トト・ハハ島を訪れるのは一年弱ぶりになる。潮風が心地よいのも今の内だ。じきに太陽が昇り、じっとりとした熱さに身体が悲鳴をあげだすだろう――寒冷地に育ったテメノスには、この島の気候は聊か堪えた。若い時分はそれでもまだマシだったが、年齢を重ねるにつれてその傾向は強くなった。それでも、島の子供たちに乞われ言葉を教えることはやぶさかではなかったから、定期的に島を訪れるようにはしていたのだが。
それでも、一年。それくらい、自分はあの場所に引きこもっていたのかと思うと、この解放的な島の空気は新鮮なものとして味わえた。
「さて、と。場所や時間に特に指定はないですが、ケノモ村に行けばいいのかな、これは。オーシュットの事だから、狩りに出ている可能性もないですが、村人たちともだいぶ顔見知りになっていますし、大丈夫でしょう」
楽天的になれるのは、あの村の住人たちのお陰だろう――とはいっても、人間ではない。あくまでもそれは獣人たちの話に限った。あの村では相変わらず人間と獣人の間では一定の緊張感が漂っている――それでも、以前よりだいぶマシになったのは、村長が変わったからだろう。
以前の村長は何かにつけ獣人を敵対視していたが、今度の村長は一定の緊張感は保つことこそすれ、無駄な敵対視はしない人間だった。それゆえに、村の人間たちも少しずつ世代交代し、変化してきていた。
そう、この世界は、変化しているのだ。
そんな当たり前の事にも、テメノスは今更のように気が付いた。
そしてそんな世界の変化に、自分はぽつんと幼子のように取り残されていた。仲間たちは、そっと手を差し伸べてくれていたのに。
分かっていた。分かってはいたけれど、ただ、動けなかった。
今も帯剣している彼の剣と断罪の杖は、それ程に重い。
その上おいそれと手放せるものでもなかった。それは半ば意地のようなものでもあり、この年までその意地を張り続けていると、なかなか素直になれるものでもなかった。
ケノモ村への道すがら、そんなことを考えながら歩く程度には慣れた道だった。太陽はやがてその勢力を増してきていて、慣れ親しんだ異端審問官の法衣の下にじっとりと汗をかいている。早く、村について村人たち特製の喉越しのよい飲み物を飲みたかった。携帯用水筒の水はそろそろ空になってきている。それでも慣れた道だから、考え事をしながらでもペース配分を間違えるということはなく、無事ケノモ村にたどり着くと、テメノスの姿を認めた獣人の一人が駆け寄ってくる。
「テメノスきた。オーシュット、まってる。はやく、いく」
彼女は元々人の言葉を喋れなかった獣人だが、テメノスの教示で片言ではあるが会話が成立するようになったひとりだった。年を取ってから新しいことを習得するのは難しい。だが、彼女は忍耐強く学んでくれた。そういう意味で記憶に残っている生徒だったことを、よく覚えている。
「はあ。ですが、少し私も休みたいのですが」
「……わかった。すこし、いえ、やすめ。のみものよういする。しまいがいのにんげん、このきこうつらい」
こうして彼女は人間の文化にも若干の理解を示してくれるようにすらなっているのだった――もっとも、彼女にとっての人間、はテメノスやその仲間たちに限られているらしいのだが。こういったところにも、未だ軋轢は残っているようだった。
獣人に案内されて通された彼女の家は、この島独自の作りで大変風通しがよく、涼しい。木陰に入った涼しさとはまた違うそれに、人心地つけたテメノスに、飲み物を持ってきながら獣人はまた語り掛けてきた。
「オーシュットのようじ、だいじ。したくすんだらはやく、いくといい」
成程、オーシュットの用事はテメノスの予想通りだった。手紙を受け取って即旅立って正解だった。そもそも普通に手紙を寄越すことなく「確実に」テメノスに届くであろうソローネに頼んだことも、オーシュットらしくない手法をとったことも、気になっていた事なので、納得のゆくところではあったが。
