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 冬場の厳しいことで知られたデイン国内において、この晴れ間は僥倖といっても差し支えはない。
 山岳地帯、その険しさたるやフェニキスとはまた趣きは違うものの、匹敵していた。さらにそこに、侵入を拒むかのような獰猛な白い牙が侵入を拒んでいる。その証拠に生活の痕跡など、欠片程も見当たりはしない。
 だがそれは、あくまでもベオクの生活限界範囲で言えば、であった。
 翼を自在に操り、獰猛な自然とも真摯に向き合ってきたフェニキスの民であれば、充分に生きていけよう。
 今更にベオクとラグズの優劣など思索するなど詮無きことだな、と自嘲の思いを、ウルキは胸に抱く。そもそも得ようと望んだものが違うのだ。女神は二つの異なる種に、異なる願いを、異なる加護をそれぞれに施したのだ。
 黄昏に呑まれる直前の山肌は、残酷な程に透明だった。

 ウルキのそんな心情などまるで察することもなく、奇声とも歓声ともつかぬ声をキルロイはその当人の背であげている。
 興奮しすぎてさて落ちてしまうのではないのか、そんな心配が必要なほどに。
 
 きっかけは、…思い出すことをやんわりと全身が拒否した。
 うやむやにしておけばよい、と誰かがささやく。

 「ウルキさんウルキさん!」
 キルロイの歓声が振って来た、また何かを「発見」したのか。
 ヤナフのように視力に優れるわけでもないのに、ウルキの意図しないものを見つけ、敢えて見るまでもないような事を報告し、いちいちそれに大げさに歓喜する。実に十一回目。
 その感性が恐ろしく自分とはかけ離れているのだ、という納得も、同じだけ。
 今度は紅に染まり行く北西の分水嶺を指差して、はしゃいでいた。雄大な景色を見れば多かれ少なかれ、打ちのめされるものなのだが、その喜びをまるで全身で表現しても尚、余りある、そう言わんばかりの弾んだ声色。
 背に掴まっている手が落ち着きなく、ウルキにもそれを見ろと催促をしているようだ。
 同じものを見たところで、全く違うものを胸に抱くというのに。それでもウルキは前方に目を向けて見せる。そうすることで、キルロイはひどく喜ぶのだ。
 まるで子守りのようだと、ウルキは思う。
 とたんに背を掴んでいる力が緩んだ。感嘆のためいき、その表情を連想させるのは容易な。
 冷静に、意識を、身体を水平に保つ事に集中させる。
 山間部を自在に、気ままに吹く風はこちらの都合などは構うわけもない。ゆえにウルキは最大限の努力を払う。背中の住人のように、景色に魅入る暇などは、ない。
 
 ふと目を離してしまったならば最後、彼方へ飛んで行ってしまうのではないか。
 地に縛られ続けたものを全て通り越し、空を舞うものも簡単に飛び越えてしまって。

 最初に声を掛けてきたあの日から、キルロイという存在は奇妙な錯覚をウルキに終始覚えさせていた。
 漠然とした感覚、直感と或いは呼ばれるもの。それを根拠に行動するには危険だったが、指針として一つの可能性を考慮することはあながち無駄ではないと、経験から知っている。
 だがあまりに観念的すぎて、漠然としすぎたそれを、ウルキは誰にも告げた事はなかった。
 長年の相棒であるヤナフにすら。…彼であればこそ。
 腹の底に密やかに仕舞い続け、けれども繰り返し確信を覚えるほど、きっと真実に近い。

 空への憧憬。地に足を付けるより空を舞いたいと望む。現に、再び空へ連れて行くと告げた時の笑みは、こちらが面食らう程だった。
 羽ばたく翼への期待。自由に羽ばたける、そう思う心。あるいは異なるものへの恐れのなさ。無知からくるものらしいが、それにしてもラグズに対する臆面のなさは、感嘆に値する。こちらの警戒心がばかげた杞憂と言わんばかりの。
 憧憬と期待、夢想。異なるものへの、知らぬものへの。
 それら導き出されるのは、不安定な感覚と、もうひとつ彼が満足してはいなかったのだろうか、という憶測。
 その証拠に、年齢に不相応な無邪気さが、時として脆い仮面のように思える。沢山の言葉を、芯から穏やかな声色で喋れば喋る程、実はそれが薄い確固たる防壁なのではと思うことも、少なくはない。
 戦時下に癒しの力を携え趣くということは、前線とは違う意味で死と向き合わねばならない。助からぬものを受け入れねばならない。時に選ばねばならない。切り捨てねばならない。力と願いは、決して比例などしない。
 その精神に強靭さを保たねば、そもそも前線で兵士を癒し、力づけ再び死地へ赴かせることなど、不可能だ。
 己が無力であるということを知り、現実を受け入れる。
 受け入れた上で、それでも体力の続く限り癒しの杖をふるい、絶望から一人でも救おうとねがう。
 変わらぬ態度で生と死とその双方を見届ける日常。

