少年と英雄/sample2

 景色が闇色に溶け込み、景色が静かに色を失い死んでゆく。城砦付近に密集した建物が詰まっている、文字通りのネヴァサの闇は、すべて暗色に覆われようとしていた。その最奥の古ぼけた教会もまた同様に、色彩の死と沈黙が同時に訪れ、がらんと広い空洞のような教会堂の中も違わず闇に落ちかけていた。
 それを阻む光はなく、人の気配すら薄い。が、教会堂の奥に安置されている古ぼけた女神像の付近にのみ、ぽつねんと、それだけが忘れ去られたように灯る白色の魔道灯が、朽ちかけた建物内の様相をぼんやりと浮かび上がらせていた。そして、そこに立つ二つの影も、闇色に溶け込むようにして佇んでいる。

「最早、お前を止めておくことは限界か」

 闇の底のような場所に浸透してゆく声は、しわがれていた。魔道の寒々しい白色の光に照らし出される背格好は小さく歪み、首は前に突き出て腰はすっかりと曲がっている。が、光近く、そこだけがハッキリと照らし出されている皺だらけの顔と鷲鼻、落ち窪んだ眼窩と右頬や額に走る傷跡など、その風貌は場数を踏んだもの特有の厳しさに塗りたくられていた。
 老人の複雑な感情を孕む視線の先には、窓辺に佇んだまま闇の渦中に落ちてゆく景色を眺める、痩身の青年の背があった。彼は、老人の言葉に応じる気配すら見せてはいない。

「お前の中に在る闇、お前の中に在る業は、お前自身を苛むのだぞ。だけではなく、お前の不幸はお前だけには留まらぬ、それは…より一層お前の心を蝕み、体を侵し、魂を喰らう。それでも、尚、選ぶというのか」

 言葉は明らかに青年に向けられたもので、問いではなく告げるものという一方的さを伴っている。

「その果てに救いなどはない。希望などはない。光は存在しない。祝福ではなく呪詛が、歓迎ではなく憎しみが、悦びではなく絶望が、お前を待つ。それでも、お前は」

 淡々とした声が途切れた。重たい沈黙が、まるで重圧のようにのっしりと空間にのしかかっているようだった。景色は、もうそろそろ黒色に塗り込められてしまうだろう。一箇所だけ点された光が、相対的に強さを増したように感じる。

「我が犠牲と憎悪と裏切り、人の業に塗れた生涯…子は、唯一お前だけだ」

 密やかに何年も抱え続けた大いなる罪を解告するとが人のように、老人はあらゆる感情をもって言葉を吐き出す――先ほどまでとはうってかわって、そこには老人が生きてきた重さを感じさせる切々としたものが奔っている。そして、老人に応えるように、ゆっくりと、青年が振り返る。闇の中さらに深い闇色の瞳は、ゆるやかに老人に向けられている。暗色の修道服に身を包み、ともすれば女神アスタルテの信徒のように見えなくもなかった。

「感謝しています。親から憎まれ、死を望まれた子を救い出しここまで育ててくれたこと……この身が、齢二十を過ぎてもなおこの世に無事に留まっていられること、いずれもお師様が居られたからです」

 老人は、青年の声にじっと耳を傾けていた。白色の光にぼんやりと照らし出される姿を、じっと見詰めていた。

「感謝しています……名を与え、生を、与えてくださったことを」

 言うと、青年は敬虔な修道士のように胸元に手をあて、静かに瞑目する。老人は、ふいと興味を失ったように視線を、古びた女神像へと向けた。石ではなくイチイの木から作られた古ぼけた女神像は、既にこの世に生み出されて数百年という年月を経ているものであることを、老人は知っている。
 後ろ手を組み、曲がった腰を支えるようにしてから、老人顎をあげ、今も尚その精巧なつくりを留める厳かな女神像を改めて見上げた。現在大陸で信仰されている女神アスタルテのそれとは、似ても似つかぬ――その名すら、殆どのものの記憶から忘れ去られてしまった、もうひとりの女神。デインという国が抱えている、それは闇であると同時に光であるもの。
 老人は、挑むように、柔和な表情を落とす木像に魅入っていた。


 (中略)


 青年が持ってきたスープは、エディが食べたこともないような不思議な味がした。濃いわけでもなく、薄いわけでもない。けれども、堅いパンを浸しながら食べているうちに、身体が内側から温まってきた。腹を(十分というわけではないにせよ)満たし、余裕が出てきたエディがふと相棒を見ると、レオナルドはパンを持ったままスープ皿を見詰め、固まっていた。

「なんだよ、食べ方わからないのか?」
「ち、違うよ!」

 エディが冗談交じりに馬鹿にしたようなことを言うと、レオナルドは意地になったのか急にパンにかじりつき、食いちぎろうとして目を白黒させている。

「ばっかだなぁ…俺が食べてた所、見てなかったのか?これはこうして食べるんだよ…常識だろ?」
「い、いちいちうるさいな…いいだろ、べつに、僕がどういう風に食べたって、君には関係ないじゃないか!」
「確かに関係ないけどな」

