ささやかな祝辞

 いつものように、俺は店主の出してくれる特製の茶で喉を潤しながら、雑談に花を咲かせていた。
 世情はまるきり芳しくはない。何一つとして、良いようには動いてはいない。実際、陰鬱な顔をした傭兵は数多く、祈りの言葉も以前とは比べ物にならないほどに多くつぶやかれている。
 けれども俺の心は、ずいぶんと軽かった。だから、店主に語る口調だって弾むし饒舌にだってなる。屈強なボルダン族相手に冗談まじりの野次を飛ばしたところで、アルノートゥンという信仰の街の中に在る唯一の娯楽施設である酒場に集う傭兵や生臭坊主どもは、誰一人酒のまずさを訴えることはないし、俺と一度は大喧嘩をしたことのあるそのボルダン族の店員は「いつものこと」と聞き流していた。
 こういう猥雑な雰囲気と酒と香辛料のきいた燻製肉を焼くにおいの中で、ただなんとなく過ごせる――それは、とても贅沢なことなのかもしれない。俺がそんな、当たり前みたいな感傷を少し抱きかけていた時のことだ。
 入り口付近から高山地帯特有の冷たい空気が流れ込み、酒場の中で談笑する幾人かがそちらを眺めていた。新しい客でも来たんだろう。それがたとえば馴染みの顔ならば挨拶なんかが交わされる、なんてこともあるがどうやらそうでもないらしい。
 なんとなく、俺はよい気分だったから「よかったな」というその男にしてはとても珍しい一言に、当たり前のような顔をして頷きを返してしまった――そもそもそのとき俺は、それが誰であるかなんてのはあんまり意識してもおらず、何がよかったのかという当たり前の疑問をなぜか抱かなかった、おかしなことに。後から考えると、そのときの俺はよっぽど気分が良かったんだろう。
 頷いてから、改めてその男が誰であるかを認めて、思わず続けようとしていた言葉を、飲み込んだ。

「あ、ああ」

 返答するにはいささか時間がたちすぎていたのだが、俺はなぜか声を出さなければならないような気がして答えた。男はそんな俺を一瞥もせず、いつものまったくすました風でカウンターに腰を下ろして、何かを小声で親父に注文する。まったくこの男・セラらしい振舞いだ。最初の頃は鼻についたもんだが、今はこういう男なんだと理解している分気にもならない。

「飲め」
 そして唐突に、視線を合わせることもなく差し出された杯には、店内の決して明るくはない照明を反射してきらきらと輝く琥珀色の液体が湛えられている。その濃厚なにおいだとか見ただけでもわかる、強めの酒だ。

「いや、俺は」

 飲めないのだ、という俺のごくごく個人的な見栄なんか無視するように、セラは黙ったままだ。視線だって合わせやしない。けれども隣に座って、黙って、俺がこの精巧なつくりなんだか不恰好なんだかよくわからない大き目の杯に入れられた液体を口にするのを待っているのだけは、間違いない。

 わざとらしくため息をついて、肩を落としてみせてから、俺は観念したように口元に杯を運ぶ。キツいアルコールの香りは、けれど決して下品なものではない――あえて酒を嗜まな俺でも、その良し悪しくらいはわかる。少しだけ舌をつけてわかった。
 久しぶりに、喉に流し込んだ味は、やっぱり旨いとは思えない。ずいぶんと昔、ボンガの親父さんに面白半分に飲まされたやつと、同じように感じる。
 それでも、あのセラが俺に酒をおごるなんていうありえない状況は、まあ、それなりにいい気分にもなるし面白いといえば面白い。あの、セラが、だ。
 そういえば、セラとは結構長い付き合いになる。最初は面倒くさそうなヤツだが利害が一致していることと冒険慣れしてそうなヤツだという理由で組んでいただけだったが、余計な事を言わないセラという男は、それなりに付き合いやすいヤツだった。お互い余計なことは言わず、必要であれば喋る、けれども目的を同じくする仲間というだけの繋がりしかない男。それでも、こうして何か喋るわけでもなく時間を共有することに、俺たちは案外慣れていた。

「酒は、強いのか」
「どうかな。それがわかるほど、多く飲んじゃいないしな」

 いいながら、液体を味わうというよりは俺は喉に、控えめに流し込んだ。その、喉をゆっくりと液体が落ちてゆく感覚がやたらと明確だ。
 どうも、俺はこの酒という味が好きではない。それは俺が酒場で酒を頼まない理由のひとつだったりする。
 特に酔うわけでもないのだが、どうしてもこれをうまい、という感覚は抱けない。そういうと、それは俺の味覚が子供なのだと大声で笑った、あの愉快極まりない男の事を思い出していた―それはとても遠い記憶のようで、俺はそれ以上のことを、あえて考えなかった。

