貴方にも言わない

 しとしとと、雨が降っている。
 雨は陰鬱で昔は好きではなかった。大人になってからは、この雨音が余計な思考を飛ばしてくれるから嫌いではなくなっている。プリムロゼはひとり、割り当てられた部屋でほの暗くなってきた窓の外をぼんやりと眺めていた。旅の仲間は物資の調達だとか、酒場に情報収集だとかで出払っていて、プリムロゼはひとりだった――正確には、プリムロゼの心境を慮り皆がひとりにしてくれた、というのが正しいのかもしれない。

 プリムロゼは先日、本懐を遂げた――父の仇であったシメオンのその胸に、形見の短剣を突き刺して、殺した。仇を取ったのだ。
 だというのに胸に大きくあいた穴はふさがってはくれなかった。そうなると、自分に残されているものは一体何だろう。眠る前、毎晩のように考える。脚を動かすことを止めはしなかったが、ふと考えてしまうのだ。
 だから、この、強く降る雨の音は嫌いではない。そんな胸中にくすぶる思いをすべて洗い流してくれるようで、プリムロゼは窓辺に肘をつき、ただただ眺めていた。
 規則正しい足音の後、コンコン、と控えめなノック音がする。それだけで誰が訪ねてきたか、わかってしまった。プリムロゼの表情がわずかに緩む。

「開いてるわ」

 訪問者を顧みることなく――信頼しているからこそだが、プリムロゼは外のうっすらとくらい雨空を見つめていた。

「プリムロゼ、入るぞ」

 入る、というが声だけで、扉は開かれない。ああ、この実直すぎる男は時として面倒で、けれど、頼もしいことをプリムロゼは知っている。旅の最中何度もその強靭さに、実直さに、そして不器用な優しさに助けられた。

「オルベリク、開いているといっているでしょう。入っていいわよ」
「だが、女性が一人の部屋に男の俺が入り込むわけにもいかんだろう」

 その不器用さが時としていとおしと感じている自分がいる。あの重たくて痛い過去の恋を、忘れたわけではない。忘れたわけではないけれど、彼のこういう重ねた年齢に不相応な不器用さには胸の奥が温まるのだ。

「もう、仕方ないわね」

 立ち上がり、カツカツと軽快に靴音を鳴らして扉に向かい開くと、物資の調達をしてきたのか大量の荷物を持たされているオルベリクの姿がそこに在った。

「あら。すごい荷物。それ、もしかして全部トレサの分?」
「まあ、な……他にも俺の武具や必要な食糧などもあるが。ちなみにこれで半分らしい」
「はい?……トレサったら、この天気だってのに……久しぶりの街だからはしゃいでるのね。随分と値切ったんじゃないの?」
「ああ、そのようだ。俺は途中で引き返してきたか詳細はわからないが、なんでもこの街の商品を片っ端から買い漁るとか宣言していたな」

 まったく、この天気なのによくやる、とオルベリクが小さく続けるのを、プリムロゼはくすりと笑って流した。

「うふふ、あの子らしいわね。それで、剛剣の騎士様はどうして私を訪ねてきたの?何か用事でも?」
「……いや、まあ、その……用、というほどのものでも、ないのだが」

 急に視線を泳がせてから、部屋の片隅に荷物の一部を置き、彼のものであろう武具はそのまま手にして、プリムロゼに改めて向き直る。その瞳の奥には、懸念の光が宿っているようだった。

「プリムロゼ。よく、眠れていないだろう」

 何時もよりも低い声で囁かれ、どきりとした。なぜわかるのだろう。巧く隠していたはずなのに。仲間の中でも気聡いハンイットやオフィーリア、常に皆の健康に目を光らせているアーフェンあたりには気づかれているだろうとは思っていたが、まさかこの剣一辺倒の不器用な男が?プリムロゼは思わず胸の前で手を握り、やや俯く。それが、答えだ。

「……成程な。やはり、か。これはアーフェンからだ。しっかり休んでしっかり食べないと、身体がもたねえからな。あいつからの伝言だ」

 オルベリクはそう言うと小瓶を渡してくる。アーフェンからは何度か貰っていた睡眠薬に近いものだ――最も副作用もない軽いものだが、旅に出てからよく眠れない日が多かったプリムロゼを心配してアーフェンはよくその薬を調合してくれていた。

「果物だ。ハイランド地方では珍しいが、トレサが手に入れてくれたものだ。食べるといい」

 明朗な少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。きっと彼女はプリムロゼを想って手に入れてくれたのだろう。オルペリクの手から受け取った繊細な果物は、柔らかくみずみずしくてそのままでも食べられそうだ。

「あまり、強く手で触れてはいけないらしい」
「あ、そうなのね、ごめんなさい……」

 思わずサイドテーブルに果物を置いてから、小さくプリムロゼは謝罪した。オルベリクはそこで僅かに笑みを浮かべて首を横に振る。

「共に、食べるか」
「いいのかしら。私たちだけで」
「他にも幾つか仕入れていたから、よいだろう。そのうちの一つを渡されたからな」

 そこまでを聞いて、プリムロゼはトレサが気を遣ってくれたのだとようやく気づく。そのけなげな思いを、無下にはできない。

「それなら、お茶でも淹れようかしら」
「そうだな。だがそれは俺にやらせてくれ。お前は座ってるといい」
「あら、お姫様みたいな扱い」
「そうだが」
「……え?」

 オルベリクからの答えは、なかった。彼はとっくにプリムロゼには背を向けていて、宿の給仕場に向かっていた。
 その逞しい背中を視線だけで追いながら、プリムロゼはその場にしばらくただ立ち尽くしていた。



