戦場での猛々しい戦働きを見るものすべてに確信させる、ひときわ鮮やかな深紅の鎧。背筋をただし胸をはり、一定の速度で歩む様にも格好がつくこの男、クリミア騎士団でその姿と名を知らぬものはない。
男の名を、ケビンという。先のデイン―クリミア戦争で騎士団の多くを失ったクリミア王国軍の生き残りであり、またその中で幾多の功績をあげ、グレイル傭兵団と共にクリミア王国奪還を、その斧で勝ち取った騎士である。
快活明朗、強固な意志と現クリミア女王エリンシアに揺るがぬ忠節を貫く、騎士というものを絵に描いたような男ではあったが、ただひとつ欠点があった。
騎士ケビンは大柄であった。クリミア騎士団の中でも常に頭一つほど抜きんでており、トレードマークの深紅の鎧も相俟って非常に目立つ。だが、彼の欠点とは、そのことではない。
「こっ…これは!!」
首都メリオルの王宮敷地内の兵舎。そこに併設されている、手入れの行き届いた馬房の中、若きクリミア騎士団長ジョフレは大仰そうに天を仰ぎ、肩を竦めた。
馬の世話をしている小男が、一瞬びくりと身体を震わせた。声の主を確かめるまでもなく、男はその後仕事を続けているのだが、馬が何頭か驚いたらしく、やや激しい嗎が聞こえてくる。
まったく、この大声だけはこいつの最大の欠点だな。戦場ではこの大声に何度も鼓舞されているとはいえ……常にこうでは、周囲の身が持たない。
「見ての通り、マラド産の駿馬だ。何でも新国王から、我が王国への親睦の証と…」
「ほっ、本当に、これが、あの、名高きマラド騎馬軍がマラドの誇りと共に育てるがゆえに騎手とは並々ならぬ」
「まあ、その、マラド産だ。それを、女王陛下は君にと」
少年のようにきらきらと瞳を輝かせては彼らしからぬ「知識」を遠慮なく披露するケビンの勢いに、どっと疲労を感じながらも、ジョフレは主君の言葉を続けようとした。
だが、あろうことか上官の前で惚けたような表情のままつったっている部下を一瞥し、ジョフレ自身も一瞬、言葉を失ってしまった。
「そ……それは、……な、なんと……」
やがて震えるような小声がジョフレの耳に届く。
「女王陛下たっての願いだ。だが、私もこの馬を与えるならば君しかいないと思っている」
様子がややおかしいのは、感激のあまりだろう。勝手にそう解釈したジョフレは、言葉を続けた。
何より、ケビンにはこれから過酷な任につきあってもらわねばならない。
ケビンはおそらく、迷うまい。正義感は強いが、それ以上に固く揺るがぬ忠誠心を持っている。王家のためだ、そう告げれば、この男は迷わない。
「新デイン国王は、このクリミアとは和睦を望んでおるのですな」
唐突な、そして予想外に冷静なケビンの声に、ジョフレははっと顔をあげ、部下の面を真正面から見つめる。
上官に向けられる視線は、一点の曇りもなく、真っ直ぐだった。
「………そうだ」
そう、答えることしかできなかった。
ジョフレは、姉ルキノ程は政治的知識もなく、また諸外国に対する知識も必要最低限のみである。
新国王が、大陸でも名高いマラド産の駿馬を「証」に寄越した理由くらいは察しがつく――おそらく、「寄贈品」はこれだけではあるまい。
友人ユリシーズはデインに赴く前に、ぼそりとつぶやいた言葉が、ジョフレの中では未だに奇妙に残り続けている。
曰く——クリミアとデインは腹違いの兄弟のようなものだ。
だが、生憎と姿形があまりにも似つかぬ、ゆえに、互いを快く認めあうことなく、常に親の顔色をうかがい生きてきていた。だが、そろそろ、それは終わりにすべきだ。
友の言葉の判りづらさには慣れているジョフレだったが、この時の言葉は、判りづらい、などという代物ではなかった。
いや、判りづらい、のではない。
判りたくはないのだ。感情が、理性を否定するのだ。
過去に囚われることなかれ。常にその目を先へ、王国の未来へと向けよ。父の言葉は、ジョフレの中で生き続けている。王国の未来すなわちエリンシアがもたらす王国の繁栄――ジョフレもルキノも、ユリシーズもそれを信じている。だが。
デインは、仇敵だ。そうだ。心の奥底、無自覚におさえつけていたつもりのものが、ざわりとうごめく。ジョフレは無意識のうちに唇を強く噛んでいた。
エリンシアの決定は全てである。主君に逆らうつもりなどは毛頭ない。だが、それでも、押さえつけた感情は、なくなったようでなくなってはいなかった。あの絶望の日々、怒りと怨恨を糧に、生き延びた日々の辛さ。目の前で部下を惨殺されたあの瞬間、未だ残る生々しい記憶。デインは、ラモン王を奪い王妃を奪い、あらゆる者を奪い、そしてエリンシアまで奪おうとした、まごうことなき……
「ならば、俺が、こいつと一緒に、デイン王都へ赴くべきでしょう。携えていくのは……とりあえずは、女王陛下のお気に入りの果実酒などがいいですかな」
再び己の思考へと意識が没しかけていたジョフレに、ケビンはきっぱりと告げる。見れば、この上なく明快な笑みを向けている。実にこの男らしい、裏表のない表情だ。
「うむ、……そうだな」
「おお、そうだ、どうせならクリミア人の俺がこのマラド馬を巧いこと乗りこなすところを、マラド騎馬隊にも見せつけてやりましょう!」
ケビンの表情が、輝いている。
ジョフレは、頭を振った。―——何を、考えているのだ。
女王の望みは、かつての仇敵に対し矛先を向けることではない。女王自身が、その結論に至るまでの苦悩を、葛藤を、知らぬわけではなかったではないか。それを――ここまでを一気に考えて、嘆息する。
まったく、自分はどうかしていた。
一国を背負う者として、己の感情を優先させてはならない。あくまでも、国全体の益を考えねばならない。エリンシアは、そういう立場なのだ。
そして、自分たちはそういう彼女を守り、支える立場である。姉が、よくそう言っていたことを、ジョフレは思い出していた。
ふと、顔をあげれば、揺るがぬ笑みでこちらを見ているケビンの顔がある。
「ああ、そうだな。我らクリミア王国騎士団の馬の扱い方というものを、連中に見せつけてやるといい」
上官の言葉に、ケビンは破顔した。
やはり、少年のような笑顔だ、とジョフレは思った。純粋で揺るぎない忠心を持つこの男は、得難い器量の持ち主である、ということを再認識し、この男が配下にいるということを、女神に感謝しながら。
どこまでも白く覆われた大地は静かだ。雪がそう多くはないクリミアでは、これほどの雪を見る機会はそうそうない。音という音が吸収されているかのように、静かだ。
静寂は、嫌いではない。昔のことを、よく思い出せるのだ。王都メリオルの中央に位置する王宮、そして庭園は、クリミア王国内のみならず、他国にもその美しさで良く知られている。クリミア随一の庭師を囲い、彼らが丹誠込めて手入れをしている庭園は、一言では表現できぬほど見事で、初めて見た時などは言葉を失ったのだ。