「……フ」

 俺が先ほどまでの良い気分はどこへやら、妙な感傷にとりつかれかけていると、突然、セラのやつ鼻で笑いやがる。目を伏せて俺の方は見ちゃいない。一瞬小さく笑って、俺が不審そうに睨んだところでどこ吹く風だ。なんとなく文句を言ってやろうと思ったんだが、それはやめた。どうせ芳しい答えなんてのは、こいつから返ってはこないに決まってる。
 ところが、その俺の予想はあっさりと次の瞬間ひっくり返される。

「覚えていないのか。お前と一緒に初めて酒を飲んだとき、お前は今とすっかり同じ事を言った」

 しばらく俺はきょとんとアホっ面さらしてから、ようやくと記憶の奥の底の底から、そういやあそんなこともあったなと思い出した――俺たちの名が少しばかりバイアシオンに広まり出した頃、「ティラの娘」と呼ばれる闇の怪物を初めて倒した時の、直後だ。あの時は、常に自分のことなんて全く語らないセラがぽつりぽつりとそんな話をした。あの時も、セラが勝手に俺に酒を今みたいに一方的にすすめてきて(俺はセラの前で、というよりもそもそも人前で酒を飲んだためしなんてなかったのに、だ)、俺が変な顔をしつつ飲むとそんなことを聞いていた、ような、気がする。

「お前は変わらない。変わらないくせに、すんなりと厄介ごとをやってのける」

 続く言葉は、おそらくこいつなりの褒め言葉なんだろう。心なしかくつろいだ様子とか(そのあたりは、長いこと一緒に旅をしてればなんとなくわかるものだ)愉しげにゆがんでる口元なんかがいい例だ――そもそも、そんな風にこいつのことがわかるようになってるっていう事態は歓迎すべきなのかどうかはさておいて。

「取り戻せば、どうにかなると俺は思っていた。だが、そうではなかった。そうではなかったが、俺は、後悔はしていない…それでも、他の結果をどこかで望んでいた自分を、否定はできない」

 漠然としたセラの言葉が何を指しているのかわかり、俺は返答すべき言葉もなく黙り込む。そもそも、セラだって俺の言葉なんか期待しちゃあいない。こういう、続けざまに言葉を吐いてみたり、聞いてもいないのに語り出す時、セラは別に言葉を交わしたいわけではないのだ。ただ、聞いてほしいだけ――たいがいの人間がそうであるように、無口でぶっきらぼうのこの男にも、たまにそういう気分になる時があるらしかった。

「たった一つの望みのみを迷うことなく信じる。そうなると決めて疑わない。疑念など抱く隙間すらない。まったく、馬鹿げている。子供じみている。話にならん」

 その言葉の調子やら強さとは裏腹に、セラの漆黒の双眸はどこか愉しげな光を湛えていた――やっぱり、珍しい。さっきから、この酒場に入ってきた時からだ。俺が上機嫌だったように(もっとも俺にはしかるべき理由があって機嫌が良かったわけなんだが)こいつもそうだったんだろうか?…なんというか、俺は実はひょっとしたらばものすごい場面に出くわしているんじゃあないだろうか?

「お前の強さは、一体何なんだろうな」

 唐突に調子を変え、やはり唐突にセラは俺に顔を向ける。いつもの、チラリと一瞥するでなく、じっと、俺を見ていた。この話の流れから察するに、廃坑でのことをこいつは言ってる。ナッジを説得したのはヴァンの感情的で屁理屈どころじゃあない無茶苦茶な言葉だったんだが、セラのやつは直後にもそんな事を呟いていた。さっきの「馬鹿げてる」だのなんだのっていうのは、間違いなくヴァンのアレだ。

「いや、あれは俺じゃなく…」
「いや、お前だ。お前の強さだ」

 何をもって断言しているのか、俺にはよくわからなかった。だが、セラは冗談を真顔で言うタイプでもないし人を煽てたり安易に認めるような人間ではないことくらいは、よくわかっている。
 何よりもこの、きっぱりと言い切るところだ。セラは、決して適当なことを断言するということはない。

「…少なくとも、俺一人のモンじゃないっていうのだけは、確かだな」

 あのことに限れば、あれはヴァンがいたからだ。俺は、本当にどうにもならないくらい自分が無力だと痛感しただけだ――そう、セラがそうであったように。俺にはヴァンがいた。セラにはいなかった。それだけのことだ。

 しばらくの間、店内のざわめきやらウェイターの威勢のいい声を背に俺たちは沈黙していた。なんとなく、俺はまた酒に口をつける。酒に弱いわけではないんだが、一気に飲むにはこの酒は強すぎる。けれども、口に含んだとたんに広がる独特の香りは悪くない。酒を、まずくないと思ったのは、実は初めてだった。

「それがお前の、強さなんだろう」

 思わず、一気飲みしてしまいそうになり、咳き込んでしまう。アルコール独特の味が口の中いっぱいに広がり、渋面を作る俺を、セラはどこか可笑しそうに一瞥した。