慌しい日々はあっという間に過ぎた。ひとつ季節をめぐる間に、デイン王国は、そしてネヴァサは昔日の活気を取り戻しつつある。
元々人の行き来が盛んであり、商都であった都でもあれば、クリミアのメリオルなどよりはずっと復旧も早かった。
全てを見届けるつもりは、元々なかった。だが、何故かこうして一年弱を結局はネヴァサで過ごしていた。それもこれも、ラグズに詳しい稀有な男として、傭兵ツイハークの知識や考え方が重宝されたからであり、そして現国王ペレアスが強くその滞在を望んだからに他ならなかった。だが、それももう頃合だとツイハークは考えている。
「それじゃあ、また」
まるで、近所に挨拶にいく、そういう調子でツイハークは言う。驚いたのは、ジルだった。タウロニオは特別驚いた風もない。
「でも、皆に……せめて、陛下やミカヤさんには…!」
「よしてくれ、これでも、結構未練があるんだ」
困ったように、ツイハークは笑う。ジルは憤然と腕を組み、タウロニオがそれを窘める。そういう光景とも、暫くはお別れだ。寂しいのだと思っている己に向けて、ツイハークはもう一度苦笑した。
「だがツイハーク。わしも、せめて陛下には挨拶をして欲しいと思うのだが」
「勘弁してください。あの人と顔を合わせて何か言われたら、俺は身動きできなくなる」
「だったらそれはそれでいいじゃないですか。ノイスといい、ツイハークといい…どうして男ってのは、こうも薄情で勝手なんだか!」
ジルの台詞が誰に向けられたものか。心当たりのある二人の男は、互いに顔を見合わせ、笑った。
ツイハークは、兵舎の一室を仮住まいとしていた。そうして、若い兵に気の向いたときは剣を教え、たまに城を訪れるエディと手合わせをして、日頃は平民にも開かれているという学問所で、ラグズの生態や性質について語ったりしていた。復興の手伝いを請われれば快く手を貸していたし、何よりも人好きのする性格だ。
だが、ツイハーク自身がそれでよいと思っていなかった。そういうことは、時折タウロニオにのみこぼしていたが、ペレアスは恐らく勘付いている。だから、ツイハークを正式に軍属にはしなかったのだろう。
多くの好意に、縋りすぎていた。居心地がよかった。けれども、ツイハークが成したいことは、このネヴァサに留まり出来ることではない。
一年近い月日を過ごした部屋を発つ。荷物などは、元からそう多くもない。ツイハークは、立ち上がった。
「意外と俺は臆病者だ。きっと、見ていられなくなる。手助けしてしまいかねない」
タウロニオの表情が、わずかに固くなった。ジルが、目を伏せる。
ペレアスが、将来的に王位から退く気がある。知っているのは、ここに集う三人――直参とも言われ、ペレアスと最も長く共に戦った三者の他は、ミカヤとサザ、フリーダぐらいだろう。
それが、いつかはわからない。ペレアスも断定はしなかった。ただ、そう遠くはない、と皆が思っている。デインという国が、立ち直りかけている。それは、デインが新たなる国家としてもう一度生まれ変わる日でもあるのだ。元々、デイン人は自ら行動を起こすことが多い。先代アシュナードの「力あらば貴賎を問わず取り立てる」という風習が、デイン人の気性と巧く合致もしていた。
このままであれば、ペレアスが望む「民が望みを、望みなのだと言えるような政」の、最初の一歩を踏み出せる気もしていた。英雄ミカヤの名をたたえる声は未だに途絶えることはない。彼女が街を歩けば、老若男女問わず笑みを向ける。ミカヤもまた、そういうことを意識するようになっていた。
「テリウスにある国すべてが、生まれ変わろうとしている。こういう状況じゃあ、何が正しいかなんてことは誰もわからない。けれど、俺は、ペレアス王の意志を尊重したいと思う」
「その為か」
「それは、買いかぶり過ぎですよ、将軍。俺はそんなに大した人間じゃない」
何度、剣を収めようと思っただろう。ラグズの為に生きてきた。それは、ツイハークの生きる目的でもあった。そのラグズに剣を向けたとき、自分は何なのだろうと思った。
それでも、敵対するものに剣を向けなければ、死ぬのは己だった。そういう境地に至った時、ツイハークは傭兵だった。生きる為に、剣を振るった。ラグズの戦士に憐憫などは、ただ屈辱を与えるだけに他ならないと、知っていた。
何故、剣を収めなかったのか。
何故、彼らに剣を向けることを、躊躇わなくなったのか。
それは、ここに集う友あるいは同志ともいうべき二人と、ペレアスが居たからだ。ラグズという言葉を使い、己の無知を恥じ、それでも悪戯にただラグズという存在に同情するわけではなく、真実を知りたいと願った王に出会ってしまったからだった。
一時だ、と思っていたことが、自身の信念と秤にかけても結論が出ぬというところまでゆくとも思っていなかった。だからといって、騎士という枠に囚われる気もない。自分には、違う生き方があるのだ。
「ガリアに着いたら、手紙を書きます」
ジルは、まだ何か言いたげではあるが、ツイハークが伺うと膨れてそっぽを向いた。タウロニオが頷く。
この友と呼べる二人との別れは、それだけで、十分だった。