ザヴェート政府塔の重たい両開きの扉を開くと、真正面に再び同じような――外部へのそれよりはやや薄手の、より厳重な警備のされた紅と白で彩られた巨大な扉が視界にまず入ってくる。帝国最高責任者にして最高指揮権を持つ総統オイゲンが座するべき椅子のある部屋を守る最後の砦だ。
イワンが扉の前に立つや、銃剣を掲げた二人の兵が無言の伺いを立ててくる。次に彼らはイワンの制服と、原素焼けしてフェンデル人には不自然なほど「焦げている」顔で訪問者の正体に行き着いたらしく、行く手を遮るということはなかった。ちらとそれらを一瞥してから、イワンは扉に向けて大声を張り上げる。
「第三開発部所属技術少佐イワン、総統閣下のご命令に従いまして」
「入れ」
全てを言い終える前に、扉が開いた。いかつい顔の小さな男が顔を覗かせている。同じ技術部のオシプ大尉だ。もう一つ加えると、技術部でもう一人の、オイゲン総統直属――総統から直接何らかの命令を下されて軍部に潜んでいる内部スパイのようなものだ。総統とて、この巨大な国の軍部を全て掌握しきることなどは無理なのだ。
「総統閣下はお待ちだぞ」
軽く敬礼をして、扉をくぐる。オイゲンは後ろ手を組み、直立の姿勢で部屋の奥に大きく設けられた窓の景色を眺めていた。
「総統閣下、イワンが参りました」
オシプが言うと、オイゲンはゆったりと振り返る。イワンはもう一度敬礼をした。
「やはりリジャールか、あの役立たずの古狸め、相も変わらず下らん画策をしておるわけか」
開口一番、オイゲンは見るものに強烈な印象を与える黒目の目玉ぐるりと回し、ひどく低い声で断じる言葉を告げてきた。気の弱い士官などは、これだけで総統の言葉には逆らえなくなる。イワンは、頷く。
「既に開発されたものの開発費をさらに上乗せせよとでもいうような、白々しい嘆願書でも出す気だったのでしょう。現段階では、例の新型が面に出てこない以上、その件でリジャール中将をどうにかすることは出来ません」
リジャールの企み自体は、酷く稚拙で下らない。が、その犠牲となる士官がこの場合は問題だと総統は言う。カーツ・ベッセルという名を、オイゲン総統はひどく気にしていた。その名を総裁に知らしめたのは先のベラニック奪還戦で前線部隊が携えていた煇術銃だったが、よもやその関心がここまでとはイワンも考えてはいなかった。先の戦いで勝利の決定的要因となりえたのは、かの新型蒸気機関戦車であり、総統の意識もそちらに向かっているであろうと考えていたのだが。どうも、こと兵器開発に関しては子供のようになるところがあるオイゲン総統は、かの若い将校が作り出す煇術銃にもいたく興味を引かれているようだった。すれば、そのような若き才を秘める技術者を他の有象無象のように扱い、どころか企ての犠牲にしたリジャール中将が不幸だったと言うべきか。そのような不正は、実は軍部では日常茶飯事だ。が、そのようなものをイチイチ正している暇も余裕もこの国にはない。それが既に歯車の一部となりえてしまっている側面を、否定することも出来なかった。
「証拠がない、か」
疑いだけで無理に拘束するには、リジャールという男の地位は高すぎるのだ。改革派の動きが活発な今、保守派要人であるあの男に徹底した追及をすることも好ましくはない。
「諜報部の人間も含めて探索しましたが、現在政府塔内には見当たりません」
「ふむ…では、改革派に奪取された可能性もあるな。その前提で、お前の部下に関しては、釈放するのではなく泳がせるという手も考えてみた」
「と、申しますと?」
そこで、オイゲンはオシプとイワンの両名を、やはり強い視線で意志を確認するかのように見渡してから、頷く。
「近頃若い将兵らの間で流行っている改革運動だが、ストラタが一枚噛んでいるという噂がある」
オイゲンの言葉に、二人の男は互いの顔を互いに一瞥した。オイゲンは黙っている。先に口を開いたのは、オシプだった。
「ラティス商会、ですか?」
