「そんな顔を見たのはとても久しぶり」そう言って苦笑していたジルもだが、王国の重鎮であり決して浅い付き合いではない将タウロニオにさえ念を押されてしまっては、実際立つ瀬がなかった。
それほどに信じたくなかった、といえばそうなのだろう。そして納得のゆかぬという顔をしてそのまま会いに行くなどという行動は、以前の自分ならば絶対にしなかったのだろう。以前の――デイン解放などという、自分でも思ってもみなかった祖国だとか故郷という考え方に基づいて剣を取ることを選んでから、実際自分は変わったかもしれないのだ。憤りと奇妙な尚早の混じる溜息を落としながら、ツイハークは回廊というには無骨な空間を、足早に進んでいた。
が、それでも、傭兵という一般的な印象を悉く覆すといわれるツイハークは、最低限度の礼儀作法もわきまえている男だった。解放戦争以来祖国の為に尽力した英雄のひとりなどといわれる傭兵男の姿を見れば、デイン兵らは敬礼とともに道を譲る――文官を何人も通さねばならぬ面倒な手続きを通す必要は勿論なく、いってみればツイハークは未だ正式にはデイン王国の将の一人であるのだ。
そこは、デイン王宮でも最奥といわれ、一部の人間以外出入りの殆どない場所だった。扉の前の武装兵は、当然ながら許可された人間以外を絶対に通すことはない。ツイハークが腰に携えたものを見なかったわけではないはずだが、彼らは無言でツイハークを通した。ひっそりとした廊下をゆけばやがて見えてくる、簡素な扉をツイハークは作法にのっとり叩く。
「失礼します。急に申し訳ありませんが」
そこまでを扉の前で告げると、なんと先にその扉が開き部屋の主が顔を覗かせた。改めて久しぶりに見れば憔悴仕切っていながらも、以前とは全く違う強い色を宿す双眸は髄分とこの青年の印象を変えていた。
「そろそろ来る頃だと思って、待っていた」
したたかにも思える笑みを見せながら来訪者を招き入れる様など、かの帝国の文官さながらである。内心舌を巻きながらも、ならば尚更に何故、という言葉が募るのだ。
「以前も、君はこうして唐突に訪れたことがあった。その時確か、僕は同じことを言った気がするよ」
楽しげに囁く様子は、悲壮感を微塵も感じさせない。本当に別人か、そう思えるくらいにペレアスは変わった。何故変わったかを知る人間は、このデイン王国には片手で数える程度しかいない――今やデイン王国にこの人ありと言われるミカヤですら、全てを把握などはしていないのだ。そういう事を思えば妙な優越感めいたものを覚えるも、ツイハークはこの場所を訪れた理由のことを思い出し、顔をひきしめた。
「そうかもしれません。では、俺がこの場所に来た理由も、お分かりいただいているのでしょうね」
皮肉な、場が場であればとんでもない物言いだが、それでもペレアスは笑みを浮かべたままだ。確かに、彼はそういう王だった。率直な物言いを厭うことはなく、苦言であっても聞く耳を持っていた――だから、尚のこと、様々な矛盾した感情をかつては覚えていて、そして今でも覚えている。
「けれど、それは君の口から聞いてみないことには、答えられないな」
こうした返しもまた、以前ならばありえなかった。そうした精神的な余裕が、若き王にはなかったといってもよい。あの時は皆が一様に、余裕がなかった――全てが絶望に向かって突き進んでいるとしか思えなかった。
ツイハークは軽く腰を曲げてから、王の言葉に応じた。
「では、僭越かとは存じますがはっきりと、言わせて頂ます。何故、譲渡などという事をお考えになられたのでしょうか」
ツイハークの言葉に、ああ、とペレアスはなんとも軽い様子で声をあげた。それが、ツイハークの中に一瞬苛立ちのようなものを覚えさせた。それが伝わったのか、ペレアスは続けて小さくすまない、と呟いてみせる。
「何故か?簡単な事だ、デインの民はミカヤを望んでいる。そしてミカヤもまた、デインという居場所を望んでいる。彼女を縛り付けるのではなく、彼女はそこに望んで座るんだ。彼女に野心とか、そういうものがないことは、僕たちが一番よくわかっている、そうだろう」
「…それは、確かに…ですが」
「それでも譲渡、というのは僕が責任逃れをする手段と見られるだろう。だから、デインの民であるものすべての声が必要だ。デインの民の多くが、ミカヤを望んでいるという証拠だ」
ペレアスが言わんとしている事はわかる。彼は、教会が管理しているデイン王国内すべての村落、城砦、都市の住人を通じて王を選出したいと言い、その為の手段の事も何度か話をされていた。無論、本当に全ての住人の声を聞くなど不可能であるから、例えば一家族の代表であるとか、組織の代表であるとか、或いは村落の代表であるとか、ある程度の選別はやむをえないだろう、とも続けた。本来であれば全ての声を聞くのが理想だが、そう簡単にゆくわけもない。だから、これはあくまでも、最初の一歩なのだとペレアスはそう話を結んでいた。
「…その件を、皇帝陛下が了承されたという話も聞いております。ですが、…俺は」
「ツイハーク。ジルや、タウロニオ、そして君のその気持ちはとても嬉しい。こんな僕でも、まだ忠義を尽くす価値があるなどと言うんだ。が、その忠義は、これからのデインのためにこそ、尽くして欲しいというのが僕の願いだ」
面をあげれば、柔らかく微笑むペレアスの面差しにぶつかる。これほどに穏やかな顔を、それこそツイハークは久しぶりに見た。そして、その中にありながらも溌剌と輝く瞳は、デイン王国を再建させるのだと語った解放戦争の折のそれと重なり、いっそう強くなったように見える。ああ、そういうことか。ツイハークはようやく、納得した。
彼は逃げるのではない。彼は、これからも己のしたことの清算をするつもりなのだ。それも、恐らくは、より困難な方法で。
このタイミングでペレアスが王位を譲渡すれば、貴族や民らの批判の矛先はほぼ彼に向かうだろう。必要のない戦争に駆り出され家族や財産などを失ったものの憎しみや悲しみ、そういうものを一身に背負うつもりなのだろう。だが、それでいて彼らは暁の巫女ミカヤを支持することは明白だった――苦しみの中でも、彼女の存在は民にとっては希望そのものなのだ。貧民窟から颯爽と姿を現しまたたくまに民の希望となり、そして祖国を奪還した――そういう、人を惹きつけるものは確かにあの少女には存在している。
「僕は、ミカヤが好きだ。彼女という存在を愛しているデインの民と同様に、彼女という存在を愛している。そういう人間は、たぶん世の中にはそう多くはいない」
ツイハークも、その言葉には頷いた。不思議なものだ。近くで見ているとひどく現実離れしていて危うささえ秘めているように見えたのに、何故か彼女がいるというだけで、恐怖も疲労も忘れてしまう。彼女の声、彼女の姿に鼓舞され、おそらく自分自身が思っている以上にツイハークは祖国を思い、そして戦っていたのだろう。
「僕は多くの罪を犯した。だから、清算をしなければならないんだ。それが、僕の王としての、最後の務めだと思う」
きっぱりと微笑まれてしまえば、もうツイハークに言葉などあるわけもない。ただ、深々と騎士の礼の姿勢をとり、頭をさげる。
そして、腰に携えたままの武器のことを今更のように思い出した。