ネメア死す。かの英雄は、自ら闇に赴き闇に喰らわれた。
その絶望的な知らせを、ジラークはアルノートゥン陥落の直後に耳にした。仮の宿舎を徴収し、兵たちを休ませ、様々な雑務を抱え机に向かった、その矢先の事だ。
アルノートゥンという難攻不落の都市を見事陥落せしめた労苦に報いるでなく、むしろ追い打ちをかけるような知らせに、目眩を覚え、ふらつく足元を抑える事が、出来なかった。
落胆のあまりか口を閉ざすジラークに、それでも伝令兵はより正確な情報を伝えようと言葉を続けてはいたが、最早ジラークの耳には入ってはいなかった。
だから、執務室の机に肘をつき、額を抱えるジラークのすぐさま背後に、闇の気配が近づこうとも、反応など出来るわけもない。
「ねえ、白ヤギのお爺さん。結構随分な願いを、抱えてるよね」
くすくす、笑いを噛み締めながら呟く無邪気さながらな様子を、悪寒と憤りがない交ぜになった不愉快な感情と共に、白老一瞥する。全く知らぬ仲、というわけでもない相手だが、疲労が重なった上で追い討ちをかけられた今は、少なくとも積極的に関わりたい相手ではなかった。
「シャリか。契約は終わったであろう。私は、そなたの力は確かに認めている。だが、そなたを好いているわけではない。失せよ」
「ちょっとちょっと、ずいぶんと邪険だなあ。僕はとびっきりの知らせを持ってきてあげたってのにさ」
「そのような甘言を私は好かぬ。……二度目だ。これで去らねば、兵を呼ぶぞ、失せるが良い」
「えー。そんなこというなら、魔法使っちゃおっかなあ。今ここに、コーンスの皆は沢山集まってる、じゃあ…」
不穏な気配は、だが可視化することはなかった。ジラークが立ち上がり、「子供」をぎっと睨んだのだ。老いたとはいえ、まだまだ背筋はしっかりしているし、何よりジラークは長身である。そして常の渋面は、それだけでも威圧感が十分にあるのだ。
「…………用向きを申せ。それでお主、気が済むのであろう」
シャリが皆まで口にする前に、うんざりだと言わんばかりにジラークは言い捨てる。
それが狙いなのは、百も承知だった。が、この少年は、決して冗談は言わない。むしろ冗談では済まされないのだ。ただでさえ心身ともに疲労しているところに、厄介ごとを持ち込まれたくはなかったが、この少年の言葉に耳を傾けなくば、更なる惨事を引き起こされかねない。ジラークはため息をつく。
彼がこの場に現れた時点で、そうなる予感はしていた。
「なんだかなあ、気が乗らないみたいだね。でもま、いいよ。特別だからね。それに、僕の話を聞いたら、多分疲れも何もかも、吹っ飛んじゃうよ」
口ではそうは言うものの、シャリはにこにこと無邪気な笑みを絶やさない。そして、そうっとジラークの耳元に顔を寄せた。
「ねぇ、将軍の理想」
囁く子供の口調は甘ったるく、ジラークの神経を逆撫でした。だが、ジラークの耳朶はその言葉を聞き逃すまいとしていた。
「現実にしてあげるよ」
ごくり。唾を呑み、すぐ真横にある少年の底のない瞳を、ジラークは正面から見てしまった。
大きな、漆黒の、底のない瞳。ぽっかりと奈落の穴があいたかのような、まったく不気味な、光のまったくない双眸が、にこりと笑う。
ジラークは元はエンシャントはアカデミーに所属する学者で、教授を務めたこともある。
軍略や政治、経済もそれなりに嗜んでいたが、目下彼の研究の目的はただ一つ。不当な扱いを受けるコーンスの、社会的地位を向上させたい。
そのために、大分無茶をやった。
お陰で、若い頃などはバロルの協力者などという謂れのないレッテルを張られた事もある。それでもジラークは己が信念を、一度たりとも曲げた事はなかった。
