穏やかな木々のさざめきと、強くも弱くもない陽光に、濃厚な森の臭いがする。それは木のぬくもりに包まれている屋内からでも、十分に肌で感じる事が出来た。
世の中が変動し、戦火に巻き込まれようとも、或いは見えぬ場所から闇の侵蝕が始まっていようとも、変化しない。今ここに座る三人のうちの二人が、共にこの場所に迷い来んでからこの方、時の流れを止めてしまったかのように変わらないのだ。
猫屋敷と呼ばれるそこは、冒険者の間では最早伝説だった。運命に選ばれし者のみが、招かれるという。真偽の程は定かではない。
主人であるオルファウスの計らいもあって、屋敷の一室は簡素ではあるが、旅の疲れを癒す事は出来た。
また、姿形は変われどれっきとした魔人でもあるネモや、かつて魔王バロルを倒した伝説の冒険者のひとりケリュネイアといった、いささか普通ではない住人もいることはいるのだが、彼らは彼らなりにここを時折訪れる冒険者たちには協力的で、余計な介入をするということもない。
この屋敷と同じ材質の木で作られた長椅子にくつろいだ様子で座っているのは、バイアシオンで冒険者を目指すものなれば知らぬものは殆どいない、あのゼネテスと人気では双璧を誇っている「駆け抜ける風」イアルパ。
生きた伝説といえば格好はよいが、当人は多分そのような風評は笑い飛ばすであろう。そんな気軽さが彼のまとう雰囲気にはあった。
隣に几帳面に座り、俯いたままのコーンス族の青年はナッジといった。イアルパとは同郷でもあり幼馴染みでもあり、家族でもある。
窓の側に立ち、不気味な程に沈黙を守っているのは、二人の親友でもあり心強い仲間でもあるヴァン。普段の快活さはどこへやら、むっつりと腕を組み押し黙っている。
三人の間に漂う空気は、ぎくしゃくとして、居心地がよいとはお世辞にも言えなかった。
「なあ。俺たちが旅に出たきっかけ、覚えてるか?」
「忘れてるわけないよ、ちゃんと、覚えてる。覚えてるよ」
「……懐かしいよなあ。俺たち、何もわかってなかったし、何も知ろうともしてなくて、ほんと、バカでさ」
のんびり、といった調子で語る青年の瞳に、普段垣間見られるような鋭さはまったく存在していない。
ところが隣に座るコーンスの青年の瞳は、曇っていた。そして、その二人をもっとも良く知っている少年は、けれど二人に背を向けている。
「でも、いろいろあったよな。ガルドランのやつもさー…笑っちまうよな、なんか、あいつ見てると、マジになってた俺らがバカみたいで」
イアルパの調子は軽い。三人の間にあるぎこちない空気も、お構い無しだ。いつもならこんな役目はお調子者のヴァンが担当しているのだが、当の本人は先ほどからむっつりと黙ったままだった。
「実際大真面目だったけどよ、けど結局、アイツの底なしの馬鹿さ加減にゃヴァンも降参してたもんなあ」
「…バカの相手を真面目にするくらいバカなこたねえよ。ありゃ特別製バカだ。最強馬鹿様だ」
背を向けたまま不機嫌そうに付け加えるヴァンに、イアルパの表情が緩む。
旅の始まりは、復讐だった。それも、ひどく些細で個人的な。
いざ世に出てみれば、世間に広がる憎しみや復讐という闇は、途方もなく、そして際限がなかった。終わりがなく、どこまでも哀しみを背負うその感情を、いつしかイアルパもナッジも自分達の求めうるそれではないと、気がついていた。
憎しみは憎しみしか呼ことはなく、更に哀しみや苦しみをも産み出してしまう。
小さな町でさまざまな人達を幼い二つの瞳で見てきていたヴァンにも、その目的の無意味さはわかりきっていた事だった。けれども、単にそれをに否定されるだけでは納得がいかず、我が侭を通した事もあった。
「誰かを守りたいから、強くなる。強いから、誰かを守れる。失いたくないから、強くなって、誰かを守れるようになりたい」
イアルパの言葉に、ナッジは思わず目を瞑り、まるで否定するかのように首を振る。
ヴァンが振り向き、俯いたままのナッジをじっと見つめていた。弟分の様子を、けれど穏やかな目で眺めていた青年は、手元の弓の弦を調節しながら、構わずに続けた。
