許せぬという感情の芽生えは、とても単純だったように思う。とても些細で、そしてひどく個人的だった。
その単純な感情は、だが、この男の言葉に耳を傾けることで、その質を変じていた。
ミカヤが、セフェランを救った。
その事の意味を、ペレアスは考えていた。憎しみに任せ解放した闇の精は、容赦なくこの男の命を喰らったはずだ。そして、何故かセフェランは抵抗しなかった。抵抗していない、と気がついたとき、ペレアスは己の意思で闇の精をねじ伏せ、抑えつけていた。殺す気が、失せた。
広大な部屋の中央に、取り残されたのは三人だっだ。他のものは既に扉の前に立っている。その先にまみえるべき存在――だがそのことをペレアスもティバーンも、今は考えてはいない。この場に残ろうとするリュシオンを、ティバーンは無理矢理アイクに押しつけた。
「どうするよ、デイン王ペレアス」
「何も、しません」
背後の気配に、そのままの姿勢でペレアスは答える。その視線は、倒れ伏したセフェランのみにあった。ペレアスの言葉に、ティバーンは心得たように頷く。
「お前のところの事情は、ここに辿り着くまででだいたい聞いてたからな。お前やベグニオンという国は、こいつを許せねぇだろう。こいつを許そうという気には、俺もなれん」
ティバーンの低い声は、その内に秘められた怒りを静かに伝えていた。その風格も何もかもが自分とは桁違いのティバーンに、だがペレアスは臆する事がなくなっていた。そのように、考えることもなくなっていた。
ラグズである、ということも、含めるようになっていた。
だからこそティバーンは生まれながらにして王なのだろう。黙っていても、伝わるものがあり、そして存在そのものに説得力がある。些事にとらわれるなど、ばかばかしい、と思わせてくる。
ラグズとベオクの「王」の違いは知っているが、ティバーンなどは王になるべくして生まれついた、とも思える。その事に対し、純粋に羨望を覚えた。
「俺の民は、こいつのお陰でだいぶ死んだな」
ティバーンは乱暴に頭を掻きむしり、巨大な対の羽根を広げてみせる。やはり思い出せば言い得ぬ感情が多々、あるのだろう。
「フェニキスばかりじゃない。あんたたちベオクの国も、ラグズの国も、皆だ。全てを聞いて、聞いた上で、だがやはり許してはならん存在だ。俺が、フェニキスの王ということは、そういうことだ」
「鷹王。殺す事、誅すること、それは簡単で、そしてただの報復に過ぎません」
「そういう考え方もあるだろうな」
「必要なのはこの男の罪を知らしめ自覚させること、そして、このような場で個人的になされるではなく、公な断罪です」
「まったく。俺は何度お前に詫びを入れる必要がある?」
ティバーンは笑った。線の細いこのデイン王という青年は、見た目に反してとんだ性根の持ち主だった。吹けば飛んでしまうと思った当初の認識を、また改めねばならない。クリミアの女王ともまた違う、だが、ペレアスのような道理の通し方は、ティバーンの目には好ましく映った。
「最初から必要ありません」
ティバーンの言葉の意図をどこまで掴んだのか、ペレアスは、笑みを添えて一言だけ答えた。
それは許しともとれるような、寛大なアイクの言葉に、いまだ伏したままのセフェラン。ミカヤが彼を救い、英雄はそして彼に機会を与える。
その事に対し、ティバーンもペレアスもことさらな怒りは覚えなかった。ただ、ぬけぬけと共に戦う仲間という顔をされたくないだけだった。その思いがして、二者をこの場に残した。アイクにその意志を伝えると、かの勇者は頷き、「わかった」と一言だけをよこした。あまり時間をかけるわけにはいかなかった。
セフェランに対し、思慕が強すぎるサナキは、今はミカヤやトパックと共に、その姿を健気にも待っているだろう。だが、それとこれとは、別の問題だった。
「神使を先に行かせた、それもお前なりの慈悲か?ペレアス」
「かもしれません。そんな余裕など、ないと思ってますが」
うなだれるセフェランを見下ろした。何も印象のない、疲れた男が目の前にいる。そんな風にペレアスの目には映った。
こういう人間を、幼い頃ペレアスは沢山見て来ている。病に倒れ動けぬ老人、酒に溺れた男、子を亡くした女、赤子のまま捨てられ朽ちるしかないもの。だがそれの何れよりも、さらに弱々しく、死に近い。
怒りも、哀れみも、情けも、憎しみも、何もペレアスの心中に生じない。先ほどまで感じていた怒りも、消失していた。
デインという国の王として、この男に言わねばならぬことがある、という思い。ただそれだけが、今のペレアスの全てだった。