ジラークには、強い確信があったのだ。コーンスが学問分野に台頭するようになれば、魔法を応用した技術、またより高度な知識を必要とする分野は、今よりも更に活性化するであろう。もとより知性に優れた種という評価もされている、コーンスという滅びゆく種には、間違いなく存在価値はある。ジラークの主張を、危険思想と罵る輩もまたいないではなかったが、そこにある純粋な探究心、純粋な理論に、賛同するものも、多くいた。ネメアもまた、その一人だったのだ。
人間は、他人を妬みその地位を剥奪しようとやっきになる愚か者も存在するが、逆に真に優れた理論を理解し、協力する者もいる。ジラークとて、最初から人間という種に絶望などはしていなかった。
確かに政治分野では、まだまだ人間の力が強い。こと大陸南部などは、未だに人間以外の種族が、要職に就く事はないのだという。それを文化的な後進国と言ったのは、エンシャント出身の人間だったように思う。彼はまた、ジラークの熱心な協力者でもあった。
「聖光石くらいは、知ってるよね。あ、もしかして、もう目星つけちゃってたりする?」
シャリの言葉は、――正確には彼が口にしたモノの名が、疲弊していたジラークの背中に悪寒を覚えさせ、その疲労すら忘れさせる程だった。悪寒が収まらない。が、心の臓は早鐘のように脈打っている。体温がじわりとあがった気がした。
知らぬわけがない。そうでなくとも、ジラークはバイアシオン地誌はほぼ網羅しているといっても良い。
かの宗教国家アルノートゥンに秘められたる過去の遺物、幾多の血を流す程に価値があるその魔力の結晶の存在は、かの鉱脈がほぼ永久に封印されようとも、それでもその欠片ですら重宝されている程なのだ。今でも、冒険者と言われる人種は、その危険を顧みず魔物の徘徊する坑道に立ち入る事も、あるのだという。
シャリの言葉は、まるでその伝説の遺物をまるで手にしていると言わんばかりではないか。
そして、その言葉に、とっさに悪寒を覚えたのは、理屈ではなかった。蒼白なジラークの顔面に、シャリは殊更に笑みを深める。
「ふふ、あのね、僕知ってるんだ〜。聖光石の在処」
これは悪魔の誘惑だ。
あってはならない、闇の囁きだ。
ひたひたと心の隙間に入り込んでくるそれを、ジラークは必死に振り払いたかった――だが、その理性は既に、危ういほどに、揺れていた。
「それがあれば、将軍の理想は、多分、叶っちゃうと思うんだけどな〜〜、しかもとっても簡単に」
耳を傾けてはならない。それでもなおジラークの理性は、全力でシャリの甘言を拒んでいた。平時ならばこのような佞言などぴしゃりと跳ね除けたであろう。
だが、今のジラークに、その気概も気力も、既になかった。心身ともに疲弊しすぎていた。
ゆえに、心の奥底にひたりと寄り添うようなシャリの言葉は、ジラークの心を、思考を、いとも簡単に侵蝕してゆく。
「将軍の願いは、別に一人のものじゃないよ。勘違いしてもらったら、ちょっと困るんだけど」
シャリはいたって真面目に見えた。自らの正当性を主張するためか。ジラークはせめてもと、鼻で笑ってみせる。だがシャリに臆した様子もなく、それでへそを曲げた様子もなかった。
「強い願いだよね。多分、他にも、そんなこと考えてるコーンスは沢山いるのかもしれない。そう、だって、コーンスはとても穏やかで優しくて……もっと、もと認められたっていいんだもの。でも、僕はお爺さんに呼ばれた。だからわざわざ、こんな辺境の山奥まで足を運んだってワケ」
