「君のような名高い冒険者を我らが同志に迎えられたことは、我らにとっても喜ばしいことだ。歓迎するよ、ナッジ君」
ジラークの物言いは、いささか大仰ではないのかと思ったのだが、それでも差し出された手をナッジが拒む事はなかった。
気難しげな彫りの深いその顔には、疲労の色が濃い。だがそれよりも、老人の、その齢に似つかわしくないほど異様な強さを宿す鋭い眼光に、思わず目を奪われてしまう。
「状況は、長引けば不利だ。……だが何、案ずる事はない。我らに必要なものは、用意してある。それがあれば、我らの理想も叶おう」
言い切るジラークの瞳に燃える炎は、今や同朋を統括しているというその立場や元から備わる威風をもってしても、どうしようもないほど暗い予感をナッジに覚えさせる。
にこやかに応じながらも、ナッジは、腹部にひどく重たいものが沈んでゆくような錯覚に襲われていた。
「あなたが、我らのリーダーになってくださるなんて、まるで夢のようです!噂は、沢山聞いてますから!」
ナッジの姿を認めるや否や、興奮してまくしたててくるコーンスの若者は、ルイセと名乗った。
月神の恵みを受けるべく見事に成長した角からもナッジよりはいささか年上に思える。
それでも黒に近い藍に染め上げられた麻織りの長衣から覗くチュニックや重ね着の様子から、どうやらエンシャントの魔道アカデミー出身であろうと思えた。森の中に住まい、精霊と対話をしながら静かに暮らす事の多いコーンスにしては珍しく、洒落っ気もある。
案内された宿舎は、アルノートゥンに駐屯している傭兵らのそれを、そのまま白虎軍が収容したようだった。歴史を感じさせるといえば聞こえはよいものの、ようは殆どが手つかずの古い宿舎だ。
木造の木枠はといえば、初冬の風に煽られてがたがたと音を鳴らしているし、こもるような空気はほこりくさい。その上、ここにあるものはといえば簡素なベッドと、最低限の食料。白虎将軍ジラークの無駄を嫌う性格が、こんなところにまで現れている。一時イアルパたちと共にロストール軍に加担した事があったが、あのときの待遇を思えばそれだけでも不安を感じる。
かといって、今更ここを去る訳にもいかない。
宿舎の北東に位置する小部屋に案内される途中、ナッジはそれなりに様子を伺いながら来たのだが、武器を始めとした様々な必要物資が、とことん不足していた。にも関わらず、ここは一種異様な熱気に包まれている。
同族がこれほどに集う場所というのは初めてだったが、けれど、冷静沈着さが常の同族が、まるで人間のようにおかしな熱に浮かされているのではないか、とナッジは漠然とした不安を感じていた。人間よりもエルフのそれに近い思考を持つコーンスにしては、それは異様といえた。
「まさかあなたが力を貸してくれるとは思ってませんでしたから…」
が、ナッジの様子に気がつくわけもないルイセは、弾んだ声で続ける。
「あの、すみません、噂って?」
「何って………」ルイセは絶句した後、続けた。「駆け抜ける風の噂は、冒険者連中にだけ独占されてるわけじゃないんです、こと、あなたの武勇談は、我らにどれほどの勇気を与えてくれたのか」
さも当然、といわんばかりの彼の言葉に、ナッジは思わず口を挟みたくなったのだが、その言葉のうちに含まれる熱に、口は閉ざされてしまった。
……それは僕が受けるべき評価じゃないよ。その言葉を受け取る資格があるのは、違う人だ。そのために辛い思いをしたのは、僕じゃなくて、彼なんだから。
確かに、彼だけの名誉ではないかもしれない。が、その評価を受けるべきは彼なのだ。ナッジにとっても、唯一の家族ともいえる、イアルパだ。
ルイセにしてみれば、「駆け抜ける風」の二つ名はナッジを象徴するものなのだ、と言う事もわかっていた。だが、その名を得る為に誰よりも苦悩した相棒の事を無視したルイセの発言を、例えそれがナッジ自身を賞賛する意図であれ、不愉快だとナッジは感じていた。
「あなたが、我々のもとに駆けつけたと将軍から聞いたときは、まさかと思いました。けれど、こうして、現実に、あなたは目の前にいる。……浮ついてはいけないとわかっていても、なんだか、勝てそうな気さえするのです」
はにかみながら続けるルイセに、やはりナッジは何もいえなかった。
そんな思想は危険だ、ナッジは思わず口に出しそうになった。だが、深呼吸とともに考えを正す。熱に浮かされたように喋る彼を、この場で諌めたところで、何になるというのだろう。正念場はこれからだというのに、あえてそれに水を差す事もあるまい。
そうは言っても、だからといって取り繕う笑みすら浮かんではこない。アルノートゥンという場所が麓よりも大分早くに冬を迎えるお陰で、部屋の中ですら吐く息の白さに縮こまっているからではなかった。
「…すみません、勝手にはしゃいでしまって。けれど、あなたが来てくれた事、それは本当にありがたいし、心強いんです。皆、そう思ってますよ」
ナッジのふさぎ込んだ様子を察したのだろうか、ルイセの口調は幾分穏やかになっていた。興奮してまくしたててしまった己が恥ずかしくなったのだろうか、上気した頬とはにかむような表情で、目をそらしている。