あの、美しい庭園は、きっと今も喧噪とはほど遠い静けさに包まれていることだろう。静かで美しい、四季折々の姿で人々の目を楽しませる、あの庭園。あれは、父ラモンがいずれガリアよりの来客に見せるのだ、と張り切って自ら手を入れるほどであり、あの、クリミア王国にとって悪夢のような一年をも見事乗り切り(生き残った王宮付の庭師職人達が、この庭園はと守り抜いてくれた)、メリオルへと凱旋したエリンシア達を迎えてくれた。
静寂と、平穏。あの庭園のことを思うと、自ずとそんな言葉がエリンシアの脳裏に浮かぶ。瞼を閉じれば、甘い花の香り、そよぐ風と乳兄弟がいれてくれる香り良いハーブティー、焼き菓子、そんなものが思い出された。
平和であった。日常を、さほど意識せずそういうものとして過ごしてきていた穏やかな日々。そう、あの頃は、まさか自分がクリミアの女王というものになるなど、別な意味での王族としての覚悟は決めていたとしても、想像も出来なかったし、する必要もなかった。
春が、待ち遠しい。
あの平和な頃のエリンシアの悩みといえば、そんなことだった。クリミアの冬は、比較的穏やかではあったが、風が冷たく大地が眠る季節であることには変わりない。花は枯れ、どこか寂しげな静寂を漂わせる庭園を見ると、悲しい気持ちを覚えていたのだ。だから、春が待ち遠しかった。
静寂は、嫌いではない。
けれど、冬の静寂だけは、あまり好きではなかった。庭園が殆どの色彩を失ってしまうことも寂しかったのだが、それが理由の全てであるかどうかは、わからない。とにかく、漠然と好きにはなれなかった。
女神ユンヌの元へ集った戦士達の第三部隊は最も「混成軍」の様相を呈しており、隊率いるフェニキス王は武勇のみならかの黒竜王にも匹敵すると噂の人物でもある。ゆえにその行軍は幾多の戦いを経ることで、決して交わることもなく分かりあえぬであろうと女神アルタルテその人にも言わせしめたベオクとラグズの両種族も、やがてどこかでぎこちなく、お互いというものを認め合えるようになってきていた。
今、エリンシアの側に座っている、静寂そのものであるような人とその生母を除いては。
ほう、と小さなため息を、吐く。
「私は、この静けさは、あまり好きでは、ないのです」
ようやく口に出来た言葉は、そんなものだった。
それまでの沈黙が長すぎた気もするし、元はといえば、エリンシアが望んだことだった。そして、それを承諾してくれた相手に対し、しばらくの間まったく言葉を口にすることなく己の思考に没しているのは礼を欠く行為であるとは承知しながらも、相手もどこかで同じような思いをしていたのだろう、殊更苛立つ風でもなく、言うべき言葉きっかけを探りつつ沈黙をよしとしているようにも思えた。
その、互いの間の必要性のある静寂自体は、そう不快なものではなかったのだ。
「己というものの根元を、あらゆるところから否定されれば、快く思える者などはいないでしょう。例えば、鷹王はひどくいきり立っています。ラグズは個人差はあれ、何れも」
静寂が息をしている――—そう、最初にエリンシアに思わせたその青年は、やはりひどく静かに言葉を紡いだ。そういえば、彼の詠唱以外の声を、言葉をまともに聞いたのは、これが初めてかもしれない。
「いえ、あの…」
「冗談です。貴女が神学的な、あるいは哲学的な答えをお望みでないことくらいは、承知していました。この静寂は人の心をひどく孤独にします。それは何も、季節に由来する空気の冷たさだけでは、ありません」
あぁ、これもそういう類の回答になってしまいますね。自らそう付け加えながら、青年は力なく微笑んだ。言葉は滑らかで、だのにやはり存在感はひっそりと、この世界を包んでいる静寂にとけ込んでいるように思える。
その、初めて見る笑みは、エリンシアの胸をひしと締め付けた。同時に、何度目かの疑問が首をもたげていた。
本当に、この青年があの――祖国を滅ぼしかけた、あの男・アシュナードの血を、引いているのだろうか。
確かに、女神の使徒らと激しい戦いを繰り広げるその姿、戦いぶりの苛烈さは印象的だが、それはあれら記憶に生々しい戦姿とは質の違うものだ、とエリンシアは断言出来た。
あり余る力全てでもって、あらゆる者を憎み、破壊せんとしたあの「狂王」とは違う。この青年は、死なない為に死線ギリギリの所で戦っている――その、命を全く省みずに。
本来ならば、魔道の遣い手は後方支援に専念し、あるいは剣士や戦士らの死角から、彼らを補佐するのが役目である。それにも関わらず、彼は当たり前のように前線に姿を現し、当たり前のように力をふるう。主の身を案じる騎士が何度も押しとどめようとしているところを――或いは、彼の母が必死にそれを止めようとしているところを、エリンシアは何度か目撃していた。
彼は当たり前のように前線で、そのベオクにしては希有な力を当然のように、ふるう。隊をまとめるべきティバーンはいつの間にかその魔道の力を認め、彼を戦士として扱っていた。
「デインの冬は、とても厳しいのです。ネヴァサでも、貴賎を問わず毎年多くの死者が出ます。それでも、この冷たい静寂よりは、ずっと穏やかです」
すっと耳に馴染む声のそれは、エリンシアのとりとめのない思考を中断させるほどにどこかに誇らしげなものだった。
何故なのか、エリンシアにはわからない。誇れるような言葉でもないだろうに、それでも「祖国」を語る彼の表情は、やはり先ほどのものとは違っていた。不思議に思い、不躾にその面を見つめるエリンシアに、青年は再び笑みを深めた。
「クリミア女王エリンシア殿。雪が溶ければ…どうなると、思われますか」
「雪が…」
唐突な、謎かけ。エリンシアは一瞬、質問の意図をつかみ損ねた。
「……雪は、溶ければ、水になります」
エリンシアの言葉に、青年は突然弾けたように笑いだす。
謎かけ同様に唐突な行動にエリンシアは唖然とするも――やはり、不愉快ではなかった。心の底から楽しげに――まるで、小さな子供のように笑っているからだった。
「何か、おかしなことを…言ってしまったでしょうか」
それでも、何故彼が「楽しそう」に笑っているのか見当もつかないエリンシアは、困惑したように頭を振る。
「春に、なるんですよ」
「春、に……?」
「雪が溶ければ春になる。タウロニオ将軍やツイハークに同じことを聞いてみて下さい。きっと、そう答えます」
そこで、エリンシアは合点がゆく。デインの冬は、クリミアでは想像が出来ぬほど過酷なものであった。たった一度のあの行軍。ベグニオン帝国より十分な物資を借り受けてもなお、激しい吹雪と凍り付くような空気と大地の記憶は、失われてはいない。デインとはかくも過酷な土地であったのかと、そして、故にあの王は豊穣なクリミアの土地を本当は欲していたのではないかと、チラと考えたこともあった。
「あぁ…わかりました。デインは、雪深い国でしたものね」
青年は、穏やかな笑みをたたえたまま頷いた。その様はあまりにも嬉しそうで、エリンシアは思わず頬を緩めてしまう。そこに、緊張感などはなかった。