 レオナルドはそのままむくれたように顔を背け、少しだけスープを口に含み、パンを齧った。変な所で頑固だなぁ、と思いながらも、レオナルドの緊張がほぐれたことにエディはほっとする。と、タイミングを見計らったかのように青年が声をかけてきた。

「君の、名前は?」
「俺?俺はエディ。こっちはレオナルド」

 名を呼ばれ、一瞬レオナルドはちらりと顔をあげるが、そのまま食事を続けた。悪戦苦闘しつつも、パンは三分の一くらいは平らげている。

「……そうか。エディ、レオナルドとはずっと一緒なのかい?」
「いや、ちょっと南の方に行ってて、拾ったんだ」
「ちょっと、何もエディ、そんな言い方……!」

 ごくり、と最後のパンをスープと共に飲み干して、レオナルドが抗議の声をあげる。が、見れば青年の表情が真剣なものに変じており、それを目の当たりにしたレオナルドはきまり悪そうに小さくなった。

「レオナルド。君は、アーニヒ公の嫡男だね」

 青年の言葉は問いかけではなく、確認だった。くつろぎかけていたレオナルドの顔色がさっと変じる。

「デイン南部の小規模穀倉地帯レドラ領は、古くからデイン王家に忠節を誓い、王家を見守り続けてきたアーニヒ公が治めている穏やかな土地だ。公は、まだご健在なのか?」
 その問いに、レオナルドは視線を彷徨わせてから、小さく首を横に振った。「…多分……」
「そうか…レドラも…落ちたか…」
「確かに、僕は…南部地方の小さな穀倉地帯、レドラ領の、嫡男でした」青年は、瞼を落とし頷いた。「でも、あの、わかるんですか?」レオナルドの声が上擦っている。再び、青年はしっかりと頷いた。「ほ、ほんとうに…けれど、…どうして、父も母も、殺されてるし、ネヴァサに知り合いがいるなんていう話は…」
「ちょっと、おい、落ち着けよレオナルド」

 エディが嗜めるも、レオナルドの、切っ掛けを得てしまった感情と言葉は止まらない。「そん、な…」と囁きながらかくりと頭を垂れた。「どうして、…どうして、あなたが」言葉と共に縋るように青年に向けられたその顔には、怯えも恐怖も何もなかった。どこか挑むような、エディの見たことのないレオナルドの顔がそこにある。

「…どうして、父の名を…知ってるんですか…!」

 悲痛な声が、静かな闇の底にあるような小さな教会堂の空間を切り裂き、そして沈んでいった。
「どうして、……とうさんの、…うっ…」それ以上は言葉にならず、レオナルドの面は伏せられ、俯いた後頭部が小刻みに揺れ出した。
「彼は忠節を重んじながらも王家という存在を見据え続けていた、だから、先の戦いでは他国を侵すような真似をした王に背き、領地も閉ざした。それゆえに、クリミアの軍靴に南部では貴重な穀倉地帯が踏みしだかれようと、野蛮な半獣の軍勢が備蓄していた食糧を奪おうと、放置され…一年ほど前、駐屯軍兵がレドラに侵攻したという話だけが耳に入って来ていた、公と公の軍勢は決して脆弱ではなかったが…」
 告げられた言葉が辛いのか、はたまた父の名を聞いたことが余程の衝撃だったのか、レオナルドは力なく首を振りながら、呻くような声を上げ続けている――泣いているのだ、とエディは思った。
 レオナルドが家族の話を全くしないから、戦災孤児か何かだろうとエディは見ていた。だからこそ、レオナルドが自分からその話をするまでは、決して聞くまい、とも思っていた。出会った時のレオナルドの様子からしても、彼が相当な目に遭ったであろうことは、間違いがないのだから。
 ふと、エディは青年がひどく優しげな――最初の印象の、単に穏やかな人物が敵意を持たぬ相手に向ける漠然としたものとはまったく別の、「親が子供に向けるような」そういうようなまなざしをレオナルドに向けていることに気付いた。
 何故、そんな目をするんだろう。レオナルドの両親の、知り合いなんだろうか?それとも親戚とかだったり、するんだろうか。が、エディはその疑問を口には出さなかった。というよりも、間に割って入ってはまずいのではないかと感じていたのだ。

「けれど…生きていてくれたんだな……君が」

 言葉と、声音の穏やかさに、レオナルドがはっと顔をあげる。青年が、レオナルドと目線を合わせるように腰をかがめ、震えたままの肩に片手を置く。レオナルドの顔が、くしゃっと歪んだ。 「ありがとう、生き延びていてくれて……ありがとう」

 それは、とても優しい声だった。

「……う、……ぁ……っ!」

 必死に堪えていた感情が一気に噴出したのか、レオナルドの目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。青年が、静かに頷いてみせると、レオナルドは唇を必死に噛みながら涙を零した。


(中略)


