「よ、ラインハルザ!今日も精が出るな〜」
全身汗だくになるほどに肉体を酷使し、その汗をぬぐっているタイミングで現れたのが、ラインハルザの現在の直接の上官でもあり命の恩人でもあるイデルバ将軍・カインだ。
自分の胸元ほどの背丈しかない、ヒューマンにしてはしっかりとした肉体ではあるもののドラフの己と比べるとずっと華奢で色白に見える若干22歳というこの将軍は、出会ったときと変わらぬ人好きのする笑顔で手を振る――もっとも、出会ったころは表情の柔らかさの裏には相手を観察し益になるか否かを判断する怜悧さと壁が存在していたのだが、今はもうそんなものは存在していない。互いに思想と過去をぶつけあい、話し合った後であればもう距離などはないも同然だった。
「あぁ、カインか……」
汗を拭きながら身体ごと向き直ると、一回り小さなヒューマンの青年はぼすん、とそのまま頭から突っ込んでくる。
「うっわ、汗くさ」
瞬間、顔をしかめて迷惑そうに首を振る素振りに、呆れ気味にラインハルザは呟いた。
「……あのなあ、お前が勝手につっこんできたんだろうが」
迷惑そうに(別に迷惑ではないのだが)カインの頭を軽く小突くと、タハハ、と苦笑いしながらそのまま体重をかけてくる。
距離は確かにない、そもそも彼とはこういう仲だという自覚もあるのだが、この状況でこれは、いささか甘えすぎな気がしなくもない。
ラインハルザは徐にカインを引き剥がすと、もう一度、今度は脳天に軽く拳骨を落とした。
「お前な。場所をわきまえろ」
「いってぇ!ラインハルザ、俺だっていうのに全然加減しねぇんだもん、威力業務妨害で罰金モノだぞおまえ」
「俺に甘えるのが将軍サマの仕事か?」
「そうでーす。部下の躾や様子を確かめるのも仕事のうちでーす」
へらへらとああいえばこういう、こういえばああいうでまったく手に負えない。手に負えないのだが、考えてみればこの将軍さまの飼い主であるフォリア国王も似たような食えない性格だ。上が上なら部下も部下。そういうことかとラインハルザは納得して、嘆息する。
「なんだよため息が多いなあ。かわいいかわいい年下の恋人がせっかく会いにきてやったってのに」
「それは秘めてるわけでもねえが公言してるわけじゃねえ。第一お前の外聞にもかかわる」
小声で抗議するや、カインの表情が一瞬で硬く、厳しいものになった。
「あのさ。それ本気で言ってんのか?」
声の硬さに、ラインハルザも思わず眉をひそめる。
「あ?」
「俺の云々ていうそれ。俺が誰をパートナーにしようが、好きになろうが、外からあれこれ言われる筋合いはないし、この国はそんな国じゃない」
カインの言うことは、ある側面からすれば最もだし正論だ。だが、往々にして古い歴史を持つ国は――正しくはイデルバに長い歴史はないものの、トリッド王国という下地のあるイデルバ王国では、常識の枠組みから外れた存在を疎む傾向は決して弱くはない。まして、新参の、王の肝いり若将軍ともなれば、それだけで面白くないと思う者は多いのだ。そこに、男性の異種族のパートナー、となれば面白おかしく吹聴され、ひいてはカインの評判に関わることにもなりかねない。
自分は、確かにカインに惚れている。それは、男としても、人間としても、そしてパートナーとしても、だ。
だからこそ、大切にしたい。だからこそ、彼の足を引っ張りかねない存在にはなりたくないし、その為に己を高め、決してお荷物だなどといわれない存在であろうとしているのだ。
「お前の理想は理解しているし好ましいと思う。だが人間は、そればかりでは生きてはいけんだろう」
「……ああ、それは、な……けど!」
普段は冷静なのだが、どうもカインは未だこういう青いところが抜けない危うさがある。ラインハルザは強引にカインをひっぱると、共に訓練していた部下たちに一声かけてから、兵舎へと戻った。
「おい、いてえって、ひっぱるなって!」
「あのな」
じたばたと騒ぐカインを椅子に座らせ、今度小突くのではなく、好き放題跳ねっかえっている黒髪ごとぐしゃりと大きな手で頭を包み込み、顔を上げさせて視線を合わせさせた。そこまでされてカインは一瞬息を呑んだが、やがて状況を理解したのか、突然顔を真っ赤にして唇を真一文字に引き締めた。
