夢轍 [2] 変革、廻り出す音、雨と奈落 III

 宿舎で目が覚めると、風が窓を叩く音が無い。窓の外を見れば、水の流れる音と光景が飛び込んできた。景色は今日も灰色に濁っている。そんな中実に珍しい、雨の朝だ。雨の朝、そう思うと同時に、理由の無い不快感が寝起きで思考もままならぬ頭を襲った。同時にずきりと痛むこめかみを押さえ、カーツは呻く。
 またか。
 誰とはなく言葉を吐き出したあとの口の中に広がる表現しようの無い苦味を飲み下した。愉快ではない夢を見た朝は、必ずこうだ。軍医は疲労と睡眠不足だとありきたりの診察と共に気休めの薬を処方してくれたが、眠気で思考を妨げられるので飲んではいない。食欲もないのだ。
 そして、雨の静かな水の音というのは、決まって胸の奥が苦しむ記憶を髣髴とさせる。むかむかと、はっきりとせぬ不快感。飲み下した筈の苦味が胃からせりあがってきて吐き気を催す錯覚に陥り、カーツは慌ててがばと立ち上がると洗面所に駆け込んだ。が、洗面台に吐き出したものは少しばかりの胃液で、他には何もない。ただ口の中に張り付く不快感がたまらず、蛇口を乱暴にひねった。何度も蛇口をひねってから漸く出てきた水でうがいをして、そこでようやく人心地つく。
 ふと見上げた洗面台の鏡に映る自分の顔は、まるで六十を越えた老人のように老け込んでいた――その、あまりの形相にカーツはぎょっとなる。

―――これは、俺か?

 ひどくこけた頬に手を這わせてみると、鏡の中の自分に似たものも同じように頬に骨ばった手を当てている。落ち窪んだ眼窩の底にある目だけが、やけにぎらぎらしていて、原素焼けして色素を失った前髪も相まってうっそりと死神の形相がそこにあるようだ。俺が、死神か。自嘲気味な考えがふと浮かび、カーツは嗤った。馬鹿馬鹿しい。俺は、ただ疲れているだけだ。
 眠ったのは、明け方だった。浅い眠りに落ちるまで、無駄な思考を繰り返しすぎた。現実は現実で、こうして目覚めの悪い朝を迎えたところで何も変わらない。カーツは頭を振ると、蛇口から細く流れる水を掬い、顔面にぶちまけた。純度は決して高くは無い地下水は、未だ夢か現実か判別も出来ない曖昧な朝の思考を明確にするには十分な冷たさがあった。

 目覚めた瞬間には最低な始まり方ではあったが、今日の作業は順調といっても良かった。試作品が完成し、とりあえず試験運用段階でも問題らしい問題は発生しなかった。一つの仕事に区切りが付いた、というわけだ。そういう心地から吐く息は、重いのか軽いのかもわからないが、改めてこうしてきっちりと所定のケースにしまわれた様を見れば、漸く完成にこぎつけたのだ、という感慨が内からゆっくりと沸いてくるようだ。
もっともこれは総統閣下に提出したものとは別のもので、やや回路調節が甘いために射程距離が思ったほど伸びなかった前段階品であるが、実用に問題はない。カーツにとって紆余曲折の末生み出した中の一つであり、この存在がなければ完成品は無かった。
 なれば、新型の煇術回路を組み込んだ長距離射程用の狙撃銃である。完成品は射程距離を以前の三倍近くまで伸ばした。試験運用でのデータも上々で、まず満足の行く出来栄えだといえる。
 ストラタ海軍から奪った煇石から抽出した水の原素と、大煇石より僅かに引き出された火の原素を一定の割合で調合し、ほんの少量の原素から爆発的なエネルギーを産み出す――いわゆる反作用であるが、それを更に安定化させて逆に原素を抽出してしまった煇石に戻し、それを原動力とする携帯用銃器を初めて開発したのはアンマルチア族の技術者だった。
 カーツは更にそこに風の原素までも混ぜてしまい、数え切れぬほどの苦節の末、ようやく生まれたのが狙撃用に特化した長銃だ。
 最も、原素の割合の調合にひどく手間取り、さらに安定、定着化させるとなると一筋縄ではいかない。ましてこのフェンデルという土地は火の原素を大煇石経由で循環させるため、どうしても火の原素は定着しにくく、扱いづらくもなる。逆に他二原素は安定硬化が早い。つまり量産化はそう簡単ではない。
 とはいえ、ストラタ海軍相手に戦うのであれば射程の長い武器はどうしても必須になってくる。現実問題、銃器関係で言えばフェンデルはストラタに対し大きく水をあける形になっていた。向こうは既に煇術大砲を抱えた帆船なども幾つか保有しており、ここ数年はストラタ海軍相手に遅れを取るような戦も何度かあった。
 一方、そういった技術競争に一歩も二歩も遅れを取るウィンドルに関して言えば、ベラニック奪還の戦争でも一昔前の煇術銃剣ですら最前線では役に立ったと言う。つまり、無駄ではないのだ。
 カーツとしては、扱いを覚えるまで年単位の時間を要する蒸気機関戦車などよりも、それこそ二等兵でも要領を覚えさえすればすぐ扱える銃器こそ、まず量産すべきだと考えていた。蒸気機関戦車と銃器では、開発費とて比べ物にならない。まして戦車などは、莫大な費用を捻出して漸く完成にこぎつけた試作品が、現在三台稼動しているのがせいぜいである。操縦となると、マニュアルですらないような現状で、操縦士はそもそも蒸気機関の特性や扱いを理解していなければならない。長期的な目で見て重要なそれらと、短期的に必ず必要であろう銃器は、本来ならば同様に考えるべきではない、ということはカーツ自身もまたよく理解していた。が、どちらかを選ばねばならず、常に外敵よりもまず貧窮と戦わねばなぬ帝国で、何れが有用なのか。
 が、カーツの主張は悉く退けられていた。なれば、ベラニック奪還をしてその威光を揺るがなくしたオイゲン総統閣下の脳裏に描く、国家的宿願たるウィンドル王国ラント領の支配であった。かの地の煇石埋蔵量はまさに宝の山のごとし。ベラニック周辺では煇石の欠片すら貴重であるというのに、同じ地脈の源泉たるラント周辺は未だ採掘の進まぬ鉱脈が数え切れぬほどという。煇石という存在の眩さは、フェンデルに生まれ育った人間であれば理解してしかるべき感覚だ。
 ゆえに壊滅的打撃を被り国境の向こう側まで退き傷を癒している今が好機と主張する軍部の人間も少なくは無い。圧倒的多数を誇るウィンドル王国軍を徹底的に壊滅させたのは、一部で試験運用中であった新型の銃器でも銃剣でもなく、大砲を擁する鋼鉄の蒸気戦車部隊だ。それらもまた未だ試験運用中で実戦投入されたのは片手で数える程度ではあるものの、戦車を配備したことでフェンデル軍の圧倒的勝利を齎したのも事実である。あの巨大な鉄の塊が動き、鉄の塊や煇術を吐き出すということが、ひどくウィンドル王国騎士団を動揺させたのだ。無論、威力もただの銃器よりも何十倍もあり、一気に敵の一団を吹き飛ばすくらいの威力はある。
 はっきり言えば、風向きは悪かった。だがだからこそ、何度も政府塔に足を運んだのだ。好きで現場を離れる現場指揮官が何処にいるというのだ。