クリミア女王とデイン王、その二人がこうして隣り合わせているにも関わらず、そこにある空気は元から決して緊迫するようなそれではなかった。
しかし改めて考えれば互いに仇同士である。エリンシアはデイン軍の奇襲で多くの将兵を失っていたし、同様にペレアスも先の戦今度の戦で父王を始めとした多くを失っている。互いに、憎しみ合い罵りあっていたとしても、不思議ではない。
けれども、両者ともそうはしなかった。
エリンシアにしてみれば、新生デイン王国は仇と見るべき相手ではなく、手を取り合うべき相手と考えていた。ユリシーズの報告を受けるでもなく、自分自身の考えとして。憎しみに対し憎しみで返すべからず、そうエリンシアの目の前で態度で示した者が――セリノスの白鷺兄妹がいたからに、他ならない。彼らの存在の尊さ、純粋さに、エリンシアはひどく心を動かされた。そして、ベグニオン帝国の支配の酷さと、そこから立ち上がったデインの民の強かさは、憎しみの眼でもって見るべきではない、と強く思ったのだ。当然のように、それは正しき人の営みに思えた。三年前、同じようにして祖国を取り戻したエリンシアは、デインという国そのものを父の仇、祖国の敵などと、そのようには、思えなかったのだ。
「春は、来ます」
断言する口調は、揺るぎない。その瞳はとても遠く、ここではない場所を見ているかのようだ。
この、デイン王ペレアスという人は、不思議な方だ。
エリンシアは思う。凪の湖面のように静かで穏やかで、けれど時折鋭い、そしてひどく冷たい怒りを垣間見せもする。卑下してはいるが、その魔道の腕前は、あのユリシーズに匹敵するか或いは――最もあの道化を知るルキノに、そう言わせるほど。かと思えば司祭位以上のの者のみに扱いを許さている、高位の聖杖をあっさり使いこなす。
懐が深いのか浅いのか、判断は出来ないのだが、途方もない何かを持っているようにも見えるし、かと思えばその存在感自体はティバーンが揶揄るのも無理はない、というほど頼りない。闇魔道を使うと聞いたとき、そして目の当たりにした時に、エリンシアは思ったほど衝撃を受けなかった。禁忌とされているものを易々と扱い、当たり前のように面を晒し、無傷でいられる――そこに、疑問を抱かないわけではないのだが、この青年を見ていると何故か納得してしまうのだ。
底の知れなさが同居しているくせ希薄な存在感は、闇精を得た代償なのだろう。エリンシアの魔道的知識では、そのあたりの理解が限界だったが、間違えているとは思わない。
やはり、不思議だった。憎しみの感情を持ってもおかしくない相手。にも関わらず、何故だろう、エリンシアはペレアスを憎もう、などとは一度も思わなかった。そういう感情が全く沸かない、どころか、言葉を交わす必要性を強く感じていた。立場上も、必要であったのだが、そういうことではなかった。
「ペレアス王。私は、あなたとは、もっと違う形で…最初に言葉を交わしたかった。そう、思います」
エリンシアの言葉に、青年の表情は笑みを潜め真摯なものへと変じた。
何度かの瞬きは、エリンシアの言葉を肯定しているように、思えた。
「あのような…いえ、過ぎたことを言うのはよしましょう。互いに、不幸であったと」
「ええ。不幸でした。本来、憎しみを持ってすべき相手ではないと、私も思っておりました」
返すペレアスの言葉に、エリンシアは息を呑んだ。
この方も、私と同じ事を考えていた。そう、だから…だからこそ。
「それでも、春は来ます」
「……雪が、溶ければ」
「クリミア王国騎士団、深紅の騎士。名は確か…ケビンという、とても優れた武勇の持ち主であると」
「彼を、ご存知だったのですか?!」
「直接ではありませんが、騎士タウロニオや騎士ジルから、何度もその名や戦ぶり、人となりを聞かされていましたから。一目で分かりました。よく、乗りこなしてくれています」
それは追従の笑みでもなければ愛想笑いでもない。そこで、エリンシアははたと気づく。この、ペレアスという青年は王族然としたところが全くないのだ。帝王学を学んではいない、そういうこととはまた違う。立ち居振る舞い、ふとした仕草や人に対する態度などが「人を統べるもの」とはまた違うのだ。
良く言えば親しみやすく、悪く言えば威厳がない。言葉の強さはあるが、それこそあのユリシーズに近い、学識者の類のものだ。先ほどから何度も頭を掠める、あの優れた道化宰相とこの青年が何故か印象が被ってしまう。
それでも、この青年はデイン王であることは間違いがない。おそらくは、ただ一人取り残されたとしても、最期の瞬間まで、祖国のため彼は膝をつくまい。彼の戦いぶりを何度も目の当たりにしているエリンシアは理屈抜きでそう思う。
その、どこに潜んでいるのか分からぬ強い祖国への想いというものは、エリンシアには馴染みのないものだ。もちろん、祖国に対する愛はある。一度は投げだそうとすら思った王位を、今は誇りに思う。だが、違うのだ。この青年の想いというものは、他人がおいそれと推し測ってよいようなものではない。
「…彼は、ケビンは、とても…喜んでおりました。騎士の誉れ、とまで言って」
痩身の青年に対する詮索をよし、エリンシアはそう遠くもない過去を思い出していた。クリミア王国騎士団の副官を務めている騎士ケビン。彼は、デインより「親好の証」として預かったマラド地方産の駿馬を賜った瞬間、少年のように目を輝かせていたという。わざわざ謁見まで申し出て来たその喜びようといったら、丁度フェリーレ候反乱鎮圧をようやく終えたエリンシアにとって数少ない安らかな喜びを感じられる記憶だった。
そう。あの頃はまさか、あのような不幸を互いが被るなど、思いも寄らなかった。
新生デイン王国とは互いに益ある関係を作り、末永く続く交流を。先にそう望んだのはエリンシアであったし、少なくともデインからそのような申し出は出来ない。だから、先に女王陛下が懐の深いところを見せてやれば、デイン王国は我が国と「それなりに」友好的な関係を築かねばならなくなりましょう。含みのあるユリシーズの物言いではあったが、もとよりそのつもりであったエリンシアは、かの宰相が旅立つ前、彼に全てを任せたのだった。
「嬉しいことです。不幸はありました、けれど、彼のような騎士がいてくれる。それは、クリミアにとっても、デインにとっても、幸福な事です」
騎士ケビンは騎士団長ジョフレの不在の折りに何かあっては、と半ば無理矢理にエリンシアが所属するティバーン隊に何名かを巻き添えに入り込んでいた。確か、顔合わせの時に軽く紹介くらいならした記憶はある。だが、まさかそこまでペレアスが他国の事情や人物についてしっかりと認識している、とは思っていなかった。
聞こえてくる風評は彼を謗るものばかりであったが――やはり、ユリシーズの言葉は、正しかった。
「綺麗事かもしれません。けれど綺麗事も、時には必要です」
