数年ぶりの帰郷、数年ぶりの通り道――そもそも傭兵を生業とするツイハークにとって帰路だとかそういう考え方はあまり馴染まないものではあったけれど、今こうして見知った景色や知っている空気の中徒を進めていると、心が少しずつ不思議と穏やかなものに満たされてゆき、足も早まる。そもそもこの国を「祖国」だと認識していたということも、懐かしいと感じることも、無縁であったというのに――成る程、恋というものは人をいとも簡単に変えてしまうのだ。それ見たことか、だから言ったじゃないか。バカなことをした。嘲笑というよりか諦め投げ出すような口ぶりは、過去の自分自身のものだ。
―――ああ、だからこそ、恐れていた、か。
暗がりの隘路を往きながらふと思う。心の奥底に閉じ込めて、時折それを覗き見て、決して手の届かぬ甘い夢に浸ることそれでも十分だと諦め、繋がれていた自分は、その状況にけれども安心もしていた。もう失うことはないのだと。この思い出は美しいし優しい。何も傷つけることはない――誰も、自分自身も。だからそれでいい。そういう柔らかな、傷跡のような夢に寄り添っていた自分はやはり臆病者だったのだ。恋とは、だから恐ろしい。一度覚えた痛みの甘さを経験すまいと誓ったのは、他でもない自分自身だ。
が、そんなものはひとたび愛おしさに余りある柔らかな眼差しや控え目な表情を脳裏に描けば消えてしまう。人の目を直接見ることを憚るように常に伏せがちな瞼や、意外に長い睫、その奥にある夜空の瞳が瞬くと胸の奥に針が突き刺さったような甘さと切なさを覚えること、ふとした仕草が驚くほど柔らかで洗練されていてとても貧民窟育ちとは思えないこと、ああ、幾らでも鮮明に思い出せる。自分の中には、しっかりとその面影が根を下ろしている。かくも自分が現金な男であったのかと、精悍さと甘さの同居する顔に苦笑を浮かべて駆け足を緩めれば、果たして目の前には目的地でもある古びた教会が聳えていた。
「……帰ってきた、か」
鄙びた木造の、朽ちかけた建物を眺めながら、事実そう感じている自分が何よりも可笑しくなり、男は頬を緩めた。それもこれも、この先に待っている人を思えばこそか。するとやはり恋とは魔物である。ベオクラグズ二つの種の溝など、あらゆるものを軽く越えて尚心を騒がせる熱病の前には、さほど障害にはなりえない。ああ、そういうものだ、人とか、男とかというものは。
思い出ではなく実際に今心の中に渦を巻く感情は、決して美しくも優しくもない。そういう言い方をするには些か急いている。それもこれも長く離れていたからだとか、手紙の返事をしたためることを珍しく忘れていた事への申し訳なさとか、国境をいくつも跨ぐような旅路で疲れていたとか、にも関わらず心だけはまるで戦に臨む前のように勇み奇妙な緊張感があるだとか、理由は沢山あった。そういう理由が自分の中にあることを認めた上で、ツイハークは深呼吸をした。この昂ぶりはまったく滑稽だ。初めて恋を覚えたばかりの少年のように、怯えている。もう一度息を吸い、吐いた。ああ、流石にもういいだろう。
が、そんな傭兵男の覚悟を嘲笑うかのように、古ぼけた扉が勝手に開き出てきた姿は、記憶の中のそれとはほぼ変わらず――が、少しばかり痩せたよにも見える。扉を出るや壊れかけた桶の中にごちゃごちゃと雑多なものをいれたまま教会脇の水場へ向かおうと向きを変えるも、扉を開けてまず目にしたツイハークの旅塵まみれの姿に呆然となり、次に落としかけていた桶を抱えなおして地面に置いてから、何度も瞬きをする。その表情が記憶にあるものよりもずっと幼くて、ツイハークの心の昂ぶりとざわめきが強く徒歩を進めろと促した。
「やあ、元気そうだ」
