戦、のぞむもの 前編1/sample

 ふと目に入った――否、そうではない。あまりにも強くて、違和感があって、そしてそれはミストの脳裏にしこりのように残っている不安や恐れというものをひどく刺激するから、否が応でも目に飛び込んできてしまった、という方が正しいかもしれない。

 最初は、認めたくなかった。だから、そうだと気づいてから意識的に見ようとしなかった。
 頭の奥がずきずきと痛んで、じんわりと広がる不安が全身を覆うことを、止められない。
 ざあっと頭の上から冷や水をかけられたような心地で、寒いわけでもないのに身体がかたかたと震えている。歯の根が合わなくて、カチカチと音を立てている。

 あれは、違う。
 あれは、私が知っているお兄ちゃんじゃない。

 必死に視線を逸らそうとするのに、あの「見たことのない兄」を見てしまう。見たくはない、のに。
 心の奥が苦しくて、胸が痛くなって、とてもいやな気持ちになるから、頭がとても痛いから、だから、見たくはないのに。

 あんなに大好きなお兄ちゃんの背中が、怖い。
 たったそれだけのことなのだが、ミストにとってそれはとても恐ろしいことで、あってはならないことだった――そう、三年前、アシュナードと対峙した兄の背中を見たときに、やはり同じ感覚を覚えて、とても不安になって、必死に手にした聖杖を握り締めて祈っていた。誰というわけではないけれど、多分、女神さまに。それから、父と母に。兄が目の前にいるのにいなくなってしまったようで、別人のように見える背中が恐ろしくて、そうでもしていなければ平静を保つことなんて出来やしなかたから。
 それでもあの時対峙していたのはアシュナードだった。ミスト自身、ぜったいに負けられないと思っていた。誰のためというわけではなくて、おそらくは自分自身の為に、例え自分でアシュナードに一矢報いることが不可能であったとしても、この場にいなければならない、という使命感のようなものがあった。
 だから、踏みとどまれた。

 そもそも、漠然とした不安は兄が何の疑問も抱かずにあっさりとガリアに協力したときからだ。恩がある、友人だ、確かにそうかもしれないけれど。ミストはガリアのモゥディやレテ、ライといった人たちが好きだったし、あの国は決して居心地が悪いとは思わない。けれども父の仇よりも優先することなのか、疑問だった。だいたい、ガリアは戦争をすると言っていた。ミストは戦争なんてものは起きないならば起きないに越したことはなくて、出来ることならば避けたい――記憶の奥底、必死に閉じ込め蓋をしたものが表に出てきてしまいそうになって、その封じたものの正体はよくわからない、けれどもとても不安で恐ろしくて、それは知ってはいけないものとミストは思っている、だからだ。戦いの音と空気と臭いは、その奥の底に秘めたものを優しく刺激する、やはり、怖いものだから。

 そんな、漠然とした不安が唐突に不気味な形に成り、目の前に現れたような感覚にミストは身体を慄かせた。三年前のように、手にしている聖杖を握り締める――クリミアを発つ時、女王エリンシアに手渡されたもの。三年前と、それも同じ。
 ラグズ連合の戦いに助力すると言って、セネリオもあまり納得はしていないようだったけれど最終的に同意して、傭兵団は今、このリバン河畔にいる。対岸には、デイン軍――三年前のデイン軍とは、全く違う性格の軍とセネリオは言うけれど、ミストはよくわからなかった。ただ、漠然と兄と離れていてはダメだと思い、ほとんど無理を言って兄に付き従った――セネリオの言葉を借りれば、今のデイン軍は以前とはまるで違う強さを持っていて、所詮寄せ集めなどと侮ろうものならば歴戦の軍といえど痛い目を見る、まるで昔の自分たちにそっくり、らしい。
 そのことは、やはり実感はわかないのだが、兄が戦いの最中というのに突然微動だにしなくなった瞬間、直感的にセネリオの言葉が間違いではない、とミストは感じた。そして、おそらく兄はデイン軍との戦いを望む――それは、父の敵をデイン軍の中に見つけたからではない。何故なら兄の視線は、あのあまりにも目立つ漆黒の鎧にではなく、別の方向に向けられていたからだ。