「顔を上げて下さい、ペルシス公セフェラン殿」
だが、その言葉にセフェランが反応する様子はない。
両手を床につき、焦点の合わぬ目がどこかを彷徨っているのか。
「いつまでも、そうして這いつくばっているおつもりですか」
そのもやは空になった心には、およそ何の言葉も響かないのだろうか。ペレアスの中に僅かに生じた小さな怒りが、弾けた。
「それとも、それが、あなたの望みですか」
この男もまた、最終的には絶望に負けた手合いだった。そこに常ならぬものの力の介在があったとはいえ、端を開いたのは他ならぬ、セフェラン自身だ。言うなれば、これもまたひとつの悲劇なのだろう。
だが、そんな悲劇などは生憎このテリウスには無尽蔵といえるほど、存在していることをペレアスは知っている。事の大きさなどは、ひどく個人に由来する。比較などはしても仕方ない。一概に同様とも言えず、だが突出した不幸などもない。そういう場所で生きて来ていた。それをあえて悲劇などと呼ぶ事もなかった。
「ただ一人の絶望。それが全ての原因、すべての引き金となったということ、そのあまりの下らなさ。僕ですら目眩を覚えました」
自然に顔が笑みを作っていた。怒りが過ぎると、人は笑えるのだと、ペレアスは初めて知る。
「仕方ない、などという言葉。あなたには相応しくはない。そうでしょう。すべてはあなたの弱さが生んだもの。抗わなかったあなたは、これを野望と呼んだあなたは、一体滅びの先に何を見たというのです」
セフェランはメダリオンに触れた。その現物を、だがペレアスは人づてにのみ聞いた事しかない。それでも、理屈はわかった。負の気が人を捉える事のその容易さ、そして囚われる事の容易さ。闇の精を己の内に潜ませるペレアスには、殊更説明をされずとも、理解出来る類の話であった。
「滅びはあなたに優しさを見せたのですか。甘い、夢でしたか」
セフェランの豹変が、メダリオンの負の気による暴走であること――誰しもが仕方ない、と思えるその理屈に、だがペレアスは納得はしなかった。そして、納得出来なかった男が、もう一人いる。
背後に静かに立っているティバーンもまた、そのような理屈を許してはいなかった。否、仕方ないと思えたからといって、許すということはまた別であるのだ。
「これはあなたが用意した、壮大な喜劇だと、むしろガドゥス公のように開き直れば、僕はあなたを誅する事に、何のためらいも覚えはしなかったんですよ」
許してはならない。先ほどのティバーンの言葉は、またペレアスの意でもあった。
まったく別の場所に別の種に生まれ、別の生を受け、心身ともに脆弱な己とは似ても似つかぬ鷹王だったが、その心を理解することは、困難ではなかった。
己は正当な血筋ではなく、傀儡だった。だが、ペレアスは未だデインの王だった。
流された血と死んで行った兵たちの怨嗟の声は、これからも毎夜ペレアスに語りかけてくるのだろう。彼らの存在を忘れてはならない。彼らが信じたのは、デインという国の未来だ。彼らが命を賭し、守ろうとしたもの。
そして、事の発端は己自身の愚かな認識と浅慮。デインが滅びるきっかけを作ったのはペレアス自身だということ。
それはペレアスが生涯忘れてはならぬ、かけがえのないものだ。
今のネヴァサに喧噪はない。ゆきかう人々は石となり、風雨に晒されている。だが、ペレアスは絶望はしなかった。そして誓約から解放され、デインは真に自由を取り戻した。
ならばあとは、死なぬこと。それだけだ。
「…殺さないのですか。それが出来ないあなたではないはず」
セフェランはうつろな瞳で呟いた。まったく死人のような声だった。
「そのつもりはありません」
聞くのもおぞましい死人の声は、生者を呼ぶという闇の理を、ペレアスは思い出していた。
うなだれる男に視線をあわすべくペレアスはしゃがみ込んだ。穏やかな顔で、セフェランの表情を伺った。まったく、こちらの目を見ようもしない。
「…笑ってるのですか………私を」
「そうさせるあなたが、言いますか?」
だが無理に顔を上げさせる事は、しなかった。そこまでしてやる義理立てなどは、ペレアスにはないのだ。
「ミカヤとアイク将軍があなたを生かした」
銀髪の少女が、確かに死の淵にあった己を救った、確かな記憶にあるわけではなく、おぼろげにセフェランはそう知っている。そして、慈しんだ幼い少女が、顔をくしゃくしゃにして泣いていたような気もする。それが遠い記憶なのか、近い記憶なのかは、よくわからなかった。何故死んでいないのか。何故、生きているのか。それもわからなかった。