「遠からず、お前を迎えに来るものが在ろう。すれば、お前は自由だ」

 老人は言う。淡々と、言葉だけを吐き出す。孕む感情は無いのではなく、あまりに多すぎて混沌と化している。だから結果的に何の感情も持っていないように見える――この、偏屈で面倒な老人は、いつだってそうだった。あまりにも多くのものを抱えすぎているから、何も無いのだという風に振舞う。そうせねばならない理由もあった。
「そうなれば、わしが直接お前を助けることは出来なくなる。手のものは多くいるが、信用できるのは少ない。だからお前は一人で往け。わかるな。お前は、お前でしかない。お前の思想も、力も、感情も、感覚も、お前以外の誰のものでもない。そのことは、決して忘れてはならんぞ」

 頷いてみせると、老人はひとつ溜息を落とした。肩の力を抜き、瞑目する。

「…封印を、今、解こう」

 しばしの間をおいて、やはり溜息と共に出てきた言葉に、青年が瞠目した。

「お師様…」
「そう不安そうな顔をするでない。大丈夫だ、お前の力は十年前よりもずっと安定している。間違いなどはあるまい」

 この偏屈そうに顔を常に顰めている老人にしては珍しく、皺の奥底に隠れた瞳は安堵を促すようにやさしげな色をしていた。誰よりも自分の事を知っている人間の言葉だ。けれども、一抹の不安が胸の奥にひっそりと存在しているのも事実で、青年は曖昧に頷きを返すことしか出来ない。老人が一瞬目を細め、頷きながら皺だらけの手で右腕に触れてくる。

「だが、良いか。決して直接精霊を使役してはならぬぞ」

 そこは、幾重もの布に包まれ、簡易ではあるが魔道的な封印を施されている箇所だった――魔道を扱う際、ものによっては精霊を呼び出す「場」を作るために幾ばくかの動作が必要であり、それを成すのはたいていが利き腕であることから、老人はそこを封じた。そのことで、青年はこの特殊な結界下の教会堂以外の場所では、古代語以外を口にすることが出来なかった――先ほど、二人の少年を助けた時も、結界外の場所だったがゆえに現代語を喋ることが出来なかったのである。
 それは、ひとつは青年が生まれながらに抱えている闇精を制御するための訓練的な意味合いがあり、もうひとつは必要以上の事を語らぬためであった。人ならざる力を有し、かつ存在自体が闇に葬り去られた――そういう子どもであれば、当然のことだと青年は思っていた。
 その封じが解かれる。意味がわからないわけではなかった。というよりも、ここ一年近くは待ち望んでもいた。だから、二人の少年の偶発的な来訪は、その契機をくれたようなものだった。彼らのような子供ですら、明日の己の命運を信じることが出来ない。当然だが、その先の事などは考えるべくもない。そうした歪みは、辿ってゆけば狂王アシュナードの凶行と、それを促したベグニオン帝国元老院に因るものだ。今も、こうしている間も、ベグニオン駐屯軍は「叛乱」の目を摘むべくデイン人狩りを行っている。男だけではなく、女も子供も老人も、あらぬ疑いをかけられて捕えられ、奴隷以下の扱いに落とされる。
 同胞の嘆きが聞こえぬ夜はなく、悲鳴が木霊せぬ朝はなかった。駐屯軍の耳障りなベグニオン訛りが真昼でも都市の中に響き渡り、聞くに堪えぬ下卑た笑いが正当な怒りをかき消す。  そんな歪さを、ベグニオン帝国は言い訳を繰り返しながら認めてきた。そうすることで得るものは、一時の正義感や道徳心などよりももっと彼らにとっては重要で、それが女神の信徒であると自負する彼らの本性だ。
 渦巻く感情が、静かに心の奥底に熱をともす。忘れえぬ、過去の記憶をほんのりと呼び起こす。だが、憎み恨むよりも、自分にはすべきことがあった。こうして女神の子として生きながらえた、その意味――導かれた生の先に在るもの。

「お前にはその力量も資格もある、が…それをすれば、長くは生きられんぞ。一度でもだ」

 青年の思考に釘を刺すように、老人の鋭い言葉が飛ぶ。一度でも。繰り返す言葉は初めてのものではなかった。生まれながらにして精霊を宿しているということは、精霊に魅入られている――通常の魔道遣いは「媒体」である魔道書や杖を必要とするのだが、そうしたもの介さずとも任意に精霊を解放できるのだ。が、当然だがそうした法則を無視した代償は支払う必要があり、たいがいは使役者の命そのものである。そして、通常の理精よりも闇精は、その力もさることながら代償も非常に大きいものとなるのだ。
「……お前には、無駄な言葉かもしれんがな」自嘲気味に加えられる言葉は、老人の最大限の親心の表れであるように思えた。
 老人は徐に青年の右手を取る。そして、口の中で解呪のための言葉を呟きながら、中指に嵌められた色あせた指輪に額を押し付けた――それが、臣下の拝礼の一つの作法であることを、青年は知っている。そして、拝礼であると同時に解放の儀式でもある。わずかに指輪に嵌められた石が輝き、周囲の空間に紋様のようなものが浮かび上がるや、空中に霧散した。
 ひと時の間をおいて、老人は顔をあげる。その顔が、年齢相応に老けていることに気付き、青年は言うべき感謝の言葉を失ってしまった。