「そのようですね。御馳走様です、相変わらずこの飲み物は疲れがとれますね。本当なら手法を教わりたいところですが、恐らく島に自生している果実が原料でしょう?」
テメノスの問いに獣人の女性は軽く頷いてから、カーテン状になっている入口の方に向かった。その仕草だけでも、彼女もまたテメノスの用事を待っていた――或いはオーシュットが待ちわびていたことがわかる。
そんな用事とは、一体何事だろう。憶測はともかく、テメノスは一礼をして立ち上がると、入口のカーテンをくぐり、再び日差しの中へと出て行った。
オーシュットは、彼女の師匠であるジュバと一緒に岬で風に当たっていた。相棒のマヒナもそこにおり、何やら話していたらしい。テメノスの姿を見つけると、オーシュットが駆け寄ってくる。その後ろにはマヒナが続き、ジュバはいつものようにどっしりとテメノスを見据えていた――その視線には聊か親しみが籠るようになったのは、いつからだっただろうか。
「テメノス……!」
「オーシュット。藪から棒に手紙だけとは、君らしくない。一体どうしたんです?」
「あ、それは、ええと……うーん……どこから話したらいいかな。その、ずっと……黙ってたこと、だから。ごめん」
まったく要領を得ない彼女の受け答えに、テメノスはふむ、と首を傾げる。ずっと黙っていた、というのは一体何の事か。
「オーシュット、あれ、見せてみたら。彼ならわかるでしょう」
「!そっか。あれ、まだ、とってたもんね」
相棒のマヒナに何やら促され、オーシュットは懐から何かを取り出す――それは、草臥れて色変わりした布切れだった。ただ、テメノスの視線はそれをしっかりと捉えていた。見覚えがない、どころではない。それどころか――
「オーシュット。それは……異端審問官の法衣……の、切れ端、ですね」
テメノスの声のトーンがひとつ下がる。
オーシュットは、黙って頷いた。色褪せてはいるが、はっきりと聖火教の紋章が切れ端には描かれている。何より、異端審問官の法衣は通常の布で織られているわけではなく、その中に魔力も編み込まれているから、テメノスが気付かないわけがない。色褪せた法衣、切れ端、オーシュットが持っていた、その断片的な事象から導きだされること、その可能性を、怜悧な頭は否定したがっていた。けれども、それでも導き出してしまうのがテメノスという男だった。
「ロイ・ミストラル。私の義兄弟で、前任の異端審問官……逢ったのですか、彼に」
テメノスの声は、普段のオーシュットに向けられるものとは程遠い程に硬い。オーシュットも想定していたのだろう、唇をきゅっと結びながら、小さく頷く。
「あった、よ……。でも、彼は、彼じゃなかった。もう……異形に、なってて」
オーシュットの言葉は、凡そテメノスの予測通りだった。成程、「真実」に辿り着いてしまったロイは、絶望したのだ。教会に。そして、この世界に。その真っ直ぐで純粋な性根の彼は、真実に耐えきれなかった――自分があの時何としてでもロイに着いていっていれば、という後悔は遅すぎた。ロイは夜と絶望に呑まれ、豹変してしまったのだ――夜のモノに――つまり、異形に。
「でも、何か、伝えたがってた。そのことは、ずっと、気になっていた……でも、わたしには、難しくて……わからなかった。ひょっとしたら、って思ったのは、豹変しちゃったあの子を見た時。私が選ばなかった子が、緋月の怪物になって……出てきたとき。ほんとうは、あの時に、テメノスに言うべきだった、でも……」
「いいんですよ、オーシュット。きっと私は、あの時は、事実を受け止めきれなかったでしょう。時間をくれて、ありがとう」
あの時の――オーシュットが緋月の怪物と対峙した時のテメノスは、クリックを喪ったばかりで、その上聖堂機関憎さのあまり、通常の精神状態ではなかった。
