるほどに唇と舌を重ね、やがて長い口づけが終わると、二人ともすっかりと呼吸もあがり、肩で息をしていた。特にアッシュは上半身は裸のままで毛布を纏っていただけなので、白い肌に無数にある傷跡だけが妙に浮き出るように赤く染まっている。
 それを見たシルヴァンの目の色が変わった――それは、獲物を見つけた獣の目だ、とアッシュは瞬時にして悟る。そういう方法――つまりは身体を使って対価を得る、そういう方法を幼い時に覚えさせられたアッシュは、それがどういうときにどういう意味を持つのかを、今の今まで完全には理解していなかった。けれども、今まで穏やかで優しいだけのシルヴァンの目が変じた瞬間に、理解した。これは、本来はそういう行為なのだ。お互いに求め合うもの同士がする、確かめ合うための行為なのだ。

「……アッシュ……もう、戻れないが、いいのか?」

 シルヴァンの熱い手が肩に触れ、そこからアッシュの鎖骨に、胸元に、わき腹にゆっくりと移動してゆく。その感触のくすぐったさと熱っぽさに、アッシュもまたどこか頭が麻痺するような、不可思議な感覚に襲われていた。ただの快楽だけではない。これが、好きな相手と情を交わすという行為なのかと、初めて知った。

「今更この状態で、君こそ、戻れるんですか?」

 だから、少しばかり意地悪気ににこりと目を細めてみせれば、シルヴァンは身体を起こすと逆にアッシュを床に押し倒した。そして、これが応えなのだと言わんばかりに、剥き出しの肌に口づけをおとしてゆく。首筋から鎖骨にかけてゆるやかに舌を這わされればその生温くゆるい感触にアッシュは思わず甘い声を上げてしまう。

「あ、シルヴァン……きゅ、に……!」
「煽ったのはお前だろ……それに」

 熱を孕んだ鳶色の瞳がじっとアッシュの素肌に注がれる。その視線だけでも胸と腹の奥が疼くのを感じてしまう――はやく、熱を打ち込まれたいとだの願ってしまう。過去の経験は決して愉快なものはなかったが、彼となら、シルヴァンとならきっと、という予感に既にアッシュの下腹部は熱を持ちだしていた。

「お前のこのきれいな白い肌にこんなに傷がついてるのが……たまらなく許せないと同じくらいに、無茶苦茶煽られる」

 何時になく低い声のシルヴァンの吐息すら熱く、そのまま今度は目立つ傷跡を舐められ、背筋に感じたこともないようなぞくりとした快楽が鋭く走る。

「ぁ、それ……ん!」

 無数に走る傷跡が気になるのか、暫くシルヴァンは傷跡を追うように舐めていたのだが、やがてはくはくと荒い呼吸と共に上下する胸元に顔を寄せるや、触れてもいないのに快楽ですっかりと熟れた果実のようになってしまっている乳首に目がいったのか、ペロリと食べ物でも食べるように舐められ、そのままじゅ、と音を立てて吸われる。

「ひぁあ、んッ!ダ、だめです……そこ……!」

 シルヴァンにしてみれば初めて聞くアッシュの甘すぎる声に欲と熱が更に加速したのか、アッシュが制止するのも聞かずに夢中になって乳首を舌と指とをつかって刺激してくる。わざとらしく乳輪だけを舐めながら決して立ち上がった乳頭には触れずに、たっぷりと唾液を擦り付ける。ぴちゃぴちゃときこえる水音すら淫らに耳を犯すようで、その都度アッシュの腰が浮き、下肢よりも腹部が酷く疼いて早くつながりたいという欲が膨れて仕方なかった。早く、挿れてほしい、それしか考えられなくなってきてしまっていた。

「不思議だな、味なんかしない筈なのに、お前のここ、すごく甘い気がする」

 一度口を離してふっと息をかけられてから、思いきり乳首を音がするほど吸われた。

「や、も……へんな、こと、いわな……あぁッ!!」

 そのままカリ、と乳首に歯を立てられると、その刺激だけでアッシュは軽く意識を飛ばしそうになってしまう。  その、朱色に染まった肌や頬と潤んだ瞳を覗き込んだシルヴァンが、ごくり、と唾を飲み込んだのがわかる。乳首を愛撫する指先も止まり、性急にアッシュの下肢にシルヴァンは手を伸ばしていた。

「ま、まって、今、それ、……だめ、で……」
「お前が欲しい、アッシュ、……お前が欲しいんだ。アッシュ、我慢できない」

 切なく余裕のない、それでいて熱っぽいシルヴァンの言葉に、アッシュの腹の奥が先ほどよりもさらに切なく疼く。慣らしてもいないというのに後孔ですら疼いているような気がして、無意識に腰が動く。男としての欲よりも、今すぐ目の前の牡に食べられてしまいたいと、すっかり快楽を学びこんでしまった身体はそう感じていたのだ。シルヴァンと身体を重ねるのは初めてだというのに、これではシルヴァンに厭われるのではないか、不審に思われるのではないか――想像して、アッシュはこうして肌を重ねて嬉しいはずなのに、その真逆の感情から涙がぽろぽろと零れてきた。

