「じゃあ、軍の事は基本的に任せてよいのかな、タウロニオ将軍」
「はい。いくらミカヤ殿が兵卒たちに慕われているとはいえ、憧れや心酔のみで軍は維持出来ません。そこに確固たる規律があり、その規律に彼らが従うことによって初めて、ミカヤ殿の素質も生きましょう」
「うん、軍というのはそういうものなんだと思う。戦争などはしたくないけれど、力を持たなければいつベグニオンにつけいられるかわからない、というのは理解出来る。だから、軍律に関しては将軍の裁量で厳しくしてもらって構わない」
逡巡のそぶりなく、ペレアスはまっすぐにタウロニオを見た。随分変わられた。タウロニオは久しぶりに素直に、そう思った。あれだけ頼りにしていたイズカが行方不明となってからも、表立っては不安げな素振りは見せていなかった、その事に気がついてから、タウロニオはこの若き王に対して、以前とは違う接し方をしている。
側近に、と直々に指名された時も、何の疑問も抱かず素直に受けた。ほかに相応しい人物はおるまい、という自負もどこかにあった。
「デインは生まれ変わったばかりだから、驚く程、何もなかった。国としての機構も制度も、全て駐屯軍が、そして父が破壊しつくしてしまっていたから」
ペレアスの言葉は、そのままデインという国の現状だった。
駐屯軍の横暴な支配が荒廃の一つの原因であったが、それよりも人材が枯渇していた。前王アシュナードの暴政の傷跡がそのまま残っているからに他ならない。
その事は、デイン解放を目指し戦っていた中でも痛い程感じられた。かつて四駿と謡われた将の血縁者が、結局のところフリーダ一人のみという事実からもそれは伺い知れる。
デインという国は、まさに裸同然の状態だった。そこに、辛うじて王であるペレアスがおり、自分たちがいるという状態だ。他国にこの状態を知られるようなことがあれば、下手を打てばデインという国はその歴史を閉じる事にもなりかねない。
ペレアスは王として帝王学を幼少から学び、その何たるかを理解しつくしているわけではない。些かの知恵はあっても、一朝一夕でどうにかなるようなものではないのだ。そしてその王を支えるべきは、他でもない、自分たちだ。
「ですが、それもよいのかもしれません」
事の重さをしっかりと胸に抱きながらも、だがタウロニオは悲観しているばかりでもなかった。少なくとも、自分たちが戴いた王は、決して愚か者ではないと信じられる。それだけが唯一の救いだ。そして国民の祖国にかける想いは非常に強い。デイン人であるということが、デイン人のなによりの誇りーーこの他国に類を見ぬ気質は、失われてはいなかった。
ペンを走らせる手が止まり、ペレアスはタウロニオの言葉の意図を探ろうと、老将の顔を、まじまじと見ていた。
「王が即位の際におっしゃられた言葉です」
合点した、というようにペレアスは一度頷き、ペンを置いた。すぐ背後にある窓から、外を眺める。そこから見えるものは、貧民窟の一角だった筈だ。
「あの時は何を言うべきか、なんていうことはあまり考えられなかった。ただ、僕は生まれながらの王ではない。無力なのもまた事実だ。そういうことは、国民に対してはきちんと言っておかなければならないと、そう思ったんだ……そういう虚勢は、無意味だから」
ペレアスは姿勢を戻し、再び老将の方を向く。まっすぐにこちらを見る目には、強い意志の光が宿っていた。あの、常だった気弱な印象は、どこかへ行ってしまったのではないのか、と錯覚しそうになる。
「それに、国というものは、決して優れた国王一人の為のものなどではない。決して」
言葉を反芻するようなペレアスに、タウロニオは頷いてみせた。
「そのお心こそ、何より尊いのです。先々代の王が、よく、口にしておられました」
その言葉があったからこそ、タウロニオはこの若き王に忠誠を誓おう、と、思えた。決して先代には望めなかった、そして久方ぶりに聞く懐かしい言葉だ。ペレアスがデイン王家の血筋である、ということを、初めて確信した瞬間だった。
「そうか。お爺様が」
タウロニオの言葉に、ペレアスが僅かに口元を綻ばせる。双眸を閉じ、しばらくの間手も止めていた。何を、考えているのか。ペレアスの穏やかな表情は久しぶりに見る。
「…イズカのことだけど」
王の口から、かの男の名が出るのは、彼が姿を消してから初めてだった。それよりも政務があり、やるべき事は山積している、と一度はタウロニオの言葉を一蹴した。
「探索は打ち切ってくれ。いなくなったものを、頼ったところで」一度そこでペレアスは言葉を切る。絶ちがたい思慕もまたあるのだろう。イズカに連れられて現れた時の事は今でも覚えている。不安げな表情と、双眸の奥底に光る僅かだが強いものの対比が、タウロニオに不思議な印象を抱かせていた。こういう王を抱く事もまた、デインにとっては希望となるのかもしれない、と思った。それは圧倒的な力と恐怖政治で国を支配し、滅ぼした先代への批判的な思いからくる物であった事も、齢と実積とを重ねた将として承知の上だった。「なにも、ならない」
言い切る様は淡々としていた。少なくとも、そこに何らかの感情を、ペレアスは見せようとはしていない。