珍しく激高し、冷静ではいられなかったのだ。普段は感情を押し殺し振舞うテメノスにしては珍しいことだったが、聖堂機関のカラスたちの行いに腹を据えかねていたのもある。その上、クリックを殺された。唯一無二の相棒であった彼を殺されたことは、思いの他テメノスにとっては痛手であり、深い傷痕を心に残していた。仲間たちがいなかったら、無事だったかどうかもわからない。
「でも、テメノス。わたし、殺しちゃったんだよ……獲物でも、ないのに。あの時は、村が襲われて……斃さなきゃいけなかった、だから」
「大丈夫です、大丈夫ですよ……オーシュット、あなたは何も、悪くない」
不思議と、テメノスの心は穏やかだった。泣きそうにぺしゃんこになっている耳の獣人を抱き寄せ、優しくその背を撫でていると、ぐす、とくぐもった声が聞こえてきた。彼女も堪えていたのだろう――ずっと抱えていた秘密だ、真正直ですぐ考えを口に出す彼女が、閉ざしていた言葉だ。その重さくらいは、わかる。
「ごめんね、テメノス。ごめんね。テメノスの大事な人、殺しちゃって……ごめん……ね……」
「……ロイのことは、正直……もう、諦めていたんです。何年も帰ってこないロイを待つのに、疲れていました。ですか……彼が、間違えた方向に行く前に止めてくれて、有難う」
「テメノス……!」
オーシュットは堪えきれなくなったのか、テメノスの法衣にぎゅっと抱きつくと、大粒の涙をぽろぽろと零しながら泣きだした。数年越しの告白は、彼女にとってどれ程重たいものだったのか、想像に難くない。
ロイを斃したのがオーシュットで良かった――素直にそう思えた。
或いは、自分で引導を渡す羽目になるよりは、まだ、辛くはなかった。
彼女の肩にそっとマヒナが寄り添い、あたたかな羽毛ごとテメノスは獣人の少女を抱きしめる。その様をジュバはやさしげな瞳で見守っていた。
「それで、話というのは、それだけですか?」
オーシュットが落ち着いたころに村で貰った干し肉を分け合いながら、テメノスが問うと、彼女は食べながら首を横に振った。
ごくん、と豪快に干し肉を飲み込んだオーシュットは水に口をつけてから、続ける。
「ううん。ししょうも話があるって。ね、ししょう」
ジュバ自らが村の外の人間と対話することは、非常に珍しい。テメノスも何度か互いに挨拶をしたくらいで、まともに話をする機会はなかった。
「うむ。そなたを見ていてずっと思っていたことがある。これは提案なのだが、聖火教の使徒よ、この村に住処を定めぬか?」
彼の提案は、性急で、かつ突拍子もないものだった。
「……その意図を伺っても?」
「そなたは、村のもの、とくに獣人に好かれている。それは、願ってもないことだ。村の人間は正直いけ好かぬが……そなたは信じられる、とそなたを見ていて感じたまでだ。オーシュットの願いでもある。それに、そなたにとってもよい機会ではないのか?重たい外套を外すにはな」
「なるほどなるほど……おおよその意図はわかりました。つまり私の為を思ってと、そういうことですね」
「……余計なおせっかいといえば、それまでではあるがな」
ジュバはそれきり、口を閉ざした。元々人間に対し口数が多いわけではない。それでも、獣人の、というよりも島の守護者たる彼にそこまで言われるようになっているとは、正直思っていなかった。
「テメノスは、もう、島にとって大事な存在だよ。ケノモ村だけじゃない。ナナシの里でも、トロップホップでも、テメノスに用がある人間は多いんだ。外の世界を知る人間は少ないから、頼りになる、ってさ。あとは、わたしひとりだけじゃ、心細いのも、ちょっと」
「そういうことですか。確か今は、正式には島の守護者は彼女、オーシュットですよね?」
「うん。ししょうから受け継いだ知識と狩人の技があるからって。でもね、ほんとうのことをいうと、少し……しんどいんだ」
オーシュットが弱音を吐くのは珍しい。
