屋鳥の愛

 紅葉もだいぶ色づき秋も深まってきたクレストランド地方はフレイムチャーチ。長閑な大聖堂のお膝元でもあるこの町に、小気味の良い音が響き渡っていた。
 清涼な山の空気が心地よい早朝であるから、往来にいる人々も決まっていた。おおよそが顔見知りになっているクリックに、一人の壮年男性が声をかけてくる。その両手にはたっぷりの山羊乳を入れた桶。顔なじみに、薪を割る手を止めてクリックも応じる。

「よお、クリックさん。休日だっていうのに朝から精が出るな」
「おはようございます!いつもは寝坊しちゃってテメノスさんに怒られるんですけど、今日は珍しく逆で」
「ああ、そういやあ昨晩はおたくらどちらもだいぶ酒が入っていたって、酒場の店主が言っていたっけ」

 ははは、と高く笑う男性の声が蒼穹に吸い込まれてゆく。

「え、バレてました?ま、まあ確かにあの時間帯は誰も外を歩いていませんでしたし、テメノスさんかなり酔っぱらってたからなあ」
「たまにああいうところがあるんだよな、テメノス様は。まあ、あの方の気苦労は数知れないから、隣で支えてやれよ」

 クリックとテメノスの関係は、今のところなんとも名称が付け難いものだった。気心は知れている、何せフレイムチャーチに赴任して二年目だ。食事の量や祈りのタイミング、寝る時間に起床する時間、暇なときに何をするか、果ては相手の仕事の状況まで共有している――クリックは現在テメノスの好意で彼の家に居候していた。その結果、テメノスの家には二人分の食器や家具が並び、やや手狭になってきているから引っ越そうなどと家主が言い出している始末だ。最もクリックとしては、手狭でも何でも彼の住む質素で素朴な家が好きだから、このままでも一向に構わなかったのだが。

「え、ぼ、僕ですか?」
「ほかに誰がいるってんだよ。クリックさんはてっきりそのつもりなんだとばかり……まあ、テメノス様はそういうところ、疎いというか気にしなさすぎだからなあ」
「……ははは、た、たしかに……」

 男の言葉に苦笑するしかないのは、事実だからだ。二年という時間は、クリックの中にあった信頼や好意を育てるには十分な時間で、そのクリックを傍に置いたままのテメノスも、同様なのではないか?などと近頃は良い方に考えるようにしているのだが、決定的な出来事はいまだかつて、ない。
 たまに偶発的に触れ合うことはあるし、特にそういった時もテメノスは嫌悪感を見せることはない。二人分の食器は用意されているが、意外と使いまわすことも構わないのか、クリックが飲んでいる珈琲や紅茶に横から平気で口をつけては渋い顔をすることだってザラだ。そういうときの言い訳は「子羊がおいしそうにしているから」と決まっている。もっとも悪友でもある盗賊ソローネとはワイングラスを交換するようなこともあるようなので、そもそも気にしていないだけかもしれない。クリックとしてはもう少し気にしてほしいのだが、家の中で気が緩んでおり、クリックはそんな側面を見せてもよいと判断されたのだと考えれば喜ばしいことではあるのだが。
 テメノスは、そもそも人を寄せ付けないタイプだ。友人も少ないし、心を許せる人間など亡くなった義兄弟と義父でもある前教皇イェルクだけだったという。それが、果ては世界を暗闇から取り戻す長い旅で得た仲間たちを得たお陰なのか、その「人嫌い」の少しはマシになったのかもしれない。だがそれはあくまでも「友人」の範疇だ。
 クリックとしては、出来ればそれ以上に――恋人であるとか、家族であるとか――になりたいという欲は沸々と二年前から温めていたし、何度か言葉でも伝えている。けれどもその度に煙に巻かれてそれっきり、だ。何の進展もない。

「苦労されてる方だから、まあ、難しいところもあるが……いい人なんだよ。俺ら町の人間も、大聖堂の人間も、皆テメノス様には多かれ少なかれ恩がある。だから、幸せになって欲しいんだ」

 そういう男性の表情が、どこか優れないことにクリックは気づく。確かに、皆わかっている。この町の人間も、大聖堂の人たちも。けれどもテメノスは大切なものを喪いすぎていたから、皆どこかで遠慮してしまうのだろう。その一歩を、そしてテメノスは決して踏み込ませない。
 だからかつての仲間たちもテメノスにやたらとお節介を焼くのだ。わざわざ多忙を縫って、あるいは遠路遥々会いにきてみたり、手紙を折々で寄越してみたり。