「宜しいのですか?」
タウロニオは思わず聞いていた。その事を問うのは、酷な事なのだ、ということも頭の何処かにはあった。
「ああ。それよりも、人材の確保が先決だ。デインには名に聞こえた武人は多くとも、文官は少ない。そういう政治を父がしてきたからなのだろう。志と才覚のあるものであれば貴賤を問う必要はない。人物は、将軍とフリーダの二人で様子を見、選別してくれ」
軍のこともある。その事を含んでのフリーダの名なのだろう。確かに彼女はランビーガの娘の名に恥じず、あの若さで強かにこの三年間、己の領土を守り抜いていた。領民の支持は言わずもがなだが、人を見、己をわきまえてこそ初めて可能だろう。
「…それから」
こうして言葉を交わしている間にも、ペレアスの手は決して止まることはなかった。言葉を交わす時に顔をあげはするが、書類を繰り何かを走り書きし、或いは書き込みまとめるその手際の良さは、まるで手慣れた文官そのものである。孤児院にいたという話は聞いていたが、タウロニオは、この若き王の出自に関してはそれ以上の事を知らなかった。
「暁の団の、斧使いの……そうだ、ノイスという名だったと思う。彼を将軍はどう思う?」
「そう、ですな。一見粗野に見えますが、おそらく印象通りではないでしょう。それなりに学もあるようです。戦いぶりは勇猛ですが、確実さで当たる手合いかと」
豪放な戦い方をする男だった。だが、それはやみくもに力任せ、というのではない。己の力を決して過信はせず、だが、臆病というのでもない。その動きは、確実だった。そして、何度か言葉を交わした事があるが、その外見から覚える印象とは裏腹に粗野という印象が全くない男だ。言葉遣いも、学のある人間のそれだった。
「そうか。彼と一度きちんと話をしてみたい。本来ならば僕が城下に赴き査察もかねてやればよいのだろうが、時間が作れそうもないんだ」
「いくら平時とはいえ、街は落ち着いているとは言いがたい状態です。王の命を狙うような不貞な輩も紛れ込んでおりましょう。ご自分で何でもなさろうというそのお心のみを、ありがたく受け取りたく、思います」
「……すまない。僕には、力がないな」
「そういうことではないのです。そして、そのような事をするために、私やフリーダがいるのです。ノイスという男の事、心得ておきましょう。訓練では彼と面識のある兵もおります」
それよりもタウロニオはミカヤの事が気がかりだった。
王の望みとは裏腹に、復興活動を理由に彼女は決して王城へ近づこうとはしない。彼女に叛意があるとは思えないが、どのような思惑があるにせよ、それは王命に反している事に他ならない。そしてそれは、決して無知という言葉で許される行いではない。彼女は、ペレアス王自身の望みによりデインの総司令という立場を与えられている。
そこまで考えて、タウロニオはふと、険しかった表情を緩めた。ペレアスがわずかに顔を動かす。だが、視線はすぐさま机上へ落とされた。
自分は老いたのか。どこか、この若き王に対して、主従という以外のものを、無意識に求めている。
妻と子という拠り所を失くして以来、タウロニオは己の身をデインという国に捧げつづけていた。デインという国とは、タウロニオにとっては先々代の王の政、理想、築き上げたものであり、決して先代アシュナードのそれではないのだ。だから、裏切る事も出来た。
だが二度目はあるまい。
あれは、あの時だから出来た事だ。アシュナードが支配する民の怨嗟と悲鳴が交錯するデインという祖国に、タウロニオは嘆いていた。悪戯に戦火を拡大し、他 国を蹂躙する主君に、忠誠を誓うのは、限界だった。クリミアの英雄、デインを滅ぼしに来たアイクが、まるで救い主のように見えたのは、決して錯覚ではな い、三年以上を経た今でも、確信を持って言える。
「陛下、私は、これにて。夜も更けております、あまり、無理をなさせませぬよう……アムリタ様も、心を痛めておいでです」
「ああ、最早この身体は、自分一人のものではない、ということくらい心得ているつもりだ」
返ってくる言葉を、だがタウロニオは信用はしていなかった。多分、この王は、殆ど眠ってはいない。何がして王をそうさせているのかはわからないが、ペレア スが眠りにつくのは、朝方の僅か一、二時間に過ぎぬということは、その身辺を警護している部下から聞き及んでいるし、タウロニオ自身も知っていることだ。
「ご自重くださいませ」
余計な事を言ったかもしれない。部下として、の言葉ではなかったかもしれない。
ペレアスは何も答えなかった。ただ僅かに笑い、頷いた。
決して立派ではない作りの扉を閉める。部屋を出たとたん、すきま風がタウロニオの頬に触れた。冬になれば、ここはひどく冷えるだろう。そして王はこんな場所を居室と望む。
二度目はない。
先々代に誓ってもよい。もう二度と祖国を裏切ることなどはない。
「友よ、……変わられぬのは、そなただけではないな」
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