やはり、静かな声で青年は歌うように語る。まるで、詩人が吟じる物語を聞いているようだ。けれども彼が語る言葉は物語ではなく、現実のものである。その現実感は、確かなものだ。
だからこそ、エリンシアはペレアスの語る言葉を重いものだと、そう受け止めていた。
「きっと、それで良いのです。せめて、今は、私たちのような立場の人間は」
瞼を落とし、静かに息を吐いた。理想だ。けれど理想なくしては、あの謀反を起こしたフェリーレ候ルドベックと何が違うのだろう。理想という大義を掲げながら、その理想はただ他者を利用する方便であり、結局は己の野心に殉じた、あの男と、一体何が。
「デイン王ペレアス殿。貴方と言葉を交わせて、本当に良かった」
エリンシアは瞼をあげ、隣の青年を真っ直ぐに見た。敵意もない。何かを理解させようという傲慢さもない。そういうこの若き王のことを、エリンシアはひどく好意的に見ていた。今でもそうだ。「好きになれる」何度か言葉を交わしただけでそう思える王を、エリンシアはガリア王カイネギス以外に知らない。共に戦うべき人としてフェニキス王は信頼出来るが、一国の王として見ると些か違った感想を、エリンシアは持っていた。
「デインとクリミア、全く別のようでとても似ている国。私の宰相を務めている男の言葉です。けれど、私はこの言葉を、今、とても好きになっています」
「この戦いも、そしてその先も…きっと、デインとクリミアはうまくやっていける。それは互いに決して楽な道ではなくとも、いつか、手を取り合えると、私は信じます」
エリンシアの言葉に応じるようにペレアスは言う。思想も信念も、酷く違う。歴史的に見ても友好的であったとは言い難い。それでも、二つの国には共通点が一つだけあった。「ベグニオン帝国の支配を断ち切りたい」その、建国当初からの悲願のようなものである。特にその傾向が強いのはデインであったが、クリミア王国がベグニオンに順応であるかといえば、そういうわけではない。その証拠にクリミア王国の文化はベグニオン帝国とはかなり異なっているし、デイン程ではないが言葉もベグニオン帝国と袂を分かってより変じている。
今の皇帝神使は二カ国に対し真摯な態度こそ示しているが、それとてどこまで信用出来るかわからない。何より、あの幼き皇帝は、力がなさすぎるのだ。
「信じましょう。お互いの祖国とそこに生きる民の、ささやかな幸福ために」
ペレアスは歯切れの良い答えを返し、しっかりと頷く。
「雪解けの後、春は、必ず来ます」
何度も同じ言葉を繰り返し断言するその姿は、静寂の中にひっそりと佇む存在感を持つ青年ではなかった。
そこには、はっきりとした意志を持つ一人の青年がいる。目の前で全兵士が石にされて、それでもなお民は生きている、そう断言出来る深い色の瞳は生き生きと輝き、どこか他人を圧倒する強さがあった。
ああ、この人は。ただ、それだけのために戦い、生きようとしているのだ。
だから、強い。そして、揺るぎない。
胸中にふと湧き出てくる憧憬のような感情とともに、エリンシアは柔らかな印象の青年の面を、眩しげに見つめ目を細めた。
騎士タウロニオは、久方ぶりに酒を味わっていた。暖かな炎、公人としてではなく私人として語らいの出来る場に、酸味と甘みが程好く交じり合うクリミア産果実酒。デイン特産の火酒に比べれば酒の類ではないが、口当たり良くそして適度に酔える。そういう酒を、タウロニオは特に好むわけではなかったが、嫌いでもなかった。
戦は、小康状態だった。夜半であれば急襲がないという保障はどこにもなかったが、張り詰めてばかりいては疲れるだろう。そう言い、自ら視察に出かけたフェニキスは鷹王本人だった。第三部隊を率いる豪放な鷹ラグズ王が伴っていた人物のことを、タウロニオはあえて己の思考の外に置いておいた。そうでなければ、酒の味など味わえない。どれ程な美酒であろうと、たちまち味も香りもなくなり、酩酊の心地を忘れてしまうだろう。一瞬落ちかけた思考を、タウロニオは談笑の場に戻した。
部隊の面々は、一箇所に寄り添うように集っていた——それは、クリミア女王の発案だった。いつどこからともなく現れる女神アスタルテの使徒に的確に対応することなど、ほぼ不可能。せめて分散せず集い、各個撃破されぬように。それは確固たる信念が伺える、凛とした物言いだった。
デイン王国出身の者は、この部隊にも少なくはない。現国王ペレアス、そしてデイン王国軍の実質総大将であり将帥でもあるタウロニオ旗下の者は殆どがこの隊に属している。民間のゲリラ組織暁の団の面々も幾人か、見ていた。
互いに最早歩み寄るすべなどはない、そのような戦いの最中の唐突な出来事により、そして突如復活し理不尽とも言えるような仕打ちを施した女神アスタルテの一方的ともいえる蹂躙じみた行為のお陰で、一時休戦、協力すべしという結論が、各国元首の緊急協議により強引にまとめられた。そこに、もう一人の女神の存在があったことは、いうまでもない。
「なんかさ、俺が思うに、固いっ!っていうカンジが、しすぎるんだよね、あんたたち」
杯を高々と掲げ、自ら膝を打ちながら熱い口調で語る男マカロフは、加えて大仰な動作でタウロニオに向けて人差し指を立て、左右に振って見せた。その顔はすっかり朱に染まり、吐息は完全に酒気を帯びている。
「ちょっとっ、兄さん!」
慌てて天馬騎士マーシャがそのだらしない素振りを嗜めるが、妹の諫言がまったく耳に入らぬのか、再び傍で穏やかな笑みを浮かべている淑女より注がれた酒を味わい、喉を鳴らしていた。
「す、すみませんタウロニオ将軍…この人の言うこと、あんまり気にしないでくださいね」
ペコリと頭を下げる様子は、だらしない兄の尻拭いにこなれたしっかり者の妹、という風情だ。騎士とはいえ、彼女の兄マカロフも、そして彼女自身もそう堅苦しい様子はあまりない。これで、元ベグニオン騎士団に属していたというのだから、それはタウロニオにしてみるとやや意外に思えた。あそこの——特に聖天馬騎士団の規律の厳しさは、他国にも有名であった。
「いいや。マカロフ殿、いま少し、そなたの話を聞こう」
「わ、物好きー」
マーシャがこそりとステラに囁くが、そんな様子すら心地よくタウロニオの目には映る。
「うーん、と、この場合……いや、俺はね、だから、騎士だとか何とかいったって、ジョフレ将軍みたいなのもいれば、ケビン隊長みたいのもいて、んで、最下層に俺みたいのみるから、どーでもいいんじゃないのかって」
「兄さん……自分が駄目だって、自覚はあるのよね……ハァ」
二人の緊張感のなさは、実は何もこういう場だからというわけではない。いつでもどこでも、この二人はそうなのだ。たとえ戦場でも気楽さを失わない。ある意味では、強いのだ、この兄妹は。
「以前も思ったのだが、クリミアとは…どこかで開放的な国なのだな。奔放で、そして穏やかだ」