「……温まるわ」
「ハンイットが教えてくれたハーブティーだ。薬効もあるらしい」
「……そう」

 しとしと、雨が降っている。この雨はどうも今宵は止みそうもない。オルベリクが淹れたハーブティーはひどく穏やかな香りがした。口に含むと、まるで彼に包み込まれているかのようなやさしさと温かさが喉を降りて胃におさまる。腹のうちから温まる、というのはこういうことだろうか。トレサが仕入れたという果物を等分にカットしたのもオルベリクで、その柔らかな果実をほおばると、口の中に優しいさわやかな甘さが広がった。すると、どうだろう。なぜだか優しい記憶が突然蘇ってくる。父がまだ存命のころ、父の前で踊った踊り――父がくれた優しくて、いとおしい言葉。それはプリムロゼにとってすべてで、世界そのものだった――あの日までは。平穏な日が終わりを告げてからのことは、思い出したくもない。ただただ必死だった。幾ら穢されようと、貶められようと、心にある誇りだけは決して失わない、そう誓い、血と泥をすすり生き延びてきた。旅をしているというハンイットたちと出会い、行動を共にすることで見えてきた世界もあったが、プリムロゼの世界はいつだって険しく、茨の道だった――そんな時、いつだって傍らに、背中を守ってくれていたのは、この不器用で実直な男だった。
 男が殊更好きというわけではない。嫌な思い出しかない。むしろ利用するものだとすら思っている。けれど、仲間たちやこの男・オルベリクは別だった。時に助け合い、寄り添い、つかず離れずではあるがプリムロゼという存在を優しく見守り、支えてくれた。彼の剛剣に助けられたのは数えきれないほどにある。そして、彼を助けたことも同じくらい数えきれないくらいに。

「美味しいわ」
「そうか、よかった」

 そう言って自分は茶だけを口に含み、穏やかな表情でプリムロゼを見守る。出会ったころは酷く悲しい目をした男だと思っていたけれど、守るものを知った今、彼の眼はただただ優しく、深く、皆を見つめるのだ。その底にある感情は、親愛や友愛の類であることも知っている。プリムロゼは、なぜだかそのことが少しだけ残念だった。

「雨、止みそうもないわね。皆はどうしてるのかしら」
「大方酒場だろう。そのうち帰ってくる」
「ねえ、わたしたちも飲まない?これだけじゃあ物足りないわ」

 そういって空になったカップを指さす。うむ、とオルベリクは少し唸ってみせるが、観念したのか、それとももともとそのつもりだったのか、自分の荷物から年代物のワインを取り出した。

「生憎つまみはないがな。おまえは……食事、という気分でもなかろう」
「ふふ、この雨の音だけでも十分よ」

 それにあなたもいるし。そう囁くと、わかりやすくオルベリクの肩が跳ねる。

「嘘じゃなくてよ。わたし、あなたのことは嫌いじゃないから」

 そう。嫌いではない。傍にいて心地よいとすら思う。彼の纏う空気や、彼の低い声、大きな体躯、節くれだった指、意外と規則的な足音、礼儀正しいところ、すべてが好きだった。だけれども、多分これは恋ではないと思う。恋というものは、己すらも焦がし焼けてしまうほど、苛烈で激しく心と身体が揺さぶられるような、この命すら投げ出しても構わないと思えるような、そのようなものだから。
 これは、恋ではない。

「……そうか。嫌われているわけではないのは、よいことだな」
「ふ、っふふっ、あははっ、何、その言い方」
「何か、おかしかったか」
「いいえ、だって……もう、いいわ。それにしてもあなた、そんないいお酒を持っていたのね」

 ラベルから判断しても年代物で、おそらく高値が付くだろう。最も、双璧の騎士と呼ばれていたオルベリクのことだから、そのような酒を口にする機会はあったのかもしれない。

「ああ、これか。エアハルトから貰ったものだ、なんでもウェルスプリングで見つけたらしい。酒に関しては俺よりあいつのほうが詳しいからな、間違いはないだろう」
「それは楽しみね」
「グラスを借りてくる」

 先ほどからオルベリクばかりが動いているが、今日のプリムロゼは「お姫様」らしい。ならば騎士の彼にやりたいようにやらせよう、と、プリムロゼは再び窓から外を眺める。
 相変わらず雨はしとしとと降っている。雨の音は好きだ。何もかも洗い流してくれる。けれど、この、穏やかな時間は流さないで頂戴ね。オルベリクが少しだけ残したハーブティーのカップをつま先でキン、と弾くと、プリムロゼはその中身を一気にあおった。少し苦い、けれども優しい味が口の中に広がる。まるで、本当にわたしの騎士様みたい。私は夢を見てもいいのかしら。もう一度、夢を。この度の果てに、あなたと見る夢を。
 だって、久しぶりに、心から笑えたのだから。