 それが日常になれば、果たして心の強さを保つための子供の顔なのか。
 けれどすべてはただの想像だ。ウルキは彼の事を、何も知らない。

 知りたくはないといえば嘘になる。けれども、衝動に駆られる程な若鳥でもない。
 ただ本人の口から聞いたこと「幼い頃から病弱だった、自由にならぬ事が多く、だからこそ空を飛ぶものに憧れを抱いている」…告げる口調は実に楽し気に、そしてあどけなささえ宿して語る表情が、一体どこを見ているのかわからなかった。
 戦場で法衣を翻し、休む暇ももたず癒しの杖の魔力を解放し、傷の手当をし、笑みを絶やす事のない姿を地上に見つけた時に、例えようのないもどかしさを感じた。
 そこに生じた感情についての原因までは、自己の内と語らうほど感傷的ではないつもりだった。

 ただ子供だと思ったまでだ。無知故の強さなのだと、そう思った。
 ウルキは自分を納得させる言い訳を既に用意していた。
 

 
 西の空は紅を増している。
 陰りが、白銀の山肌を覆い始める。
 もう戻らなければならない。偵察をかねた、などと我ながらあまりに安直な言い訳だったと今更ながらに思う。敢えてそこで知らぬふりをしてくれたヤナフには、相応の礼をせねばならない…何をしていたのか、などという無粋な質問に回答せねばならない義務以外の形で。
 ゆるやかに空を回転し、翼で風を混ぜ、切る。体感する風の冷たさが、幾分か増したようだ。
 フェニキスの夕日を、思い出していた。雄大な赤。少し思いを馳せれば、鮮明に思い出す。穏やかに、包み込むように、優しく全身を撫でる光の粒の集合。山肌をぬくもりのように照らす寂し気な色。
 冷たく冷え冷えとした山岳地帯を照らす緩やかさとは違う。背に感じる体温とも、だから違う。
「ウルキさんは、寒くないんですか?」
 呟くようなそれは、応えを求める気はない問いかけらしい。
 話しかけてくる口調で、だいたいの事が予想出来る。それほど、共に空に在ったのかという軽い驚き。
 この状態で化身を解いてしまったのなら、体勢を変えず人一人を背負う事など不可能だ。そして今この体温を手離してしまったら、彼のすべてが沈んでゆく夕日に呑まれてしまうだろう、という漠然とした不安。
 「風が、少し冷たいですね」
 冷静な声だった。どこに向かう問いなのか、わからない。胸の奥に、ざわついたものを静かに波立たせるかのように抽象的なくせ、肌を刺すような不快感を伴う。
 非現実的な妄想だとは、何故だか思えなかった。
 キルロイという青年を構成しているものすべてが、ウルキにとって決して理解する事のない、理解出来ない、ひとつの色彩とたくさんの感覚の象徴だった。
 ベオクだ、ラグズだという種の違いなど、具体的で明確なものではない。
 曖昧だがしかし決定的な差異がある。
 そこまでわかっていて尚、具体的なものはなにも、わからなかった。
 それを追求することは恐ろしかった。
 けれど、追求しようとする自分を抑えながらも、抑えきれてはいない。だからせめて意思疎通のかなう姿ではキルロイと相対する事は避けていた。
 臆病な己を、嘲笑う事すら満足にも出来なかった。