我ながら間の抜けた再会の言葉と内心苦笑いをしながらも、浮かべる微笑は心の底からのもの。尚も呆然と立ち尽くすひとに近づき、そのまま腕の中へと収めれば、少し戸惑うように身動ぎをされた。
「ただいま、という言い方はおかしいかな」
「そういう、…ことは…」尚も戸惑いを露に呆然となる姿がこそばゆく、ツイハークは小さく笑ってみせた。ぱちぱちと繰り返される瞬きに、やがてツイハークを認めた色が宿り、すると幼さの替わりに表れたのは、再会を懐かしむあるいは喜ぶというよりも戸惑い、どこか怒りのようなものを髣髴とさせる、強いものだった。
「ツイハーク。ガリアで何か…問題が、起きたのか?」
まったく。久しぶりの恋人同士の再会の会話にしてはあまりにも色気がなく、孕むものはぎこちない。けれども、それが彼らしいといえばらしくて、ツイハークの頬がひきしまることは当分なさそうだった。自分は今、おそらく、ひどくだらしない顔をしている。
「まさか、万事抜かりなく…というわけにはいかないけれど、おおよそは順調だ。手紙にも書いていた通りに」
「けれど」そこで、元来柔らかな筈の声が決定的に硬質になる。ツイハークの淡い抱擁を拒絶するように手のひらが胸に押し当てられた。「それは、もう一巡りも前の事だ」声は明らかに、傭兵の公私双方の不義理を責めていた。
が、その伏せがちの眼差しの奥底に沈んでいる僅かな感情を、ツイハークは見逃さなかった。当然だ、会えない時間が長ければ長いほど、鮮明になる記憶の中で思い描いた眼差しだ。そして記憶よりもなお生々しいぬくもりと、表情と、声と、感触なのだ。
まるで女子供みたいな温い反発などものもとせず、そういう主張を込めてツイハークは以前よりも少し尖った印象が否めない顎に手をかけながら、危ういほど細い腰に回した腕に力を込めた。
そうして、癖毛に隠れた耳元にそっと唇を寄せて囁く。「だから、こうして帰ってきたじゃないですか。慣れない報告書よりもずっと、君を感じられる」昔よく使っていた声と言い回しを交えると、躊躇うような呼吸と、続けて呆れたように落とされる溜息。「……どうして」伏せ目がちのそれが咎めるように細められ、表情が険しくなる。それもこれも、けれど彼なりの遠慮のなさの表れと思えばツイハークの胸の高鳴りは抑えようもない。「逢いたい、そう思ったから帰ってきた。なのに俺との別離を惜しんでくれた筈の恋人は随分と、薄情になったんですね」複雑に絡む癖毛に指を分け入らせて耳元を捉え、壊れ物に触れるようにそっと愛撫する。同時に腰に回した手のひらをゆったりとした衣服の上から背筋に向かって動かしてわき腹を掠めるように抱きなおした。
「あ、れは……」恥じ入るようにさっと目を逸らし俯く頬は、けれど僅かに紅潮している。こういう、ちょっとした感情の吐露がこそばゆくて、嬉しくてたまらない。だからついつい、意地の悪い言葉を続けてしまうのだ。ああ、らしくはない。戦場の優男だなんて渾名されていることを知らないわけではないけれど、そういう呼び名で自分を見ている連中に、本当は自分はこんな男なのだと、愛しくてたまらない相手をからかったり意地の悪いことをするのが好きなのだと、言ったらどう思うだろう。
「俺は、言ったでしょう、俺は……」続けて甘い言葉を囁こうとして、けれどツイハークはそれを息ごと飲み込んでしまった。
至近距離にある夜色の深い瞳が、僅かにそらされたそれが揺れていた。躊躇うように、困ったように、複雑な感情を滲ませて、再び瞬きを繰り返していた。ああ、そうだった――こういう顔を、俺は、見たくはなかった。それなのに、まったく。