その大きな目を見つめると、彼女はピクリ、と耳を動かしてささっとテメノスの脇に寄ってくる。ふわりと触れるふさふさの尻尾がこそばゆいが、いやではなかった。体温が感じられるほどの距離感は、二人で旅をしていた時も良くある事だった――彼女から、それほど信頼されている、という証左でもあるのだろう。
「おや、それはまた、何かあったのですか」
「村の人間とは、巧くやってるつもりだよ。皆がみんな、そうじゃないのは、わかっているつもりだったけど。でも、でも、わたしは頑張ってるんだ。でも、でもね……たまに、つらくなるんだ……そういうとき、テメノスならどうする?わたしには、テメノスみたいなひとが、必要だって、そういう時にいっつも思うんだ」
「ふむ……」
確かに、彼女は指導者に向いているかと言えば、向いているだろうとテメノスは思う。彼女には人を惹きつける魅力があるし、誇示できるだけの力も、実績もある。
正義感に溢れ、クリックのように、心に清き炎を宿している。ロイが異形となり彼女の目の前に現れたのは、或いは彼女に助けを求めていたからではないか、とすら思ってしまうほどだ。
ただ、彼女のリーダーシップとは、問答無用で人を引っ張っていく類の物だ。言葉でどうこうするものとは違う。けれど、ケノモ村の人間には「言葉」が必要だった。そして、言葉による駆け引きも、恐らくはそういうことなのだろう。
「オーシュットは、偉いですね。辛くても、頑張ってる」
けれどもつい口に出た言葉は、そんな陳腐なものだった。そして手が勝手に彼女のふさふさの髪の毛を撫でている。オーシュットは大きな瞳をぱちくりと瞬かせて、テメノスを不思議そうに見上げていた。
「テメノス?」
「辛いことでも、逃げずに立ち向かっているのですね。でもいいんですよ、そういう時は少し立ち止まっても。そして、ちょっと離れて考えてみるんです。それに、ひとりでは限界があることも知っている。誰かに助けを求めなければならないことも知っている。それだけでも、充分です」
「えー、そういうもん?」
オーシュットがこてん、と頭を持たれかけてくる。子供の様な仕草は、すっかり彼女が安心しているからだろう。テメノスと二人で旅をしている時でも、時折こうして甘えてくることが在った――あれは、考えてみれば、初めて故郷を離れた彼女が初めて「寂しい」という体験をしたからかもしれない。傍にいる、気の許せる仲間に寄り添いたい、ただそれだけの率直で幼い感情をぶつけられることは、決して嫌ではなかった。
「だから私を呼んだのでは?」
「んー、そうかも」
彼女自身、無意識なのか。
それでも、一番に助けを求められるとは、大分彼女の中でテメノスという存在は頼りになるらしい。確かに、小賢しい問答ならば得意分野ではあるが。
何やらこそばゆく、テメノスは小さく笑った。
「あのさぁ、テメノス。聞いてもいい?」
オーシュットの尻尾が忙しなく揺れる。ぽすぽす、と時折テメノスの背を叩くように動かされるそれに促され視線を落とすと、なんともいえない表情のオーシュットと視線が交わる。ああ、そうか。ロイの話は、詳しいことは何も話していなかった。彼女にも、仲間たちにも。
「いいですよ。何ですか?」
「うん、あのね、あの異形のこと。私が最初に斃した、島を出るきっかけになった異形。話、聞いてもいい?」
オーシュットはこういう時でも滞りなく聞いてくる。それは、彼女の真っ直ぐな性根からだ――ふと、似たように実直で素直な青年の顔を思い出し、テメノスは瞼を落とす。
「そう、ですね。彼は、家族でした。ロイは、私にとっては教皇と同じように、いて当たり前の人。幼い頃から一緒で、何事も分かち合い、共に育ちました。オーシュットにとってのマヒナのような人、かな」
「……そっか」
