つんと鼻の奥に染みる、潮の臭い。幾分温さを含んでいる風が、頬を撫でてゆく感触が心地よい。仰ぐ蒼穹は、そのまま吸い込まれてしまいそうな程に高く、波音に耳を澄ませれば遠く彼方、南方エルズの風の声が聞こえるかのようだ。
徒歩でゆっくり歩いたとしても、故郷ノーブルからは一週間もあればたどり着けるのに、少女はアミラルを訪れるのは人生で初めての経験だった。
石畳の道だとか町を包む潮の臭いだとか、空気の水っぽさとか。人々の出入りが頻繁な港町独特の猥雑さ、聞きなれない訛り。見たこともないような衣服を着た人々、雑多な種族。
少女リズが住まっていたノーブルは他人との関わりやら諍いを厭う傾向の強い村であった。そして少女は、聊か旺盛すぎたその好奇心と正義感故に、結果的に冒険者となった。
あれは、そう面白い経験ではなかったけれど、なんにしても。
蒼穹を見上げ、遠目からでも目立つ赤毛を自在に潮風に靡かせながら、リズは頬が緩むのを抑えられなかった。直前、この町に辿り着く前の「不愉快」な経験のことは、とりあえずおいておこう。そう思えるほどに、まずこの町の空間の広さが、心地よかった。それは物理的なものではない。故郷とそう変わらぬ空なのに、海と接していることを目の当たりにしただけで、まるでどこまでもゆけるのだと思える。現に先ほどまで一緒にいた筈の弟の姿は何処へやら。
リズは浅く喉を鳴らした。なんとも愉快な気分にさせてくれる町だこと。人の都合なんてお構いなしでさ。
元から陽気で前向きな弟はきっと一目散に港にでも向かったのか、波止場ではしゃいでいるのか。流石にリズは弟ほど楽観的にはなれなかったけれど、ともかくも故郷にいた頃の憂鬱さとは比べ物にならない開放感に、心が軽くなっている実感はあった。
彼女の感じる開放感は、ここアミラルが港町である事に関わりがないでもない。
海運業と漁業で成り立つアミラルは、今でこそロストール直轄地であり、そうなった背後には様々な政治的な陰謀劇があるにせよ、そのような事をいちいち気にしているような住人はいない。彼らは何より、その日を生きる事に忠実で、どん欲だった。
早朝より港に上がった魚介類を売りさばき儲けを得る為に声を張り上げるたくましい中年婦人だとか、運搬物資をいち早く運ぶ事に精を出す若いボルダン族だとか、高級なノーブル産の毛織物を潮風で傷められては困るとまくしたてる恰幅の良い商人は、何より己のために生きているように、少女には見えた。その強かさは、自由都市リベルダムに生きる人々に通じる強さで、自由さだとも、思った。
もっとも少女はかの大陸一の商業都市を訪れた事はない。風の噂に聞く程だ。
右を見ても左を見ても俯き他人の顔色を伺うばかりの住人に囲まれて育ったリズは、旺盛な好奇心ゆえに外国の様々な都市の話を聞くのが大好きだった。中でもディンガル帝国の首都エンシャンとの華やかさ、リベルダムの猥雑さと様々なうわさ話は、日常を窮屈に感じていた少女にはたいそう魅力的に聞こた。幼かったリズは、唯一自由を許された想像力でもってして、子供の夢に彩られたきらびやかな都会を夢見ていた。
しかしまさか、故郷からたいした距離もない場所に、まるで幼い頃に描いていた夢物語が、現実に、そこに存在しているとは、一体昔の己は想像しただろうか。
リズは海王の雄大なる姿を奉る像の前に立ち、その偉大なる統治者の佇まいをくいと顔を動かしながら眺め、小麦色に焼けた顔を、ほころばせた。ああ、それならばドラゴン祭りってのも、見てみたかったね。
「ねえちゃん、ねえちゃん、ドラゴン祭りだってよー」