「あ!それは、わかりますよ。私たちも、ベグニオンから移住して、最初にびっくりしたのが、そこでした。貴族のお偉方はちょーと勘弁、ってカンジなんですけど、基本的に良い意味で適当なんですよね」
「そうそう、だーから俺もついつい…」
「兄さんがカリルさんの店や他でツケたまりまくってるのは、ぜんっぜん別の話」
「まぁ、俺みたいなゆるいヤツじゃあ、デイン王国軍騎士団なんか逆立ちしたって務まらないだろうけどさ、つまり、なんだ、そればっかでも駄目なんじゃないの?」
「ふむ、貴殿にそのように言われると、どこか成程と思える」
「えっ、タウロニオ殿って真顔で冗談言うようなタイプでしたっけ?」
「おいおいマーシャ、お前のほうがよっぽど失礼だって」
ごめんなさい、と小声でマーシャは呟き、手のひらをふりながら自らも果実酒の入った杯に口をつける。
そういうマーシャの仕草や、マカロフの言葉を、タウロニオはやはり心地よく感じる。
「でもなんか、こうしていろんな国の人たちと一緒にいるって、懐かしいなー。なんか、前に戻ったみたい」
マーシャは、タウロニオも記憶しているあっけらかんとした笑みで、笑った。彼女の笑顔は、晴天のクリミアの空のように穏やかで明快だ。隣では、マカロフがヘラヘラと情けない顔をしていた。
「前のように、か……」
彼女の言う「前」とは、あのデイン—クリミア戦争のことを指している。主として、タウロニオが己の信念からただ一人見切りをつけた狂王アシュナード。かの戦いでタウロニオは祖国を裏切り、友を失い、主君を亡くした。それでも、あの一時の事をタウロニオは後悔はしていない。
「前のように、も何も、だって何も変わってないだろ?俺の借金癖とか、お前の小言とかさ〜」
「兄さんて、たまに、感心するくらい、感動的に、馬鹿よね。ていうか、お、お、ば、か、よね」
「マカロフ様はご立派ですわ。件の叛乱軍討伐の折も、クルベア候配下の正規軍相手の折も、私、何度も助けられましたもの。私が今こうして、生きて皆様と言葉を交わせるのは、マカロフ様がいらっしゃるからに他なりません!」
唐突に会話の輪に加わるステラの顔が上気しているのは、間違いなくマカロフが理由だろう。
己のことは兎も角として、こうした人の感情の機微というものに対し、意外にタウロニオは繊細だった。もっともかつてはそのような心配りなどは必要のないもの、などと思っていた時期があり、代償としてかけがえのないものを失った結果の経験論的な側面は、自身でも否めない。
そういう懐かしげな感傷を思い起こさせるほど、このクリミア王国にそれぞれ籍を置きかつ部下を従えている各々の将らのやりとりというのは、ざっくばらんであり、そしてどこか温もりを感じさせるものであった。この静寂を切るような闇夜の中の篝火と同様に、あたかかく、やわらかい。
「え、あー…あ、うん、まあ、そゆことに…しと、く…?」
「何だよマーシャ、俺の顔がそんなに不細工か」
マーシャとマカロフの、一見似ても似つかない兄妹のやりとりは、酔いも入ってか収集がつかなくなりつつある。そこに時折ステラが言葉を挟み、マーシャは嘆息する。
マカロフが笑い、タウロニオに酒を差し出す。受け取った酒は、美味かった。甘く、香りよく、するりと喉を通り程よい酩酊を運ぶ。タウロニオは、どこかで彼らをうらやましい、と思っていた。
「あっ、そうだ、タウロニオ将軍、これ!」
唐突にマーシャが背後をごそごそと探り出し、一振りの杖を取り出した。
ぱちぱちと弾ける焚き火の明かりを頼りに、タウロニオはそれを受け取る。重くもなくも軽くもない——武人であるタウロニオにはあまり馴染みのない素材で出来たそれは、おそらくはそれなりに高級なものだ。聖杖についてそう詳しくはないのだが、最低限の知識として見分けや効用、価値くらいはわかる。
「それ、デイン王にって、エリンシア様が下さったんです、わ、忘れてたんじゃないんですけど…ごめんなさい!」
「……クリミア女王が、陛下にと……?」
「あ、は、はい。だって、私たちの部隊って聖杖扱える人、エリンシア様の他にカリルさんしかいないじゃないですか」
確かに、鷹王率いる第三部隊はラグズが多く、ゆえに戦闘能力は他の二隊と比べても突出している。ただし、聖杖の扱い手―つまりは癒し手が極端に少なかった。
しかし、マーシャは何を言っているのか、とタウロニオは思う。確かにペレアスは魔道、それも稀少な闇魔道の使い手ではあるが、聖杖は扱えないはずである。根本的に魔道と聖杖は扱う理屈が違う、という話は過去何度も魔道将らから聞いている。
「…だが、我が王は…」
「えっ?…あれ、知らなかったの?俺、こないだデイン王に傷治してもらったぜ?」
「そうそう、兄さんたらステラさんにかっこいいとこ見せるんだぜ、ってばっかみたいに突っ込んでって…」
「わぁああ、マーシャ、思い出させるな!思い出すだけでも痛いから!」
「ほんと、もうこりゃ死んだかなーと思ったんですけど、デイン王が側にいてくださったおかげで、とおっても残念な事に…バカも直らないまま生き延びてます」
「マーシャ……あのな、まるで俺が死んだ方がいいみたいなこと言うな」
「兄さんの借金癖とバカが治るなら、五回くらい死んだほういいわよ」
二人の兄妹の軽快なやりとりも、彼らを諌めるステラの声も、どこか遠かった。
一体ペレアスは何時の間に、そのような事が出来るようになったのか。
そうでなくとも近頃は——そう、あの忌々しきかつての臣と再会してからこちら、ペレアスはタウロニオと意識的に距離を置いているように思えた。
そしてタウロニオもまた、そんなペレアスにどう接してよいものか判らず、最低限の身辺の警護のみに終始していた。
戦いになれば、ペレアスは望んで自らを死線に晒す。その事を、誰よりもタウロニオは良く知っていた。あの若き王の苦悩を最も近くで見守ってきているという自負はどこかにある。そう、ペレアスに執着とも言えるような愛情を注ぐアムリタよりも。戦場で、王宮で、場を問わず、タウロニオは若き王ペレアスに対し多くを教えてきていたし、また教えを乞われてもいた。自らの無知を恥じるペレアスを叱咤し、励まし、見守り続けてきていた。
だが、そんなペレアスを今守っているのは、己ではなくマラド騎士フリーダや傭兵剣士ツイハークだ。
「これ、ちゃんと渡してくださいね?さっきも言いましたけど、私たち、戦い得意な人はたくさんいても、傷を治せる人少ないんですから!」
「そうだなあ、しかも『当たらなければどうってことはない』とかフェニキス連中なんか言って、ふっつーに弓兵相手に突っ込むしな…」
なおもタウロニオが躊躇うように三人のクリミア騎士を伺うと、マーシャは彼女らしい満面の笑みを、マカロフはどこか照れくさそうにそっぽを向きながら、そしてステラは花がほころぶような微笑を、それぞれタウロニオに向けてきた。
「タウロニオ将軍、ちゃんと、向き合ってあげてください。きっと、デイン王、ペレアス様も…応えてくれますよ」