 身体の震えは、収まらない。とても泣きたい気分なのに、全然涙が出てこない。
 喉の奥がカラカラになって苦しくて、聞こえてくるハズの戦いの音がまったく聞こえなくて落ち着かなくて、水と血と金属の混じりあった空気が、とても不快で。思考がだんだんととりとめがなくなり、そもそも今何をしているのか、ミスト自身がよくわからなくなってきていた。
 けれど、視線だけは動かない。動かせない。

「ミスト?!」

 誰の――誰かの、声。振り向こうとするのに、身体が動かない。
 動かしたいのに、動かないのだ。ぐらぐらと足元すら覚束ない。じゃり、と靴底が川原の砂利を踏む音は聞こえているのに、振り向きたいのに振り向けない。倒れてしまいたいのに、倒れることすらままならない。助けて。喉の奥で叫ぶのに、他人のような兄の背中から視線を外せない。あそこにいるのは、お兄ちゃんだけれどお兄ちゃんじゃない。怖い。とても、怖い。
 声を、何か言いたいのだけれど喉はひからびてしまって声が出なくて、うまく呼吸も出来ない。断続的に浅い呼吸を繰り返しても、一向に楽にならない。胸も、喉も、苦しい。景色が、ゆっくり回っているように見える。


「ミスト、どうかしたの?あなた、顔色が……」

 真っ青な顔をしてフラフラとしているミストに、ティアマトは慌てて騎馬から降り駆け寄った。幸い、デイン軍の攻撃は最前線のワユやガトリーらに集中しているし彼らは敵の目を引き付けてくれている。それでも空中から機動力を生かし急襲をかけてくる竜騎兵が、全く見事にそこかしこに配置されている、この戦場で安全な場所などはない。ティアマトが近づいても尚ぼんやりと焦点が定まらない目をしているミストの両肩をやんわりと包み、何度も繰り返し、名を呼ぶ。すると、ミストのぼやけた焦点がすうっと戻ってきた。
 女騎士をようやく目視出来て、ミストの表情から緊張感が僅かに解けた。けれども、顔が真っ青で呼吸は荒く、全身の震えも収まっているわけではない。

「ぁ、ティアマト、さん…わた、し、…うん、だいじょ、……ぶ」

 ぜぇぜぇと荒い呼気と喉の奥から搾り出されるかのような、乾いた声にティアマトの柳眉がきつと寄せられる。

「とても平気そうには見えないわ。ここは、私に任せなさい」

 きっぱりと言うそのティアマトの言葉の意味を悟り、少女の顔に些かの緊張感が戻ってくる――茫洋と危うさを秘めた胡乱な眼差しではなく、そうしなければならない、という強い意志を秘めた双眸が、ほんのわずかに戻って来ていた。

「だ、駄目!怪我を、した人…なら、私だっ…て、助けられる、だか…ら、…お兄ちゃ…んの、そば、に、…いる」
「けれど……」

 ティアマトは思わず強くなりそうなその先の言葉を、ぐっと飲み込んだ。
 どう見ても、ミストのこの様子はあのアイクが原因だ。ティアマトも、既にアイクの「異変」には気づいていた。けれども、以前と違いある程度自らの立場を考慮出来るようになったアイクの事を、ティアマトは信頼していた。それに、その「異変」を心配しているのは何もティアマトだけではない。シノン、オスカー。あの二人は、あまり気取られぬようにアイクのフォローをするような動きをしていることにも、ティアマトは気づいていた。
 だから、心配はしていなかったのだ――アイクに関しては。
 だが、ミストが絡むとなれば話は別である。グレイルから聞いていた過去、そして生来癇の強いミストの気質。彼女の蒼白な顔面や脂汗が全てを物語っている。彼女をすぐさまこの場から引き離さねばならない。そして、心を落ち着けさせねばならない――下手をすれば、キルロイの世話にならなければならない。とはいえ、そのようなことを彼女に全て告げ、だからあなたを別の場所に連れてゆく必要がある、などと説くのはもってのほかだ。
 意識していなくてこれなのだ。それが、自らですらすっかり忘れ去っている記憶をあえて思い出させる必要など、今はまだない。なければなくてよいのだ。
 ティアマトの脳裏を最悪の可能性が過ぎり、忙しなく目蓋が動く。戦場に彼女を立たせる以上、いつかは起きると覚悟はしていた、けれど。

