無名氏の祝福

 出陣する。自らそう決断したものの、ペレアスは実感として持てていなかった。デイン王国で、王が出陣する意味は、知っている。だが、理解してはいなかった。
 理解せねば、ならなかった。その為にも、とっくに日も落ちてしまい、吹雪も吹き込むような砦の中を、歩くことにした。
 身体が重だるいのはいつものことだった。戦場の空気、というタウロニオの言葉を、納得する材料にした。そうでなくとも、体内に取り込んだ精霊が、解放を望むのだ。こうも『彼ら』がざわつくのは異常だ、と思うが、今のところ、身体的な異常に発展する気配はない。闇の精霊を取り込んでしまったと知ったときは愕然となったが、今ではそれにすら慣れてしまっている。
 瓦解しかけている砦は、盛大に篝火が焚かれていた。
 せめて、数を多く思わせるため。その為に、夜通し動き回っては皇帝軍を眠らせない為に出動している部隊もある。全ては、タウロニオが独断でやっていた。内政、ということは養父やイズカの知恵もあり、ペレアスもなんとか理解出来ていたが、戦いのこととなるとからきしだった。だから、全ては旧四駿というタウロニオや、四駿の娘フリーダなどに任せると、戴冠したときに決めていた。そして、軍学などは王が学ばずともよい、とタウロニオも言っていた。
 そこは、イズカとタウロニオが珍しく意見が一致していた。復活するデイン王国は、戦とは無縁に。各々異なる思惑を持ちつつも、互いにそう望んでいたのだろう。
 夜というのに昼のように明るく、迷う心配はなかった。それでも、何気ないそぶりで歩いているにも関わらず、沢山の兵たちに声をかけられる。彼らは、皆暁の巫女ミカヤを称えていたが、自分たちの王の存在を忘れてはいない。だから、思うように進めないでいた。既に伏兵として潜んでいるものを除き、全ての持ち場の兵に会いたい、とペレアスは思っていた。

「陛下、明日は戦場に立つって、本当ですかい?」

 後ろから駆けてきたのは、ペレアスの記憶の底に名前のある男だった。忘れもしない。
 王都解放を目の前に、全ての兵の前に立った。その時、自分に野次を飛ばした男だ。

「ああ。君は、斜面に潜む弓部隊だから、その雄姿を、見ることは出来ないのが残念だよ」
「へへっ、やめてくださいよ……そうですか、王が、戦場に立つんですか」

 ペレアスが薄く笑って答えれば、感慨深げに、男は目を細めた。王が戦場に立つ。男は繰り返すと、忍び笑いをした。嬉しくてたまらない、という堪え方だ。
 彼だけではない。今回の戦、弓を扱えるもの、弩を扱えるものは、悉くその部隊に回された。足場が悪く複雑な地形のノクス森林一帯が戦場なのだ。弓や魔道は何よりの武器になるという、そういう理屈くらいは、ペレアスもわかっていた。

「陛下はお優しい。俺らみたいな下っ端でも、よく名前や顔を覚えてくださる」

 男の名を覚えていたのは、偶然に近かった。けれども、ペレアスは解放軍時代から、兵たちの名前は記憶するよう努めていた。それくらいしか、出来ることはないと思っていたからだ。人数が増えてきてからは、目立つ動きをするものや、何かに責任を持つものに限られてきていたが、出会うものには必ず名を聞いていた。そういうことだけは得意だったのだ。
 ただの理想だった。誰に課されたわけでもなく、己に特別に課したわけでもなく。けれども、何も出来ないのだといいながら、本当に何もしないのはただの屑だ。その言葉を忌々しげにつぶやいていたのは、魔道の手ほどきをしてくれた老婆だった。

「だから、どこかで戦いに向かない、そういう噂も流れてましたけど、もう関係ねえや。デイン王が、戦場に立つ。ガリアだかフェニキスだか知らねぇが、やっつけてやりますよ」

