月並みにそれは奇跡的な出会い

「なあ、お前、お前だろ?ははぁ、すーぐわかったぜ、なるほどな、あの角つきと一緒に住んでるってやつさ!」
 その、あまりにも無遠慮な言葉は、幼い少年の全身を、まるで毛を逆立てる猫のように苛立たせるに十分だった。
なんともいえず楽しげな調子と、明らかに侮蔑を意味する単語に、"精霊憑きそこない"イアルパはどうしようもない怒りを覚えた。臓腑の奥から、感情がこみ上げ、顔が、全身が熱くなっている。

 気がつけば、握りしめた拳には確かな手応えがあった。
 いやな音と、カエルが潰れたみたいな悲鳴と、土ぼこりと、殴った右手の拳の痛みから、孤児イアルパは徐々に冷静さを取り戻してはいた。だからといって、目の前の、ぶざまに背中から転がっているどこぞの坊やになどは、謝るつもりなどは毛頭なかった。


 巡礼にも時期というものがある。
 夏の気候が大陸南部よりも穏やかと評される分、ディンガル帝国の冬は厳しい。白雪こそ首都エンシャントの整然と並ぶ石畳を覆う事は少ないが、遥か彼方に雄大な稜線を描く霊峰トールから吹き下ろす無慈悲な北風と、北海と内海を結ぶように大陸中央部を貫くテラン川は、北の海の冷たい風を運ぶ。
 季節は、これから冬に向かおうという頃だった。

 春から秋にかけては、巡礼客でにぎわうテラネの町も、厳しい冬の時期だけは、危険を顧みず巡礼する事で徳が高くなるであろう、というごくごく一部のノトゥーン信者以外には、時折アキュリュースから商人が不足分を買い付けに来る以外の来訪者などはなくなってしまう。
 町を囲む豊かな森林はあと一週間もすれば落葉を始めるだろう。今のうちに薪を十分に集めなければ、北風の厳しさに長い間耐えねばならなくなってしまう。そうなれば、町中の子供たちの仕事の相場は決まっていた。

 ディンガル帝国でも最も北に位置する都市としてのテラネは、辛うじて巡礼客の宿場町としての役割から、地図に記される事を許される、その実はディンガル帝国の中でも寂れた部類の町だった。
 エンシャントに代表される、荘厳な石造と職人芸の粋を集めたような建築様式で他国を威圧するような迫力のあるわけでなく、同様にノトゥーン教にまつわる都市としての西国アルノートゥンほどに威厳のある訳ではなく、森林に囲まれ平穏を愛し変化を厭う気風が今なお濃い。
 つまるところ、周りに広がる広大な森林にテラン川という天然の恵みと、霊峰トールという大陸中の人間が信仰を寄せる聖地、それがなければどこにでもあるような田舎町、それがテラネという町だった。
 この町は、人の出入りは多いというのに、時に驚く程空気はよどんでいて、けれどもそれは確固たる闇としてはいささか緩く、だからそこに停滞しつづけている。

 母親の手織りのケープの温かさも、父親の手の温もりもよくよく知らないこのみすぼらしい孤児は、「我慢」というのは別段苦痛でもなく、当たり前の事なんだと思っていた。
 そうしてさらに、例えみすぼらしく人前に出る事が出来ないような孤児であっても、麦の刈り入れを手伝ったりだとか(それは幼い子供にとっては時にあまりにも重労働ではあったが)、山羊や羊を追い掛け回しているだとか、冬の前には町を囲むように広がる森から薪を十分なくらい集めて来るだとか、相応の仕事をしていさえいれば、少なくとも、自分とそれから新しい家族と二人分、生きてゆく分くらいのパンやハムやスープにありつける。
 運が良ければ気の良い中年婦人などは、多少の同情の目をもってして、不幸にも孤児になってしまった二人の兄弟のせめてもの足しに、と、朝食のあまりのパンをくれたりもした。

 乞食のような真似に、イアルパは抵抗など覚えた事はなかった。それはイアルパには守るべき家族があり、そしてこの町の人間は、厄介者の孤児二人の生死など、噂にも上らせないような連中がそろいも揃っていたからだ。