そう。理想だった。全てに等しく、あらゆる可能性が約束される。夢のような世界だ。コーンスといえど、胸を張れる。人間どもの暴行におびえるでなく、不当に差別されることなく、街道を、町を、ありとあらゆるところを歩く事が出来る。
「確かにおかしいよ。コーンスは、頭がいいものね。人間よりも、ずっとずっと賢くて、ずっとずっと理性的だ。だったら、コーンスがもっと学問をやればいい。もっと、学問だけでなく、沢山の事にその能力を使えばいいんだ。使うべきなんだ」
これはこの子供の言葉ではない。ジラークには確信があった。だが、それでもなお、心を揺さぶり続けた。
シャリの言葉が直接脳裏に響く。理想、夢、かつて全てをささげていた――否、今も尚、その信念と共に在るのだ。だからこそ、兵を挙げた。可能な限り全ての手段を使い、このアルノートゥンを得た。それは、すべて、かつての理想を実現化するためである。そう、決して適わぬと何度も諦めかけた、あの理想のためである。
「…まさか、その言葉をまた聞こうとはな…」
子供を見つめる瞳は、普段の厳しさはどこぞへか消え失せていた。凪の湖面のように揺れることのない、けれど、かすかな炎の揺らめきが伺える瞳に、シャリはにこりと笑みを深めてきた。
「確かに、私はそれを望んでいた……」
厳かに、口髭が揺れる。瞑目し腰を椅子に落とすと、ひとりごちるようにジラークは続けた。
「なればこそ、皇帝の意に従った。愚かと分かりつつ、好かぬ争いごとをもやった。それが、その先に開ける新しき道のりを信ずればこその、必要悪であると思った」
本質的にコーンスという種は争いごとを厭う。それはエルフのような欺瞞ではなく、争いの無為さをより深く理解しているからこそだ。そこに理性を働かせ、己の欲を抑えるだけでよい。暴力は、決して優れた手段ではない。なれば、謂れのなき迫害を受けようとも、人とコーンスとが争うという事態に繋がらないでいるのだ。それは、何よりもバイアシオンの長い歴史に裏打ちされた、コーンスという種の、最も優れているところという自負は、確かに程度の差はあれどコーンスが皆持っている精神だった。
「人間には出来っこなかったアキュリュースやアルノートゥンをさ、ほとんど無傷で落としちゃうんだもの。人間には、できっこなかった」
シャリの言葉はやはりジラークの神経を逆撫でした。ジラークの最も嫌う所である世辞追従の類であれば、尚の事だ。けれどもジラークは、卓上に置いた手をぴくりとも動かさず、言葉を続けながら目を見開いた。
世界は、闇色だった。
「そなたの口は、達者だな。何も私は、見返りなどは望んではおらぬ」
「アハッ、やっぱ駄目か。ちぇ、本心でもない事言うのってさ、あんま好きじゃないんだけど。じゃあ単刀直入に言うね。聖光石の力をあげる。だから、将軍はそれ使っちゃいなよ。別に誰も責めやしない」
がらりと口調を変え、大仰なそぶりで肩を竦めながら近づく少年は、座したジラークとほぼ変わらぬ高さの背丈しか無いにもかかわらず、有無を言わせぬ高圧さと威圧感がある。だから禍々しいのだ。
ジラークの態度の硬化を見ると、シャリはぷうっと頬をふくらませ年相応の表情になる――だからこそ、かえってこの「人ならざるもの」の無気味さが際立ち、ジラークの背筋に例えようのない不快感が走る。
「皆まで言わないと駄目?頑固だなぁ。聖光石の力を使えば、多分この場所をコーンスのモノにだって出来るよ。ねえ、素敵だと思わない?難攻不落の宗教国家、天空神ノトゥーンの加護を受けるその地を、コーンスの楽園に。多分戦争起こしちゃったって、怖くないと思うんだけど」
歌うようにシャリは言葉を音として落としてゆく。ジラークの意識を撫で、思想を撫で、心に触れるように、強烈な違和感とちょっとの安寧を、携えながら。
