彼が目を閉じているときにその武骨な手に触れるようになったのは、シメオンを手にかけた、あの感触が忘れられないからだ。縋るように、どこか祈るように触れると、さざめきたつ心が僅かばかり落ち着くことに気づいたからだった。あの感触を忘れようとは思わない。それは、エゼルアート家の誇りと共に生涯決して忘れてはならない記憶だからだ。
父の仇を確かに討ったのだという誇れる事実。人の命を奪ったのだという血生臭い事実。それらは均等に、確かにプリムロゼの心の中に重さとして存在していた。幼少時に奪われた暖かく愛しい世界を取り戻せるとかいう夢物語は望んではいなかった。それは、過酷な砂漠での現実を経験していればこそのものでもある。
それでも。
それでも、この体温に触れている時ひとときだけは、そんなことを忘れてしまいたいと思う弱い自分を、プリムロゼは許していた。そうしなければ、心はとっくに割けて散り散りバラバラになってしまいそうだったからだ。
前に進むために、皆と共に歩むためには、これは必要な温もりだった。
例えば少しばかり近づいて隣にいるだけでもよかったし、戦いの最中に背を預け合うだけでも良かった――けれどもそれは、プリムロゼ・エゼルアートが全てを失う前の話だ。
今ここにいるのは、すべてを失ってしまったただの力のない少女だ。
宵の闇は優しく心を浸食し、酩酊は隠した本音を露にしてしまう。今宵も、そんな夜だった。既に携帯していた酒をどれ程飲んだかも、わからない。
そんな時は決まって、オルベリクの武骨な手に触れる。彼はそれを黙って享受してくれる男だった。今もこうして、視線の先に焚火を映しながら、踊り子の細く頼りないしろい指先が触れるのを、許してくれている。
彼は、すべてわかっている。けれど、知らないふりをしてくれる男だった。薄情すぎず、かといって踏み込みすぎることもないこの距離感が、心の傷を癒す間は心地好いとプリムロゼ自身に自覚はあったし、その不器用な優しさに甘んじているとも思っていた。
決して名をつけることのないこの関係を好むのは、単純にプリムロゼ自身、先日負った傷が深すぎたこともあったし、オルベリクが器用な男ではないことも幸いしている。
「オルベリクさんて、プリムロゼさんのことすごく優しい目で見るよね」
そっと近づいてきた商人の少女トレサが小声で耳打ちをしてきた。この胸裏にある想いが秘めるべきものなのだ、ということを、目敏い彼女は勘づいていてくれるのだ――否、彼女だけではない。旅の仲間たちは、それぞれ二人の関係に気づきながらも、そっとしておいてくれている。本当に気が付いていないのは色恋にある意味致命的に疎いサイラスくらいだろう。
触れるぬくもりはかわらなく優しい――それは、自ずと心の奥底に閉まっていた柔らかな記憶を彷彿とさせた。
父親のぬくもりに近いそれを、プリムロゼは離すまいと握りしめる。伝わる体温は温かくて、優しくて、心の柔いところに触れてくるようで、プリムロゼは込み上げてくるものを必死に抑えながら少女の問いに「そうね」と同じく囁くように応じると、トレサは満面の笑みを浮かべて彼女の手記に何やら書き記し出した――彼女のことだから、彼女の言葉で、きっと自分とオルベリクのことも軽快に語ってくれるのだろう。それは、もしかすれば事実とは違うかもしれないが、それでもその手記に自分と彼のことが記されるのは何やらこそばゆく、そしてうれしい。
「ねえトレサ。一つ、お願いがあるのだけれど」
「なあに、プリムロゼさん」
「このことは、私のあなた二人だけの秘密にして欲しいの」
そう言って視線をオルベリクの手を握るそれに向けると、トレサは一瞬驚いたような顔をしてから、心得たといわんばかりに頷く。
本当は、皆知っているのだけれど。
それでも、今だけは、知らないふりをして欲しい。
それは、ささやかで我儘な願いだった。