「首領ッ、た、大変です!!」
やおら飛び込んでくる声とその勢いに、トパックは睨んでいた書面より素早く顔を上げた。
「何事だ」
しかし、トパックが声にして問う前に、影のようにそばにあった男がのっそりと立ち上がる。部屋に駆け込んできた虎の男は、息を切らせながら言葉を吐き出した。
「と、逃亡奴隷です、鷹の……」
逃亡奴隷。その言葉に二人の顔色がさっと変じた。トパックの眉間にきつくしわが寄り、ムワリムの面からは色が失せている。言葉の意味するところに、二人は言葉を失っていた。
奴隷解放宣言の後、正式に解放されたラグズ奴隷は大勢いた。だがしかし、奴隷を手放そうとしない輩、或いは商売の種とする連中は矢張り大勢いた。説得力のある理由を、或いは対価を用意しなかった時の神使ミサハのそれは完全な落ち度であった。
十分に国民を納得させえなかった「奴隷解放宣言」はまさに絵に描いた餅であり、当然ながら元老院はそれを受け入れてなどはいない。
すれば、殆どが名ばかりの宣言である。宣言を機に、本来ならば双方で国を支えてしかるべき元老院と皇帝神使は対立の溝を深めた。元老院派、神使派などという言葉は以前からあったが、より一層その対立は深刻化した。
その狭間にあり生み出された矛盾の象徴が、逃亡奴隷・解放奴隷といわれる元ラグズ奴隷である。
奴隷解放宣言以降、「奴隷の烙印を消去しベグニオン国内で限定的市民権を得ることになった奴隷」は解放奴隷と呼ばれていた。
そして逃亡奴隷とは、奴隷解放宣言以前と以後でだいぶ言葉の意味を異にする。
宣言以前は、主人の元から逃亡した奴隷を単純に指しているのだが、宣言以後は主に「奴隷の烙印を消去されたものの、故郷にも帰れず行き場を失った元奴隷」を指すようになっていた。故郷に帰ることが出来たものは、最早奴隷ではなかった。
そして逃亡奴隷と言われる者の殆どが鷹ラグズである。なぜならば、フェニキスという国は殊更に自らの出自、種族に誇りを持つ種であり同時に反ベオク感情が概して強かった。現在の国王ティバーンを筆頭に、「ニンゲンなどという弱者は強者であるラグズに食われるが関の山だ」とまで公言し、「当然の報復」といいながらベグニオン商船を襲う。つまり、ニンゲン如き弱者に捕らえられ、隷属を強いられたようなものはすでにフェニキスの民ではないのだ。誇りを失ったものに手厳しいのはラグズの特性だが、フェニキスは殊更にその傾向が強かった。
「……で、どんな状況なんだ」
書面を机上の隅に押しやり立ち上がるトパックの声は、低く抑揚のないそれだった。ムワリムの背を、不愉快極まりない汗がゆったりと落ちた。
「ジャニスが羽を千切られました。ルードが抑えてます、けど、いつまでもつか」
「クソッ、わかった、今行く!来い、ムワリム」
叫び、手近にあった外套を羽織り、手には常ならぬ魔道書。トパックが羽織ったそれは、「戦い」に赴くための、符呪を施したそれだ。
ムワリムは重たい息をつき、観念した。強い。そうして、当たり前のように矛盾を受け入れる。この小さな少年は、あまりにも想いが強すぎるのだ。信念というものが、この少年の全てでありすぎる。
だからこその、己だ。何度目かの誓言じみたものを、ムワリムは小さく呟いた。場合が場合ならば、化身も厭うまい。
「逃亡奴隷」は殺意にのみ彩られる目をトパックとムワリムに向けてきた。足元には全身血にまみれ蠢く猫の青年の姿があり、翼を折られた鴉が二名。三名とも、辛うじて息はあった。
澱みきった眼光、だらしなく開かれた口元、そこからたれ落ちる涎、薄汚れた風体、毛羽立つ羽毛。なるほど確かにこれはまったくもってらしい。
非化身状態を押さえ込めばよい、そういった当たり前の対処の仕方を皆が忘れてしまうほど、不気味でそして妙な存在感を持つ奴隷だった。
