ふたりの時間
窓枠に肘をつき顎を手に乗せて眺める景色は水に煙っていてどこか不透明に見えるが、色彩はより鮮やかに見える。村には、久しぶりの雨が降っていた。
「雨、まだ止みそうもないな」
「そう、ね」
例年なく雨が少なく、このままでは野菜の生育に問題が出るとぼやいていた村人は今頃喜んでいるだろう、とデボルは思う。そうでなくとも、静かな図書館の中で聴く雨音がデボルは好きだった。手にした楽器を爪弾こうと細長い指を構えるが、耳に流れてくる雨のリズムに聞き入り、弦の上に指を置くにとどめた。
「あたしは雨の音が好きなんだ」
独り言のように呟く声にポポルは応えず、カリカリと羊皮紙に文字を書き入れる硬質で几帳面な音が返事だった。
ポロン。
弦が軽く爪弾かれ、水の中からのくぐもったような音を立てる。ポロン、もう一度。さあさあと聞こえてくる雨音は止まない。
「静かで、昼寝をするには最適だろ?」
「静かだからって、昼寝をしているわけにはいかないわ」
二人でほぼ同時に言い、同じ顔で互いを見つめて、同じ瞳の色の奥に同じものを見つけて、先に笑ったのはポポルだった。
「ねえデボル、あなたは邪魔をしにきているのよね」
「そうかな。でも、少なくとも手伝いには来ていない」
「出来る仕事はあるわよ」
「遠慮しておく」
言うなりデボルは徐に楽器をそれまで座っていた寝台に置くと、ポポルに近づき背後から彼女ごしに、彼女の机上を眺めた。
「これが、あたしが出来そうな仕事?」
書かれている中身を見て子供のようにおどけた顔をポポルに近づけると、緩やかな癖毛の中の双眸がにこりと同意を示した。デボルは大仰なため息と抗議の眼差しを向ける。
「勘弁。薬草探しだなんて、それこそニーアにやってもらえばいい。あの子は少しでも仕事が欲しい子だ」
「そうね…こういう形でしか私たちもあの子に何かしてやることは、出来ないから」
今までとはうってかわって神妙な声に、ポポルがヨナの事で心を痛めていることをデボルは思い出した。ポポルはやさしい、やさしすぎるのだ、なにものにも。あの兄妹がかわいそうだと、少しでも出来そうな仕事を探しては率先して回しているし、何かある度にヨナを預かり面倒も見ている。そうするうちに更に情が移って今では何かあればすぐヨナの心配をする始末だ。
ポポルは徐に立ち上がり、デボルの脇をするりと抜け出して窓辺へとゆく。そこから見える景色はすべてしっとりと濡れているだろう。ゆるやかな丘、畑、草原、木立に花畑、古い鉄の遺構、住人たちの石造りの家、古びた門――すべてを濡らす冷たい雨が数日間続いていた。視線の先に村に人影はなく、家畜たちは小屋の中でじっとしているのだろう。ポポルは黙って立ち尽くし、高台から見える景色を眺めている。
「……長雨はよくないわ」
ぽつりとポポルが漏らす。デボルはポポルと入れ替わるように椅子に腰をかけ、黙っていた。
「静かな長雨はもっとよくない。大地を冷やしてしまう」
ふるりと震える仕草と声はまるでどこか怯えているようだ。伏せられた顔、少しだけ持ち上げられた肩、彼女が考えている事はなんとなくわかるのだ。
「ヨナの事が心配なんだろう?」
デボルの言葉に、ポポルは振り向いて小さく頷いた。その懸念はデボルにも理解できる。ここ数日の長雨で朝晩は特に冷えていたから、あの小さな少女がまた悪い咳をしているのではないかと、ポポルは心配なのだ。
「大丈夫だよ。この間要らない毛布をあげたばかりだ」
「そう…ありがとう、デボル」
「それから蒔割も少しばかり手伝ったから、しばらくは平気だ」
「あなたのそういうところ、本当に助かっているわ」
改めていうことでもないのに、とデボルは思う。そうしたお互いに「なんとなくわかる」は今に始まったことではないし、デボルもポポルに助けられている事が多いのだ。
昔はこうではなかった。ポポルはもっと任務に忠実たらんと在ったし、デボルもここまで享楽的ではなくやはり任務優先だったと思う。そしてお互いを『同じもの』『バックアップ』と認識はしていたがそれだけで、互いに意思疎通できるとか、漠然と相手の考えがわかるとかそうしたことはなかった。
そういう意味で二人は長い長い年月を経て、『変わっていた』。
この代のレプリカント達に対して、ポポルはやたらと拘っているが、それはデボルも同じだった。
何度も何度も世代を繰り返すうちに感覚が麻痺するかと思っていたが、そうではなかった。時折、いやに思い入れのある世代があったりする――今の世代のレプリカントたちのように。
長い年月を過ごしているとあの鉄と砂と塩の時代からだいぶ世界は変わったと思うが、それは自分たちも同じなのかもしれない。
少なくとも今の時代はレプリカント達にやさしくおだやかで、ゆるやかな時を運んでいる。長い雨のときでさえも、それは変わらない。その証拠に、レプリカントたちは穏やかに日々を過ごしている。この村を永住の地と思い、この空と大地の元に生きて死ぬのが当たり前だと思っている。
デボルは立ち上がりポポルの傍に寄り添う。そこから見える景色は雨に煙り濡れていて、普段の姿とはまた違う顔を見せていた。
「長雨だって、時には必要さ。日照りが続いた後の静かな長雨なら尚更にね。少し休もう、ポポル」
同じ身長の肩を軽く抱き、ゆるやかにうねる赤毛に口付けをする。小さく頷き同意する声。
「ええ。でも、私はもう少し仕事があるから、それを終わらせてからにするわ」
頬に添えられる細長い綺麗な指。再びポポルはデボルの身体から抜け出すと椅子に座り、ペンを取る。デボルは苦笑して寝台に戻り、楽器を静かに爪弾き出した――雨音を邪魔しないように、ポポルの仕事を邪魔しないように。