あれは空がとても、とても高く見えた日。
城塞都市の風が強くて、少しだけ寒いね、そんなことをルリアと話したことだけを、やたらと覚えている。
それから、覚えていることは。
その瞬間に、世界が反転したような、そんな気になったこと。
彼女と初めて出会ったとき。なんてきれいで、そしてさびしそうなんだろう――ただなんとなく、ジータはそう思った。そのことを双子の弟に話すと、それどころじゃないと怒られたのだけれども。確かにあのときは、そうだった。思い出すたびに、自分がなんて場違いなことを言ってしまったんだろうと思う。
その後、彼女と戦うことになり、そしていつしか彼女がグランサイファーに乗るようになってからも、ジータはいつでも空にたなびく繊細な金髪を、そしてそれを大きく彩る朱のリボンを目で追っていた。艶やかで、うつくしい。故郷で何度も読み古した小説の一節にあった表現こそ、彼女にふさわしい。そういうひとだった。
彼女が見ているのは自分ではなくて、彼女が心に刻んでいるのも自分ではないことをわかりながら、それでもジータはめげずに彼女を見ていた。
彼女がうつくしいから――そして、目が離せなかったから。
彼女を見ているとどこか胸がいたくて、苦しくて、それでも目がはなせなくて。
彼女が苦しみ、嘆き、絶望し、戦うことでしか己を表現できない不器用さを、だから、ジータはずっと見てきた。そして、だからこそ彼女は――ヴィーラは、美しくて、儚いのだ。
きれいで、輝いていて、けれどもとても脆くて、さびしいひと。
それが、ジータが見ているヴィーラ・リーリエという人間の姿だった。そして、その危うく美しい姿に、ジータは一瞬で恋に落ちてしまったのだ。
ヴィーラの様子がおかしい――そう、皆が噂し出すようになったころ、ヴィーラが突然甲板の上で倒れた。
日ごろから彼女の様子のおかしさを気にかけていたジータは誰よりも早く駆けつけて、彼女を抱え部屋まで運んだのだけれども。
以降、三日も、彼女は目を覚まさない。刻々と衰弱してゆくヴィーラは時折うなされて、つらそうに眉を顰める。そんな彼女を見ているのはひどく辛かったのだが、かといって離れる気にもならなかった。
結局そうして、ジータはヴィーラにつきっきりという形で看病を任されていたのだが。
ジータ自身が憔悴しきっていることに気をもんだ双子の弟が部屋を訪れてから、しばらく経つ。最初はあれこれととりとめのない話をしたり(恐らくジータの気を紛らわすつもりだったのだろう)、ヴェイン特製チーズパイに口をつけたりと少しではあるが気はまぎれていた。
けれども結局、目の前で昏々と眠り続けるヴィーラを見れば、どうしたってジータの心は沈んでしまう。このまま目がさめないのではないか――そんな考えが脳裏をよぎるのも、一度や二度ではなかった。
「ジータのいうこともわからなくはないんだけどね。心配しすぎだし、それでジータが胸を痛めてるのは本末転倒だと思う」
双子の弟の歯に衣着せぬ物言いに、ジータは適当な作り笑いを浮かべて場をごまかそうとした。が、いつでも弟はそんな姉のごまかしを許してはくれない。
「ヴィーラさんがおかしくなってから、眠ってないよね。ぼんやりすること多いし、ルリアも心配してるんだけど」
大仰に両手を腰にあてて抗議する表情は、ジータの適当なごまかしを、明らかに責めている。眉間によっている皺も、鳶色の瞳も、じっと向けられている視線の強さも、それらすべてが双子の姉に対する憤りを表現していた。
「あう、ルリアもかあ……てか、バレバレかー。ごめんねー。確かにね、まあ、うん……そうなんだけど」
「そうなんだけど、何」
怒っていると口調が乱暴になるのが、グランの昔からの癖だ。完全に怒っている。もちろん、その理由も、原因も、わかっているのだけれども。
「お姉ちゃん、恋煩いでね」
「知ってるよ」
「知ってたの」
「僕のことなんだと思ってるの」
「お姉ちゃんの弟」
ふざけた答えではぐらかすや、グランははあ、とため息をついてジータの額にこつん、と己の額を当ててきた。
「あのさ、いいんだけどさ。僕がいいたいのは、ジータまで参ったらじゃあだれがヴィーラさんの隣にいてあげることができるんだよっていうこと」
「……え?」
弟の言葉は少しばかり想定外だったものだから、ジータはその姿勢のままでことりと首を傾げようとする。が、グランに強引に戻された。
「ヴィーラさんのことも心配だけど、僕は同じくらいジータのことも心配だよ。それはルリアもイオもカタリナもオイゲンもラカムもロゼッタも、みんな、同じ。わかる?わかってないとか言わせないよ」
「うぐ、ごめんなさい。あのね、……ほんとのこというとさ」
うな垂れて肩を落とすと、グランもジータの後頭部から両手を離してじっと姉の様子を伺うように、言葉を待っている。
「……どうしていいか、わからないんだ。グランはそういうけど、ほんとうに私、あのひとの傍にいて、いいのかなって」
たっぷりの沈黙が落ちる。自身がないし、わからない。それが、ジータの本心だった。
ヴィーラの心の中にいるのは、カタリナ・アリゼ。ジータではない。ヴィーラが学生時代よりずっと見ていて、望むのは、カタリナだ。そんなことは皆がわかっている。けれどそれでも、と彼女の手を強引にとり、強引にこの艇に乗せたのはジータだった。グランではないのだ。ほうっておけないから、とジータは弟に断言して、無理やり彼女の手をとった。そのとき、その手をとった瞬間に、ジータはヴィーラに拒絶されていることを知った――知っていたけれど、だからといってほうっておけるわけがなかった。あんなにも傷ついて、悲しそうなひとを、ほうっておけるわけがない――そういうと、グランも納得して、そして晴れてヴィーラはこの騎空団の一員となったのだ。
