繋ぐ声

*こちらは2017年2月発行同人誌[to tell a story-tell a tale]に収録済です。通販はBOOTHをご利用ください。

 ただ、その姿さえ見ることが出来ればよかったのだ。
 グレイル傭兵団という場所を、息子は既に得ていた。アイクという将や、その仲間の中に当たり前のように、溶け込んでいた。表情はあまり豊かではないが、彼の周囲のベオクの表情は、穏やかだった。アムリタは、言葉を失っていた。
 クルトナーガが何かを言っていたような気もするが、よく覚えてはいない。ただ、息子が生きて、そして居場所を確立しているのだということで、胸が一杯になった。それだけでもうよい、そう思った。

 それでも思ったほどに、心は動かなかった。それは確かに血を分けた子なのだ、という確信は持っている。姿を見え、納得もした。けれども、それだけだった。思わず握り締めたのは、まだ温もりの残る指輪だ。
 二度と、母と呼んではくれないだろうか。そう思うと、胸の奥に痛みが走る。そう、もう一度あの穏やかな声で、母と呼んでほしいと願うのは、今目の当たりにしている息子ではない。彼は、自分を母などと呼ぶまい。

「姉上」

 記憶しているのは、重ねたてのひらの温もりなのだ。心揺さぶるのは、別れ際に見せた笑顔だった。母という言葉を、どこかで恥ずかしげに、けれども誇らしげに口にした青年の面影だった。力なく、アムリタは頭を振る。

「私は、……また、間違えてしまうというの」
「姉上、どうなされました?」

 全ての発端が己にあると、そうナーシルは言った。その通りなのだと思う。自分は、我侭で傲慢な女だ。そういうことを、思い知らされた。子を奪われたこと、そして己の罪の意識――そういうものから、アムリタ自身が逃げたのだ。心を平穏に保つため、半ば自身が物狂いになっていた、と言うことそれだけでも自分という女に吐き気がする。
 大陸一の強さを持つ、黒き龍の姫。すべては自分にひれ伏すのだ。そういう傲慢さがして大陸を崩壊寸前まで導いた悲劇。死んでしまった方がいいと、何度も思った。戦士たちがアスタルテとの決戦に挑み、そしてその生還を待つ間、何度自刃しようと思ったか、知れない。
 けれども、それを留まらせたのは、最後に母と自分を呼び、そして必ず生きて帰ってくると微笑んだ、あの青年だ。

「クルトナーガ。イナ達には、私は遅れると伝えてくれるかしら」

 一瞬怪訝そうな眼差しを送り、アムリタの含む微笑の意味を悟ったのか、クルトナーガもまた穏やかな笑みで頷きを返した。


「アムリタ様……?ゴルドアにお帰りになられるのでは?」

 弟と言葉を交わしていたミカヤが、アムリタの姿を認め、駆け寄ってきた。ペレアスの姿はない。おそらくはあの騎士と共にいるのだろう。姿がない事に、落胆と安堵、二つの思いが交錯する。それでも、やはり、会いたかった。

「巫女、いいえ、ミカヤ、……あなたには、私は謝らねばなりませんね」

 殊勝なアムリタの言葉と態度に、ミカヤは絶句していた。ミカヤの呆気にとられたような表情に、アムリタは視線を落とし、苦笑する。以前の自分の態度を思えば、彼女の反応は当然のものだ。

「よく息子を助けてくれたこと、感謝します。これからも、宜しく頼みますよ」
「い、いいえ、私はただ、将として……未熟すぎたと、反省するばかりなのです。それでも私を必要としてくれたのは、陛下ですから」

 言うミカヤの表情は、控えめながらも何かをふっきったように清清しいものだった。この娘に常にまとわりついていた影が、ない。改めて見れば、彼女という存在は不思議だった。ミカヤを目の当たりにしていると、心の中にある棘が消失してゆくように思える。アムリタは、まばゆそうに目を細めた。ベオクの気配も、ラグズの匂いも持たぬ娘。そういう存在のことは、父デギンハンザーから一度聞いたことがあった。

