帝国図書館。マナイル大神殿に隣接するそれは、大神殿同様の静かな空気に包まれていた。
大神殿に生を受け、そして育った皇帝神使サナキは、このどこまでも静寂を湛えたままの空気というのが好きだった。
サナキが皇帝神使などという地位を得たのは、記憶定かではない赤子の時分だった。先代ミサハに連なるもの、それだけの理由でサナキは選ばれた。
けれど、そのような幼子に自覚などというものはない。
ただただ広い、そして高い天井の大広間に連れられて来たところで、その広さに怯えるしか、親から引き離された童には、術などなかった。
大勢の視線が、突き刺さる。そういう感覚に、幼子は恐怖した。父や母は。そう、叫ぶしかなかった。恐怖に、自分がつぶれてしまいそうだった。怯えのあまり取り乱すサナキに、手を差し伸べたのは、当時まだ元老院議員であったセフェラン――今現在サナキにとって、心の拠り所ともいえる男だった。
セフェランという男は、豊富な知識を持っていた。何事にも興味を示すサナキに、ひとつひとつ丁寧に解説をしてくれた。
サナキが呼べば、セフェランは笑みをたたえ頷く。サナキが望めば、セフェランはいつでもそこにいた。シグルーンやタニスという、親衛隊という存在とは、どこか違っていた。彼女らは、サナキを皇帝神使と敬う。けれどセフェランは違うのだ。
サナキは、兎に角知るということに対し、貪欲であった。そういう幼子の姿を、司祭らはまさにミサハの再来と有難がり、喜んだ。帝国市民もまた同様で、自分たちの上に立つ皇帝神使がご聡明であらせられる、そういうことを喜んでいた。
サナキは多くのときを、この薄暗い図書館で過ごしていた。神使としての任がなくば、マナイル大神殿は大司祭と言葉を交わすか、この図書館にセフェランと共に赴くことこそ、女神の代弁者たるサナキの楽しみの一つだった。それは、庭でシグルーンらと言葉を交わすことと同じように、さまざまな事をサナキに知らしめてくれるのだ。
女神の声を賜れぬ。そういう、神使としての自身の不足ということを、考える時間が欲しくはなかったのかもしれない。だが、そういう結論を幼子が出したとて、女神の声はサナキの脳裏に響き渡るわけではないのだ。
サナキが近頃夢中に読み漁っていたのは、「ラグズ奴隷解放令」――先の神使ミサハが出した法令のひとつであり、ラグズ奴隷の解放を宣言したものだった。ミサハが唯一、女神に賜らなかった言葉、それがラグズ奴隷解放宣言。
何度も何度も繰り返しそれを読むサナキは、なぜミサハがこのような法令を出したのか、考えた。なぜ、女神の信託ではないのかを、ひとり、考え続けた。
ラグズ奴隷。そういう言葉、そして存在もまた、サナキにとって新鮮であった。セフェランに問うと、ベオクとラグズの互いの覇権を争う戦で、敗北したラグズが、ベオクに隷属を強いられたその結果だ、と教えてくれた。負けたのだから、仕方ない。ラグズはそういう納得をするのだという。
敗北の末の隷属。国家の負けというものは、そういうことなのだとも、セフェランは教えてくれていた。だから、その結果自体は理解できた。けれども、その戦いというのは、何百年も前の話だと、サナキは知っている。帝国史は、最初に学んだもののひとつだ。
するとセフェランはラグズはベオクよりも遥かに長い時を生きるもので、ゆえにそういう因縁を長く持つものだと言う。ベオクのように、簡単に過去を忘れることはないのだ、とも。
そういう言い方に、なんとなくベオクに対する悪意があるように、聡い少女は感じた。どこかで、怖かった。それが面に現れたのか、セフェランは笑ってどちらが良いというわけではない、と付け足した。