――皆、心配なんだな、テメノスさんのことが。

 けれど、皆優しすぎるから、一歩を踏み込まない。踏み込めない。その距離が心地良いと感じているから、あえて壊したくはないのだ。距離も、テメノス自身のことも。

「……わかりました。僕が、僕がなんとかしますから、任せてください」

 これでも諦めの悪さには自信がある。親友オルトのお墨付きだ。そもそもフレイムチャーチへの赴任も、無理やりもぎ取ったようなものだ。親友の渋面を思い出しながら、クリックは胸に手を当てて笑みを作った。

「おお、クリックさんがそういうなら、俺らが心配することじゃあねえな!じゃあ、こいつはお裾分けしておくよ、搾りたてだ」

 そういうと男は持っていた携帯用の水筒にいくばくかの山羊乳を入れて、クリックに手渡してくる。

「女房がチーズを作ったら、それも持ってくるからよ。待っててくれ」
「それは楽しみです……テメノスさんも、喜びますよ。これも、ありがとうございます!」

 立ち去る男の背中を眺めながら、クリックは一旦家に戻ろうと考えた。今しがた貰った山羊乳もだが、テメノスがそろそろ起きてくるかもしれない。太陽は、少しずつ秋色の空に光をゆっくりと増していた。



 その日の夜。元々仕事は休みではあったものの、見事に寝坊したテメノスは結局開き直っていた。けれども黙って細やかな家事や食事の支度は買って出てくれた。朝貰った山羊乳を、わざわざ手紙と共にク国からヒカリが送ってくれた品種を使ったトウモロコシと共に煮て練り上げた料理を作り、貰っていた野菜やオーシュット特性の干し肉と共に食べるなかなかに豪勢な夕飯になった。その他に果物までいくつかついていたので、素直ではない彼らしい計らいだなとクリックは思いながら舌鼓をうったのだった。

「ごちそうさまでした!すごくおいしかったです!この料理、ヒカリさんに習ったので?」
「いえ、ミッカさんです。耳飾りの一件で仲良くなったパーラさんとはよく行き来しては料理をするようで、その時にパーラさんに振舞った料理だそうですよ。正確には牛乳を使うんですけど、ここでは貴重品ですからね」
「ああ、なるほど。テメノスさんの料理にしては珍しい味付けだったから、いったいどうしたんだろうと思ったんですけど、そういうことだったんですね」
「たまには、ね。気分を変えるのもいいでしょう。そうでなくても子羊君は大食らいだから、我が家の備蓄がすっからかんなんですよ」
「うっ……その……次の買い出しは僕が……」
「君だと馬鹿みたいに買い込んでくるんだから、私もついていきます。それより、まだ食べられる?」
「え?いいえ、もう、十分です」

 実はまだ腹八分目なのだが、食の細いテメノスの分まで平らげてこれ以上は、流石に憚られた。それに、オーシュット特製干し肉も、そう在庫は多くなかったはずだ。

「本当に?まあ、いいでしょう。今日は皆に手紙も書けましたし、だいぶゆっくりさせてもらいました。ありがとう、クリック君」

 そういって突然クリックの手にそのうすいてのひらを重ねてくるから、心臓に悪い。しかも直視するにはあまりにも、あまりにきれいにテメノスは微笑んでいた。元の顔立ちが整っているひとだ、こうしていると本当につくりものの人形か何かのように思えてしまって、けれど、てのひらからから静かに伝わる熱は、確かに生きている人間のそれだと鼓動が伝えてくる。
 クリックはごくり、と喉を無意識に鳴らしていた。早朝に、男とした会話の内容が脳裏に過る。

――テメノス様を、隣で支えてやってくれ。

――幸せになって欲しいんだ。

 あの男だけではなく、町の、教会の、大聖堂の、見知った人たちの顔が次々と浮かんでくる。
 このひとは、あんなにも、ひとに愛されているというのに、どうして見て見ぬふりをするのだろう。この手は、こんなにもあたたかいというのに。