「逃げられないの…多分、私、…ここに、いなきゃならない、から」

 そんなティアマトの内心を汲んだのか、ティアマトが逡巡している間に幾分か落ち着いてきたのか。大分調子の戻った声と様子でミストは自らを奮い立たせるように、言う。その声はか細く震えていて、けれど双眸には、先ほどより尚強い意志の光。真っ青な顔をして、そのくせ絶対意地でもここを動かない、そういうミストの決意の程が伺える。
 少女の身体の震えは、収まっていた。
 ティアマトはため息をつきわずかに瞑目し、ミストの双肩から手を外した。

「仕方ないわね」

 言いながら、困ったようにティアマトは笑い栗色の髪をそっと撫でた。このいざというときの頑固さは、本当に兄妹揃いも揃ってグレイルに酷似している。この戦いは、そう遠からず終わるだろう――元々、こちら側は陽動なのだ。時間を稼ぎさえすればよい。そのことは、アイクを始め皆がよく理解している。だからアイクは動かないし、ワユやガトリーも攻め込んでいるようで戦線を無理に押し上げることはない。攻めては引き、ひいては攻めるというワユらしい変幻自在の動きを、巧くガトリーが補佐しているのだ。

「けれど、私はここにいるわよ。そんな状態のあなたを放っておけないでしょう」

 ティアマトの言葉に、ミストはびっくりしたように目を見開く。けれども、それを拒絶出来る状態でないことも本人が一番理解しているのだろう、何かを言いかけた口は何の言葉もつむぐことなく、閉じられた。

「戦いのことなら大丈夫よ」

 念を押すようにティアマトが言いかけた、その時だ。砂利を無造作に踏みしだく音とあわただしい声が届く。

「おいミスト、お前、大丈夫なのかよ!?」

 荒い息を吐き出しながら、靴や衣服を泥と水だらけにしたボーレが武器を収めることも忘れ、駆けつけたのだ。

「ボーレ?あなた、右手の攻めに回っていたんじゃ……」
「あ、ああ。あっちはな、俺よかイレースやキルロイのが分がいいもんだから、俺ぁこっちにきたんだ。そしたらミストがグラグラしてるから、慌てて…」

 そう言う視線が、どこか泳いでいる。おそらく半分は嘘なのだろう。そもそも、相手に分があろうがなかろうが仲間を守るのがこのボーレという青年なのだ。キルロイあたりが、ここは大丈夫だからと進言でもしたのだろう。二人で大丈夫、ということは、セネリオが分析した通り右手にはそう多い兵が配置されているわけではなく、魔道兵を中心とした編成なのだろう。魔道兵相手では、確かにボーレは圧倒的に不利なのだ
。  いささか登場の遅いナイト様は、それでも戦いの最中でも常にミストの事を気にかけているのだ。苦手な相手から逃げてきた、というより、ミストの異変に気づいてしまったのだろう――ボーレが戦っていた水辺は、ここからそう遠くはない。意識を他に向ける余力があるような相手には思えないのに、青年と言っても良い成長を遂げたボーレは、いつだってこの少女のためなら無茶を平気でしてしまう。

「…ここにセネリオがいたら、大目玉よ」

 セネリオは、ボーレのそんな行動などは折り込み済みだ。でなければ、あえて、ミストの側近くにボーレを配置したりはしない。何かあればボーレが駆けつける、そう踏んでいるのだ。とはいえ、それをボーレに告げるのも何か違う気がして、ティアマトはくすりと小さく笑うだけにとどめた。ボーレが怪訝そうな表情をする。