おそらく、元奴隷戦士だろう。非合法ではあるが、ベグニオンではラグズ奴隷同士を戦わせ、賭けを行う――そのような催しが不定期に開催されていた。その主催が元老院絡みの人物だ、ということまでトパックは既知の情報として掴んでいる。
もしもこの逃亡奴隷が元奴隷戦士であれば、これは骨が折れるかもしれない。奴隷戦士として文字通り死線を潜り抜けてきた者が逃亡奴隷と化したとすれば、既にもう数え切れぬほどの同胞を食らっている可能性が高かった。奴隷戦士同士の戦いは、相手の死ではなく「相手を食らい尽くすこと」で初めて勝利とみなされる――気分の悪い記憶だった。ベグニオン貴族とは、実際大陸一悪趣味な連中の代名詞だった。
とにかくこの男は、会話の成り立つ相手ではなく、相手にするには分が悪すぎる相手だ、ということだけは確かだった。絶望的な憶測を、トパックは腹の底に無理やり沈めた。
「ムワリム。牽制してくれ。おいらが、やる」
有無を言わせぬ声と顔をしてトパックは言う。一定距離を置いて取り巻くように見つめる元奴隷たちは、固唾を呑んで状況を見守っていた。首領の手に携えられた見慣れぬ魔道書の意味するところを知らぬものはいない。翼持つものに有効である魔道を、しかしトパックは得手としてはいなかった。だが、それでもトパックの細い足も小さな背中も震えてなどはいない。そしてその小さな背は雄弁にひとつのことを物語っていた――手を出すな。これは、首領である自分の仕事なのだ、と。
ムワリムは、諾と答える代わりに意識を集中した。体の奥底の衝動を、望んだ。力の解放――化身。ラグズ奴隷解放軍中随一の力を持つムワリムは、だが元奴隷であり更にその性格から、滅多なことで化身などはしなかった。化身すれば、戦いの衝動を抑えるのはほぼ不可能だ。だからこそ、ムワリムは主の言葉なくば、或いはその身に危険が及ばなければ、ほとんど化身はしなかった。
鷹奴隷の濁り、腐ったような眼にゆるく光がともる。それは、不気味な明るさだった。「負」を孕む色で、おぞましい感覚を見るものに覚えさせる。にたりと、彼は嗤ったようにムワリムには見えた。
「クズどもの馴れ合いの、その首領格がニンゲン。なるほど、冗談だと思っていたが本当に存在したか!」
男は、嗤った。
嗤い、足元の猫の青年の体を、やおら持ち上げる――血まみれの、猫の青年の顔が露になる。トパックの様子を伺うまでもなく、ムワリムは砂地を蹴った。
素早い敵の反応に、男は満足げな笑みをたたえ、猫の青年の体を放り投げた。非化身状態であるとは思えない、力。
その目に獰猛な色がきらめく。
空気が変わる。ムワリムの四肢は、砂地に足を囚われることなく獲物に一直線に向かう。
現れた巨大なまがまがしい姿の鷹は、飛び立つ。ムワリムはそれを捕らえ損ねた。加速を止め、虎が跳躍する。鷹は、上空に向かい、放り投げた獲物を空中で受け止め――食らった。
ムワリムの爪は、間に合わなかった。
叫び声が聞こえた気がする。だが、ムワリムは腹の中に溢れるものを押さえられなかった。嘲笑うように空に逃れ、聞くもおぞましい悲鳴を最高の美酒と言わんばかりの様子で、鷹は化身もできぬ猫の青年を食らってゆく。その様を見せ付けるように、わざとらしくゆっくりと肉を咀嚼する。その度に、絶叫が迸る。
「ぁ、あ、あ、あ」
少年の口から漏れる声ならぬ声に、鷹の目は獰猛に、くるくるとまわる――あざ笑いながら、肉と、血を、滴らせながら、猛禽は実に「優雅」に食事をしてみせた。
「うぁあ、あ、ああああああああ!!!」
ムワリムが、伺い見る前に、背後で少年が吼えた。そうとしか、言いようのない声だった。決壊した感情の奔流が喉を裂いた。