オイゲンは頷いた。イワンもその名を知っている。フェンデル帝国随一の穀物及び煇石商社は、政府公認で他国へのルートを持っており、些かの独立権限も与えられている。その彼らが、恐らくは目下若い将兵を中心に流行っている「政府改革運動」を支援しているのではないか、とオイゲンは考えているのだ。
それに関してはイワンもある程度まではそうだろうと考えていた。元々、あそこは改革派だ。だからこそ蒸気機関開発への援助にも積極的であるし、彼らのストラタとの繋がりがあればこそ蒸気機関戦車は完成したと言っても過言ではない。
といっても件の商社には常に政府側の人員を派遣している――常時政府の監視下に置かれている状態ではあるのだが、それとて限界もあろう。
「もし繋がっているようならば、今のうちに芽を摘んでおく必要がある。とはいえ現段階では確証を持つにはいたってはおらんからな。あそこの力を奪ってしまっては、わが帝国はいっそう貧窮してしまう。事は慎重に運ばねばならない」
オイゲンの言葉と視線の先には、ストラタ大統領府、という存在も見え隠れしている。
ストラタが改革派に助力するのは、彼らが力をつけ反政府運動などを具体的に繰り返すようになり、ひいてはクーデターという流れを狙っているからに他ならない。また、改革派の多くが若い将校という事実からも、彼らを反政府運動に関わらせれば成る程、ストラタ海軍とやりあうフェンデル陸海軍の力を削ぐことにもなりえた。ストラタという国にしてみれば、将来的そして現段階でも決して悪くはない話だ。
「お前の部下、カーツとかいう技術少尉は、改革派と接触している。それも、何度もな」
繰り返すオイゲンの言葉は、鋭利さを伴っている。
「此度のリジャールの可愛らしい策謀で捕えられたが、そういう連中にしてみれば望ましい状況を改革派が見逃すとは思えん」
オイゲンは断じた。軍部を全て掌握するには至らずとも、必要な情報は確実に持っている。この男の恐ろしさを、イワンは改めて知らされたように思った。
元々カーツは煇術銃の開発に携わってさえいればそれでいい、というような人間だ。だからこそ仕事は職人肌の精緻さとアンマルチア族ですら舌を巻く感覚に秀でており、彼の作り出す煇術銃は成る程、現場の将兵らには好評だった。そういうところから半年ほど前、総統が直々にその名をイワンに尋ねたのだ。
そのカーツの交友関係というものはそう広くはなく、友人らしい友人といえば陸軍所属のマリク・シザースぐらいだ。が、この男は目下改革派筆頭と言われている程自分が改革派であるということを隠しもしない男でもある。
オイゲンの言葉は、そのことを示しているのだ。
「その男の周辺を常に、お前の諜報部の連中に探らせておくのだ。例の新型に関しては、発見次第、他は必要と判断した時のみ報告せよ。基本的に作戦権はお前一人に委ねる」
イアンは頷き、敬礼する。カーツが捕えられている牢の警備をそれとなく緩くしておき、脱走した際は最低限の追手を差し向けてそのまま脱走させればよい。最も、あの男は自ら脱走するような性格ではない。脱走したとなれば改革派と接触する可能性は濃厚だろう。そうなれば、確かに都合が良かった。カーツ周辺を探らせておき、必要と在れば接触しても構わないだろう。なれば、諜報活動はイアンの本領でもある。所属は技術部だが、諜報部との繋がりは深い。そういう意味での総統直属でもあった。
「事が発覚次第、リジャールに関しては、隠蔽の罪で降格処分、陸軍主体の治安維持警察部隊の現場組みに配属でよい。ヤツは何か言うだろうが構わん。アンマルチア族との提携も果たした以上、あれはただの役立たずの無駄銭使いでしかない」
言葉の裏にある、今以上の精査に励めと言う命令に、今度はオシプの方が息を呑み敬礼する番だ。イアンが諜報部と技術部を繋ぐ存在であるなら、オシプは技術部と軍部を繋ぐ存在だった。他にも何人かこういう「総統直属」の人間は存在し、だが必要でなければ例え同じ配属であっても、互いに顔などは知らない。オシプとイアンが良く顔を合わせるのは、技術部と軍部、そして諜報部が連携を密にせねばならない状況だからに他ならなかった。
そしてオイゲンは、これで話は終わりだと言わんばかりに二人の男に例の強い視線を向け、背を向けた。
