雨が降っている。前に進めども泥濘、かといって戻ろうにも東の空は暗さを増すばかり。
どしゃぶりとまではいかずも、しとどに身体を濡らす初冬の雨は、やがては白く冷たく、姿を変えるだろう。吹きつける風は、西よりの重い潮風ではなく、刺すような北風に変わっていた。
冷たい雨が、降っていた。
足取りは重たく、そしてその重さは、何も、靴にまとわりつくひどい泥水の所為だけではなかった。
例え背に大義を背負い、全てを振り払って同族の待つアルノートゥンへの迷いなき道とはいえ、戦神ソリアスはその道程に祝福を授けるわけでなく、月神セリューンもまた、沈黙にあられる。
往く道往く所、至る所に、戦の凶暴な爪痕が目立っていた。今やバイアシオン大陸で、戦の爪痕の残らぬ地など、ないのではないか。人が入り込み、開かれた土地のそのことごとくは、蹂躙されているのではないか。少なくとも、人が生活を営むべく開かれた土地で、その惨禍を逃れ得ているのは、戦に巻き込まれる事のなかった、南の離島エルズぐらいではないか。
今ナッジが歩み重く往くのは、かつてアンギルタン率いる朱雀軍がアキュリュースを攻めるとして陣営を張ったあたりであった。
黒く焦げた大地、むき出しの砂地、朽ちかけ雨ざらしのままの荷台であればまだこのディンガル領はマシな部類だった。
大陸の南方ロストール近郊など、それこそそこら中に野晒しの遺骸が、相応の弔いもなく雨に打たれ、風に朽ちてゆく運命にある。かの美しき王国は、最早昔日の面影などはない。
辛うじて城壁の内にある城下町はそれでも人の営みは行われていたが、竜王の加護が人間を護るのはそこまでだった。沃野と名高くどこまでも続く黄金の野は、茶褐色に覆われて、すっかり滅びと死に染められていた。なれば精霊たちの死は無惨なものだ。二重の死だ、とナッジは思う。
そこからくる、精霊の怒りは、わからぬでもない。人間の奢りは、一体どれほどに人間以外の存在を傷つければ気が済むのか。大地を蝕み、水を犯し、とかく異質な存在を排除し追いつめ、数を武力に、大陸中で己らの揺るぎない地位を誇示しながらも、さらに醜く貪欲に奪い、犯し、殺し、笑う。
そしてそれは、ナッジにとって決して対岸の火事ではなく、実感を伴う恐怖だった。
思い出は、時にぬかるみのごとくに記憶にまとわりつくものだ。
優しい記憶は、ただその心に波紋をひとつ、落とすに過ぎない。
戦争は、醜かった。ひたすらに醜い、殺し合いだった。
それは、ティラに属する闇の者との果てのない、質を異にする者同士、互いの存在意義を懸けての避けられぬ戦いなどではなく、愚かにも同族が同族を喰らい、殺しあっているようにすらナッジには見えた。
だから、豊穣なる土地を軍靴で踏みしだき、意気揚々と鉄を振るい笑顔で殺すあの心持ちを、理解したくはなかった。
イアルパの言葉に耳を傾けず、無理に彼についていって血煙の中に立ち、戦場の空気を吸った時、臓腑から沸き上がるどうしようもない悪寒に襲われ、惨めにも嘔吐を繰り返した。理性がすべからく目の前の現実を否定していたのだ。イアルパとヴァンがいなければ、今頃は多分あの戦場の荒野に転がる野ざらしの屍体の仲間入りをしていたに違いない。
あれから二度と戦場の空気は吸っていなかったが、よもや自分があれほどに嫌悪した戦争に加担するなどと、一体どこの誰が想像出来ただろう。
殺し合い、憎み合い。暴力に対するは暴力。復讐には刃を、大義には矛と盾を。繰り返し、繰り返されてきた長い長い戦いの歴史の、それはただの側面に過ぎない。
だが、史書の頁をめくるのと、その歴史の一旦に己が身を置くのとでは、何もかもが違う。あらゆる価値観ですら、逆転しうる。そして、その永劫とも思える営みを目の当たりにして、ナッジは改めて、そこに秘められたる業を思い知らされた。
コーンスが、穏やかにあれ、夜空にたゆたう月のごとく控えめにあれ、そう定められた種だとすれば、人間は、望み、願い、破壊し、そして創造する種なのだと。何かを生むには、何かを壊さなければならない。
何かを成すためには、何かを犠牲にせねば、ならない。
それを端的に表してみせたのは、英雄ネメアだ。かれは大陸の意思の統一という目的の、素早い掌握のため、全面戦争を引き起こした。ネメアのとった行動に対し、そう冷静に分析をして、けれど他に方法はなかったのか、と誰にでもなく呟いたイアルパの表情は忘れられない。戦争のもたらす不幸を、既に彼は体験していた。むしろ彼は、バイアシオンに数多く存在するであろう、戦争が生み出した不幸な子だった。彼の両親は、ランバガン略奪戦争に傭兵して参加し、そして共に討ち死にしている。その事を知らないのは、当の本人だけなのだ。
己の内心に向かい、思慮を巡らせた所で、答えが出てくるでもあるまいに、ナッジはただひたすら、雨の中を留まりもせずに街道を歩んでいた。
不安、そして後悔。
常に頭の中にぐるぐると回っている言葉は、それだった。
もっとも、当初はただ漠然とした不安に過ぎなかった。ジラークの決起にしても、その報を耳にしてから、幾日か考える時間はあり、情報を集める時間もあった。そして耳にしたのは、芳しからぬ情報ばかりだった。不安は最初からあった。
それでも、情報を集め、そして時間が経てば経つほどに、力添えをしたいと強く思った。たかだか己一人が駆けつけたところで、戦況が変わるとは思えない。だが、それほどに無力ではなかろうという自負もあった。
とにかく、何かしなければ、と、思った。その思いは、例え冷たい雨に晒されようと、決して消える事なく胸の内に、赤々と燃えているに違いない。
しかし、同時に同朋に力添えをするという事は、イアルパやヴァンの元を離れなければならなかった。
まさか、彼らに自分たちに力を貸して、自分たちの国を作るため命を捨ててほしい、などとは言えない。虫のよすぎる勝手な頼み事でしかない。そう思ったからこそ、皆まで告げずに立ち去る事を、ナッジは望んだのだ。
だのにこうして一人になり、風雨に晒されながら歩いていると、足が一歩一歩進むごとに、不安は募って行く。そして不安が、やがて重苦しい後悔となり、意図せぬところに蓄積されてゆく。
何が正しいのか。果たして、今、自分がやろうとしていることは、正しいのだろうか。
思えば、いつでも彼は、そしてもう一人の親友ヴァンは、ナッジに往くべき道を指し示してくれていた。迷っていれば、気軽にあるいは控えめに背を押してくれたし、不安があるという顔をしようものなら、大丈夫だ、と笑ってくれた。
けれど、それも、過去の話だ。
そしてそれを過去にしたのは、他ならぬ自分自身だ。
それでも歩みを止める事は出来なかった。
なれば、街道は途切れる事なく、ひたすらアルノートゥンへと繋がっているのだ。
その先にあるものを、せめて確認しなければ、後悔は決定的なものになるだろう。自分は同朋を見捨てたのだと、そんな抱えきれない罪悪感を抱きながら生き続けねばならない。それだけは、月神セリューンとその眷属の印の角に誓っても、そのような選択だけは出来ない。
だから、ナッジは街道を往く足を止める事はなかった。遅々としていた歩みは、いつしか激しさを増している雨足にその背を押されたかのように、速さを増していた。