「あ、アッシュ……いや、無理にとはいわない、ただ、俺は」

 涙の意味を勘違いしたのか、シルヴァンは慌てて下肢から手を離した。こんな状態でもアッシュのことを優先する、その理性の強靭さと優しさに、アッシュは余計に胸の奥が切なく痛む。

「違うんです!……そうじゃ、ないんです……ただ、僕は、君に嫌われたくなくて」
「嫌う?何の話だよ……俺はようやく、ようやくアッシュのことが抱けるんだって思ってるんだぜ」
「そうじゃない、そうじゃないんです……僕は……」

 涙は止めどなく流れてくる。感情が混乱して、自分でも何を言うべきなのか、言っているのかもわからない。こんな中途半端な状態はお互い苦しいだけのはずなのに、疼く熱と快楽と苦しさで、アッシュはむずがる子供のように首をただ横に振ることしかできなかった。

「アッシュ。さっきも言ったろ、お前が話したくないのなら、話さなくていいんだ、って」

 そんなアッシュを宥めるように、シルヴァンはアッシュの目元にそっと指先を添えて涙を拭いながら、唇を合わせてくる。宥めるような、そのぬくもりと優しさに、アッシュの目元から再び涙が零れ落ちた。

「なあ、いいか……?」

 そのまま低い声で囁かれ、アッシュは小さく肯定の意を伝えると、シルヴァンはアッシュの下衣に手をかけた。そうして晒された下肢もまた、筋肉質ではあるもののほっそりした脚のあちこちに、それこそ際どい部分にまで傷跡があり、シルヴァンは一瞬顔をしかめる。それでもすぐさまいとおしそうにアッシュの内腿に吸い付いて跡を残すと、兆しを見せているアッシュの性器にもそのまま口づけを落とした。

「あ、その……シルヴァン、……そっちよりも……」

 流石に言葉にするのは恥ずかしかったのだが、今更だろう。腹をくくったアッシュは、シルヴァンの手を取り、既にこれから与えられる快楽に期待してひくついている後孔に導いた。シルヴァンの手は、熱かった。

「シルヴァンが……ほしい、です」

 その言葉で火がついたのか、シルヴァンの表情が再び変わった。アッシュの言葉に頷くと、シルヴァンはひくついているそこにためらうことなく指を差し入れる。
 待ち望んだ快楽が与えられた、それでいてまだ足りないもどかしさにアッシュはまたしても無意識に腰を動かしていた。

「……だいじょ、ぶ、……なので、……もっと、挿れて……ッ」
「アッシュ、……お前、今、むちゃくちゃやらしい顔してる……」

 改めて言葉にされ、またしても疼きが酷くなってしまう。シルヴァンはアッシュの言葉通り、最初はおっかなびっくりといったように指を一本挿れていただけだったが、アッシュがあまりにも切なげに懇願するので二本、三本と増やしてゆく。それでもまるで待ち望んでいたのだといわんばかりにそこは快楽を求めて蠢き、内部に入ってくるものをキツく締め付けるのだ。

「アァアアッ、そこ……!」

 シルヴァンがアッシュの胎内で指を動かしある箇所をかすめた瞬間に、アッシュの口から今までにない嬌声が飛び出す。一番快楽を拾える箇所に当たったのだ。シルヴァンはそれをよいことに、同じ箇所をなんども、何度も刺激する。その都度アッシュは甘い声をあげて腰を揺らし、潤んだ瞳でシルヴァンの首に縋るように腕を回して快楽を強請った。

「も、っと……ほし……、シルヴァン、君のが……」
「でも、アッシュ、そんなにまだ慣らしてないだろう……?」
「だいじょ、ぶ……ん……はや、く、君と……つながりたい……」

 にっこりとこの上なく艶やかに笑って見せれば、シルヴァンは目を瞬かせて唇を強く噛みしめる――まるで何かに耐えるような、その様子にアッシュはさらに腰を揺らし、催促してみせた。この行為には流石にシルヴァンも耐えられなかったのだろう、早急に下衣を脱げば、すっかりと興奮しきった性器が肥大化し、屹立して震えている。今からこれが自分の胎内に入るのだ、と思うと、アッシュはそれだけでも再び意識が飛びそうになり、ふるりとまつ毛を震わせてなんとか堪えた。

「アッシュ……挿れるぞ」

 意を決したように真剣な表情で告げるシルヴァンの顔は、野獣の牡のようでいて、あまりにも真摯で目が離せないほどに男前だった。鳶色の瞳の奥に今や炎のように燃えている欲が、すべて自分に向けられているのだという事実が、アッシュをより一層昂らせてゆく。