「でも、同時にライバルでもあったんです。先に異端審問官に任命された時は、正直、納得はしました。ロイのあの強い正義感、真実を貫く心、それは、とても強い光だった。強すぎるくらいに、……だから、きっと、彼は、真実に耐えられなかった」
オーシュットは黙りこむと、テメノスの法衣をぎゅっと掴んだ。辛い話なのは、分かっていた。けれども、ロイに引導を渡してくれた彼女にこそ、ロイを知って欲しかった。
潮騒と風の音は、ふたりの会話を邪魔しない。いつの間にか傍に来て二人を包み込む様に座るジュバも、黙って目を閉じていた。ただし、話を聞いているのは時折耳が動くのでわかっていた。ジュバも、そしてオーシュットも、ロイの真実を知る権利はある。ロイは、ここで、夜に呑まれて、そして彼女らの村を襲撃し、斃された。それらの事が断片的に旅の中でも憶測はできたが、結局、真実を明らかにするまで、時間がかかったのは、テメノスも一緒だった。教会や聖堂機関の内部の事、そしてロイの失踪と、彼の辿った末路。どこかで予感はしていたが、実際に突きつけられるとそれはそれで堪える。それでも、まだ、間接的に、そして時間が経っているからこそこうして落ち着いていられるのだろう。勿論、傍らにオーシュットという存在があるからなのは、確かだったが。
「何度も言いますが、ロイが最期に出逢えたのがあなたでよかった、オーシュット」
「テメノス……優しいね。今、とっても優しい匂いがする。怒ってないし、哀しんでもいない。大切な人をなくしたのに、どうして?」
「さて、どうしてでしょうね。君たちがいるから、かな」
「それも、嘘じゃない。でも、それだけじゃない。わかんない匂いだ、知らない、これ」
戸惑うように告げるオーシュットは、再びテメノスを見上げてくる。ひくひくと動く耳が、教示してくれと囁いている。彼女はいつだって素直だ。そんな風に素直な生徒には、どこか甘くなる自分を自覚しながらも、テメノスは獣人の頭をゆっくりと撫でて続ける。
「人の感情は複雑です。君の知らない感情も、まだまだ、沢山あります。勿論、よいものも、わるいものも。オーシュットは旅で色々な感情を知ったけど、きっとそれでもまだ、知らないものはありますよ」
「そうなの?それは、何?」
「ふむ。ジュバ殿、これは答えても良いのですか?」
テメノスが問うと、獣人の長はゆったりと双眸を開き、息を落とした。
「自覚も必要か。オーシュット。お前が感じているそれは、単純な感情ではない。そうだな……だが、お前自身が見つけなければ、意味はない」
「わたし自身で、見つける?」
オーシュットはいまいち理解していないらしく、忙しなく尻尾を動かし、首を傾げる。マヒナが寄り添いそっと耳元で彼女に囁く。
「オーシュット、あなた自覚ないの?」
「何いってんだよマヒナ。自覚って、何?」
「あなた、テメノスが来てから、彼にべったりなの、本当に分かってないの?」
「?それはテメノスのことが好きだからだよ。一番最初の仲間で、一番ずっと一緒にいて、一番わたしの隣にいてくれたから。辛い時も、楽しい時も、どんな時も、一番長く一緒に過ごしたから」
生憎とテメノスにマヒナの言葉はわからないが、彼女らが何を話しているかはなんとなく憶測は出来た。そして、その間口を挟まず、オーシュットの長い髪を優しく撫で続けていた。その感触は彼女の尻尾に似ていて、ふわふわで温かい。心が落ち着いてゆく。もっとも、今のテメノスの中に、憎しみや怒りというものは露ほども存在してはいなかったのだけど。
「無自覚ってのも、怖いわね。まあ、テメノスが嫌がってないのが幸いといったところかしら。テメノス、ごめんなさいね、オーシュットが迷惑をかけて」
「テメノスは迷惑だなんて思ってないよ。そんな匂いはしない。わたしのこと、ちゃんと大事に思ってくれてる」