「おまえ、もう一度、言ってみろよ。今度はその鼻っ柱を折ってやる」
 そう言い放つイアルパの声は低く、まるで獣のそれだ。とてもではないけれども、同年代の少年の口から出るような声色じゃない。こいつは、なんだ。痛みや怒り、口の中ににじむ馴染まない味よりも、ヴァンは経験した事のないような驚きで、動けなかった。

 薪拾いに精を出す子供たちの楽しげな声が時折、風にのってやってくる。その楽しげな調子に、けれどヴァンは後悔などはしていない。
 薪拾いなんてのは、何の取り柄もないガキの仕事だ、秋の森の予想外の恵みを見つけてはしゃいでいる同性代の子供たちを、ヴァンは軽蔑しきっていた。けっ、あいつらときたら、その程度のことではしゃげるんだから、どんだけお目出度い出来なんだよ。何の危険もない、大人の目の届く範囲での遊びなどは、ヴァンにしてみれば全く興味の引かれない、ままごと遊びのようなものだった。
 とはいえ、今こうして出会い頭に殴られ、無様に地面に尻餅をついている己の姿を勇猛と誇示する神経は、流石になかったのだが。
「なあ、おまえ、もう一度言えよ。なんていった?さっき、お前なんて言ったんだ」
 さて自分よりもひとまわりも大きな相手に、のしかかられた上に、殴られて、口の中に鉄の味が広がって大層痛くて本当は泣叫びたいくらいのガキ大将は、けれども相手の雰囲気にすっかり呑まれてしまい、何も言えなくなっていた。その表情から憤懣の様子は見てとれるくせ、鉄のように硬い声は決して感情的ではなく、尋問じみている。言葉が幼いおかげで、余計に気味が悪い。
「なあ、おまえ、偉いのか?おまえは、あの面白くない大人たちと同じで、おれやナッジをばかにして笑ってて、おいしそうにメシを食うやつらと同じか」
 その声は変わりなく冷静で、振り上げられた拳は、いつの間にやら下ろされていた。
 が、かわりに、今度は、襟元を両手でぐいぐいと握られている。息が苦しくなる限界で、ヴァンは思わず泥にまみれた息を吐き出した。

 なんだ、こいつ。おれのこと、殴りやがって。意味の、わからないこと、いいやがって。

 混乱する思考をまとめようとヴァンは努力するのだが、容赦のない暴力の応酬に、その努力は報われる事はなかった。
 自分よりもでかい相手に喧嘩を売ることなどはざらだったし、殴られる事も別に珍しいことじゃない。殴るのも別段たいしたことじゃないし。つまるところ喧嘩なんてのは、ヴァンにしてみると、朝昼晩のご飯と同じくらいに、当たり前の日課だった。もっとも相手を叩きのめす事のほうが多かったその理由が、父親の権威によるものだとも、薄々感じてはいたけれども。
 それにしたって、ここまで正面から喧嘩売ってきて、のされたことなんてのは、久しぶりだった。第一、喧嘩売るような事を言った覚えはないのだ。売るつもりのない喧嘩だ、これは。
 事の発端は、村で評判の、「精霊憑きそこない」と「角つき」兄弟というものを、ヴァンはまともに見た事がなかったのだ。
 町の大人たちが好んで近付かない、町はずれの林の中にぽつんと在る家へと、両親には内緒でこっそりと足を運んだ。
 二人の孤児の噂は、少年の好奇心を大いにそそるものだった。その上、町の人間は揃って近づくなと念を押す。そう、あの両親がどうしても近付くなといって、あまりにも五月蝿い。
 そうなると好奇心というものは暴走を始めてしまう。
 制止されればされるほど、興味を惹かれてやまなくなる。やがて、危険などは顧みずに行動してしまう。宿場町を取り仕切るアユテランの御曹司が、悪ガキと称されるのは、専らその性質によるところが大きかった。

