夕暮れよりも少し前。陽が西の空に下ろうとする、ほんの少し前、空は一時明るさを増し、やがてゆるやかに、すみれ色に染まる。こと、高く澄み渡った秋の夕暮れ時などは、その見事さに農夫も思わず収穫の手を止め、大地よりも空を見上げるほどなのだ。
それほどに見事な夕映えはしかし、一日のうちでもほんとうにわずかな時間、子供達にあたえられたささやかな宝物だった。
冷たい夜の足音には、まだ遠く、穏やかだった晩秋の日射しの余韻は、遠い空にわずかに残る。もうすぐ霊峰トールの頂は雪に閉ざされ、とうに滅んでしまった神聖王国の名残なのか、巡礼者たちや命知らずの冒険者たちを約半年もの間頑な態度で迎え、時に拒む。
けれどもそんなものは、テラネに名高い悪童三人衆にしてみれば、眠れない夜の昔話以前の、興味すら持てない面倒臭い大人の説教と同じ程度。重要度といえば皆無に等しく、その耳に何かの間違いで入ったところで、理解する気も起きない、自分達とは関わりのない出来事の一つだった。
「風、冷てぇな」
赤ら顔の少年のまっすぐな目線は、高い高い山の頂にあった。冷たい風の主は、あの山だ。全てを見下ろして、ただ悠然とそこにある。
「うん」
短い癖のある前髪の間から、申し訳程度の角がのぞいている少年は、穏やかな麓の森を眺めていた。明るい色の夕焼けを受けて輝くには、やや水と土の加護が少なくなってしまったが、それでもそこは未だエルフ族の領域だ。
「じゃ、かえれよ」
浅黒い肌をした痩身の少年は、座り込んでいる二人からやや離れ、ひとり立ったままぐるりと空を見回した。冷たい風に雲が流されていて、光も流れていた。
そこは町からは離れた荒野だった。赤や黄色に色付く木立を抜け、やがてディンガル帝国を貫いて北海に流れ込む水流を渡る大きな木造の橋を渡れば、広大な、けれど畑になりそうもない痩せた一帯へと出る。
テラネの町から霊峰トールへ向かう路の途中には、旅人用の簡素な休息所がある他は、まったく無人の荒野が広がっている。大陸の南方ロストール王国や内海に面しているロセン王国とは異なり、ここディンガルやロセンを除いた東方諸国、および山間部に位置するアルノートゥンといった国々は概して気候は厳しい。ゆえに南方からの巡礼者などは、テラネを出立してからまず驚くのは、この荒涼とした景色なのだという。
そんな、巡礼者や冒険者以外にはまず通る事のない街道沿いの、さらに先へ荒野などは、子供たちの絶好の遊び場で、人目を憚ることの出来る隠れ家にもなっていた。
三人の子供は、お供の山羊と老犬をつれて、秋の、何もない荒野で、それでも彼らなりにおおいに休息を楽しんでいた。
「せっかく、人が苦労して抜け出してきたってのに、お前なぁ」
「ヴァンはいつもそればっかり」
苦言を顔に露にする少年は、いつの間にか鼻まで赤くなっている。激昂する一歩手前のサインだ。激しやすい友人をなだめるかのように、殊更穏やかな口調でたしなめるのは小さいながらも立派に種族の証を持つ、コーンスの少年。
「お前らは、だって、家を抜け出すのに苦労する必要なんかねぇだろ」
怒りはぐっとおさえたかわりに、今度は不平が口をついて出る。赤ら顔の少年は、まるで泥だらけで肘や膝に切り傷ばかり、顔も荒野の埃に塗れているのでそうは見えないのだが、よくよく観察すればその服は高価な代物だし、破かれた跡もきっちりと繕われている。少年の名はヴァン。テラネで最も財を持ち、小さな町で幅を聞かせているアユテラン家の御曹司だ。
「普段悪さばっかしてるからじゃねえか」
痩身の少年が、億劫そうに首だけ振り返りヴァンを一瞥した。特徴的なのは浅黒い肌だけではなく、光の加減では青味がかったようにもみえる色素の薄いぼさぼさの髪の毛もまた同じように人目を引く。この奇妙な外見のお陰で、少年は人生の大部分を損してきている所為か、その眼光は時に得物を狙う狩人のように鋭くなることもある。だが今はその必要もなく、休息の時間だ。少年の目に宿る剣呑な光は、影をひそめている。
「悪さって、おまえ、な!」
ヴァンは友人の理不尽な応酬に、ついに声を挙あげてしまった。するととたんに弾かれたように、二人の少年は顔を見合わせて笑いはじめる。
面白くないのはヴァンだったが、憮然としてみせると、なおも二人の友人は笑いを加速させる始末だ。
しまいには、当の本人まで腹を抱えて笑い出してしまった。
彼方にそびえ立つ霊峰トールから降りて来る風は、北海からの冷たい湿気を孕んで、ことこれからの季節、巡礼者たちに厳しく、そしてまた麓一体に住まう人々にとっても容赦のない洗礼を与えてくれる。
森の木の葉を落し、草花を枯らせて、やがて、気紛れに雪を運ぶ。
ディンガル帝国のうちでも北部一帯は、かの山岳地帯にそびえる城塞都市と同じくらいに早く、冬を迎えるのだ。
だからこのテラネに住まう人々の、秋というのは慌ただしい。