「悪ィ、いや、けどな」
「ボーレ、ごめんね、私は大丈夫」

 ミストもボーレの気遣いを悟ったのだろう、ようやく彼女らしい笑みを浮かべ、ボーレに謝罪の言葉を告げた。

「お、おう」

 ミストのあまりにも自然体に綻んだ顔から不自然にボーレが視線を外し、視線を彷徨わせていると、今度はパタパタと小走りにこちらに駆け寄ってくる――噂の、参謀殿だ。

「セネリオ?!」

 予想外の人物の登場に、三者三様に驚愕の声をあげるも、セネリオはいつもの渋面で、ため息をついてみせた。その手に携えているはずの魔道書がないことに、ミストは気が付いた。

「何をしているのですか。戦いは、もう終わりました」
「え、それじゃ」
「作戦は、成功です」

 当たり前のように、セネリオは言う。彼は、いつでもこうして揺るがない。まるでしっかりと大地に根を張り立つ樹木のように、揺ぎ無い信念を持って、アイクの隣に立っている。
 作戦は成功、戦いが終わった。喜ぶべきことだ。たとえこの先に再び戦いが待っているとしても、戦い以外の時間はミストにとって大事な時間だった。けれど、何故だろう、いつものように素直に喜べない。
 気づくと、怪訝そうな――彼のあまり豊かではない表情から判断すれば、他者を幾分かは気遣うような表情が、ミストをじっと見ていた。

「ミスト、顔色が優れないようですが」
「あっ、う、ううん、もう大丈夫なの!大丈夫、セネリオが心配しなくとも、平気!」

 努めて明るい声と笑顔を作る。セネリオの表情が余計に曇るが、けれど彼はそれ以上何も言うことはなかった。

「いやけど、一回キルロイに見てもらおうぜ。やっぱ、まだ顔色戻ってねえだろ」
「何言ってるのボーレ、そんなの駄目だよ。杖や薬草だって、貴重なんだから。私は少し休めば平気」

 平気なんだから。心の中だけでつけくわえながら、ミストは戦いが終わったのに戻るそぶりがない、未だに立ち木のように立ち尽くしている兄の背を、ちらりと盗み見た――先ほどまでの「怖さ」はなくなっている、けれど、やはり何かがいつもと違う気がする。
 セネリオは、知っているのだろうか。
 ティアマトや、ボーレも、兄の異変を、知っているのだろうか。それでいて、何も言わないのだろうか。怖くはないのだろうか。彼らは戦いの中で戦う事に、ミストよりも慣れているから平気なのかもしれない。
 けれど、じゃあ、兄を怖いと感じて、あんなに具合が悪くなったのは何故なのだろう。アシュナードとの戦いの最中にもすっかり同じような事があって、やっぱりティアマトとボーレに迷惑をかけてしまった。戦いの、最中だというのに。
 ぐっと、ミストは息を飲み込む。私、だって、三年前とは違うはず。三年前よりも、ずっと、「慣れた」もの。

「平気よ、ほら、もう!」

 私は平気なんだ。何度も繰り返しながら、ミストは明るい声を張り上げた。
 私は平気、お兄ちゃんの側にいれば、みんなの側にいれば、平気。
 お兄ちゃんが、私の知っているお兄ちゃんじゃなくなっていても……きっと、みんながいれば、私は平気。

 わざとらしくボーレのわき腹を小突きながら、ミストは手にしている聖杖を握りなおしていた。ふれているとなんとなく母エルナを思い出せる、理由はわからないけれど、キルロイから教わった聖杖という人を癒す道具は、いつだってミストに力をくれる気がする。
 傭兵団の皆の中で、これを携えてさえいれば、きっと、大丈夫。

 繰り返し、ミストは自分に言い聞かせていた。それでも尚、もやもやと残るしこりのような不安を、忘れ去るために。