「……マーシャ、そなた」
タウロニオの声にある湿っぽさを感じ取ったのか、慌てたようにマーシャは顔の前で両手をばたばたと振り、あははと笑ってみせる。
「あっ、えっとそのっ、あれですっ、あれあれ、ほら私って駄目兄貴の面倒ずうっと見てたじゃないですか!その分要らん苦労とかもしてきてて…だから、なんとなく、こう……ちょっとだけ、他人の余計なトコロが見えちゃったりすること、あるんです。余計なおせっかいかもしれないんですけど…」
「お前な」
「マーシャ様のそういうところは、素敵だと思います。とても」
「え、えへへ、あはっ、そ、そう?」
心の奥底に、ほんのりと暖かなものが、灯る。フッと小さく嘆息し、タウロニオは目線をあげた。
「すまぬな、いや………感謝する。マーシャ殿、マカロフ殿、ステラ殿」
改めて、渡された聖杖を握りなおす。これは遠方の仲間も治癒出来るという、基本的には司祭階級以上のものにしか携えることを許されていないものだ。当然だが値は張るし、教会に認められたものでなければ扱えない。
そのような貴重品を、クリミア女王エリンシアは惜しげもなく、かつての敵国の王へと送る。そういう度量の深さと優しさが彼女らしい、と、あのたおやかな笑みを浮かべる女性を思い出しながらタウロニオは小さく顔を綻ばせた。
「クリミア女王にも、後ほどお礼に参ろう…陛下と共に」
あくまでも生真面目に騎士は言う。すると、今度は突然マカロフが噴出した。
「…ちょっとっ、兄さん!この期に及んで…!!」
「い、いや、だってさ……将軍の物言い、まるで父親だろ?あ、いや、おかしいってんじゃなく、な?」
「……どうだか…ほんっと失礼なんだから…!って、あれ?タウロニオ将軍??」
「いや、いや、…よい。……マカロフ殿の言う通りなのだ。わしは、陛下を陛下と敬いながら、…どこかで、息子を重ねていた」
わかってはいた。だが、自覚したくはなかった。だから、どのように接してよいのかが判らなくなっていたのだ。
再び、失うのではないか。
再び、その手は離れてしまうのではないか。
再び、あの、侮蔑するような…他人を見るような眼差しを向けられるのではないか。
かつて妻と子を、己の甲斐性のなさで失った。今彼らは遠く離れたクリミアの地に根付いている。
それは、すべてタウロニオの灰色の過去の記憶だ。あえて封じ、忘れたふりをしていた、タウロニオという男の人生におけるただひとつの、致命的な間違い。そういう——絡めてはならぬ感情をペレアスに対して抱き、己の役目をすっかりと忘れてしまっていた。
とすれば己は、父としても不適格であろう。
子から逃げ、腫れ物に触るように接しているのでは、互いの信頼なぞ望みうるべくもない。
「ふーん。まぁさ、それならそれでいいんじゃない?あの王様、結構寂しそうだし」
なんてことない、と言わんばかりのマカロフの言葉にタウロニオははっとなった。
慌てるようにそののんびりとした表情の男を見ると、やはりのんびりとした調子でマカロフは表情を緩める。
「……そなたらは、失礼だが似ても似つかぬと思っていた、だが…やはり、兄妹だな」
タウロニオの言葉に、マカロフとマーシャは互いに顔を見合わせ、同じようになんとも形容のしがたい表情を作る。その様がまたそっくりで、タウロニオとステラは小さな笑みを漏らした。
手渡された杖は、予想以上に重たかった。
——ちゃんと、渡してくださいね。女王陛下からお預かりした、大切なものなんですから!
溌剌とした声が脳裏に蘇り、タウロニオは苦笑する。確かに、手渡さねばクリミア女王に対し礼を欠くことになる。第一、迷う理由などはないのだ。
頼まれたものを、ただ渡すだけではないか。
あの時に自覚した、浅はかで身勝手な感情。一度は失ったものを、再び手にしたいという欲。忠節ある騎士として側仕えしているつもりではあったが、どこからずれてしまったのだろう。自分は一体、何を見ていたのか。
世界を支配する静寂は、一人の老将の思考の邪魔をするつもりなどはまったくないように、平面的な静けさを維持し続けている。
小休止中である。とはいえ、いつ敵が襲ってくるかはわからない。だからフェニキス王ティバーンと共に付近の偵察に赴いた主は、もう少しすれば戻ってくるだろう。
そもそもティバーンがペレアスを連れ出した理由も、タウロニオはよくわからなかった。というより、思考することを感情が拒絶するのだ。かつての恩師イズカに自ら手を下してから、無意識に距離を置いていたこともある。ペレアス自身が、タウロニオやツイハークといった馴染んだ配下よりも、フェニキス王やセリノス王子、ガリアのライといった他国の——とりわけラグズと共に在ろうしている節があった。ラグズという種を理解したい——祖国解放の折、ラグズ奴隷解放軍やハタリの女王らと出会い、言葉を交わしてからペレアスは事あるごとにタウロニオにそう漏らしていた、だから、不思議ではない。
避けるに必要な理由を、やはり自ずと探している。その事をようやく自覚し、タウロニオは一瞬自嘲の笑みを浮かべた。
ふと影が頭上を過ぎる。大きな羽音が耳に届き、続けざま影が飛来した。見事な深い緑色の翼を広げ、大鷹が舞い降りる。ぶわっと細かな雪が飛び散り、一瞬視界を白く閉ざした。一呼吸置いて、その背から痩身の人物が雪上に降り立つ。とっさに、タウロニオは背筋をただした。
「よう、お前さんところの王を返すぜ。ま、偵察の相棒としちゃあ最悪に近いがな、まるきり役立たずというわけでもない」
相変わらず傲慢な口調で、フェニキス王は笑っている。いつの間にか人の姿に戻っていても、その猛禽のまなざしだけは変わらないようだ。
「王、ご無事で…」
「鷹王がついているんだ、テリウス一頼もしい護衛がついているようなものだ」
「おっと、わかってるなペレアス。あれは、リュシオンの前でも口にするんじゃあないぞ」
「また無茶を言われますね。鷺の民の前で隠し事をしろなどと」
「お前なら朝飯前だろう。まったく、クリミアの道化狸より食わせ者の癖によく言う」
二人の王が並び言葉を交わす様子は、あまりにも違和感がなかった。だからこそ――タウロニオは強い違和感を抱いた。あの、フェニキス王と、並び立っている。当たり前のように言葉を交わしている。
「タウロニオ、どうかしたのか」
見れば、ペレアスは僅かに眉を顰めながらこちらを伺っている。巧く言葉を口に出来ないタウロニオを眺め、その視線が騎士の手元に来て、止まった。
「…聖杖か?なぜ、そのようなものを」
「クリミア女王より、陛下へと…」
「エリンシア殿が?何故、また」
「いえ、直接私が預かったわけではないのです」
主従の会話の邪魔をせぬようにとでも思ったのか、ティバーンはペレアスに向かい軽く手を挙げてみせ、飛び立った。ペレアスも一言二言何かを告げ、意識をすぐさま騎士に向ける。
そして、ふた呼吸ほど考え込んだ後、ようやく聖杖を手に取った。