こんなことを他の女性に言われたら、恐らくテメノスはまず警戒するだろう。オーシュットだから、心穏やかに聞いていられるのだと思う。そもそもテメノスは人を疑うことから入る人間だ――無論、それは昔の オーシュットに対してもそうだった。ただ、出逢ってすぐに、彼女を疑うことはロイを疑うことと同じくらいに無意味なのだと理解した。そして同時に、彼女の中に、「清き青い炎」を見出していた――クリックと同じような、強く、綺麗な青い炎が、彼女の中には存在していたのだ。
だからこそ、彼女を傍に置いたのかもしれない。彼女の傍に来よう、と思えたのかもしれない。そんな感情が、時を経て別の物へと変じていても、不思議ではかった。
もう、テメノスに家族と呼べるひとはいない。天涯孤独だった。そんなテメノスを心配する仲間たちの心情だって、本当はわかっている。
そしてジュバの提案は恐らく彼とオーシュットの望みなのだろう。特に、オーシュットはひとの心の機微に聡い。テメノスのほんとうの心の内を知っていても、おかしくはなかった。だから、少しだけひかっけをしてみることにした。
「これはこれは……オーシュット。なかなか熱烈な告白ですね」
「こくはく?告白って、何?」
「そうですねえ……一般的には、男女であれば、好き、という気持ちを相手に伝えることです」
「それなら、間違えてないよ、わたし」
ぴょん、と耳を立てて嬉しそうにオーシュットは擦り寄って来る。そんな彼女を全身で受け止め背を抱きながら、テメノスは小さく笑った。
「あなたのそれが、男女の恋情に当てはまるのかは、聊か疑問ですけどね」
「男女の?好きに、種類があるってこと?ししょう、わかる?」
くるりと顔だけを器用にジェバの方に向けてオーシュットは問うが、ジェバは首を振り、目を閉じたままだ。彼は先程の言葉通り、オーシュット自身が気づかなければ意味がないと思っているのだ。
「うーん、テメノス、わたし、それはよくわからないなあ。テメノスのことはとくべつに好きだけど、それがテメノスのいってる好きなのか、はわからない」
「そのうちわかりますよ、いつか、その時がきたら」
成程、彼女は気が付いてないだけで、恐らく意識もしているのだろう。
先程から忙しなく揺れている尻尾がその証拠だ。それに、至近距離で感じる彼女の鼓動も何時もよりもずっと速い――けれど、それ以上ではない。何時ものようにテメノスに寄り添い、優しい体温を分け与えてくれる。
さて、では、自分はどうなのだろう。
正直、彼女を女性として意識してはいない。大切な仲間であり、家族に近い存在だとは想っているが――男女の恋愛対象というよりも、ロイに近い存在になっている。勿論、あの旅の仲間たちは其々特別な存在だ。けれど、その中でもオーシュットは最初の仲間、というだけではないものが在った。
「ふぁあ、眠くなってきたなー……テメノス、もう、ここで寝ていい?」
「構いませんが、風邪をひきますよ」
「だいじょーぶ、島の夜は温かいし、テメノスがいるから」
オーシュットは言うなりテメノスの膝を枕にして、目を閉じ寝息を立て始めた。
「……私の膝で、眠れるんですかねえ」
お世辞にも寝心地は良くはなさそうだが。それでもオーシュットは安心しきって目を閉じている。彼女の姿は、十年前とほぼ変わらない。幼い少女のままだ。
「時にジュバ殿。獣人の寿命は、人間とは異なっているのでしょうか。オーシュットの姿は、昔とそう変わらないように見えるのですが」
「そうだな。年は取るが、人間よりはゆっくりだ。ゆえに、そなたとオーシュットが番になっても、お前が先に逝くことになる。それでも……オーシュットはそなたと共に居たいと願っている」
「そう、ですか……」
置いて逝く。それは、テメノスにしてみれば、恐ろしいことだった。何度も置いて逝かれているテメノスにしてみれば、その辛さを、寂しさを、孤独さを、彼女には知って欲しくはなかった――彼女の周囲には沢山の仲間たちがいるが、そういうことではないのだ。ただひとり大切な存在を喪うということは、簡単に割り切れるわけではない。そんな辛さを、味わってほしくはない。