たいして実りもつけてくれない麦を収穫し糧にしなければならないし、長い冬の間を耐えるための薪を集め、家畜の飼料だって蓄えておかなければならない。或いは、傷んでしまった家屋の修理であるとか、いい加減老いてしまった家畜の処分だとか、さらにはそれらを加工し、保存しておく。それはもう大人も子供も、それこそ息をつく暇などはないほどに忙しくなる。何故なら冬の間だからといって命知らずの巡礼者が後を断つことなどはなく、そのお陰でこの貧しい土地のひなびた集落が、一介の農村にくらべれば幾分かは豊かであり、冬を越える事のできる老人が子供が多いのだ。
そんな中、皆の目を盗んで村を抜け出すことそのものが、三人のちぐはぐな子供たちにとっては楽しみで、新しい遊びの一つだった。
テラネの中で、ほぼ領主のような存在であるアユテラン家の御曹司ヴァンと、いわくつきの孤児トオヤと、「角つき」の子供ナッジ。
大人たちの間では、あるいは集まるべくして集まった悪童、などと侮蔑をむき出しにする者すらもいた。
更にいえば、あまりにも悪質な悪戯をしすぎたお陰で、そろいも揃って小さな神殿からも疎まれている始末である。この神殿は、簡素な佇まいではあるが、かの神聖王国時代からの由緒ある建物として、清廉さと威厳を必死に維持しようという老神官と、信心深い孫娘によって日々町の人間の拠り所となっている。
勿論、親のない幼子二人、同情的な視線がなかったわけではないのだが、些細な同情や良心によって、ノトゥーン神官や宿屋の主人に睨まれてしまっては、この小さな町ではそれはまともには生きてはゆけまい。彼らなくしてテラネという町はなく、また、彼らの存在があるからこそのテラネなのだ。
狭い町の事だから、当然、その風あたりの強さは、自然子供たちの姿を、町の外へと追いやることになった。
だけれどもそんな悪評も何のその、またしても仕事を放り出して野山を駆け回り、土ぼこりと傷だらけになって喜んでいるのは、誰よりも実は肌色も血色もとても寒村育ちの子供とは思えない、宿屋の息子のヴァンだった。
残り二人はといえば、偏見が当たり前のように存在し幅をきかせているこの町の中、出来うる限りは共存しようとひたすら努力を積み重ねてきていた日々を自らかなぐり捨てて、それでもこの新しい友だちを、態度の差はあったが二人とも、心から歓迎していた。
何か面白い事を誰かが思いつけば、三人そろって実行したし(たいがいはヴァンによる悪戯だった)、大人たちには黙って町を離れて遊ぶようになったのも、三人になってからだった。
お陰で、孤児二人の面倒を見ていた村はずれのボンガ夫妻は、面倒を見なければならない子供が一人増えてしまったのだけれども、嫌な顔もせずに、この問題児三人を可愛がってくれていた。
「へへ、あいつ、ばかだなー、年寄りだからかなあ、枯れ草なんか食ってんぜ」
「しょうがないよ。だってこのへんは、春にだっていい草なんか生えてないんだから」
ひたすらに口を動かして、何かを食べている老いた山羊を、寝転がってニヤニヤしながらヴァンは眺めていた。静かに口だけをモゴモゴと動かす様ときたら、どうやら彼には面白くて仕方がないらしい。
連れてきたちいさな子山羊はその隣で、やはり同じようにしてなにやら口に含んでいる。ヴァンは、小さく声を立てて笑った。
「やっぱ、風、つめたいな」
最早冬を越せるのかどうかもわからないくらいに老いぼれて、一日中寝ているように見える老犬に歩み寄って腰を下ろしその荒い毛並みを撫でながら、トオヤは改めて、彼方にそびえる霊峰を眺めた。頂上は見えず、灰色の冷たい雲に被われている。
「うん。でも、もうちょっと待ってよう」
ナッジは小さく身体を震わせてから、二人に目配せをしてから膝を抱え込んだ。
荒涼とした大地に点在する木々の影が、やがて、長く、伸びて来る。影はやがて森に到達し、森は、夜の闇をいち早くつくり出している。ここはお前達の領域ではないのだと、自ら告げんばかりに。
雲が流れて、流れていって、やがて橙色を帯びてくる。
「雪、降るかな」
「ばっか、まだ降るわけないだろ」
すみれ色から徐々に赤味を増して、やがて、真っ赤に染まってゆく、どこまでも続く空を、子供たちは、まるでそこに何かがあるかのように、黙って見ていた。
もうじき木枯らしが吹いて、そして、今度は、世界は真っ白になってしまう。
そうなってしまうと、この遊び場も、この空も、しばらくはおあずけだ。
町を抜け出してきたことへの言い訳とか、晩ご飯の献立とか、今晩眠る前にしてのける悪さだとか、子供たちの頭のなかには、それなりに沢山の考えるべき事があったのだけれども、そんなことはお構いなしにしてしまう。
秋の夕暮れの空と、荒涼とした大地を、遠く視界の端で黄金色に輝いている麦畑とを吹き抜ける風は、三人が、始めて共有した、そして三人しか共有していない、そんな小さな、大事な宝物だった。
それは或いは、山に住まう水と風の精霊の、これからもたらす冷たさの代償ともいえる子供達への贈り物だったのかもしれない。