「そうか」
言葉はそこで途切れた。
何を考えているのかは、あまり他人には悟らせない王である。以前はそれでもなんとなく察することは出来たのだが、ここ半年ほどは殆ど内心というものを、表に現さなくなっていた。
「陛下?」
「ああ。礼を、いわねばならないだろう。このような高位の聖杖は貴重だ」
その素振りは、いつもの、主君である。言葉と態度が硬いのはここ最近の常であるし、特に疲労している様子もない。
だが、どこかでひっかかる。タウロニオは改めてその姿を注視する。手に取った聖杖を検分するように眺めている。特に、何かが変わっているようにも思えない。
けれども、何か。
「昔は、聖杖を使いたくとも使えなかった…それでも、必死に祈りと聖句は覚えたんだ。お師様はそれを止めなかった。まさか、こんな形で役に立つとは思わなかった」
ペレアスの表情が、ふと緩む。聖杖を眺める視線も、柔らかい。タウロニオは沈黙したまま、主君の言葉に耳を傾けた。
「自分でも、最初は驚いた。どんなに努力をしても、初歩の聖杖ですら祈りに応えることはなかったのに」
ペレアスが己の過去を語るということは、ほぼなかった。孤児院で育った、魔道を教わった師が義理の親であり、一筋縄ではない人物である——タウロニオが知ることといえば、その程度だ。
「フェニキス王の目―ヤナフが、戦いの最中に『魔道使いは貴重だ』と言って寄越したんだ」
そうしてペレアスが見せるように差し出した手のひらには、輝きを失った金属片のようなものがある。『マスタークラウン』——ベオクの力を最大限に引き出すという、その名の通り王冠を模したような形の秘宝であった。
ノクスでの戦いの直前に、王とミカヤより手渡されたものと、同様であった。両者とも言葉を変えながら「デインを最後まで守ってほしい」というようなことをいい、秘宝をタウロニオに託した。他にも幾人かこの秘宝を受け取ったものがある。
輝きを失っているのは、その効力を喪失したからだ。つまり、ペレアスはそれを使ったということになる。
「まさか、自分でこれを使うことになるとは思わなかった。デインには優れた戦士も、魔道使いも沢山いる」
それは謙遜だ、とタウロニオは思う。だが、口には出さなかった。そもそもデインには魔道に秀でている者が他国に比べ少ないし、ペレアスが扱う魔道は並の者では扱うことすら不可能な類のものだ。僅かの経験と短期間のうちに目覚ましい成長を遂げたその力の程度は、ティバーンですら認めている。タウロニオも長く軍人をやっているが、これほど短期間で『戦慣れ』し、本来の力を発揮出来る者はそう多くはない――少なくとも、ベオクは。つまり、ペレアスは魔法に関して、しかも戦う為の魔道に関しては天才的なのだ。
そもそも、魔道はその力を得ようとする場合、修得を望む者が明確な目的意識を持っていなければならない。そして更に先天的素質が必要であるし、それがない者はどれほど理屈を学んだとしても生涯魔道を修得することは不可能である—将として全軍を率いるべき立場のタウロニオは、自らそれを扱わぬまでも、魔道というものに対する最低限の知識はあった。
戦の呼吸、動き、覚悟、全てにおいて並の将では太刀打ちできまい。何人もの魔道将を知るタウロニオは、経験的にペレアスのそしつ及び力が並大抵ではないと悟っていた。
だからこそ、フェニキス王側近もペレアスに『秘宝』を迷わず手渡したのだろう。
「……陛下」
思わず呼びかけていた。ペレアスの面があがり、タウロニオを一瞥する。
こうしていれば、以前とそう変わった風には見えない。けれど決定的な違和感は拭えない。
何かが違う。そこまではわかった。
だがそこから先は、立ち入ってよいようなものではない。だからこそ、タウロニオは自ら思考を閉ざしていた――己の過去を、封じつづけていたように。
「一体、何におびえていたのだろうな」
それはまるで、己に言われているような気がして、タウロニオは唇を噛んだ。怯え——そうだ、怯えている。今、こうしている最中も。この、若き王と向き合うことに、怯え続けている。クリミアの騎士らにはああは言ったが、やはり、恐ろしい。
タウロニオの内心を知ってか知らずか。ペレアスの表情はどことなく和らいでいた。まるで、以前の「王子」であった頃のように。
「力をふるうこと、戦う事、立ち向かうこと。一歩踏み出してしまえば、そう、困難なものではなかった。けれど、以前はそれがとてつもなく困難で成しがたいもので、恐れを伴うと信じ込んでいた」
ペレアスは目を逸らさず、じっと騎士を見ていた。洞察力や人に対する観察眼は、以前よりこちらが驚く事も度々であった。老将は結んだ唇を一度、噛みしめる。
「真実知ることも、また同じだ。知って後悔するりも、知らず過ごし罪を重ねることの方が、辛い…自ら命を危険に晒し、戦うことよりも、なお辛い」
苦しみながら言葉を吐き出しているようだ。けれども表情はそう変わらず、声色も感情がこもっているわけではない。けれど、ペレアスはひどく何かを後悔している、という風に見えた。
「この戦いの先にあるものは、無意味だ。けれど、その先もデインは在り続けるだろう。だから、その先のためには…死ぬわけにはいかない」
ひたと、双眸がタウロニオを見据えていた。貫かれるようだ、と思った。
「全ては、贖罪を生きる為だ」
「陛下。そのように…」
「いや、全ては王である私の責任だ。無益な戦を強要したことも、犠牲を出したことも、すべて、だ」
一切揺らぐ様子も見せず、ペレアスは断言した。抽象的な言葉ではあるが、タウロニオは王が何を言わんとしているかは、わかっていた。幾らでも言い訳は出来るし、そもそも現状でベグニオン帝国と事を構えることは出来ない、不可能といってよかった。それでも言うことを聞かねば、おそらく何らかの形で圧力をかけてきたことは目に見えていた。例え神使サナキがそれを望まずとも元老院は他国を踏みにじることをなんとも思ってはいない——だが、気休めの言葉などは、ペレアスにとっては無意味なのだ。そのことは、身をもって理解している。
「陛下、その御身、必ずお守りいたします。ですから」
言葉も、先ほど手にしていた杖と同様、重い。なかなか心の中にあるものを、口にすることが出来ない。
「ですから、あまり…己の判断のみで、動かれませぬよう。魔道の使い手は、一人で戦うものではありません」
「ああ」
違う。このようなことを、言いたいわけではない。そうではない。
だが、いざ口にしている言葉は、配下の将兵らに向けるようなものと、そう変わらない。己自身の心の内を口にするには、おそらく自分は年を取りすぎているのだ、とタウロニオは思った。
沈黙。冬の静寂が主従の間を包む。
ペレアスはタウロニオの知らぬところで「力」を得ていた。戦うため、生き残るためにと自ら忌避していた力を使い、戦うことを選んでいた。これは義務なのだ、と断言する姿が、十二代国王の若かりし頃と被った。あの王も、ひたすら王として真摯たらんと、最後まで振舞っていた人であった。