「……できれば、彼女には、そんな寂しさを、知って欲しくはないのですが」
「そういうそなただからこそ、オーシュットは近くに居たいと願うのだ。分かってやって欲しい。オーシュットが初めて選んだのが人間で、そなただということを、決して悪いことだと思わせないで欲しい」
「……ジュバ殿、私は……」
「そなたの負っている疵を知るものは、多くはあるまい?オーシュットは、そなたの疵を癒したいと思っているのだ」
「……オーシュットが……そう、ですか……」
すやすやと安心しきって眠る獣人の耳をそっと撫でると、温かく柔らかな体温が伝わってくる。彼女は満足げにテメノスの膝の上で眠り、その肩にマヒナが寄り添うように止まり、共に眠っていた。その姿は、平穏そのものだ。
けれど彼女はこのトト・ハハの守護者で、島いちの狩人。そんな彼女の隣に立つ資格が、自分にあるのだろうか。ジュバに認められたとはいえ、自分は畑違いの、しかも島の外の人間だ。皆が皆、歓迎するとは思えない――特に、ケノモ村の人間に付けこまれる隙になるのではないか。
「そなたの懸念はわかる。だが、そなたは聡い。ケノモ村の住人とも、充分に渡り合える――そなたが我らを裏切るとは思ってはいない」
ジュバの言葉は、許しと新たな楔だった。先の村長コハゼ亡き後、確かに村の人間たちは大分大人しくはなっている。テメノスの存在を認めてもくれていたし、聖火教会に興味を持つ人間も何人かいた。中には赤子が生まれたと言って、祝福を授けてくれと願い出る人間もいた程だ。その子たちは聖火教を学び、同時に獣人たちとも共生していた。テメノスの紙芝居を楽しみにしながら、狩りをする生活を当たり前としていたのだ。
テメノスに新しい居場所を、と、獣の長が直々に告げる。それを断れるほど、自分は厚かましいのだろうか。それで本当に、いいのか。
「この村を変えてくれたのは、オーシュットだけではない。そなたがいたから、この村は変わることが出来た。そんなそなたを留めておきたいと願うのは、傲慢だろうか」
「……いえ。正直なところ、有難い申し出です。あの郷には色々な思い出が、ありすぎて……私は、雁字搦めになっていました。この島の空と空気に触れて、自由というものを知った気になりました。その上で、あなた方と共に歩む道もまた、私の選ぶ道の一つではあると、……お話を伺って、そのように思えるようにはなりました」
オーシュットを撫でながら、ジュバの強いまなざしに応えれば、獣の王の尾がぱたりと音を立てて草を打つ。
「そう、言ってくれるか」
ジュバはそれだけを言うと、再び目を閉じた――いよいよ彼も、眠りについたのだろう。
テメノスは手にしたままのクリックの剣に触れる。過去の楔であり、御守りのようなものであるそれを持ち出したのは、最早これは自分の人生の一部だと思っているからだ。
墓標として彼の墓と共に置いておくことも考えたが、自分はどうやら大分我儘な人間だったらしい。彼の形見を傍らに置いておきたいという欲を我慢できなかった。だからこそ、この旅路にも連れてきた。
「クリックくん。私はそろそろ、自由になっても、いいんですかね」
テメノスは常に携えたままの剣に触れて、ひとりごちる。
次期教皇。異端審問官。世界を救った英雄の一人。そんな様々な肩書から、もう、自由になりたい。そんな密やかな願いを、オーシュットとジュバは既に理解していてくれていたのだ。
こんなに有難いことはない。彼らの提案は、渡りに船だ。けれど、それでも、まだ。
まだ、踏み出せない自分の臆病さと腰の重さに自嘲気味に笑いながら見上げた空には、数多の星が輝き、穏やかな白い月がこちらを眺めている。水面に映るその明るさが、この島の穏やかさの証左であるように思えて、いつの間にかテメノスも意識を静かに沈めていた。