 その結果が、これである。
夕刻過ぎ、カーツは政府塔四十二階の作戦司令部で、簡易軍法会議にかけられていた。
 あまりに唐突な呼び出しに首を捻りつつ指令部へと赴けば、待っていたのは法務部の制服だった。何事かと事態を把握しかねているカーツにつきつけられた書類をよくよく見れば、そこには横領の罪状が長々と連ねられ、そしてカーツの名が記されているのだ。
 カーツが絶句していると、法務部の大尉と思しき恰幅の良い男が鼻を鳴らすや、ずいと歩み出てきた。
「貴様、第六技術部所属、カーツ・ベッセル技術少尉であるな」
 まるで全身をねめつけるような視線と、しゃくった顎にふるえる贅肉がカーツの不信に揺れる心を刺激した。一体全体、何故俺はこんな軍法会議めいた場所に呼び出されたのだ。何故、俺の名前がここにあるのだ。開発費横領疑惑、など、一体何の事を示しているのだ。叫びだしたい心境を必死に抑え、カーツは呻き、ようやく上官に対し「はい」と答えることが出来た。
「現場監督が任であるはずの貴様が、政府塔に出入りしていた、それも間違いは無いな」
「は、…それに関しましては」
「貴様の意見など誰も聞いてはおらん。では、認めるのだな」
 何を認めるというのだ。そもそも何を示して言うのかカーツは知らされてもいなければ理解すらしていない、それを認めろという。こんな、馬鹿な話が在るか。
「貴様らが再三予算を請求していることはここにある通りである。総統閣下も貴様が提出した図案にはいたく感心され、請求道理の予算を下されたはずだ。が、依然として貴様らはまともな新型の開発一つなしえていない。これは、どういう事なのだ」
「それは…一体、どういうことですか?」
 思わず口走ってしまいしまった、と思った。が、この男の言葉の意味が理解出来なかったのは事実だ。予算が下った?一体、何時の話だ。そもそも総統閣下の元まであの図案が提出されていたという話も、寝耳に水である。まだ漸く試作品を一つ完成させた段階であるという報告はした筈だが、それすらも報告されてはいないということか?そもそもリジャールはなんと言った?あの書面に記載された数字は一体何だったのだ?疑問が、次から次へと一気に吹き出て脳裏で渦を巻き、カーツは絶句していた。
 法務大尉はもう一度目を剥き、書面とカーツを交互に何度も眺める。足元が神経質そうに小刻みに刻まれていた。
「リジャール技術中将殿は確かに予算を受け取られた。が、貴様ときたらそれらを受け取ったにも関わらず、一向に総統閣下のご期待に応える素振りすら見せぬ。調べてみれば貴様の名があった。煇術兵器開発の責任者、新型狙撃銃の開発責任者はカーツ・ベッセル少尉である」
 言葉に顔面を殴打された、とカーツは思った。間違いは無い。煇術兵器の、狙撃銃の開発は確かにカーツの名の下に行われていることである。だから、試作品ではなく実戦投入のための開発資金を採算要求していたのも事実だ。が、その予算を受け取った記憶はカーツにはなく、無論書類もない。そしてあの試作品は何処へ消えたというのだ。確かに、リジャールには渡した。あれは、提出したはずではなかったのか。朝のあの目覚めの悪さは、全てこれを物語っていたというのか。
 思考は、混乱した。だが、波うちのたうつようなその思考の渦の中、ひとつだけはっきりとしていたことがある。
 自分は嵌められたのだ。恐らくは、あのいけ好かない中佐のために。

Comments

Copied title and URL