引きずる悲鳴を上げながら、涙を流しながら、顔を怒りに染めながら、少年は慣れぬ文言を編んでいた。手にしている魔道書が掲げられ、頁が繰られる。精霊を使役する言葉、怒りに満ちた声、震える少年の声。
魔道の風は見えぬ刃となり、砂塵を巻き上げて男に襲い掛かった。もうもうと立ち込める、視界を阻む砂。砂嵐のごとく舞い上がる一陣の風。
ムワリムは静かに意識を研ぎ澄ませた。――おそらく、しとめてはいない。それはムワリムの直感だった。感情に任せ、我武者羅にトパックが放った初歩の風魔法が、あの奴隷戦士に致命傷を与えられた、などとは思っていない。
「……誇りを失った連中が担ぎ上げたのは、無力なニンゲンの子供」
案の定、収まった砂煙の向こうがわには、巨大な鷹の姿がある。茶褐色の――ほとんどが黒に近い羽毛は、ところどころ抜け落ちているものの飛行に支障はないようで、ボロボロの風体がかえって不気味さを増幅させている。そして、その声色は不気味ではあったが狂ったもののそれではない、とムワリムは感じていた。体は、怯えに支配される一歩手前だ。強張りかける筋肉に逆らうべく、深い呼吸をした。神経を、研ぎ澄ませた。全身を牙とすることを望んだ。
「お前のような馬鹿が、あのミサハという大ばか者を焚き付けなければ、俺は幸福な生を全うできたというのにな!」
哄笑と共に、鷹は咀嚼した肉体の残りを砂上に投げ捨てるように、吐き出した。
どさり、と乾いた音と共に地上に投げ出されたそれは、最早原型をとどめてなどいないただの肉塊。ひゅ、とトパックが高い音をたてて息を呑む。とっさにムワリムはトパックの視界を遮るように駆けた。そして主人の表情を伺った――だが、トパックの幼い相貌は、常に付き従う従者にではなく、投げ出されたかつて同胞であったものの残骸へと、向けられてしまっていた。
「貴様がどんなにいきがろうと、腑抜けどもを集めようと、何も変わらない。お前らに何が出来る?こんな砂漠の果てに逃げ込んで、ぬくぬく馴れ合っているだけの、お前らに」
屍骸というには原型をとどめていない肉塊に視線を注ぎ続けるトパックに、鷹は頭上から禍々しい言葉を浴びせ掛ける。ムワリムの四肢に力が篭るも、それを感じ取った鷹はからかう様にムワリムの頭上を、その四肢のギリギリ届かぬ範囲を舞うのだ。その度にムワリムの背には言いがたい悪寒と生理的嫌悪が走り、同時に「力では明らかに敵わぬ」というそれを何度も何度も実感させられるのだ。だから、呆然と風と砂に晒されたままの主人に近づこうにも、ムワリムの四肢はまったく用をなさなかった。
ムワリムだけではない。その場にある誰もが、動けなかった。
「くく、くく、くくく。せいぜいそうして砂上に城を築くがいいさ。知恵がとりえのニンゲン、お前はそのニンゲンの子供だからな」
禍々しい悪鬼のごとく姿で飛び去った鷹を、その姿が消えた北の空を、トパックは食い入るように眺め続けていた。小さな背中は必死に虚勢を張り続けた。
山岳地帯の空の色は鉛色に近い。雨が来る。約半年ぶりのそれの事を思えば心躍るであろうに、今のムワリムの心は鉛に等しい。せめて、年に数える程度の雨が血を洗い流してくれれば――その不幸の痕跡を消してくれるのなら。一瞬、ムワリムは願った。
「坊ちゃん」
「ムワリム、悪い、一人にしてくれないか」
間髪入れず返ってくる少年の声の固さに、ムワリムは胸の奥を直接に掴まれ、握りつぶされたかのような感覚を覚えた。口の中がじんわりと苦味に満ちた。トパックのこのような声を、ムワリムは初めて耳にしたのだ。
「いいえ」
「一人に、なりたいんだよ」
「いいえ。だめです」