「ん、はやく……ほしい、です……」

 ぴと、と熱が後孔に当てられたその熱だけですら、アッシュは軽く意識がトんでしまった。それでもまだ、これから与えられる快楽に比べれば、と自ら薄い尻をシルヴァンのモノに押し付けるように動くと、シルヴァンもまたアッシュの腰をそっと抱きながら、恐る恐るというように挿入してきた。おそらくは気遣いからくるものなのだろうが、そのゆっくりとした動きがもどかしくて、アッシュはゆらゆらと腰を動かしてしまう。はやく、とせがんでしまう。

「アッシュ、マジでおまえ……」
「あ、入ってる……シルヴァンが、僕の、ナカ、に……」

 逆にそのゆるゆるとした動きが、シルヴァンの存在を胎内に感じさせて、アッシュは再び言いようのない幸福感に包まれていた。
 快楽と幸福感で、またしても涙があふれてくる。こんなふうに誰かに抱かれた経験などはなかったから、本来であればこの行為は愛し合うものがするものなのだと、改めて認識すると、アッシュは堪らなくなり、シルヴァンの一回り大きな体にしがみつくように腕を回して胸元を密着させた。全身で、シルヴァンの存在を感じたかった。そうしている間にもシルヴァンはゆっくりと腰をすすめて、やがて全部がアッシュの胎内に収まると、苦しそうに息を落とす。

「……全部、入ったな……」

 汗まみれの顔が、満足げに、少しだけ苦し気に笑う。

「はい……あの、シルヴァン、身体、起こしてください……」

 シルヴァンは一瞬言われている意味がわからなかったようだが、アッシュがシルヴァンの身体をそっと押しのけるように動かして得心した、とばかりに上体を起こした。アッシュは上体を起こしたシルヴァンの腰に跨るように同時に身体を起こしてゆく。

「ぁあんっ、あは……ぁあっ!」

 その衝撃で奥に押し込まれたシルヴァンのモノに刺激されたアッシュは、再び大きな嬌声を上げた。そしてシルヴァンの首にその腕を巻き付けたまま、腰を上下に動かしだした。

「ア、アッシュ……ちょっと、待て……って!」

 ぐりぐりと腰を押し付けて、熱を、欲を、もっと感じたかった。何も考えられなくなるくらいに、どろどろに快楽に溶かされてしまうくらいに、してほしかった。

「んっ……は、ぁ……あ、あんっ、あ……ッ!」

 殆ど快楽と幸福感に飲まれてしまったアッシュにはシルヴァンの声は既に届いてはおらず、時折口づけを求めながらもアッシュは決して腰の動きを止めることはなかった。シルヴァンよりも一回り小さなしろい身体が腕の中で動き、無防備に喉をのけぞらせながら快楽の悲鳴をあげる。アッシュ自身のモノも先端から透明なものを流しており、それが後孔まで落ちてきて結合部分がいやらしく水音を立てる。

「シルヴァン、ください、ナカ……に、たくさん……ッ!」

 シルヴァンもまた声にならない声をあげながら、アッシュの動きに流されるように腰を振り、より奥に、奥に押し付けるように、まるでその奥に子を孕む器官があるのだといわんばかりに腰を押し進めていった。蠢く内壁は貪欲にシルヴァンに絡みつき、決して逃すまいと、その精を一滴残さずに搾り取るのだと言わんばかりにきつく締めあげる。

「あう、あ、ふっ、あ、……あ、おく、もっと、ぁあ…!」

 漏れる嬌声はほとんど意味をなしてはおらず、アッシュの白い肌は最早全身が熱を持ち上下する胸は心臓の鼓動と同じ速さで、シルヴァンのモノを必死に締め付けてくる。やがて限界を迎えたシルヴァンは、アッシュの最奥に、たっぷりの精を吐き出した。



 精を注ぎ込み、それでもシルヴァンの熱は収まらなかった。
 アッシュもまた火がついてしまっていたのか、シルヴァンのモノを抜くことはなく再び腰を動かしだす。

「まだ、もういっかい……」

 甘えるように縋るアッシュの中に理性はとうになくなっているのだろう。一度繋がってしまって、もう二度と離したくはない、離れたくはないという思いがアッシュの中で飽和して、シルヴァンを捉えて離さなかった。

「ああ、何度でも抱いてやる、何度でも、……お前が、望むなら」

 シルヴァンもまた、五年以上想い続けてきた相手に当初こそ遠慮していたものの、理性の箍が外れたかのようにアッシュを求めた。低い声で囁くと、何度も腰を振り、胎内を蹂躙しては精液と腸液とが混じってより潤滑になり卑猥な水音を立て続ける。
 その都度アッシュの口から飛び出る甘美な悲鳴が、シルヴァンの感覚を麻痺させていたのかもしれなく、またアッシュもシルヴァンから与えられる快楽に最早理性の欠片も残ってはいなかった。
 抱き合い、求め合い、互いに最早触れていないところはないのだというように姿勢を変えては指先で、舌先で、互いのすべてに触れてゆくこの行為が、お互いにもこんなに満たされるものだということを、アッシュは心底思い知られ、同時にその相手がシルヴァンであること、そして彼が初めての相手ではないことに複雑な思いを抱きながらも、甘い声を上げ続けていた。