 掴もうと手を伸ばしたら消失するもの。存在を捜し求めれば赤い夕暮れに呑みこまれそうな不確かな重さ。どこからどこまでも、夕凪の色彩を思わせ、穏やかな匂いのする笑み。
 それは自然の摂理の中で一日のうちほんのわずかな刻限にのみ、運が良ければ目の当たりに出来る、ウルキにとって例えようもなく美しく、儚く、遥かなる情景だった。
 それを凝縮すれば或いはこんな姿をしていると言うのだろうか。
 穏やかさとひたむきさを強さに出来る、この魂の持ち主が。
 ふいにその背に、体温を感じた。まったく彼の存在を信じる根拠は、この体温に縋るしかない。
「また、無理を言って。ごめんなさい。でも」
 声がくぐもっていたのは、背に顔を押し付けているからということにしておいた。浅い呼吸のその音すら、風の哭き声に惑わされず、よく耳に届く。
 沈みかけた冬の太陽を背に、最小限の羽ばたきで風に乗った。大地よりの力より、解放される瞬間。どこまでも、高く高く天にあるいは辿り着けそうに錯覚する、上昇。
 言葉は続かなかった。


 言い訳の先にある感情が、まるでこの黄昏の空のようだった。
 暗く、深く、底の見えない、不安に増幅された不気味な未知という感覚。空に馴染むタカの民には、それだけでも本能的な恐怖に苛まれる連想。
 翼は風の流れを捜し、包み、冷えた空を切る。戻らねばならないのだ。
 背の重みを感じながら、そして根拠のない消失の悪寒を常に抱きながら。
 早く戻らなければならないという焦りと、このまま闇に呑まれてしまっても良い、という甘美な誘惑がやさしげにウルキの肩を叩いていた。

 惑うな。
 惑うな。
 雄大なこの姿を維持するには、それだけでも気力を消耗する。今この状態で、化身は解けない。
 腹の底に、不安定な感情が静かに蓄積してゆく。
「嬉しかったです。嬉しかったんです」
 何時もの勢いが一体どこへといってしまったのか、背筋をひやりとする予感を抱かせるほど、小さな呟き。はがれた仮面。
 聞き慣れぬ調子を、あらゆる音を捉える耳が掴んだ、その瞬間。

 ウルキは影に、囚われた。
 刹那。望むと、望まざると、問う暇すらもなく。
 決して、戦士としては感じたことのない、どうしようもない焦りと不安の行く先、絶望と希望の境界線。

 冷えた空気が喉を容赦なくく貫く。そこに伴う悪寒。

 臓腑からこみ上げるものが、全身にくまなく行き渡り、羽根という羽根の先の先まで貫く、衝撃と衝動。

 ここが敵地ではなく故郷の山岳で、山肌には穏やかな夕凪と紅の名残が見えたのなら、迸るように喉の奥底から鳴いていたに違いなかろう。

 ざわつきをごまかすように、ウルキは慌てて対の翼をはばたかせる。

 強く、強く。掻き消したかった。
 強く。否定してはならないと、どこかで思っていた。
 強く。けれど何かを欲するには、あまりに空虚すぎる身体だった。

 

 今、言葉が、欲しかった。伝えられるものがあればいいと、思った。
 掛けてやれる言葉など知らない。だが、言葉を与えたかった。
 無力な自分を欺き続ける事は、もはや苦痛だった。
「………ありがとう…ございます」
 まるで蜻蛉の声だ。
 遠慮がちに触れるもの。温かく、そして震える手がそっと羽毛に触れる感覚。

 見えずとも、伝わる。確認せずともわかる。こみあげてくるものは、言葉にできないほどの。
 その一見の印象通りに、穏やかな南風に似た仕草のひとつひとつから溢れているもの。
 全ての不安など、最初からなかったのだと、安堵を覚えさせる指先とてのひら。触れられればあたたかい。触れてしまえばその瞬間の恐ろしさとは裏腹に、ただ、そこにある体温。
 そこから伝わるすべての感覚が目眩に似た錯覚を引き起こした。
 羽毛のひとひらの先まで突き抜けるおだやかな衝動、するどい痛み、脳裏をよぎる夕闇。愛おしい、ということ。

 ウルキは唐突に理解した。


 決して言葉に出来ない感覚があるのだということを。

 決して言葉にしてはならない、してしまったのならば溢れ出て溢れ、そしてきっと二度とは見る事すらも叶わない、繊細な透明な感覚が、存在してるのだということを。

 けれど言葉ではないそれに、返すものなど、なにも見つからない。
 見つけられない。

 一体、何をどうすればいいのか。
 応えることもままならない。

 
 触れる指先の、それでもなんと安らかなことだろう。その体温の、溢れる感覚の、心地よさに包まれたいと願うのは、どれほどに傲慢なのだろう。