「別に怒っているわけじゃねえ。ただ、場所をわきまえろ、俺はそう言いたかった」
「ぅ、いや……あの……顔、近いです」
急に勢いを失い、尻すぼみになるカインの声に被せるように、ラインハルザは続けた。
「だからなんだ」
ぐい、と顔を寄せて声を潜める。カインが自分のこの声と視線に弱いことは、承知済みだ。だからやっている、といってもいい。
「いやあの、あのなあ!お前、俺がお前の声と目に弱いの知ってんだろ!」
実にすがすがしい逆ギレ。
バンッ、とラインハルザの胸元をひっぱたきながらカインはじたばたと暴れて抗議する。ヤケクソとも言うのかもしれないが、なんともまあその抵抗も可愛らしいものだ、とラインハルザにしてみればそう感じるのだ。まるで愛玩動物が飼い主に向けて、本気ではない抗議をしているかのような。そんな風に感じている自分も大概だな、と心の中でラインハルザは苦笑した。
「知らんな」
「笑いやがって!知ってんだろ!くっそーーー状況が圧倒的に不利だ、戦況があまりにも悪すぎる、絶望的だ、こうなったら俺はもうおしまいだ!」
今度は腕の中でふんぞり返って子供染みた態度で喚くカインを黙らせるために、ラインハルザはその顎を掴み、ぐいと上向きに顔をあげさせた。突然の積極的かつ直接的な行動に驚いたのか、カインは目を白黒とさせている。
暁の瞳は動転して色を失っているし、中途半端に開いた口が、誘っているのだか間抜けなのだかわからずになんともいえない気になった。
「何わけのわかんねぇこと言ってんだよ」
「あぐっ、うっ、うぅ………んむ」
そのまま、勢いに任せてラインハルザは自分よりも一周りも二周りも小さな唇に、食らいついた。
ねっとりと薄い唇を舌で転がしてから、緩やかに口腔内へと進入する。最初は抵抗のようなそぶりを見せていたカインだったが、相手の意図を瞬時に察したのか、或いはどこかそんな行動を期待していたのか、はたまた折れたのかはわからないが、やがてラインハルザのゆるい舌の動きに合わせるように、拙い舌技で応えてきた。
ちゅるちゅると水音と共に相手の唾液を混ぜ合いながら交わす、こんな明るい時間にしてはどこか濃厚な口付けにスイッチが入ったのか、ラインハルザはぐっと己よりもずっと華奢な細腰を抱きしめ、後頭部に手を回して髪を混ぜながらさらに舌を蠢かした。
「んっ、ひょ、あ、……ッ!」
何かを言いたいのだろうか、言葉らしき音の断片を吐き出しながらもカインもラインハルザの口付けに応えようと必死に舌を動かしてくる――こうしたキスを、或いは身体を重ねる行為はまだそう多くはなく、カインの経験の少なさと必死さも相まって技術としては拙かったが、それでもいとおしく感じる相手の体温を直接感じる行為に、ラインハルザの下腹部がどくん、と深く熱い熱を持ちかけた、そのときだった。
「ッハーーーーーーー!!!いいいいい、いきなり、ナンなんだよお前は!いきなり襲うな食うな許可とれお前いくら俺とお前の仲だからっていきなりキキキキキ、ッ」
いよいよ息が続かなくなったのか、ラインハルザが欲を感じたがため僅かに脱力した瞬間、拘束から瞬時にして逃れたカインが、またしても情緒のないというか、言ってしまえば萎えるような言葉を吐き出した。
「キス、キス、とかおまえ」
直前までイイ感じにかわいらしく必死なキスをしていた相手とは思えない言動に、ラインハルザのつくため息は、重い。この男は、こういうところが、ほんとうに、ほんとうに、どうしようもないのだ。情緒がないというか、空気を読まないというか、そういうカインが、嫌いなわけでは、ないのだが。ないのだが、あまりにもどうにもならない気分になってしまうことは、否定できなかった。
「落ち着け」
ばたばたとまたしても腕の中で(腰は変わらず拘束しているため、カインはラインハルザの腕にすっぽりと抱かれた状態だ)暴れるカインにごつんと一発かましてから、まるで鞭と飴を使い分けるようにやさしく、ぽんぽん、と頭を撫でる。
「あいたっってっ」
殴られてからの愛撫に不満なのか嬉しいのか非常に複雑な、紅潮した顔のままのカインの表情といったら実に傑作で、これは義理の姉やかの王に見せたのならさぞ愉快だろうな、と思いつつ、かといってパートナーの愛らしい(?)というか珍しいこんな顔を見るのは自分だけでいいという我侭な思いもないわけではない。双方を天秤にかければ、後者を優先するのがラインハルザという男だった。