セフェランの教えは、言葉は、わかりやすかった。それはサナキが知識をより深める手助けもしたし、時にあまりにも真面目にあらゆることに向き合いすぎるサナキに、ひと時の安らぎを与える冗談なども言うのだ。クリミア産の茶を好むサナキに、馴れた手つきで淹れてくれるのもセフェランであり、そういう時に余計な由来や逸話などを面白おかしく教えてくれるのも、やはりセフェランだった。
奴隷制度が横行しているような状況など、サナキには想像がつかなかった。帝国市民が、ラグズに隷属を強いていたということも、信じたくはなかった。なぜなら、ベオクとラグズという存在は、祖先を同一にするというだけの、ただそれだけの違いであるはずなのだ。そういう聖典には書かれていないことまでも、セフェランは教えてくれていた。
そして、セフェランは帝国の歴史にその仔細を記されてはいない「セリノスの悲劇」のことまでも、教えてくれた。訥々と語るセフェランの眼差しは、態度は、いいえぬ怒りと悲しみを含んでいて、サナキはそれだけでもやはり怖かった。そして、セフェランの語った内容の凄惨さに、再びサナキは怯えたのだ。
我ら帝国は、なんという大罪を犯したのか。
そしてなお、事実を隠そうとする元老院とは、どういうつもりなのか。そういう元老院が、この帝国の政を担っているなど、サナキには信じがたい冒涜行為にも思えた。
サナキはため息をつき、書を閉じる。
「サナキさま、よろしいのですか」
「うむ。のう、セフェランよ。私はやはり、真実が、知りたい」
「真実、ですか」
「ラグズ奴隷など、存在しえない。じゃが、ではなぜ、時折私の耳にラグズ奴隷をどうにかしてほしい、という声が、とどくのかの」
それは、あえてセフェランがサナキの耳に入れていることだった。だがそれを、サナキは知らない。サナキは、セフェランを実の親のように慕い、全てにおいて頼る。この大神殿の中、皇帝神使の名を持つ少女が出来ることなどは、多くはないのだ。
「それほどに、帝国市民もまた……真実を、望んでいるのかもしれませんね」
「真実を、か……先のセリノスの件といい、やはり、私はどうにかせねばと思う」
サナキが顔をあげる。何を言いたいのか、セフェランには手に取るようにわかっていた。
つまるところ、ラグズ奴隷解放宣言が絵空事であると、この聡い少女は勘付いている。そういう風に、思考をそして知識を誘導したのも、やはりセフェランだった。だがサナキは、それが自身の意志であると信じている。それでよかった。彼女は、それが正しきことだと信じていればよい。事実、正しいのだ。セフェランは、女神に誓って天に叛くような行いなどは、していない。
そう、それが例え己の復讐のための、手段の一つなのだとしても。
サナキは、信じればいいのだ。宰相という自分を。
「クリミア王遺児エリンシアと、その護衛、ですか」
「そうじゃ。あやつならば…うってつけじゃ。我が手のものを使うには、いささか危険じゃの。それに、私の依頼を果たしたと成れば、それだけで元老院は黙ろう」
「わかりました。では、まずは奴隷商人を探らせましょうか。情報は、つかんであります」
「うむ。このタイミングでああいうものらが現れたのもまた…女神の思し召しなのかもしれんの」
サナキは、わずかに笑う。そういう時のサナキは、やはり年相応の少女に見えた。齢十にもならぬような彼女が、皇帝神使として在らねばならぬ過酷さも、そうあろうと望む健気さも、セフェランにとっては、好都合なのだ。
「そうかもしれません」
笑みをたたえることは、簡単なのだ。この少女をいとしいと思う事もまた、簡単だった。
セフェランの穏やかな笑みに、サナキは応じ笑顔を作る。この愚かなまでの健気さは、愛しくもあった。心のどこかで、くすぶり続ける何ものかの残滓が、音を立てて崩れる。そしてそこに残る空虚さに、セフェランは身を委ね、笑った。
美麗過ぎる容貌が浮かべる笑みの真実の酷薄さなどを、この宰相を慕う少女が知る由もないのだ。