「シルヴァン、どうして何も聞かないんですか?」

 何度か身体を重ねてようやく落ち着き、アッシュはシルヴァンの腕に抱かれながらふと口をついて出た言葉を、瞬時に後悔した。けれど、それは最初からずっとあった疑問だった。何故同性と身体を重ねることに慣れているのか、そういうことを、シルヴァンは一度も問うてはこなかったし触れもしなかった。ただただアッシュと身体を重ね、つながることが嬉しいのだといわんばかりに求めてくれた。それはとても嬉しいことではあったが、アッシュのなかに小さなひっかかりとしては残ってしまうのだ――そういうことを、誤魔化せない自分自身の性格に辟易しながらも、それでも一度出た言葉は、取り消せない。

「いったろ。お前が話したいなら話せばいいし、そうじゃないなら話さなくていい」

 乱れたアッシュの髪の毛をいとおしげに漉きながら、シルヴァンは真正面からアッシュの瞳を見る。その優しい声と緩やかに弧を描く瞳は、何度同じことを問うても変わらなかった。

「……僕は、昔、盗みをしていたって話は、しましたっけか」

 ぽつり、と言葉を落とすように呟くと、少しだけ抱き寄せられた。

「ああ、前に一度聞いたかな。でもお前は、それでもこんなに真っ直ぐで、きれいだって、俺は思ってるけど。まあ同じくらい向こうっ気が強い野良猫だけどな」

 甘やかに囁かれる声に、思わずアッシュは苦笑してしまう。そんな雰囲気の告白ではないのに、シルヴァンはいつでもアッシュに優しい。

「その時、盗み以外にも、いろいろ……やりました。この身体が使えるんだってことも、覚えさせられました。覚えたんです、僕は、まだずっと、幼い時に」
「そっか」
「この五年間は、ずっと人を利用したり、殺してました。生きるために、誰にも言えないようなことも、しました。運よくグェンダル卿に拾われて、それでなんとかやってこれましたけど、それがなければ」
「ま、運も実力のうちっていうしな。お前の腕だったら、あの爺さんじゃなくとも誰かには見いだされたさ。まあその上の人間が、ロクデナシだったっていうだけだ」

 アッシュがすべてを言う前に、シルヴァンはわかっているのだといわんばかりに言葉を重ねた。

「それでも……それでも、君は、僕のことを、きれいな人間だって思うんですか?ほんとうに、そう、思ってますか?」

 不安で声が上擦り、それでもせめて視線を逸らすまいとアッシュは縋りつくようにシルヴァンの両目を見つめながら言葉を紡いだ。嫌われたくなくて、厭われたくはないと思いながらも、正直に全てを話しておかなければならないという衝動に突き動かされたのだ。
 けれども、そんなアッシュの不安に対して、シルヴァンは小さく「そっか」と再び言葉を落とすと、アッシュを柔らかく抱きしめてきた。

「わかったよ。なあアッシュ、ずっと傍にいてくれ」

 シルヴァンの答えは、答えにはなっていなかった。けれども、彼の告げたいことは言わずもがなだろう。そして、そのまま素直に頷ければどれだけよかったのだろう。けれども、身体を重ねてしまってもなお、アッシュは素直に首を縦には振ることはできなかった。
 かわりに、シルヴァンの唇にそっと自分のそれを重ねてから、胸元に顔を寄せて目線を避ける。それが返事なのは狡いと思いながらも、言葉にするのは憚られた。

「……俺は諦めないからな。俺はもう、お前を離せそうもない」

 アッシュの髪をくしゃりと混ぜて、旋毛にシルヴァンは口づけを落とすと、そのままアッシュを抱きしめて大きく息をつき、おやすみ、とやわらかくささやいた。

 外はまだ静かな雨の音がする。けれども、もうその冷たい雨の音に怯えることも、厭うこともない――せめて、今、このときだけは。アッシュはそう自分に言い聞かせながら、シルヴァンの大きな胸元に唇を寄せてから、目を瞑った。



***


「騎士叙勲の打診を断ったって⁈」

 呆れたようなシルヴァンの声が、ガルグ=マク大修道院の聖堂内に響く。大陸は同盟軍により統一され、旧王国領もクロードとベレスが妥当と判断した人物にひとまずは任されることとなった――とはいえ実際にはフラルダリウス家やゴーティエ家などの実力者の意見に重きを置く、という条件付きの統治ではあり半ば傀儡のようなものでもあるが、それは先の戦功を考えれば妥当な判断だと、シルヴァンも思う。
 それはそれとして、シルヴァンが声を上げるのも無理はなかった。ベレスは大司教としてアッシュを騎士に叙勲し、統治者不在のガスパール領の領主に、と打診したのだ。それを、他ならぬアッシュ本人が断ったという。