「出来る事ならば、この場で衝動に任せて、あなたの存在を消してしまいたい。あなたという存在の痕跡を、この世から消し去りたいですよ。焦がれるほどに。その証拠に、闇の精は、解放を望んでいる」
ペレアスは手を差し出してみせた。セフェランは顔をあげはしなかった。
差し出したてのひらには、打身でもしたかのような小さな痣が無数にある。どこかにぶつけても、このような痣が出来ることはありえない。
こうしている間も、負の気に引かれ集まる闇の精たちは、破壊を衝動を望んでいる証拠だった。宿主の抱く感情が負のそれに傾けば、どれほどに些細でも食らいついてくる、獰猛な獣のごとき存在だ。
手を戻し、ペレアスは目を一度閉じる。口元は変わらず笑っていた。心中は決して穏やかではなかったが、憎しみもそれほど感じてはいなかった。だがセフェランを、哀れだとも思わなかった。
「あなたが生きているというだけで、共に同じ場所にあるというだけで、僕の力は増します。目の前のもの全てを滅ぼしてしまいたい衝動…あなたがよくご存知ではないのですか」
目を開け頷く。セフェランは変わらず反応しない。上体を支える両肩が、小さく震えていた。
「僕が宿した闇の精霊は、ことさらに凶暴です。それも、あなたであればよくよく知る事だ」
濡れたように長く美しい髪の間からも、その表情は伺えない。
「それほどに、憎いのですよ、僕はあなたの事が。デインはあなたのことを憎めという。デインを陥れ、民に多くの血を流させ、それを当然のこと、などと言ってのけたあなたを、許せる理由など…どこにあると言うのです」
「……ペレアス殿。あなたもまた、…強いひとだ」
セフェランの三度目の言葉に、ペレアスは声を立てて笑った。笑いを堪えられなかった。
乾いた声が広い部屋に拡散し、そして、消えてゆく。ふるえる喉を抑え、ようやく言葉を告げるまで、いささかの時を要した。
ティバーンは黙って、ペレアスの背後から腕組みをし、セフェランを見下ろしている。
「本当に。あなたという方は、どこまでも人を馬鹿にしている。話を逸らさないでください」
嘆息し、首を横に振る。そういうペレアスの一連の言葉も動作も冷静だと、ティバーンは見ていた。
「それとも、それほどにデインという国が憎い、とでも言われるおつもりですか」
ペレアスの言葉にセフェランは顔をあげる。虚ろな光のその中心に、点があった。彫像のような端正な顔立ちが、魂の抜け殻のようなそれは、だがはやり空虚である。
こうして直視すれば鷺の民であるという事がよく判る、その整った顔立ちを、だがペレアスは美しいとは思わなかった。そして多分、今の自分の顔も、同様なのだろう。同様に、無様で醜い。それでもよかった。
「あなたが意図的にデインという国を、年月を費やして弱体化させていったこと。国が国として成り立つ、限界まで弱め、強靭な意志と支配力を持つ強者を王に据えたこと」
自嘲の笑みをペレアスは浮かべた。が、一瞬で真顔に戻り、そして立ち上がる。立ち上がり、セフェランを顧みる事はなく続けた。
「そして、それを利用しデインという国を破壊したこと。その上で、利用しやすい何のとりえもないただの平民を、王に仕立て上げたこと」
セフェランは、ペレアスを凝視していた。理解の及ばぬものを必死に理解しようとする、子供のようだ、とティバーンはその姿を見て思う。無邪気さもひたむきさも前向きさも、そのいずれも感じる事はないが。
「僕が王に相応しくはなく、そんな王を戴いたデインの不幸は言うまでもない。全てがあなたのせいではないかもしれない。けれど、それら一連の不幸全てを、ただの手段だとあなたは言った」
ペレアスが視線を戻し、顔を上げたままのセフェランと視線の先を一致させる。が、セフェランに反応らしきものはなかった。ただ、食い入るように見てくるだけだ。
初めて見えた瞬間から、セフェランは死を望んでいる、ということが、まるで己の事のようにペレアスはすんなりと理解出来た。
だが、忌々しいとしか思わなかった。今のセフェランを見ているこんな気持ちを、かつて自分はミカヤにさせていたのだろうか。否、彼女のことだから、純粋に死んで欲しくなかったのだろう。だが、タウロニオは、サザは、多くの将兵達は。ペレアスは首を横に振る。今更の自嘲だ。彼らに対してなすべきことは、他にある。
「必要に応じ利用し、散々デインの国を蹂躙し民の命を心を弄び、思うように事を運んでおいて、あげくに殺してくれと懇願し、強くなった、などと」