だが、ヴィーラにしてみればジータは団長グランの姉、副団長、その程度の認識だろうし、実際彼女からかけられる言葉も、声も、それ以上のものを期待できるような代物ではなかった。
常に心を痛めながらも、それでもジータはつねにヴィーラの前では笑顔の「団長の姉」でいたし、いつだって迷うことなく彼女を皆の輪に強引に誘ってきた。そう、ヴィーラがそれを望もうと望まざると、強引に、だ。
自分のやっていること、それはほんとうに、ほんとうに彼女のためなのだろうか?ほんとうは、自分のため――そうすることで、ヴィーラがジータに心を開いてくれるのではというエゴからくる期待ではないのか。そういうことを、思わないわけではなくて。
そうした不安は、日に日に募っていて。
けれども、この不安を、誰かに告げるのは、初めてだった。ジータにしてみたら、双子の弟といえど、口にするのにはとても勇気がいることだったのだ。だというのに、グランは、あっさりとジータの不安を否定する。
「らしくないよ。ジータは自分がそうしたいって決めたらテコでも動かないのが、いつものジータなのに」
「そうなのかな。……ほんとうに、そうなのかな。ほんとうにそれが、私なのかな。だって、だってさ。ヴィーラが好きなのはカタリナだよ?ヴィーラの心の中にいるのは、いつだってカタリナ。ヴィーラが見てるのはカタリナ。ほしいのも、望むのも、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶカタリナだよ。私じゃないんだよ……?なのに、私は」
いざ言葉にしてしまえば、不安はよけい募る。
正体のわからない、漠然とした、恐怖にも似た焦りが加速する。
がくがくと震える肩をそっと両腕で抱えながら、ジータは唇を噛んだ。自分が、自分を傷つける言葉を吐き出している滑稽さ、けれどそれはたぶん事実だという残酷な憶測。全ては負の連鎖で、よい方向になどは向かない。なさけなくて、かなしくて、けれど、涙も出ない。強く噛んだ唇からは血が滲んだ。
「ほんとうに?」
だというのに、相変わらず返ってくるグランの声が妙に軽くて、そっけなくて、ジータは少しむっとして顔をあげる。すると、意外に真剣な弟の表情とかちあった。
「そうに決まってるよ……だって私、ずっと、ずうっとヴィーラのこと見てきたもん」
「ほんとうに、そう、思う?」
ことばを、一言一言かみ締めるような言い方は、グランが何かを主張したいときの、自分は間違えていないのだと思っているときの癖だ。
「……思う。思うよ!ヴィーラはずっとカタリナのことばかりだよ?」
だったらと、叫ぶように言うのだが、弟も譲らない。キリと意志の強い眉と鳶色の瞳がジータを見据える。反抗的な態度に、思わずわからずやと叫びたくなったが、ぐっと喉の奥に閉じ込めた――そんな風に叫んだところで、たぶんグランは自分の意見は、言葉は、変えないだろうから。
「ジータは間違えてる」
「何が?!グランに何がわかるの?私は私のこと、一番わかってるよ」
「間違えてる。だったらどうしてずっとヴィーラさんの傍についてるんだよ」
「だって!だって、……ヴィーラは……私のことを見てくれないけれど、でも……でも!だからって、独りにしておけないじゃない!ほうっておけっていうの?」
「だったらそれでいいでしょ」
ぽん、と気が抜けたみたいに軽く頭を小突かれる。癪なことに背だけは自分よりも高くなった弟を見上げると、先ほどまでの強い色はどこへやら、いつもの飄々とした瞳とかち合った。
「……グラン?」
「ヴィーラさんが昏睡状態になってからずっと傍にいて、ずっと手を握ってたのはジータだよ。ヴィーラさんだって、たぶん分かってる。賢い人だから。それに……よわいひとだから。だから、時間がかかるんだと思う」
「グラン……」
思わず弟に縋りそうになるが、グランがそれを拒絶するように――ジータの手を、ヴィーラのそれにゆっくりと絡ませる。
「いいから、このまま。ヴィーラさんの目が覚めるまで、ずっといてあげて。ヴィーラさんの傍にいるのは、僕じゃないでしょ」
「……グラン、ごめんね。……ごめんね」
「ううん。それより僕はルリアたちのところにいってる。心配してるから」
ヴィーラさんのことも、もちろんジータのこともね。背を向けながら付け加える弟に、ジータはもう一度感謝の言葉を告げた。
「あの、さ。ありがと、グラン。ヴィーラの目が覚めたら、よびにいくね」
「それはいいよ。それより、ローアインにいって病人食と、それからジータの分の夜食、用意してもらうよ。ジータも殆ど食べてないだろ」
そういえば、そうだった。空腹もすっかり忘れていた。だから毎度ルリアやローアインたちが心配そうに部屋を覗いてくるわけだ。
「あ、あはは……バレてた?そしたらさ、うーんと、卵とチーズたっぷりのリゾットがたべたいなあ」
いざ言葉にすると、ローアインが作った新鮮卵とトロトロのチーズが絶妙に混ざり合って、適度に香辛料と塩味の効いたリゾットを思い出してしまう。ルリアが何杯でも食べられますね!といって文字通り鍋ごとぺろりと平らげてしまったのは、いったいいつの話だっただろう。
「あんまり贅沢言うなよ。まあいちおう、リクエストはしとくけど」
「おねがいね〜」