「はい。僕が自分で決めたことです」
「けど、お前……あれだけ騎士になりたいって」

 納得がいかずどういうことなのだと問おうとしたシルヴァンの唇に、アッシュの指先が触れる。

「君と一緒に、ゴーティエ領に行くことにしました」

 真顔で告げられて、シルヴァンはアッシュの指先の感触も忘れて呆けてしまう。その顔には一体何を言っているんだ、とありありと描かれているものだから、アッシュは思わず苦笑を漏らした。

「君は、言いましたよね。僕のことをあきらめない、離せそうもないって。だったら、そうしてください」
「いや、けど、お前……」

 ここまで何の障害もなくというのもおかしいのだが、急に素直にこんなことをアッシュが言い出すのは、流石に妙だとシルヴァンも気づいたのだろう。あれから、何度か身体を重ねることはしたが、アッシュは決してシルヴァンの言葉に応えることはなかったのだ。それなのに、一体何がどう突然心変わりしたのだろうか。

「わからない、って顔していますね」
「そりゃ、わからないことだらけだ。お前はいつだって、俺の言葉に応えなかった、だから俺はてっきり……」
「でも、諦めない、んでしたよね」
「そりゃあ……」
「妥協案です。君がスレンとの関係に頭を悩ませているのは知ってます。少しでも戦力があるなら、越したことはないでしょう。君が望む彼らとの関係が築けるまで、僕は君に協力します」

 そこまでを告げると、シルヴァンはやや渋面をつくり、ああ、と声を漏らす。

「つまり、期限つき、ってことか」
「どうでしょう。それは君の手腕次第だと思いますけど、多分そうなると思います。その後のことは、その時に考えます」

 実際にアッシュはスレンとの関係がある程度落ち着けばゴーティエ領を離れるつもりではいた。国境付近が安定さえすれば、あとはシルヴァンが所帯を持ち子を作ればよい。仮に紋章持ちが生まれずとも、彼の存在は必要だ。そして、彼の血を継ぐ者も。それは、仮にスレンとの関係が良好であっても、必要なものなのだ。

「本当だな」

 ところが、意外なことにシルヴァンはアッシュの両肩を強くつかみ、鋭い目つきで挑むように、まるで言質を取るように告げる。

「僕は、嘘が嫌いです」

 きっぱりとアッシュが告げれば、シルヴァンは頷く。

「わかった。だったら覚悟を決めろよ。本当に、お前のことを離さないし、諦めないからな」

 シルヴァンは大言壮語するような男ではない。やるといえばやる、短くはない付き合いの中で、アッシュは彼をいう人物なのだと理解していた。恐らく、彼は本当にその言葉通りにする気なのだろう。
 だから、アッシュもまた少しだけ挑戦的に笑ってみせた。
「望むところです。だからしっかりと、見せてください。君がどれだけ諦めが悪いのかを」



   スレンとの交渉に際し、実際にアッシュの助力の仕方は尋常ではなかった。
 彼は根気よく彼らの言葉を学び、文化を知る努力をし、何年もかけて彼らとの交渉までとりつけたのだ。そうただ言ってしまえば簡単なことだが、生半な覚悟でできる事ではなかった。何度も相手側に、或いは同胞にすら殺されかけたこともあった。だが、それでもアッシュは決して弱音を吐くこともなく、シルヴァンの影に徹して動き、その働きを助けた。アッシュの存在があればこそ、シルヴァンは命の危険を殆ど覚えなかったといっても過言ではなく、ゴーティエ家は武力だけではない解決方法を模索することが出来たのだ。彼がいなければとうに自分のみならず家族ですらなんども死んでいただろうと思う。
 そして、アッシュの柔らかな面や物腰と声色は相手の警戒心を解くには十分で、かつその性根がまずは相手を理解しようとする立場を取れば、頑ななスレンの住人たちの心も時間をかけてではあったもののほぐれていった。


 そうして、何年も経て互いにようやく刃を交えることなく和睦を結び、数日経った休息日。その日も休息日とはいえ次期当主としてやらねばならないことが山積みで、シルヴァンは目の前に鎮座する大量の書面を眺めながらため息をついた。
 そもそも、アッシュはスレンとの和睦が為れば去るだろうという漠然とした予感があった。幸い彼はまだ、その功績をシルヴァンの父や親族にも認められ賓客として歓迎されている。だが、シルヴァンにしてみれば、彼は賓客でもなんでもなく、むしろ伴侶として傍にいて欲しい存在だ。諦めない、それはそういう意味の言葉だった。
 だが、流石にそれを両親に切り出す準備はまだ整いきってはいなかった。最も良いのは分家或いは兄弟が紋章を宿した子を産んでくれることだが、そればかりは女神の采配に任せるしかない。だから、どこか祈るようにシルヴァンは手を組み息を吐いた。