「そう。…あなたは、親無しだったわね」

 アムリタの言葉に、ミカヤははっきりと頷く。その、迷いのなさ。父から聞いていた「親無し」とこの娘とはだいぶ違う、そう思った。

「はい。お察しの通りです。ですが、私はこの血を、穢れたものなどとは考えておりません。それも陛下のお言葉があればこその、考えなのです」

 ミカヤの言葉は柔らかかった。けれども、そこに確固たる信念の伺えるものだ。自らの血を厭うのではなく、誇る。そういう考え方があればこその、強いものだった。
 アムリタがゴルドアの縁者と知っても、ペレアスはそうだった。半獣、そういう言葉を以前は当たり前のように使っていた息子は、何時の間にか変わっていた。アムリタは、ペレアスが視界にいないと不安になり、世界が崩れるように錯覚し、だから、常にその姿を捜し求めていた。にもかかわらず、その息子の心の変化になど、興味はなかったように思う。そういうものは、母親の愛などではない。恥じ入るように、アムリタはミカヤから目を逸らした。

「そうね、あの子は、そういう子だわ」
「アムリタ様、陛下に、お会いにならないのですか?」

 アムリタは小さく息を呑んだ。唇を噛み締める。会いたい。会いたくないわけがない。けれども、一度別れを切り出したのだ。そして、ペレアスに対して何の言葉も残さず、自分は実の息子の姿を見たいという態度を、取ってしまっていた。

「……私は……もう、……あの子の、母親では、なくなってしまったもの」

 言葉にしてしまえば、もう、後戻りなどは出来なかった。それでも、名残惜しいという態度を取ってしまう自分自身が、不恰好だった。ミカヤはそういうアムリタを責めない。だからこそ立つ瀬のない思いをする。それはミカヤの所為ではなく、自身が惨めだからだ。もう、祖国に戻ろう。きっぱり忘れてしまえば、悠久の時に任せてしまえば、記憶というものはやがて緩やかにあいまいになってゆくのだ。ゴルドア竜の娘として一度生を受ければ、いつしかそういう生き方を肯定せざるをえない。以前は強く反発したそういう竜族の生き方を、アムリタはどこかで認めるようになっていた。

「そんなことはありません」

 ミカヤは微笑む。驚くように彼女を見れば、心得たように頷く。けれど。アムリタは首を横に振った。ひどい別れ方をしたのだ。もう自分は、母でもなんでもない。無関係の、それもペレアスを不幸にした、ただそれだけの、恨まれても仕方のない他人だ。

「お話は、伺ってます。それに、…これは言うなと言われていたことですけれど、陛下は、祖国とそしてアムリタ様のために戦っておられたのですよ」

 ミカヤの続く言葉に、いよいよアムリタは絶句した。力なく首を何度も横に振る。疲れきった心は、おいそれと希望には縋らない。そうであるはずがない。厳しい顔ばかりをしていたペレアスを思い出しても、ミカヤの言葉に納得など出来なかった。アムリタですら、あの時のペレアスには近づけない、そういう雰囲気をまとっていた。それは、デインの王であるという事が最後の矜持だったからに他ならないのだ。だからアムリタも、その心を悪戯に騒がせまいと距離を保つようになっていた――思えばそれが、アムリタの最初の変化だったのかもしれない。

「…ペレアスが?……まさか、そんなことは…」
「いいえ。そうなのです。最後の戦いの最中にも、仰られました。自分は祖国があり母がいるから、こうして戦えるのだと。そうでなければ、とっくに死んでいる。そういう強い意志が、共に戦う私にも感じられました」

 けれども、ミカヤが自分にそんな嘘をつくとも思えなかった。そういう娘でないことくらいは、理解している。
 会いたかった。もう一度、ゴルドアに帰る前に、一目だけでもいい、会いたかった。そして、息子はペレアス一人なのだと告げたかった。

「そう、なの」

 最後の最後に、一言だけ「母」と呼んでくれたペレアスは、穏やかに笑い、そして手のひらを重ねて来た。ただ、それだけの別れだった。けれどもそれは、訣別だった。そういう別れを、アムリタは直接知らない。父デギンハンザーとは、縁を切ったも同然だった。それでもその死を聞き、そして己の愚かさを悔いた。例え愚かな娘であろうと、父は最期までその幸福を願っていたのだと、そういうことを伝えてくれたのもペレアスだった。

「…あの子のこと、頼みます。私の、たったひとりの息子のことを」