リズが先ほど町の住人から聞いたかの祭に想像を馳せんと、まさにその瞬間。案の定というか何というか。太陽が西の水平線の彼方に傾きかける時分になり、ようやく戻った弟は、なんだかよくわからない品物を両手に沢山持っていたのだが、姉の姿を見つけるや否や駆け寄り、よりにもよってその言葉を口にした。年齢の割に幼く見える顔つきが、さらに子供っぽくなっている。
喜ばしさ半分あきれ半分のまま、リズは、人の悪い笑みを浮かべて弟を軽く小突く。
「言うと思った。でも残念だったね、祭りにはまだひと月はあるっていうし、そのドラゴン自体が捕まらないって言うよ」
「じゃあ俺たちで捕まえよう!」
姉としては釘を刺したつもりだったのだが、表情から姉の内心を悟ったのか、チャカは黒い目をキラキラと輝かせながら即答する。リズの表情があきれっぱなしのそれに変化しても、お構いなしだ。大げさなため息をついて大げさな仕草で肩をすくめてみせても、弟のきらきらと輝く黒い双眸の光は全く変化なし。
「………だから話、聞いてなかったのかい?祭りのパレードで必要なシルバードラゴンが捕まんないんだって、言ったじゃないか」
「いやだから、それを俺と姉ちゃんで捕まえるんだって!」
「この、バカ!」
あまりに考えなしな上に現実味のないことばかりまくりたてる弟には、容赦なく鉄拳制裁を下すことで黙らせた。存在が稀有である、というばかりではない。それなりに腕が立つ冒険者でなければ、仮にもドラゴンなどと呼ばれるものを倒せるわけがない。そんな、当たり前の事もわからずに、まったく。
その上、まったく必要もなさそうなも のばかり無駄に買い込んだ罰として、チャカの抱えている荷物の中から小魚の干物を失敬してほおばった。なんだか香辛料の味がややキツいが、それでも口の中に広がる風味や舌触りなどは、実に美味だ。携帯にはもってこいかもしれない。
「………てイテーーー!姉ちゃん!こんな往来の真ん中で強烈な愛情表現はねーだろーー」
「あのね、駆け出し冒険者のあたしらに、そんなたいそうな仕事が出来るなんて本気で思ってんのかい?」
「え、できんじゃねーの?ていうか、なんで姉ちゃんそんな詳しいの?」
弟の思いがけない反撃に、リズは言葉につまり、うっと小さくうめく。さらに、年頃の娘には相応しくない鼻息の荒さで拳を振り上げる。思わずチャカは怯んだ。もう殆ど条件反射だ。
だがその拳は弟の脳天を見舞う事はなく、その手荷物に無遠慮にのびると、検分するような素振りを見せたあとに今度は未だ香ばしさを残す焼き菓子にのびた。
先走る弟のお陰で、あきらめもついたことだし。
「………あれだねえ、ここの食べ物は、みんな味付けが濃いね」
だいたい、情報集めに行ったくせになんだってこんな食い物ばっか買い込んでくるんだろうねこの子は。リズは渋面で弟を睨むのだが、その実自分自身も目的の遂行よりは、アミラルの潮風を満喫していたのでこれ以上の制裁をするつもりなどは毛頭ない。まして、シルバードラゴンの数が激減し、捕獲がままならぬという話を聞いて真っ先に冒険者ギルドに駆け込んだ、などとはこの弟には口が裂けても言えなかった。
「あ、ちょ、ねえちゃん、それ俺の!」
「何言ってんだい、こんなにしこたま買い込んじゃってさ。どうせ一人じゃ食いきれないんだろ?」
通りには大いに食欲をそそる匂いがそこかしこから漂ってくる。喧噪も、昼間のそれとは質が変わってきた。人でごったがえしている割に、こうして通りを歩いていると、自ずと背骨は天へ向かおうとすっと伸びる。少なくとも、故郷にいた頃の圧迫感は微塵もここには存在してない。
王都ロストールとも違う猥雑な喧噪の熱に浮かされたのか、リズとチャカの二人の新米冒険者は、通りを行き交う雑多な人々の中に揉まれ、それでも一時の自由な空気を満喫していた。