イワンはその背に、確認すべきもう一つの事柄に関しての総統の返答を見た気がして、沈黙する。その肩をオシプが軽く叩いた。
総統の一人娘ロベリアが、改革派に傾倒している――恐らくは、接触している。言うべきか言わざるべきか、イアンは迷い続けていた。総統がどこまでを知っているのかもわからない。だが、それに関しては二人父娘の問題でもあり、他人が簡単に入り込めるようなものでもない。
そういう迷いを、オシプも同様に持っている。彼はまだ良い、と言うように頷く。だから、イアンも今回はとりあえず報告を見送ることにした。話は、終わったのだ。
工場区画よりも更に下層というのは、カーツも初めてであった。無論、普通ならば縁はない場所だ。政治犯やスパイ、そういった重罪人が手かせ足かせを嵌められて単純労働を強いられる場所――政府塔地下十二階の更に下層は、そういう場所だった。人為的な、囚人らの単純労働により生み出された熱が煇術開発部の技術をして煇石に閉じ込められ、それが枯渇しかかっている火の煇石の変わりに数少ない燃料たりえている。そこまでせねばならぬほどの困窮なのだということを、カーツは身をもって体験していた。
一日の三分の二をその労働にあてられ、残りはなけなしの食事と睡眠だ。それでも睡眠が許されているだけ、カーツはまだマシな方なのだ。中には睡眠をとることも許されぬ囚人もいる――その殆どが捕えられたスパイや戦争捕虜であった。フェンデル人であるというだけで、カーツは優遇されている。
地下深くなればなるほど、この国の大地は寒さを増す。本来は火の原素が多く含まれていた土地であったのだろうが、大煇石の影響で火の原素は根こそぎ奪われていた。結果、地下深く潜った所で寒さは凌げるどころか一層強まるばかりである。まして、この地下収容所に暖房などはない。睡眠時に使用する使い捨ての燃料がその都度渡されるだけだった。囚人をただ捕え放置せずにぎりぎり生かすというこのフェンデル帝国独特のやり方は、だが囚人当人にとってはありがたいのかそうでないのかは、判断に迷う所だ。心に生の執着が十分ある若者なれば、ありがたかろう。だがカーツの中に、生憎とそのような感情は生まれてはいない。元々あったのかなかったかですらも、よくわからない。
数多くの疑念を抱きながらも、それでも従っていた上層部に裏切られたという絶望は、カーツの中の思考らしい思考を枯らし尽くすには十分すぎた。怒りというような強い感情も最早沸かない。裏切られたという思いもあまり抱いては居なかった。むしろどこかで納得もしている。自分のやり方を、結局は上層部が認めなかったのだ。上層部、自分達の支配者は総統閣下ではなくあのリジャールという男だということを、思い知れば絶望すらもしなかった。
このような場所で定められた働きをした後に釈放されたとて、以前の場所に戻れるのだろうか。そういう懸念すら、今のカーツには抱けない。
全てに疲れきっていたカーツは、ただ、眠りたいと思った。全身を支配する諦観と重だるさから一瞬でも解放されたい。茫漠と、だが切にそう願うだけだった。
自分の濡れ衣が実際には重いのか軽いのかもわからない。ただ、戦争捕虜なども捕えられているからか警備は厳重だと思えた。このような過酷な環境と最低必要限度の糧のみを与えられ分刻みで仕事を決められていて、それでも尚脱走の気概があるものがいるのだろうかとカーツなどは考えるのだが、皆無ではないようだ。夜中に時折争う声が遠く聞こえることもあった。だがそれも所詮は他人事、変わるといえばせいぜい看守の機嫌がやや悪くなり、朝の前口上がわずかばかり伸びる程度だ。
そう、あくまでもそんな話は他人事で、まさか己の身に及ぶことなどはあるまい。全くといっていいほど潔い諦観の念からなのか、カーツはそう信じ込んでいたのだ。
だが、転機は唐突に訪れる。
人生の歯車が音を立てて回り始めるその瞬間なれば、それなりの前触れと言うものがあろう――ベラニックを出ることを決意した日、或いはこうして政府塔最下層で辛酸を舐めさせられるに至った朝。