包み隠さずに己が抱いている感情を告げると、驚くと同時に怯えるように視線を逸らされた記憶が唐突に蘇る。何かの間違いだ。永い沈黙の後にぽつりと落とされたあまりの言葉に、自身でもいいわけがつかぬほど乱暴な感情が湧き上がり抱き締めたことも――何故わからないのだと、ききわけのない子供のように痩身を抱きしめて、驚き見開かれる瞳をねじ伏せるように口付けをしたことも、ああ、そうだった、俺は、こういう目を見たくないと思って、なのに。
まったく、だから恋というやつは厄介なのだ。
冷静さも理性もなにもかもを奪ってしまう。何よりも抗いがたい情動を、甘さと苦さを交えて強く主張してそしていつだって男女問わず間違いを犯させるのだ。
ならば、俺は最初から敗北者だった。昔の甘く優しく美しい記憶の恋も、今のこの苦味とこそばゆさと戸惑いが混じる恋も、どちらにも永久に勝てるわけがないのだから。
「何度でも言いますよ。何度でも、何度も。ええ、俺は愛しています…君を、いつだって君の事をね」
そうしてひどく優しく、子守唄のように囁くと、ついに観念したように眼差しが落ちて、胸に押し当てられたままだった手のひらから力が抜ける。「……ひどい、冗談だ…ほんとうに、…ひどい冗談みたいだ…」
「残念ながら俺は本気です。本気にさせたのは誰でもないペレアス、君だ」
声にならない声が震える唇から漏れて、尚も強情な言葉を吐く傭兵を恨みがましく罵るような色が揺らいだ双眸にふと過ぎる。が、それは一瞬で消えてしまい、そこに残るのは再び幼さを残す不安げな色だけだった。本当に?子供の声がそう繰り返し囁くように、ゆらゆらと不安定に揺れる瞳は問うている。言葉にできない、することも躊躇われる、ここまで直接言葉で告げ、或いは態度に示しても尚これだ。愛おしさと同時に苛立ちが募り、相反する感情がばちばちと火花を散らしながらもツイハークの中で馴染んでゆく。ならば、わかるまで知らしめるだけだ。再び戦場に向かう覚悟の顔をちらと垣間見せると、不安の色は驚きに変わり、その意味を問うように藍色が濃くなった。
ふと、ツイハークは全身から力を抜いた。痩身を拘束する腕も手もほどき、そして肩をすくめてみせる。「まあ、とりあえず、久しぶりに戻ったのにいつまでも戸口に突っ立ったまま、旅の汚れも落とせやしないというのは、流石にどうなのかな」
「あ…そ、…すまない、…あまりにも、突然で、…いや…」おどけて告げれば、しどろもどろになりながら懸命に言葉を紡ぐさまもまた愛おしかった。「……ツイハーク、ええと」
「ただいま。元気そうで安心したよ」
「あ、ああ、…おかえ、り」孤児であり、だからこそ何よりも求めていたのは家族というようなものだと、自嘲気味に呟いた言葉を忘れてはいない。だから恋人だとかそういう繋がりよりも、多分もっと、違うものを求めてしまうかもしれない。それでもいいのか。それならば、たぶん。曖昧に、懸命にツイハークの気持ちに応えんと己の感情の正体を探りながら真摯に告げる態度にこそ、ツイハークは心の底から惚れたのだと痛感した。大切な人とは、だから、当たり前の挨拶をできるようになりたい。子供でもそんなことを言わないだろうな、複雑に笑う表情こそ、たまらなく愛しい。もう何年も前の記憶なのに、未だに鮮明に、息遣いさえも思い出せるのだ。そしてようやくそこに見慣れた柔らかなものが浮かんでいた。淡く穏やかな光が濃紺の色を柔和な印象に変える微笑で、細められた双眸はその言葉が如何に日常的で大切なものなのかを何よりも物語っていた。「……おかえり、ツイハーク」
見ているこちらが呆然となってしまうような、それこそ見たこともないほどに満たされた表情をするペレアスに、今度はツイハークが驚く番だった。
*こちらは2016年12月発行同人誌[Je t'aime, j'aimais]に収録済です。通販はBOOTHをご利用ください。