そのまま癖っ毛を混ぜながら、その指は柔らかく動かしそっと肩を落としてラインハルザは続けた。
「はぁ……お前はあんまりにも可愛いことしてくれるから、そういう気分になった」
頭を撫で続けると、うっとおしそうにカインがラインハルザの手に己のそれを重ねるが、決して振り払おうとはしない。されるがままにされているのが、なんともいえず可愛らしい――いくら年下とはいえ、いっぱしの男に、それも男らしいと認めている相手をそのように感じてしまう自分も、実際相当にカインに惚れこんでいるのだろう、という自覚はあった。実際後も先もなく相手を求め、慣れない身体を開かせて、慣れさせ、良く鳴くように丹念に解し愛するような男だとは思っていなかった。それほどに、ラインハルザにとっても、カインという存在は想定外の、そして愛らしく唯一無二の存在であるのだが。
「え」
「が、お前があんまりにもバカだから萎えた」
「ちょ、ひどっ」
甘い抗議を執拗に繰り返すカインをゆるく腕でだきしめたまま、ラインハルザはカインの頭頂部にぶっきらぼうに唇を落とした。
瞬間、ふわりと匂うのはカインの部屋の匂い――といっても殆ど書類仕事をしているからひなびた紙とインクの匂いが移ったものなのだが――を感じて、妙に和んで安堵すらしてしまう。ほんとうに、自分はこの年下の青年将校に大分参っている。こうして多少触れ合うだけでもこれなのだ。いわゆる触れ合いだけでも満足してしまう、自分がそのような少年のような恋をしているのだと知ったら、部下たちはいったいどんな顔をするだろう。こうした少しの逢瀬や触れ合いで瞬間満足してしまうとか、反面愛おしくて欲しくて欲しくてどうしようもなくなり、獣のように求めてしまいたくなる。相反する自分自身の内面すらがこの青年と共に在るというだけで愉しい。それは、素直なラインハルザの感覚だった。
こうしているのは愉しい、だが、それはそれ。自分はあくまでも客将という身分であるし、ましてカインはこの国の重役たる将だ。いつまでもこうしているわけにもいかなかった。
じゃれあいは仕舞だ、とばかりにラインハルザはカインの腰から手を離し、額を押してひきはがす。
カインはといえば、不服そうにむう、と唸るのだが、彼も仕事の合間を縫ってラインハルザに会いにきたのは明白で、それ以上の要求はしてこない。
「だいたいまだ鍛錬は終わってない」
ここまでだ、という合図にカインの腕をとん、と叩けば、カインは名残惜しそうにだが素直に距離をとった。淡い空気がふわりと二人の間を漂い、そして消えてゆく。
「えっ、マジ。お前の部下たちバテバテだったぜ……」
呆れたように言うカインに、ラインハルザは喉奥で笑う。
「あいつらはいいんだよ、俺がまだまだだってんだ」
「いや。いくらお前が規格外でも、流石にあれ以上は身体に障るっつーか午後の仕事に問題が出るだろ。お前がそうやってストイックなのはわかってるけど、もう少し自重しろよ」
訓練の様子を、ずっと見てたのだろうか。
呆れ半分に思うが、カインの執務室からはそういえば鍛錬場はよく見えるのだ。そうして部下のコンディションを把握しやすいからイデルバ城の造りがありがたい、とカインが笑いながらいつだか話していったことを、思い出す。
まったく、よく見ている。
「ったく、誰のためだと思ってんだよ」
「へ?」
「お前のココにつまってるのは何だ?綿か?食い物か?」
とんとん、と自らのこめかみを指でさして、呆れる物言いで告げれば、やはりよくわかっていないのか、左右に首を何度も傾げてカインは不思議そうにラインハルザを伺った。
「な、なんだよ急に」
「……まあ、いい。あとで昼メシは付き合えよ」
「お?お、おう」
よくわからない、という疑問符を大量に浮かべながらも、カインはそのままラインハルザの私室を後にした。鍛錬の休息には、まあ、ちょうどよかったな。ちょっとした甘い菓子のようなものか。カインが去ってから、ラインハルザはひとりごちて笑う。
日はまだ高い。やるべきことは、まだまだあった。