「当主様は、また仕事をさぼって考え事でもしているんですか」
「アッシュ、お前、帰ってたのか、予定より少し早いか?だいたい今日は休息日なんだよ。それでも半分仕事してるだけ、真面目だって褒めてほしいくらいなんだが」
「あとでいくらでも褒めてあげますから」

 あしらうように言う割には穏やかな笑顔を見てしまうと、どうにもシルヴァンも締りがなくなってしまうのは、惚れた弱みというやつなのだろうか。
 アッシュはあれから十年近くも経っているというのに、その年齢を一切感じさせない年の取り方をしているものだから、いつまで経っても若々しいままだ。一方シルヴァンはといえば父に似てきたのかやや年齢を感じさせる深みのある顔つきになった、とアッシュは褒めてくれるのだが、あまり自覚はない。

「あんまり期待しないでおくな」
「今回の件は、僕の部隊だけでなんとかなりましたし、スレンの住人も協力してくれましたから。あまり犠牲も出ずに予定より早く帰還できたんです」

 アッシュは半節ほど前からスレン地方で起きた反乱の鎮圧――そういえば少々大仰になってしまうのだが、一部反抗的なスレン人の討伐に向かっていた。討伐とはいえ、極力話し合いで、と彼は言っていたのだが先に送ってよこされた報告書によれば少々血が流れた、とだけは記載されていた。何事もそうそうすぐ巧くはゆかないのが、世の常だ。

「それにしてもお前はホント、凄いよ。俺らがあれだけ何代も苦労していた相手を、たったここ数年でどうにか和睦まで持ってっちまうんだからな」
「それは、君や君の父上の功績ですよ。僕はたいしたことはしてません」
「それをお前が言うかよ。お前が裏で色々と動いてくれけりゃ、俺や親父はとっくに死んでた。下手すりゃお袋や、兄弟もな。なあ、お前に渡した剣、未だに使ってくれてるんだろ」
「はい……これ以上、手に馴染む剣は、どうしても、見つからなくて」

 どこか照れくさそうに告げるアッシュを、シルヴァンは立ち上がり傍に寄ると腕の中に抱き寄せた。久しぶりに感じるアッシュの体温と感触は、相変わらずいとおしい。そして、触れてしまうと歯止めが利かないのも、致し方ない、とシルヴァンは自分で自分に言い聞かせた。そうでなくとも今回の遠征は半節ほどかかっていて、その間中アッシュとは書面のやりとりすらほぼできなかったのだ。彼に最後に触れたのはいつだったか、そんなことを指折り数えてしまう程度には、目の前の年齢を感じさせない滑らかな肌を、甘い声を、堪能したくなった。

「よし、今日の仕事はもう終わりだ」

 勝手に宣言して、アッシュの薄い唇に口づける。それも軽く、ではなかった。
 唇を食み舌を割り入れると、逃げられないように細い腰をぐっと抱き寄せて角度を変え、わざとらしく音を立てて何度も味わう。突然のシルヴァン深い口づけに対応しきれないアッシュが何やら初々しくてシルヴァンは思わず笑みを深めながらも、口づけは決してやめなかった。荒い呼吸音と、互いの唇に吸い付く水音だけが執務室に響き渡る。そしてそのままシルヴァンはアッシュを荒っぽく執務机に押し倒して、上着に手をかけた。

「ちょ、ちょっと、待ってください!いくら何でもこんな場所で……!」

 焦るようにシルヴァンのしつこい口づけと身体をまさぐる手を制止して、アッシュは悲鳴に近い声をあげる。

「ここじゃなきゃ、いいのか?」

 それなら、とわかっていてシルヴァンはアッシュの両足に強引に膝を割り入れながら、意地の悪い声を出した。

「ぅ、あ……そういう、こと……じゃ……」

 突然の、久しぶりの刺激のせいか、疲労でどうにもならないのか、アッシュは一気にその若草色の瞳を潤ませてシルヴァンを見上げる。そんな表情をされ、正直なところを言えば、このままこの場で身体を暴いてしまいたかった。
 だが、流石にシルヴァン年齢を重ね多少は落ち着いた身だ。そのまま荒い呼気を重ねるアッシュを抱き上げると、執務室に連なる寝室へと連れてゆく。アッシュは乱れてしまった机の上が気になっているようだが、シルヴァンにしてみればそんなものはあとからどうにでもなる。それよりも今は、久しぶりに腕の中に閉じ込めた愛しい体温を、存分に感じたかった。



