あと一歩の距離

 薄暗い酒場のカウンター席。隣からことり、とグラスの置かれる音がする。
 オルベリクは、けれどそちらに視線を向けることなく自分のグラスに半分ほど残っている蒸留酒で舌を湿らせた。
 隣にいるのはプリムロゼ・エゼルアート。見目麗しい砂漠の踊り子であり、現在のオルベリクの旅の仲間でもある。彼女は二刻ほど前までは寝台に臥せっており、薬師と神官の懸命な祈りにより命をなんとかとりとめたところだった。彼女の受けた傷は深く、致命傷だったからだ――しかし、オルベリクとしては彼女の肉体的な傷よりも心の傷のほうがきにかかっていた。彼女を治療したアーフェンやオフィーリアも同様だったのか、酒場にまでついてこようとしてテリオンに止められていた。主にカモになりやすいからだ、という理由でだが、その止める理由も彼らしくてオルベリクは小さく笑ってしまったことを思い出す。
 ともかくは、今はプリムロゼのことだ。
 彼女は黙ってオルベリクの隣に来ると、彼女らしくはない強い酒を注文し先ほどから口に含んでいる。オルベリクも同様の飲み方をしているのだが、特に会話はない。今はそれでよかった。彼女との旅は長く、砂漠の街から来たと聞いたときはその健脚に驚いたものだが、彼女の目的を聞いてさらに驚いたのも懐かしい。だが、彼女の纏う雰囲気は彼女の目的が何であるかを物語っており、ならばその剣になってもよいと思えたのは彼女の故郷に至る頃であった。それまでは旅の連れ、その程度の認識だったし、プリムロゼもオルベリクを男性としてというよりは剛腕の騎士として頼れる存在としてみていたと、思う。男女の駆け引きには特に聡いわけではないが、彼女がオルベリクを見る目が変じたのは、本当にここ数日の事だった――そのきっかけは、恐らくは彼女の昔馴染みとの再会と訣別がしてであろう。それは、恐らく一時の情のようなものだろう、とオルベリクは思っている。人は誰しも危機に瀕すればその傍らにいた人間に多かれ少なかれ執着を覚えてしまうものだ、ましてやプリムロゼの場合は長年秘めていた恋が破れたのだ――それも、最悪の形で。だから、そういうものだとオルベリクは割り切っていた。

「ねえ、オルベリク。今から私が話すことは、全部、嘘。だから、気にしないで欲しいのだけど」

 彼女は藪から棒に言葉を紡ぎ出した。酔っている様子はない。確かに強い酒をたしなんではいたが、あの程度で酔うような彼女ではないことを、短くはない付き合いで知っている。

「私はあの時、多分、絶望したのね。二度目の、絶望。……人生で二度も絶望するなんで、思わなかった。でも……お父様の教えがあったから、私は立ち上がれたの。私にとって復讐は。お父様の言葉が正しかったと思えるものだから。いえ、本当にそうなのかどうかも、わからない……けれど、少なくとも私は、この短剣と、復讐という行為に、意味を見出しているの、だから……」

 それから先は、しばらく沈黙が続いた。プリムロゼはもう一度唇を酒で湿らせてから、何度も瞬きをし、言葉を探している風だった。
 オルベリクは先を促すわけでもなく、言葉を止めるわけでもなく、傍らで酒をゆっくりと味わう。彼女にとっては、恐らくはそれが必要なことだろうと思ったからだ。それは、三十余年生きてきている経験でもある。ホルンブルグにいた頃は、こうして部下の話を聞く事もままあった。
 沈黙は、短くはなかった。その間にバーテンダーがプリムロゼの杯に酒を注ぎ、オルベリクの杯には三杯目の酒を注いだ。
 オルベリクはその三杯目の杯を飲み干してから、初めて踊り子の横顔を見る。
 憔悴しきっているわけでもなく、疲弊しているわけでもない――凛とした、強かで眩い横顔が、そこにはあった。

「プリムロゼ。俺の剣は、守るための剣だ。それをお前がどう使おうと、俺は構わない」

 オルベリクのゆっくりとした低い声に、プリムロゼは翠の目を見張る。それから花が綻ぶように静かに笑い、小首を傾げた。

「頼りにしているわ、剛剣の騎士さま」

 するりと告げられる踊り子の言葉に、オルベリクは静かに頷く。

「ああ」

 交わされた視線の先にある感情のことは、二人ともとりあえずは考えないことにしていた。というよりも、この時は、考えないようにしていた。
 互いに手を伸ばせば届く距離であるということに目を瞑って、同じ酒の味を味わう。そういう夜があっても、よいだろう。言葉にはしなかったが、そこには確かに同じ想いが存在していて、そして二人の距離はその時まではつかず離れずの、旅の仲間だというものよりは少しだけ近い、けれども友人や恋人というには違う、何とも言えないものであった。
 そしてその距離を縮めようとは、この時二人は考えてもいなかったのだ。