きっぱりと迷いのない従者の声に、少年は全身で振り向いた。足元の砂が舞い上がる。ムワリムは、振り向いた主人をじっと見つめる。おおきな胡桃型の瞳には涙が溜まり、顔はすっかり紅潮していた。同じような顔を、過去の記憶にさぐれば見たことはあるような気がする。けれども、その意味合いはまったく違うのだ。
それでも、その口元だけは、かつての記憶とすっかり同じ様。必死に引き締められ、眉は理不尽さを従者に問うていた。
「なんでだよ!ムワリム、なんでおいらの言うことが聞けないんだ!ひとりに、させてくれよ!」
両手で握りこぶしをつくり、俯きながらトパックは叫んだ。小さな子供の肩を震わせながら、少年は血を吐くような声で、まるでそれは懇願するかのようだった。
ムワリムは黙ったまま、しばらく何も言えなかった。トパックは嗚咽を必死に堪えながら、地面を睨んでいる。
風がいつの間にか冷気を運んできていた。
そして冷気はいつしか湿気を帯び、砂は舞い上がることをやめた。
水滴が、うつむいたままの少年の頬を濡らす。遠くに轟く地響きのような音が、ムワリムの耳に届いて、それはこの雨の雨足の強さを伺わせていた。砂漠に、嵐が来るのだ。
「……坊ちゃん」
「なぁ…ムワリム。おいらのやってること、意味のないことなのか?」
遠雷と、強くなる雨を否定するように乾ききった声色。ムワリムの耳には二つの音が同時に届いた。それは、同時にムワリムの中に痛みを覚えさせた。雨の中、少年は語気を強めることはまったくなく、淡々と心の断片を吐き出し続ける。
「ラグズ奴隷たちを助けること。ラグズたちと一緒に、幸せに暮らせる世界を目指すこと。みんなで笑って暮らせる世界を作ること。全部、無駄なことなのか?」
砂漠の雨は一瞬にしてその強さを増す。砂の大地に少しでも水を与えんとする女神の慈悲は、あっという間にそこらじゅうに水溜りを作り出していた。ずぶぬれの小さな肩は痛々しく、だがムワリムはその小さな体に触れることは出来ない。ただ、同じように雨に打たれることしか、出来なかった。
「奴隷なんて言葉なくして、神使ミサハ様がおっしゃったように、ベオクもラグズも一緒に暮らして…なあ、そういうことを望むのは、馬鹿なことなのか?」
「そんなことはありません」珍しく強い調子を露にムワリムは立て続けに吐く。「そんなことはありません、決して」
怪訝そうにトパックは瞬きを繰り返していた。
ムワリムは主人の瞳を、正面から受け止める。今、自分が揺らいではならない。そういう想いもあれば、元ラグズ奴隷の男は真っ直ぐに小さな主人の目を見ていた。
「もし、坊ちゃんの望みが馬鹿げた無駄な望みであるのなら、このように皆が集まることはありませんでした。こうして、グラーヌ砂漠を拠点として活動することだって、出来ませんでした。決して、無駄ではない」
土砂降りの雨の中、叫ぶようにムワリムは言葉を吐き出した。雨音にかき消されんと、全身の力を振り絞っていた。無駄などではない。無駄である筈がない。何度も何度も、ムワリムは繰り返していた。
「無駄では、ありません」
「そう、か」
小さく呟くと、再びトパックは視線を落とした。ずぶぬれの、少年の肩は小刻みに震えていた。声が震えているように思え、ムワリムも同様に視線を落とし、そして背を向けた。背を向けて重たい雲から湧き出てくるような雨に、面を向けた。温い水が顔面に降り注ぎ、それは等しく大地を濡らす。
ムワリムは足を踏み出した。雨音、水が水を弾く音。その中に混じる、不規則なか細い、吐息のような声。
ベオクよりもはるかに鋭敏な聴覚を持つ男は、耳を閉ざした。
それは小さな主人のためなのだ。
泣くことを封じるには、その体も心もまだまだ小さな、だけれども無限の可能性を秘めている希望の光のような少年のためだった。