「タウロニオ」
声色が、変じた。ミカヤやツイハークがいたのなら「戻った」と言ったかもしれない。
「あなたは、デイン三代に渡って仕えてくれた将。だから、何があっても生き延びるんだ。これは、王命だ」
タウロニオの言葉を受けてのものなのだろうが、ノクス砦での戦いの前も、ペレアスは同様の事をタウロニオにそして配下の将兵に告げていた。
それを告げたのは「暁の巫女」ではなく王だった。そのことが、デイン兵の底力たりえたと、タウロニオは今でも思っている。
民を失い、命を削るその戦いぶりを評する者とてほとんどない。それでも、ペレアスは迷わず戦うことを受け入れた。だが、その強さが。
何の脈略もない唐突な言葉も、変じた声色も、どこか違和感のある態度も。
そして、「互いに」避けるような真似を、し続けていたことも。
以前ならばペレアスはこういう言い方を意図的に、巧妙に、避けていた。「王命」という言葉を使う場合は余程のことであった。
まして己の意志を「王命」などという言葉で取り繕うことはなかった。ノクス砦でも、ただ「生き延びてくれ」という意味の言葉を告げただけだ。
王の言葉に諾と答える前に、タウロニオは肺に冷たい空気を満たした。脳裏まで直接響くような冷たさが、意識を研ぎすませる。澄みすぎた空気は、胸中の霧を払ってくれるのだろうか
。
「陛下。ひとつ、よろしいでしょうか」
気付かれぬように、言葉とともに大きな息を吐き出していた。
王であらねばならない——そこに縋り付こうとする必死さが、危ういのだ。
「何だ」
「陛下は、…陛下であられますな。この戦いの先、デインに帰還しても、尚」
敢えてぼかした言い方をしたのだが、ペレアスの眼差しが一瞬、切先のように鋭くなる。その一瞬で、タウロニオは己の言葉の意図が伝わったことを悟る。
よほどの事情がない限り、一度王になったものが終生王であるのは、当然であった。だが、ペレアスの危うさは、その強さが王という立場に起因しており、こと王たらんと以前よりも格段に必死になっているところから感じられる――違和感の正体は、そこにあった。
そして、今までは打てば響くように言葉をつむいでいた口が、閉ざされる。表情に変化はないが、それだけで十分だった。
確信は、不器用で口下手な老いた騎士の口を、いくばくか饒舌にする。
「陛下は皆が生きているものと、強置く信じておられる。それは、この戦いの先を見越しての事なのでしょう。では、そこに、陛下の姿がなければ…唯の自己満足にほかなりますまい」
表情が、一瞬、強く揺らいだ。
やはりだ。原因はわからぬが、ペレアスはデイン国王という己の立場に対して不安と焦りを感じているのだ。罪悪感もあろう。だからこそ、固執する。しようする。そうしなければ王であることは出来ない、と言わんばかりの必死さで。
「同じ事を以前も申しましたが、もう一度言います。陛下のお言葉を借りるなら、民のために」
口は重い。心も、また重い。けれども、この重さは不愉快ではない。主君を認め、思えばこそ、言わねばならない言葉というものはある。かつて十二代目国王が即位したての頃、同世代だというのにそれなりに近しい間柄であったというだけで、タウロニオは随分と率直な言葉を吐いていた。それを、あの王は笑いながら受け止め、そして礼を言った。『お前の口はどうにもならんが、お前程の忠臣は得難いな』あの時は、深く意味を考えなかった。だがふと、思い出してみると、あの笑みは深い意味を持っていた気がする。
一体、いつから自分はこうも臆病になっていたのだろう。
一度裏切った祖国を、もう二度とは裏切れない。それが、枷になっていたのだろうか。
「王は、あなたです。そして力量が不足していたと自覚しても、それでも尚、王であることから逃げなかったのは、陛下の選択です。ならば、最後までそれを貫かれられますよう」
「タウロニオ」
逃げの手段など、考えればいくらでもあるのだ。宰相を立て、政に首を突っ込まない王は歴史上何人もいた。先代アシュナードも、どちらかといえば内政に興味はなく自国の軍事力を強化する事しか考えてはいなかったし、他国はいつか侵略すべきものとしか見ていなかった。民の事などは、顧みた試しなどなかった。
宰相たるべき人物の不在を、無知ながら埋めようと努力し、なんとか成した王など、聞いた事がない。然るべき人物に教えを仰げば、この青年王は優れた手腕を発揮出来たのでは、と何度思った事か。
そして、そのようなペレアスの姿を見て力添えを、と望んだ者は、決して少なくはなかった。
「そのための努力を惜しむ者は、デインにはおりません」
イズカとの間に何があったかなど、どうでもいい、と思った。
そこで何があったにせよ、ペレアスは未だにデイン王という己の立場を自覚し、戦っている。そしてその是非を改めて問われるために生きようとしていることなどは、百も承知だった。
それでも、こうして常にそばに仕えていた自分から言うことに、意味がある。少なくとも今のペレアスにとっては、大きな意味があるのだ、とタウロニオは思う。
誰かが何かを言ってやらねば、駄目なのだ。そしてその誰かの役目を、他人に譲りたくはない、とタウロニオは思った。
「わしは、誰でもなく陛下の騎士です。それは、一度祖国を裏切った事に対する罪悪感から選んだ事ではありません。陛下が陛下であられるから、この場におります」
王都ネヴァサに残して来た官僚たち。ノクスの戦場で野晒しになっているであろう将兵たち。皆、一様の想いを持っていた。伝える手段がないことを、口惜しむ者もいた。デインという国の政に関わる彼らは、偶像的な「巫女」などではなく、王を見ていた――当然のことである。
そして、タウロニオは唯一、その中でこの場に在る事を許されている。
「もう、二度と……自ら命を、全てを捨てるような真似は、なされますな」
あの時、心の臓を鷲掴みにされたような心地であった。そんな心地を経験するのは、一度で沢山だった。
我ながら、情けない声を出していると思った。だが、今更取り繕う必要性を、タウロニオは感じない。これでいいのだ。時に心をさらけ出すことも、必要だと、そう伝えてくれたクリミア騎士らの顔を、思い出していた。
「ああ、心得ている」
答えがかえってくるまで、そう長い時間ではなかったのだろう。けれども、タウロニオにとってはひどく長い時間に感じられた。
安堵のようなものが顔に出ていたのか、ペレアスは小さく笑っている。
僅かだが、以前の空気が戻って来ていた。お互いの、微妙な距離感も薄れている。
「タウロニオ。クリミア女王エリンシア殿のところへ、礼を言いに行きたい。付き合ってくれるか」
「勿論です、我が王」
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