 男は、南部デイン人らしい浅黒い肌に、白い歯を見せてにっこりと笑う。笑うと、子供のような表情になる。言葉は雑だし、遠慮がない、けれども純粋な男だった。

「何が、帝国だ、神使だ、俺たちの国をむちゃくちゃにしやがって…!」

 続く声は、本気で憤っていた。そういう声と顔をする兵は、沢山いた。俺たちの国。そういう、沢山の兵たちの言葉が、胸によく沁みた。乾いた砂が水を吸うように、それらはペレアスの中に浸透していった。
 その国の王は自分なのだと、彼らの笑顔、彼らの言葉、彼らの憤りや悲憤に触れるたび、ペレアスは自覚を深めていった。

 砦の物資を保管していた退役軍人という老人とその妻は、ペレアスがその保管状況や数量の見事さに足を運ぶと、涙を流して喜んだ。
 輸送隊の兵たちは、ペレアスが声をかければ、誇らしげに笑顔を見せた。歩哨たちは、ペレアスが通れば必ず礼をする。そういう彼らにいちいち笑顔を作るとか、頷いてみせるとか、いつのまにかそういう事は当たり前だった。そうすることで、彼らもまた意義を見出せるのだからと訓えてくれたのは、イズカだった。
 ここが最後の戦だと、そう覚悟し近隣から集まってきた住人たちは、自分たちでなければこの森は自在に動けぬと言ってきた。実際に、ノクス森林の地形は複雑で、至る所に窪地や丘、小川があり、また森自体も深い。彼らの意見を戦いに生かせないかとペレアスが言えば、タウロニオは静かに頷いた。
 この戦いの意味。それは、決して玉砕戦などではないのだ。彼らが戦う理由は、ただひとつだけ――自分たちの国を、守りたい。ただそれだけだった。皇帝軍は、自分たちを脅かす敵だ。そういう彼らの率直な想いこそ、計り知れぬ重さがある。
 そういう彼らの想いを、自分はいともあっさり踏みにじったのだ。だというのに、彼らは自分に信頼の目を向ける。未だに、王と呼ぶ。

 なぜ、死のう、などと思えたのだろう。
 何故、彼らの顔を思い出さなかったのだろう。名を覚えた人々、名を覚えてはいない人々、懸命に生きている、懸命に生きようとしている、デインの民。
 こんなにも、重たく、そしてこんなにもかけがえのないものなのに。

「陛下、…なんだかよくわかんねぇんですけど、そんな顔、なさらないでくださいよ」

 男の心配そうな声に、自分が神妙な顔をしすぎていた、と気付かされた。ペレアスが表情を緩めると、男はそれでいい、という風に笑う。

「そりゃ、初陣だって不安はわかりまさぁ。けど、あのタウロニオ将軍や、フリーダ将軍にマラド騎馬隊がいる。ダルレカの竜騎士も、あの傭兵ツイハークだってね。それに、俺らだって、いるんだ。万が一ってことも、ありませんや」

 男は、胸をそらすように、屈託なく笑った。自分を励ましているのだ、と思うと、ペレアスの胸の内に温かなものが溢れてきた。

「信じているよ。君たちの、その想いも、力も。だから、戦を知らない僕が戦場に立てるんだ」

 男は奇声に近い声を上げた。近くにいた兵――おそらくは、男の部下が、集まってくる。男は次々に、今のペレアスの言葉を反芻した。何度も、何度も、この上ない朗報だというように言えば、興奮した面持ちが周りの兵にも伝わる。

 良かったのだ、と思った。生きて、よかったと、心の底からペレアスはこの時感じた。それは遅すぎる、あまりにも遅い自覚ではあるが、しないよりはいい。そうでなければ、生きる意味などはない。
 男が、その部下たちが、怪訝そうな顔をする。ペレアスは、笑顔を見せた。彼らのことを考えると、顔は自然に綻んだ。

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