セフェランの表情の無垢さに、言葉に内心抑えていた怒りが蓄積され、隠しきれなくなった。抑え続けていたものの勢いに、語気が強くなる。
「よく臆面もなく、そのようなことを言える」
冷静であるとは、最早自身でも思えなかった。腹の奥に灼けつくようなものが生じる。闇の精が、内心の怒りに呼応しようとしている。
そのわずかな、ほんの些細な感情の揺らぎを、あるいは察したのだろうか。静観を保っていたティバーンが羽音と共に一歩前に出る。セフェランの視線は、あらためて長身の鷹王に向けられた――ペレアスから逃れるように。受けた鷹王の金色の双眸は猛禽のそれだ。冷酷なものがそこには潜んでいた。
「そういえばお前は、何故ここにペレアスがいるのか、理解出来ない顔をしていたな、エルラン。やはり理解できんか?」
だが言葉も態度も王者のものだった。やはり、格が違う。ペレアスはそう思った。
ティバーンは言葉の前に、ペレアスの肩をつかみ、前に押す。セフェランは惚けたように、ティバーンとペレアスに交互に視線を這わせる。
「エルラン。目を逸らすんじゃねえよ」
何事かとペレアスが見上げるも、ティバーンはおかまい無しだった。変わらず、人生に敗北したような顔をしている男を見据えている。
「こいつは、お前が踏みにじって来たデインって国そのものだなあ?…そして同時に目を逸らし続けてきたモンだ。偶然にしちゃあ上出来じゃねえか」
鷹王が笑う。
「それともそれも、またお前の掌の上での予定調和か?まったく、悪趣味だ」
獰猛な笑みだった。
「まだ逃げるというなら、俺が、この場でお前を八つ裂きにする。全く俺ときたら、王たる自覚がないって側近どもにも小言を言われる始末でな……自分でも、そう思う。だから、お前に体よく踊らされちまった」
セフェランの顔に、初めて感情らしきものが浮かんだ。それを不愉快なものとは、ペレアスは思わなかった。この男の態度に終始苛立ちに支配されていたが、僅かに冷たいものがなくなった気がする。滅ぼしたい、という衝動は、失せてはいないが先ほどまでに抑えつけていなければならないという程でもなかった。
「なあ、エルランよ。俺はフェニキス王だ。お前のはかりごとのお陰で、踊らされて、自国の民を結果的に殺した。こいつと同じものを、背負っている。元を正せばお前が裏で糸を引いていたんだろうが、その責を問われるのは俺でペレアスだな。そいつを含めて……俺はお前をこの場で殺す事も、辞さんぞ」
ティバーンは半ば本気だった。手を下さないのは、アイクとミカヤの意向を汲んだというより、ペレアスの意志を尊重した結果でしかない。
そのお陰で、ペレアスは冷静さを取り戻していた。一度だけ、深呼吸をする。明晰な思考が、戻ってきた。
「生きて下さい。生きて、己のなした事と向き合い、それを理解してください。アイク将軍が既に言った言葉を、二度は言いません」
許す言葉は、アイクであればこそ可能だった。自分や、ティバーンが言うべき言葉ではない。
「弱い心を救うのは、誰でもない。自分自身だ。誰もお前を助けはせん」
「僕はあなたを優れた方なのだ、と思ってました。神使様の温情に与れるとよいですね」
デインの王として、言うべき事は言い、示すべき態度はとった、とペレアスは思った。よもやサナキがこの男を公に断罪しないとは思えない。ならばもう、己の出る幕はなかった。
「ペレアス。言うべき事は言ったという顔だな」
ティバーンの言葉に、ペレアスは頷きで返した。
言葉を告げたのは、告げればあるいは伝わるのではないかと思えばこそだ。これ以上はなにも必要などはない。それでもここで朽ちようと思うのならば、それもよい。それもまた一つの選択なのだろう。
ペレアスは踵をかえした。ティバーンが、先んじて歩き出す。
「鷹王」
その背に声をかける。お互い、歩みは止めなかった。
「全部終わってからだ、デイン王ペレアス」
背が答えた。感謝しようとの言葉は、遮られる。
ティバーンは、ペレアスの出自の事も、デインという国が辿った運命の末路も、知っている。それでも、敢えてペレアスをデイン王と呼ぶ。
行く先には皆の顔があった。こちらに真っ先に気がついたのは、白鷺の王子だ。
迎える顔、それぞれの思いを秘め、信念と共に戦って来た、仲間、とあるいはいえるのかもしれない。
背後で、音がしたように思う。
小さな少女が駆け出し、脇を通り過ぎてゆく。その後を、僅かに遅れて赤毛の少年が駆けていった。
ペレアスは、振り向きはしなかった。