「わ、クリック君?どうしたんですか?何か、変なものでも入ってた?」
「え?」

 テメノスが慌てたように立ち上がり、クリックの傍らに寄ってきてその手を取り、両手で包み込む。

「君、泣いてますよ……一体どうしたの?」
「あ、……僕………どうして……」

 確かに、気づけば熱いものが目尻から流れ落ちている。しずかにしたたり落ちる水滴に、テメノスの細く骨ばった指が伸びて、すくう。熱い滴を指に流してから、テメノスはクリックの頭に両手を伸ばし、ぐっと抱え込まれた。
 眼前に迫るうすい身体は、けれどもしっかりとあたかかくて、ゆっくりと子をあやすように動くてのひらもやさしくて、クリックの訳の知れない涙は止まらなかった。

「テメノスさん……ぼく、は……」
「ふふ、今日は泣き虫な子羊だこと。そういう時はどうすればよいか、知ってる?」

 まるで幼子に問うような声はあまりにもやわらかくて、クリックは言葉を紡ぐことすら忘れてしまう。そうじゃない、ちがう、伝えたいことは、たくさんあるのに。
 応えられないクリックをしばらくあやすように黙っていたテメノスが、急に知らない旋律を紡ぎ出した。

「その、歌は……」

 まるであやすように、母親が赤子を包み込むような優しい旋律と言葉で紡がれるそれは、異国の歌だ。知らない音なのに、心の内の柔らかいところに直接響いて届くような音色。  気づけば、クリックはテメノスの背にすがるように腕を回していた。  歌が終わると、テメノスはクリックの頬にそっと触れて、もう一度涙にぬれている肌をぬぐう。 「昔、いつだったかな……旅の途中に、ヒカリが歌ってくれたク国の子守歌です。あの時は思わず……その場に居たソローネ君と、ね。泣いてしまったんですよ。大の大人がそろいもそろって。おかしな話でしょう」 「いいえ、おかしくないです。おかしくなんて、……ないですよ……」 「おやおや、子羊君にはちょっと効きすぎてしまったかな」  そうおどける口ぶりですら、優しい。
 完全に、白旗だ。この人を守ろうなんて、おこがましい。でも、それでも、僕は。

「……テメノスさん。もっと、僕を頼ってください。僕は、……あなたの傍にいたい。何度も、何度だって言います。僕の剣も、僕の力も、僕の命も、とっくに、あなたのものなんです。ねえ、本当はわかってらっしゃるんですよね。でも、あなたは僕にあなたを守らせてはくれない。どうしてなんですか?僕では、不満ですか?」

 強い言葉を使っている、という自覚はあった。
 その証拠に、テメノスの手が一瞬止まり、息をのむのが分かった。

「僕は若造だから……まだ、上級騎士どころか、中級騎士にだってなれていないから……だから」
「違うんです」

 クリックの言葉を遮るように、ほんのりとささやかれた声は、どこか震えている。

「違うんですよ、クリック君。君に不足があるわけじゃない。ただ、私が……私の……」

 そこまでを告げて、テメノスはきつく唇を噛みしめる。触れている箇所から伝わる振動は、彼が震えていることを如実にクリックに告げていた。

「テメノスさん?」

 そっと、体温が離れてゆく。名残惜しいと感じながらも、クリックはそれをとどめてよいのかどうか、一瞬迷ってしまった。

「……何でもありません。今日はもう、休みましょう」

 ああ、また間違えた。テメノスの声色はいつものものに戻り、その表情も、いつものものだ。常ならば、クリックはここで引き下がっていた。だが、今日は引き下がるつもりは、ない。朝に言われた言葉がきっかけではあるが、この際はっきりさせたかった。伝えたかった。自分の想いも、皆の想いも、愛されることは、何も恐れることではないということを。

「テメノスさん、あなたは、ロイさんや猊下に愛されて育ったと聞きます……だから、知らないわけじゃないですよね?僕のこの感情が、本当は、何なのかも、わかっているんですよね?けれど、どうしてかテメノスさんは明言を避けるから、僕が言います。テメノスさん、あなたは愛されるべきひとなんです。あなたは、笑っていなきゃならないひとなんです。幸せにならなきゃ、おかしいです」

