地下道独特のじっとりと濡れた空気の中に潜む鋭さは、確実に今自分たちが向かっている方向から流れてきて来ている。
だからトパックはこの道が、方角が間違いだという可能性は考えなかった――そうでなければ、ひっくり返りそうな胃袋が更に捻じれて目的地まで辿り着く前に身体が参ってしまう。でなくとも色々限界に近いのだ。足音どころかちょっとした音ですら響くこの場所で駆け足はいただけない選択肢だし、かと言ってゆっくりのんびりというわけにもいかない。事態が逼迫しているということは嫌でも理解せざるを得なかったし、散策を楽しめるような場所でもないのだ。
一度頭を冷やせば冷静になれるというのは、トパックの長所だ。
宰相は、敵だ。元老院も敵だ。あの国で本当に信用出来るのは、皇帝神使サナキだけだろう。けれどもその肝心のサナキは国内にはおらず、元老院の企てたクーデターによりクリミアに亡命中だという。そういうことを、ウンザリするくらいに続くこの暗がりで足音と気配を潜ませながらトパックは考えていた。
先を行くムワリムとビーゼの動きに追従してさてどのくらいの時間が過ぎたのだろう。緊張感で疲労しているとはいえ、不思議と腹の虫が鳴ることはなかった―その事を、いまさらのように女神アスタルテに感謝する。そりゃそうだ、こんな場所で腹が盛大になって元老院の私兵に見つかるなんてのは、間抜けにも程がある。サザと再会したときの武勇談にするなら多少の脚色が必要だ。第一魔道書の手持ちに余裕はないし、つまり極力戦いは避けたいのだ。
ふと、空気が一瞬にして変化する。今までは幽かに感じる程度だった冷たさが、一転刺々しいものに変じたのだ。こういう寒さはベグニオン国内では北部のガドゥス領や国の北西部の山脈でなければありえない。ということは、出口が、近いのだろうか。トパックが口の中に言葉を含ませた瞬間に、先を行くムワリムの尾がだらりと垂れ下がる――それは、遭遇の合図だ。見る見るうちに―トパックが暗がりで確認できる範囲内でだが―ムワリムの全身は緊張を孕み、四肢がしっかりと地面に食い入る。その隣のビーゼといえばトパックを制するように右腕を掲げながら、静かに羽根に空気を孕ませていた。
つまり、これは、敵だ。
進行方向に敵がいる、というのも不思議でも何でもない。元老院議員の私兵連中はバカ正直にトパックたちの足跡を辿っているかもしれないが、セフェラン配下或いはゼルギウスお抱えの精兵、兵といえるものではない連中、今自分たちを追っている可能性のある連中を列挙してゆくだけで、ベグニオン国内に存在する有象無象の集団が浮かび上がり、もうこれは考えてどうにかなるものでもないな、とトパックは溜息を心の中で落とした。要するに、現状突破するには戦うしかない。魔道書は、それこそ半年前にデインを発つ時に王からだとミカヤより手渡された上位炎魔道書が一冊に、慌てて持ち出した中位炎魔道書と風魔道書だ。扱いに長けているのは炎魔道だが、こういう狭い場所で使役するには不適切だし、季節的にも場所的にも風精を呼び出すのがよいだろう。そう瞬時に判断したトパックは、従者二人やひきつれている部下たちのことはすっぱりと頭の中から消しさった―彼らの方がこういう場所での戦い方には長けていたし、そもそも戦場においては自分はせいぜい彼らの邪魔をしないように己の身を守る程度の動きしか出来てはいない。
腰にまとめて携えていた魔道書のうち、一番真新しい手触りのものをぱっと選び取り作りを一瞬で確かめてからトパックは深呼吸をする。慣れない風精を呼び出すのだから、生半な集中では暴発の可能性が高い。それこそ昔の、魔道書を初めて手にした頃の感覚を思い出せと己に念じて魔道書を徐に開いた。頁に記されている精霊文字を指先で辿る。そこに精霊の息吹を感じ、同調する――この世界に漂う風精を具現化するための儀式だ。トパックの指が文字列を滑るに従い浮かび上がるぼんやりとした光がやがて点滅しだし、周辺の空気の流れがあからさまにゆがみ収縮してゆく――そこで、トパックは手を止めた。おかしい、この魔道書の文言ではここまで一気に精霊が集まるハズがない―だが、その制止は一拍ほど遅かったらしい。すでに形を成しかけていた精霊は一気に膨れあがり、前方で既に化身し臨戦態勢を整えるムワリムとビーゼの頭上を飛び越え、前方へと術者トパックですら予測せぬ速さで空気の刃となり奔っていった。背後で何人かの戦士らの域を飲む音が聞こえる。
刃に割かれた空気の流れが元に戻ろうとする前に、濁った悲鳴が届く――これで、こちらの場所は凡そ割れてしまった。完全に、失敗だ。従者二人を傷つけなかっただけよしとしよう、とは、だがトパックは思えなかった。
「……悪い、失敗した。言い訳すると、精霊の流れがおかしい。多分、歪んでる」
端的な言葉だが、ムワリムは全てを理解してくれた。虎はゆるりと降り向き頷く。それはトパックの考えを、肯定する態度だった。
「元老院はルカンはともかくそれ以外はそこまで用意周到じゃない。宰相は…やりかねないけど、こういう精霊の歪みってのは土地に由来することが多いし、人為的に作り出すなんてのは禁呪の領域だからな。多分デイン国境が近いんだと思う。デイン山間部は風精の力が強すぎるってのは、けっこう有名な話だしな」
軽口をたたいてはみせるものの、近づいてくる殺気の多さは尋常ではない。じんわりと嫌な汗が背中を流れていて、むき出している肌はピリピリと痛んでいる。
「どっちにしても、突破しないと…どうにもなりませんよ、首領」
淡々としたビーゼの声が、やはり有難い。
「ああ、そうだな」風精なんてもともとおれとは相性がよくないんだ。デイン国境ももうすぐだとわかれば、遠慮することなんてない。つまり、全部叩きのめしてしまえばいいだけの話なんだから。
「よし、皆、ちょっとのあいだだけ下がっててくれ。今から特大のをぶちかます、だから…炎が落ち着いたら、あとはヨロシクな」
無理矢理に笑みを顔に貼り付けているものだから、頬の筋肉あたりはいよいよ痙攣してきていた。ああ、そりゃ怖い。怖いけど、同じくらいかそれ以上どきどきしっぱなしだ。心臓が破れる前に、特大の炎の塊をかましてやる。取りだした魔道書の装丁の重厚さと含まれている文字列の力の強さにくらりと眩暈を一瞬覚えながらも、トパックは冷たい土をしっかりと踏みしめた。