「お前があの時出した結論さ。俺たちは、その為に、強くなろうって決めた。………な?」
「君には…」
ナッジのはっきりときこえない言葉は、青年の口をつぐませるには十分だった。
弓の弦は十分に張っている。得物を目の前の木製のテーブルの上に置くと、今度は腰元のナイフを手に、イアルパは黙って相棒の次の言葉を待った。
ヴァンは同様に腰に結わえ付けた得物に手を伸ばす。感情を露呈することしか知らない少年に、この沈黙を強いられる状況ははっきりいって手慰みでもなければ、耐えられる代物ではなかったのだ。
その様子に気がついたのか、イアルパは無言で小刀とヤスリとをヴァンに向かって放ってよこした。空中でそれを受け取ると、ヴァンは手甲をまずは丹念に磨く事から始める。
小さな刀身を研ぐ規則的な音と、金属を削る細やかな音の二つだけが、静かな一室にひびく。
時折窓を揺らすのは、そよ風に踊る小枝と些細な悪戯好きの風の精のみで、静寂は対話の邪魔をしようとはしなかった。
「君たちに、わかってほしい、なんて思ってないよ」
それははっきりと、拒絶の言葉だった。
ヴァンの手がぴくりと震え、肩が戦慄いている。
イアルパは手を止める事はなく、動じる気配もない。ただ哀しげな笑みが口元に、わずかに浮かんだ。
ナッジは、二人の表情を伺おうとは思わなかった。
「僕はコーンスで、君たちは、人間。生まれた時から、決まってたんだもの」
当たり前の事を口にしているはずなのに、ナッジの胸中は痛みに悲鳴をあげそうだった。口にしてはいけない言葉だということを、一番わかっていたからだ。
相手を傷付けるとわかりきっていて、それでも主張を通すからには、それなりの理由があった。できれば、口にはしたくなかったのだ、という言い訳をするつもりはない。
種族という壁は、本人たちが意識しようがしまいが、確実に存在している。黙殺しようとしたところで、黙殺したという代償は遅れてやってくる。
認めたくなかったのは、一様に同様だった。けれども状況は、さっさと現実を見つめろとばかりに容赦なく選択肢をつきつけてくる。そうなった時に、乱れる己自身の心に向かい合いそして耐える、そんな覚悟がなければ、最初から馴れ合いなどは望むなと、まるで嘲笑されているかのようだった。
ジラークがネメア亡きディンガルに反旗を翻した。これに対して現ディンガル帝国宰相ベルゼーヴァは青竜将軍カルラに討伐を命じる。
一刻の猶予もなかった。ジラークはコーンス族を集めたとはいえ、その総力などはたかが知れている。ネメアというカリスマを失ってしまい混乱の最中にあるディンガル軍だったが、それでも神速のカルラの異名を持つ死神の軍勢は、死に絶えたわけではない。彼女の重ねた勝利の数は、決してディンガル軍に「敗北」の二文字を連想などはさせまい。まして、非戦闘員のコーンスで構成される軍勢など、そもそも相手にすらなりえない。
一方的な殺戮がまた繰り返されるだけだろう。死神の鎌は、慈悲などという言葉とは無縁の象徴だった。
ことり、と小さな音がした。テーブルの上には、綺麗に研ぎすまされた一振りの短剣が置かれている。銘などは特にないが、よくよく見れば刀身には不思議な光が宿っている。手練の鍛冶屋の技術で刀身に仕込まれた毒は、斬りつけた時にのみその効果を発揮するのだ。
「……ま、そりゃそうだよな。どんなに頑張っても、俺らにゃ、角はえてこねーし」
ヴァンが堪えた感情を爆発させる直前、まるで笑うかのように軽いイアルパの言葉に、ヴァンは怒りの矛先を見失い、怪訝そうにナッジは顔を上げた。
「お前は、お前が信じたことやれよ。俺もヴァンも、自分がしたいようにするさ。間違ってもいい、そのツケは自分で払う覚悟くらいはあるからな」
イアルパの言葉は、この上なく優しかった。
そして、その表情も、灰色の瞳も、やはり、穏やかだった。
その顔を見てしまったヴァンは、友の薄情を罵る言葉すら、喉の奥にひっこんでしまった。
彼自身、納得は、はっきりいえばしていない。けれども、ここでそれを露呈は出来なかった。