「だって、その角は、確かにお月様の恵みを受けてるからね。セリューンはいつだって、君たちの味方さ。だから聖光石の力を使えば…」
そこで、ジラークはきつとシャリを見据えた。だが、老獪の視線にすら、少年は揺るがずにくすくすと喉奥で笑ってみせる。
「もう、煮え切らないのってさ、いただけないよ。僕の善意も限度があるよ。だってどうせ、将軍の理想なんか、このままじゃ叶いっこないじゃない」
叶うわけがない。
その言葉が、ジラークの額の角を根元から力任せに折る――折るような衝撃が、全身を貫く。無意識のうちに振るわせた唇は、歯茎は、意志で止めようとしてもとまらなかった。どころか震えは口元だけではなくあっというまに全身に広がる。
言うな。その先を、その言葉を、その声で、言うな。
ジラークは強く唇をかみ締めた。
「ねえ?ネメアも死んじゃったし」
まるで電撃に打たれたかのような衝撃を受け、ジラークはその一瞬思考が飛んだ。心の奥底を無理矢理に抉り取られた、そのあまりの衝動とおぞましさと不快感とで、相手が何者であるかを、忘れた。くすっと小さく笑う声は、無邪気だった。
奈落の底まで至る穴のように、闇色は深く、どこまでも深く――無邪気だった。
そうだった。英雄ネメアは、既に亡いのだ。あれだけのカリスマと、あれだけの度量と、あれだけの才覚を持ち、人間を統一せしめることすら可能と、ジラークですら思ったかの英傑は、過去の人となってしまった。
先ほどの衝撃が、物理的なそれを伴ってジラークを打ちのめしたかのように思えた。シャリの言葉に耳を傾けたくはない、その甘言は、間違いなく滅びへの誘惑だ、そう制する理性ともども、打ち砕かれる。
かくりと机上にひじをつき、白い装束に包んだ上体が傾ぐ。
全身を襲う虚脱感は、汗となり吹き出てきた。ちかちかと視界すら定まらない。
ああ、ネメアは死んだ。
希望は、潰えた。
我が同朋に、未来などはない。
すべては、闇へと誘われてゆく。絶望の先には、絶望しかない。
『確かに、不当だと思いますよ。私だって、一学識者です。その辺の石頭とはワケが違う。コーンスは優れた種族です。我々より、遥かに。それは、我々にとってもまた、財産であり、価値のある事ではないのですか?』
『持ち上げ過ぎですって?とんでもない!私は、私は真剣にですね、ディンガル帝国のために……』
『……素晴らしい!教授の理想は、必ず実現させねばなりません!』
『確かに、理想論です。現実的とは言いがたい。だが、無価値とは思いません。貴方の論文には、確かに目を惹くものがあります』
『すごいですね……将軍。アキュリュースを無傷で陥落させることが出来るとは。あ、いえ、失言でした。申し訳ございません、ただ、驚いているのです。まさかこんな事が本当に可能だなんて…想像だにしませんでした』
『我々はただ、将軍の采配に全てをゆだねるだけです』
ああ、そうだ。私の理想は、私の目指すものは、ただの征服欲などからなる俗悪なものとは違う。全てのものに、同等の機会を。ただ、それを願うだけだ。我が同朋に、未来の光を与えたい。久しく忘れていた、それは私の追い求めてきた、掴むべき夢ではなかったのか。
そこには、大義がある。だから、立ち上がるべきなのだ、我々は。
不当な差別や狩りに甘んじて、ただ滅びの運命を享受するが、我々のたどるべき道などでは、決してない。
「ふふっ、ね、だから言ったでしょ、僕の言う事聞いたら、将軍は元気になる、ってサ」
ああ。胡乱な目でジラークはそう返した。シャリの笑みは相変わらず無邪気で、おぞましい。
だが、ジラークは既にその闇を、受け入れていた。