   結局その日はシルヴァンが折り目正しい生活をすることはなかった。流石に食事には顔を出したものの、それ以外はひたすらにアッシュの身体を貪っていたのだ。まだまだ男盛りであれば、飽きることなく身体を繰り返し堪能し、蕩けるような快楽を味わい尽くさんとばかりに、しつこいほどに身体を重ねた。
 疲労しているはずのアッシュは、それでもけなげにしつこいほどに求めてくるシルヴァンに必死に応えるように身体を開き、散々甘い声を漏らして何度も果てさせられ、しまいにはシルヴァンの腕の中で気絶するように眠ってしまった。気づけばとうに夜は更け、シルヴァン自身も疲れ果てていた。ここまで抱きつぶしたのは本当に久しぶりで、自分がそれほどにアッシュを求めていたのだという遅い自覚に、汗にまみれた髪をかき上げながら苦笑する。何れにせよ、シルヴァンはアッシュを離すつもりなどは毛頭ない。その為の最後の駒は、運を天に任せるがごとしではあるものの、どこかで漠然と大丈夫だという確信があった。それは、根拠のないものではあったが、この時確かにシルヴァンは女神は自分の味方なのだと思っていた。



   果たして、女神はシルヴァンの味方をしてくれた。ゴーティエ分家に、紋章を宿した子が生まれたと聞いた時、報告してきた母を思わず抱きしめてしまうほどだった。母親もまた、シルヴァンがアッシュをどう思っているのか薄々ではあるものの感じていたのだろう、笑顔で真っ先に報告してくれた。
 そして意気揚々とアッシュが居る部屋へと向かうシルヴァンの表情は晴れ晴れしく、すれ違う使用人たちも思わずつられて微笑んでしまうほどだった。
 はやる心を抑えつつ、扉をノックすれば、中から誰よりもいとおしく、何度聞いても心地よい声が返ってきた。

「アッシュ、紋章持ちの子が生まれた」

 ところが、唐突すぎるシルヴァンの言葉をアッシュは理解できなかったらしく、首を傾げながら瞬きをして、その意を問うように名を呼んでくる。そこで、ようやくシルヴァンの明晰な頭が回転しだした。我ながら浮かれすぎだとも思う。だが、今日くらいはそれも許されるだろう。今日は人生で最も、何よりも、待ち望んだ日なのだ。

  「ゴーティエの紋章を持つ子が産まれた。だから、俺はもう縛られなくていい。アッシュ、もう、いいんだよ」

 告げながらアッシュに近づくと、その身体を抱きしめ、何度も口づけを落とした。突然の行動にアッシュはついてゆけず、されるがままに呆然としている。

「あの……シルヴァン。ええと、まずはおめでとうございます。それで、とりあえず、落ち着きませんか?」
「これが落ち着いていられるか!お前、ああ……いや、悪かった。なんだ、その、……そうだな、少し、話をするか」
「はい、僕にも判るように説明してくださいね」

 それでも、おおよそを把握しているのか、改めて見てみればアッシュの表情は以前とは、というよりも今までと比べて格段に穏やかになっている。それでもシルヴァンはきっちりと言葉として告げたかった。

「ああ。お前は、前に言っていたよな。俺の傍にはいられない、スレンとの問題が片付いたらここを去るんだって」
「はい、確かに言いました。ですが、正直まだ彼らとの問題が完全に解決したとは思えないので君と君のご家族の厚意に甘んじて滞在させてもらってますが」
「でも、もう去る理由がなくなったら、お前は俺の傍にずっといてくれるか?」

 そこまでは黙って聞いていたアッシュも、シルヴァンの本人はそれでも丁寧に説明しているつもりの言葉に思わず苦笑してしまい、指先をそっとその頬に寄せた。

「シルヴァン、全然落ち着いてませんよ。肝心なこと、君はちゃんと言ってません」

 アッシュの言葉に、シルヴァンは完全にもう見抜かれているとこちらも苦笑いをして懐から指輪を取り出した。

「そうだな、どうも、浮ついて肝心の事が言えてないらしい」
「君でも、そういうことがあるんですね」
「そりゃ俺だって人間だからな……アッシュ」

 シルヴァンはそこで改めてアッシュを離し、一転して真剣なまなざしでその左手を恭しく取る。まるで、騎士物語の騎士が貴婦人に挨拶をするがごとく洗練された動作だ。それがあまりにも様になっていたのだろう、アッシュはまるで何かに化かされたかのような顔をしている。
 それでもシルヴァンは決して華奢ではない左手に、指輪をそっと乗せた。ゴーティエの紋章の入った、正真正銘、この家に嫁ぐべきものに送られる、結婚指輪だ。

「あ、あの、シルヴァン……」

 想定していただろうに、アッシュは改めてそれを見て絶句する。覚悟を決めたのか、そうでないのか。それはシルヴァンにはわからなかったが、ここまできて言葉を止める理由はなかった。

「結婚してくれ、アッシュ。共に生きて、共に歩んでくれ。お前なしの人生は、考えられない」
「いえ、その、でも」
「世継ぎはもう必要ないんだ。紋章持ちだって産まれたが、きっとこれから以前よりは重視されなくなる。フォドラの夜は明けたんだ、そうだろう?それに親父もお袋も、お前のことは信頼しているし、これからスレンの連中と渡り歩いていくのには絶対にお前が必要だ。わかるだろう?」
「それは……多少は、そうかも、しれませんけど」
「言っただろう。俺は、諦めが悪いって。どうだ、参ったか?」