が、今回に限っては全くその気配を感じさせることなく運命の日はカーツのすぐ背後まで迫っていたのだ。
「成る程、囚人は決して殺さず生かす……らしいやり方じゃないか。どうだ、総統のやり方は気に入ったか」
始めは、疲労のあまりの夢うつつであろうとカーツは思った。まさかこのような場所で友人の声が聞こえるわけが無い。まして、その姿が視界に入るわけがなかった。だから、ひどく懐かしさを心の片隅に思わせる声が聞こえたときも、カーツはその髭が伸びきった顔を上げる気すらなかった。
「おい、死んでいるわけではあるまい、カーツ・ベッセル技術少尉どの」
揶揄する口調、聞き違えるわけがない。二度目である、流石にカーツはうっそりと顔を上げざるを得なかった。果たしてそこにある顔は、見慣れた「人誑し」の笑顔である。
「……マリク、か?……何をしている」
「それはこっちの台詞だ、カーツ。とっととこんなところはずらかるぞ」
マリクは事も無げに房の鍵を開けてしまい堂々と入り込んでくる始末だ。一体この男は何をしでかしている。己の身に起きたことであるにも関わらず、あまりにも急速であるからか、カーツは目の前で起きている出来事を実感出来ないでいた。
「おいおい、まさかここで刑期通りお勤めを果たす気じゃああるまいな」
「何をしに、いや、…何故」
全く動こうとしないからなのか、カーツの無気力極まる発言にマリクの表情が怪訝なものへと変わる。房の扉はといえば、相変わらず開かれたままだ。そういえば、巡回兵の姿が見当たらない。マリクがこの場にいるというのであれば、一体どのような経路で侵入したのか。カーツの重たく閉ざされた思考が、友人の顔を見たとたんに以前の動きを瞬時にして取り戻していることを、カーツ当人だけが気付けないでいる。
「何故?それこそ愚問だ、らしくないじゃないかカーツ。いや、らしからぬといえば甘んじて拘束された時からだ。全く、このオレがどれ程の危機を犯してここにいると思うんだ」
「…恩に着せるつもりで、こんな所まで来たのか」
「その通りだ。そうして口を利けるなら、身体も動くだろう。無理ならばオレが手を貸してやる」
マリクの不機嫌そうな口ぶりは、カーツが拒むことを全く想定などしていない。拒むならば無理にでも、そういう傲慢さもある。現実的に、細い食事で生を繋ぎ起きている時間の殆どを単純労働に充てているカーツに、まっとうな食事とまっとうな生活をしているであろうマリクの横暴を拒むほどの体力も無いのだ。
マリクは恩に着せると言った。
彼が何をどのようにしてここに侵入したのか、自分の居場所を突き止めたかは知らぬ。だが、その目的だけは理解出来た。再三誘われていた叛乱に加われというのだろう。
どうせこの身ひとつである。技術部に戻れたとしても、以前のようにいかないであろう事は痛感していた。職務に忠実であるあまり、カーツは殆ど自分の味方を作ってはこなかった、それこそ第三開発部の連中くらいだろうが、まさか彼らがそこまで自分のために動くだろうか。どちらであるとも言えなかた。それん、仮に彼らが味方につこうと、立場が良好になるとも思えない。リジャールにとって目障りであるからこのような立場に貶められたのだ、とてもではないが戻る気にはなれなかった。かといって、このフェンデルに民間の開発業者などは存在していない。成る程娑婆に出たとしても、自分は居場所がないのだ。その事に気付き、カーツはとたんに虜囚の己の身がひどく滑稽に思えてきた。
「くく、そうか……ははは、成る程な、この俺にはそこにも行き場などはない、成る程……くくっ」
突然喉の奥で笑い出したカーツに、マリクは些か面食らった風を見せるが、すぐさまニタリと笑う。まったく、人の悪い笑みだ。友人の板に付いた悪党面を眺め、カーツは頷いて見せた。
どうせ行き場もない。ならば、この男に付いてゆくのも、悪くは在るまい。どちらに転んだ所で、どの道二度とあのように煇術銃を玩ぶことなどは出来ないのだ。
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