他意のない、純粋な敬意がこれほどに息苦しいものとは思っていなかった。
勿論、顔に出すような軽率な真似はしなかったが、ナッジの心中はあのときから、イアルパとヴァンの元を去ったときから、晴れる事はない。このような半端な気持ちで本当に迫り来るディンガル軍を食い止められるのだろうか。
ナッジが胸中に抱き続けている不安に再び捕われようとしていた時、現実に引き戻すかのように狭い部屋に硬質な音が響く。
「将軍が、お待ちですよ」
ディンガル兵の言葉に、腰を落ち着けたのならば町外れに来いと言っていた老人の姿を思い出す。異様な空気に圧倒され、すっかり失念してしまっていた。己を悔いながら、ナッジは足早に扉に向かうと、部屋の同朋の事も忘れてしまったかのように、外套も羽織らずに部屋を飛び出した。
これなら、なんとかなるかもしれない。そんな希望の欠片すらも、まったく見いだせない。
どころか、胸中に重苦しくのしかかるものは、よりその重みを増しているかのようだった。
「ついてきたまえ」
ジラークは、やはり言葉少なだった。
祖父ジルダから聞いていた印象そのままの姿だとナッジは思う。
かつては、滅ぼされし都アハブへの主たる街道をそのまま西に往き、途中の分岐を北に向かうと、街道はやがて岩場といってもいい険しい道になった。
鉱山に向かい、またそこから鉱石を運び出す目的で作られた道は、それでも山々の間を十分とはいえぬ広さを保ちながら途切れる事は無い。冒険慣れしているとはいえ、やはり山道の険しさはーとりわけ大陸でも最も標高の高いアルノートゥン一帯の険しさは、ナッジの両足に難儀を強いてきた。先ほどまで感じていた寒さはどこぞへ行ってしまっているにも関わらず、白いものが空から降りてきていた。
一足早い冬の風と冷たい灰色の空が、自分自身の胸中をすっかり映しているようで、ナッジは思わず身震いをしてしまう。額には汗すら滲んでいるというのに、このおかしな寒さは何だろう。身体の外ではなく、芯を直接に凍えさせるような、寒さと果たして形容してよいのか、それもわからなかった。
言葉を交わす事は、なかった。なぜだろうか、先刻までは、あれほどに真意を問いただしたいと思っていた筈が、こうして当の本人と並び歩いていると、まるでそんな気がなくなってしまう。
なれば、ジラークは既に揺るぎない決意を胸に秘めているからであろう。それは、目通りしたその瞬間から伺い知る事が出来た。
「聖光石の坑道の事は、君のような著名な冒険者であれば知っていよう」
先をゆく老人の歩調がややゆるみ、ゆっくりとこちらを振り返る。年の頃は初老といってもいい筈なのに、深く刻まれた皺と、削げ落ちた頬の肉、そして何より本人の硬質な印象が手伝い、年齢よりも更に老いて見える。それでも、己の魔力を滞りなく発揮するためな錫杖を振り上げ先陣に立って指揮棒を振る様は、それこそ白虎将軍の貫禄と威厳という風に取れたものを、こうして戦場から一歩離れ、上官と部下、という信頼を十分に築く以前に肩をならべてしまうと、ナッジは萎縮するというよりはむしろ懐かしさにも似たものを感じていたのは否めない。
それは、かつて祖父の教え子であったジラークの元で戦うのだ、という奇妙な因縁と無関係ではなかった。
「そこにあるものは、滅びだ」
答えぬナッジの目を真っ直ぐに見つめ、いつの間にたどり着いていたのか、幾度か見た事のある深い穴の入り口の前でジラークは緩やかにそれを口にした。その発音に、闇の中に潜む何かが、蠢きながら笑っているかのように思え、ナッジは思わず視線を坑道より背けた。
臆しているナッジに関わらず、ジラークは腰を屈め、中の様子を伺うように覗き込むと、寒気で赤くなった手でカンテラを灯し、ついてくるようにナッジを促した。ジラークの意図を察し、心持ちはすぐさま引き返したい、という思いから必死に逃れながら、それでもナッジは進むしかない。
「………滅、び」
口の中で反芻しつつ、ナッジは知らず知らずのうちに顔を伏せていた。
何の滅びか。
脳裏を過る、二つの顔を必死で打ち消す為に拳を強く握った。穏やかな話題ではない事だけは、確かだ。もっとも、自分たちがこれからしようとしている事を考えてみれば、意外な話題ではなかった。
そして流されるままに、ナッジも徒をすすめ坑道への入り口になっている朽ちかけた木枠をまたぎ、そっと闇の中に身をゆだねた。
視界が闇に覆われ、坑道に入った瞬間、地の底からわき上がってくる言いようのない冷気に、ぞくりと背筋をふるわせる。ああ、さっきの寒気だ。この奥から這うようにひたひたとにじり寄る、まるで悪意のような寒気が、先ほどの違和感の正体だ。
「そうだ。だが、それは、我らの事ではない。分別をわきまえず、不当に我らを貶め続けてきた、人間どもの、だ」
ジラークの言葉は、まるで抑揚がない。
その瞳が見ているものは、その眼差しの行き着くところは、カンテラの頼りない灯くらいでは、ナッジには読み取ることは出来ず、想像もまた、出来なかった。