そしてナッジは、イアルパの胸中を、決して伺い知る事は出来ないと思っていた。けれども、兄貴分の言葉は、決断と躊躇いとを繰り返していたナッジに、確かに光明の一筋は与えてくれた。
イアルパの言葉の裏には、今まで彼が通ってきた、決して穏やかではなかった決断と、その過程で浴びざるを得なかった罵倒や哀しみや恨みや、越えなければならかった屍の全てが隠されている事を、誰よりも知っているのはナッジとヴァンの二人だった。
大きな流れの中で、それでも自分を見失わずに進むには、相応の対価が必要だった。
その苦悩も、哀しみも、迷いも、全部見てきた。
時に冷酷に、時に凄惨だった沢山の別れに、まるで生きているとは思えぬほどに凍り付いた表情をしていた事もあり、ひどくふさぎ込んでいた事もあった。
それを思えば、どうしてその言葉を否定出来るだろう。胸の内にある思いは違えど、ナッジもヴァンもイアルパの思いを踏みにじる事は出来ない。
その上で、先ほどの自分の言葉をナッジは思い出して、けれども、そこで己の決断が揺るがないという確信を得ていた。卑怯だった。卑怯なやりかたで、イアルパに甘えきった、酷いやり方だった。多分ヴァンは納得しない。
けれども道は開けた。
「アル、ヴァン。僕、…パーティーを離れるよ。同胞の、力になりたい」
ナッジはゆっくりと、顔をあげる。
「ああ」
「色々、考えたんだ。だから」
「行けよ」
「…………うん、それじゃ」
立ち上がるナッジの表情は、決して晴れ晴れとはしてはいなかった。済まない、という気持ちは必死で押しとどめた。そんな気配を微塵でも表に出そうものなら、多分この場で張り倒されるだろう。何の為にイアルパがそんなことをしたのか。何故、あれだけ己の感情に素直なヴァンが余計な口を挟まず、黙っていたのか。
二人がかりなら力づくで止めることもできるだろうし、知らぬ存ぜぬを通す事だって出来た。けれどもイアルパとヴァンはそれをせず、ナッジ自身に決断を委ねてきた。
どんないいわけをしようとも、もう選んだのだ。未だに座り、もう一振りのナイフの手入れをしているイアルパの事も、黙々と手甲を磨いているヴァンにも振り返らず、ナッジは部屋を出た。転送の間には、ケリュネイアの姿もない。気遣いが、有り難かった。
どういうことになるか。どうなるかはわかっていた。
イアルパとヴァンは止めに来る。送りだしてくれた癖に、なんてことはナッジは言えはしなかった。ナッジが同胞の為に戦う、という道を選んだように、二人はコーンスの無謀な反乱を未然に防ごうとする。ディンガルに力で蹂躙される、その前に。
多分最良の方法ではない。けれど、お互いに何を考えているかなんて手に取るようにわかってしまうくらいに近しい家族も同然だったから、誰よりも大事な友だから。
だから、尚の事うやむやには出来なかった。
穏やかな陽光に包まれている猫屋敷の敷地から一歩足を踏み出すと、空気すら変わる。あそこは、優しい記憶がいつまでもただよう、安らぎの空間だ。
森の姿でこそ、屋敷付近と同様だが、そよぐ風には煙と血の臭いが心無しか混じり、闇のものの気配も幽かに在る。
それは、滅びに向かうこの大陸の命運を暗示しているかのようだった。或いは、それには己の命運すらも含まれているのかもしれない。
けれど、それでも、進まねばならない。その為に、もっとも大事な家族と友を棄てたのだから。それはどちらか選べるようなものではなかった。だが、選ばねばならなかった。
森を吹き抜けて来る風は、故郷のそれのように肌を刺すような厳しさではなかったが、はっきりと向い風だった。
ならば、抗おう。抗うと決めたのだ。
ナッジは走った。躊躇している暇はない。一刻も早く、同胞の元に駆け付けなければならない。
「駆け抜ける風」
相棒の通り名を思い出し、ナッジは思わず小さく笑っていた。誰よりも早く、そして自由に大陸を駆け巡る、しかしどのような勢力にも過分には与することのない青年への揶揄もいささか含まれているその通り名を、相棒はいたく気に入っていた。これは俺たち三人の、通り名だ。そういって笑っていた二つの顔を思い出す。
風は冷たい。けれど、ナッジは走る速度を、ゆるめなかった。