 逃れようとするテメノスを抱えるように両腕で抱き込むと、クリックはぐっと細い肩口に頬を寄せ、静かにささやいた。

「僕が、生涯愛するひとは、あなただけだ、テメノス・ミストラル」
「クリック、くん……」

 そのまま、何も告げられない半ば開いているうすいくちびるに、クリックは己のそれを重ねた。
 あたかかくて、やわらかな、生きている人間の呼吸と体温が、静かに伝わる。

「逃げないで、テメノスさん……お願いだから、逃げないでください。僕の見えないところに、いかないでください。ずっとずっと一緒に、生きてください」

 今度は真正面からそのあまりにも整っている顔を見据えた。見れば、彼も涙を静かに流している。声が静かに漏れて、ときおりしゃくりをあげ、ぱたぱたと瞬きを繰り返しながら、じっと自分を捕えている張本人をただただ眺めている。
 あまりにも無防備で、あまりにも脆くて、あまりにも、いとおしい。つよくつよく抱きしめて、抱きつぶしてしまいたいくらいの衝動にクリックは駆られたが、ぐっと息を飲み込んで衝動を抑えると、今度は深く、ふかくくちづけを交わす。拒絶されなかったくちづけはいっそうと深くなり、交わる熱と、他人の感覚を共有したそれはあまりにも鮮烈で、酔ってしまいそうだ、とクリックは思った。
 くちびるをはなしてもなお、クリックは腕をほどかなかった。テメノスはすっかりと上気した顔で、濡れた瞳で、クリックを見据えてくる。まるで試されているようで、クリックは微動だにせずにその翠の光を見つめた。その奥底には、確かに、炎が宿っている。清き炎。聖火のあかり。そうだ、この人は、僕にとって聖火そのものなんだ。

「あなたを離したくない。離れたくないし、失いたくない。だから、だから僕は強くなります。もっと、強くなって。そして、あなたをしっかりと、守れるように……」
「クリックくん」
「……テメノスさん?」
「……私の、負けです。君は本当に、成長したね。まさかあの青い子羊君に、こんなに熱烈に口説かれるなんて。でも君、趣味が悪くはないですか?自分で言うのも何ですが、私はめんどうくさいただのおじさんですよ?」

 おどけてはいるが、テメノスの声は、まだわずかに震えていた。素直になれないテメノスの頬に、それから鼻先にくちづけを落としながら、背中に回した手を少しずつ下げて、衣服の上からでもわかるほどにあまりにもか細い腰に触れ、さらに抱き寄せた。より密着して、より近くなった目線。まだその瞳は潤んでいて、長い睫毛が濡れている。
 ほんとうに、どこからどこまできれいなひとなんだろうか。まるで、ウソみたいに。

「テメノスさん、もう一度、言います。僕は、あなたを愛しています。僕だけじゃない、皆……あなたが大切なんです。もちろん、……僕のは、皆さんとは、ちょっと、違いますけど……」
「……ふふっ……ふ、あはははは」
「テメノスさん?何が、そんなにおかしいんですか?」
「だ、だって君……格好つけようとしてるけど、声に出てますよ。はやくあなたが欲しいんです、って」
「なっ、そっ、て、テメノスさん!!」

 慌てて腰に回した手を離そうとするも、上からテメノスに押えられてしまう。もっとも力だけでいればクリックに軍配が上がるから、振りほどこうと思えば振りほどけるくらいの力なのだが、そうしたくはなかった。
 腕の中で楽しげに笑うことひとを、もう少しだけ、堪能したい。先ほどのように声はあげないが、未だおかしいのかテメノスはくつくつと小さく笑っている。

「そうやって、笑っているのが、一番あなたには似合いますよ、テメノスさん」

 静かにそう告げると、テメノスは笑いを止め、そしてクリックのくちびるに己のものを重ねてきた。
 わずかな時間。すぐさま離れる柔な感触だが、テメノスの内なる心に触れたのだ、とクリックは初めてこの時感じた。彼は、誰にも近づかせなかった一線を、越えてよいと告げているのだ。
 それは、彼の家族以外には許されなかった距離。彼のいっとう大切で、やさしくて、哀しくて、やりきれない、切ない場所だ。

「……僕で、いいんですか?」
「何を今更。覚悟してくださいね、私は面倒ですよ」

 挑戦的に笑って見せる目尻には、まだ水滴が残っている。クリックはこつん、と額を当てて、優しくて強い翠の光を直視した。

「望むところです。言っておきますけど、僕、諦めが悪いので」

 ぽろり、とテメノスの目尻から、最後の水滴がこぼれ落ちてほんのりと染まった頬を伝い落ちる。その水滴があごに達する前にクリックは唇で含むと、柔らかな頬の感触をくちびるで味わうように触れる。また、テメノスが子供のような声を上げて小さく笑う。
 暖炉にくべている薪がぱちり、と小さな音を立てて弾けた。