 アッシュが何を言おうとも、シルヴァンは決して引かなかった、引く理由がどこにもないからだ。そして未だ戸惑うように何かを言おうとしているアッシュの左手の薬指に指輪を嵌めてみせる。アッシュはそれを、拒みはしなかった。

「……ほんとうに、後悔しないんですか。僕は君に……」

 嵌められた指輪を見て、未だ実感が沸かないのかはたまた不安にでもなったのか、先ほどまでの調子のよさが嘘のようにアッシュの声はちいさく、心許ない。

「お前はお前でいるだけで、俺に必要なものをくれてるんだよ。気づいてないだけでな。だから、俺はお前が好きだし、愛している」
「き、君はほんとうに……」

 流石にそこまで言われ、アッシュの頬は少しずつ紅潮してきた。それでもシルヴァンはしつこく手を離さずに言葉を紡ぐ。

「愛している。何度だって言ってやる。お前が降参するまで、何度だって、繰り返すさ。アッシュ、俺は」
「わ、わかりました!わかりましたから……!!参りました、君がここまで用意周到に策を巡らせていたとは思いませんでした」

 アッシュの言葉に、シルヴァンははて、と首を傾げる。確かに外堀を可能な限り埋めていたことは認める。だが、最後だけは運任せだったのだ。そして、その運をただ見事にひきよせただけだ。

「策?」
「違うんですか?」
「流石にゴーティエの紋章持ちの子を生まれさせるような能力は、俺にはないぜ?」
「……それも、そうですね……」

 そこまで言われ、アッシュも納得する。いかに紋章の力が解明されていないとはいえ、そんなバカげたことができるはずがないことくらいはわかるのだろう。自分の早合点に恥じ入ったのか、そうではないのかはわからないが、アッシュの顔がより紅潮し、完全に俯いてしまう。

「けど、傑作だな、お前がここまで茹蛸みたいに真っ赤になったの、学生時代以来じゃないか?最近は可愛げがなさすぎて、少し寂しかったんだぜ」
「その可愛げのない僕に必死に求婚しているのは、誰なんですか」

 うつむきそっぽを向きながら憎まれ口を叩く姿すら、愛おしくてたまらない。シルヴァンは再びアッシュを抱き寄せて、肩に顔を埋め、静かに息を吐く。

「俺。お前のそういうところも、好きだからな」
「はあ、もう、……わかりました。……君の諦めの悪さも、この十数年で思い知らされましたし……きっと、僕が出て行ったところで、フォドラの果てでも、いえ、世界の果てまでだって追いかけてくる気でしょう」
「ご明察。俺はお前以外の伴侶を持つことなんて、考えてなかったからな」

 告げながら頬に、耳元に、口づけを落としてゆく。綺麗に撫でつけられている細い灰色の髪を撫でながら、頬擦りをするように頬を寄せ、もう完全に自分の手中にあるのだという確信を、持ちたかった。

「だったら、僕はもう逃げ場がないじゃないですか。狡いですよ、こういうやり方は」
「こういうやり方をしなきゃ、お前は絶対に承諾しないと思ってたしなあ」

 顔だけを離して、シルヴァンは満面の笑みで告げる。アッシュは困ったように眉を下げて、小さく息を吐いた。

「何でもお見通し、ですか……。シルヴァン、僕でよければ、一緒に……なってください」

 やや困惑気味ではあるものの、その顔は確かに笑みをたたえ若草色の瞳はゆるやかな弧を描きシルヴァンに向けられていた。
 シルヴァンは力強く、頷いてみせる。この上なく上機嫌に、幸せそうに。

「ああ。誰よりも幸せにして、悔いなんてなかったって絶対に言わせてみせるからな、覚悟しておけよ」

 豪語するシルヴァンに、アッシュは破顔して顔を寄せる。

「はい、約束を破ったら、君からもらった剣に誓ってただじゃ済ませませんから。シルヴァンこそ、覚悟してくださいね」
「おうさ、俺に全部任せておけ」

 そうして二人の顔は近づき、そっと触れるだけの口づけを交わす。そして唇を離してから、互いに見つめ合って同時に噴き出す。

「ひどいプロポーズもあったものですね、君はもう少し、スマートだと思ってました」
「たく、ほんとに可愛げがないな、お前は」

 けれども軽口をたたき合う二人はこの上なく幸せそうに触れ合い、暫く身を寄せ合うのだった。
 その先行く道は、決して安楽とはいえないことを、二人とも理解している。
 それでも、きっと何があっても乗り越えられるだろうと、ただその手を取り合うだけでそう思えることは、この上ない歓びのだと、再び笑い合い互いの指を絡める。

 この先にある未来は、きっと明るい。互いの手を取ればこそ、そう思えた。
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