 くそ、思いきり、殴りやがって。ずきずきする。


「アル、アル?」

 森の奥から何やら駆けてくる。声がしたとたん、色の黒い子供は、組み強いていた相手をまるで何かを投げ捨てるように離して立ち上がるや、泥を払い急いで振り向いた。

「わっ、アル!何してるの!喧嘩は駄目だって、あれほど……」
 尻餅をついているヴァンに、側に立ちはだかるようにしているイアルパ。双方泥だらけで、怪我もしている。どう見ても取っ組み合いの喧嘩の後だ。
 またか、という批難めいた内心を渋面に表し、ナッジは駆けてきた姿勢のままに小言を開始しようとした。だがイアルパは皆まで言わせない。
「来るなよナッジ!大体、おまえさっき山羊の面倒見てるって言ったろ?なんでこんなとこいるんだ」
 大仰に叫ぶ事で、細かい介入はするなと言っている。突如始まった二人のやりとりに、けれどヴァンが耳を傾ける事はない。
「だって変な声があっちまで聞こえたんだよ、だから、犬のボーゲンに山羊たちはまかせて」
「ばっか、お前、あんなジジイ犬役に立たねぇじゃねえか!いいからあっちいってろ」
「そんな、そんなこといったって…君こそ、何してるんだよ、アル!」
 イアルパに食って掛かる少年の額に、ヴァンは違和感を覚えていた。

 角だ。角が、ありやがる。

 大人たちが彼ら二人を厭う最大の理由は、どうやらこれらしかった。

 月神セリューンの眷属といわれているコーンス族の事を、ヴァンは知らないでもない。
 ディンガル帝国でも有数の森林地帯に抱かれるテラネの町には、昔ほどではないにせよ、この稀少種族が住まっていた。ただ彼らとの関わりを是とせぬアユテラン氏により、帝都のアカデミーの列席にも名を連ねていた老人が天に召された後は、残った孤児の存在は黙認こそされ歓迎等はされていなかった。
 その角に宿る魔力は、一部の人間にとってはのどから手が出るほどに欲しいそれであり、一攫千金を狙う冒険者に付けねらわれる事も少なくない。無用な厄介ごとを厭うのは、町を守る統治者の態度としては不思議なそれではなかった。
 そのような理由で、テラネの町では他の町に比べれば、コーンスという種族の存在自体は身近なそれだったのだ。

 だが、御曹司は件のコーンスを目の当たりにするのは、初めての経験だった。

 そのどんぐりのように丸っこい瞳をくるくるとさせて、コ−ンスの子供をまじまじと見つめる。先ほどまでの喧嘩の事など、まるで意に介してはいない。なるほど。確かに、このちっこいほうは、角つきだ。だけど、別に化け物じゃねえよなあ。目もふたつ、はなとくちだってひとつ。なんだ、おれと同じだ。こっちの、精霊憑きそこないは、ちょいとおっかなかったけど。
 二人をまじまじとながめながら、少なくとも今この瞬間だけは、この場を支配しているのが自分だということが、ヴァンには愉快でならなくて、先ほどまでの怒りとか痛みだとかは、半分くらいはどうでもよくなっていた。奥歯は少しだけ、まだ、痛いけれど。


「…お前らが、この奥に住んでるってヤツらか?」
 先程相手が激怒した言い方は、やめておいたほうがいい。その言葉は、「角つき」だったから、同じように大人たちが、変な顔をしながら言う「精霊憑きそこない」ってのも、言わない方がいいよな。

 ヴァンは、幼くて更に過保護に育った彼なりには、言葉を選ぶということを知っていた。さらにいえば、単純で怒りっぽくて喧嘩っぱやいが、賢くないわけではなかった。相手を怒らせる事が得意な彼は、同時に、どういえば相手が怒らないのか、ということも、ちょっとだけ知っていた。そのへんは、実は、お客をもてなす父親から盗んだ貴重な知恵だった。
 くすんだ青い髪をした黒い子供は、黙って、ヴァンを睨んだままだ。その幼い顔から、怒気が消える気配は今のところ、ない。
「うん、そうだけど……」
 行き場のないヴァンの疑問に答えたのは、もう一人の、コーンスの少年だった。いぶかしげではあったが、少なくとも敵対する意思があるわけではないようだ。
 どうやら会話が成り立ちそうな雰囲気に、あまりにも単純ながらヴァンはその瞬間歓喜といってもいいものを覚えたのだが、しかし、すぐさま露にはしなかった。この辺の計算を、無意識にやってのけるのだから、アユテラン坊やの跡取り息子としての素質も、侮れない。
「おれたちは別に、迷惑はかけてないだろ。広場にだって行ってない。知らない人間に声なんかかけてない。何も盗んでない。鶏だってとってない。畑に足だって踏み入れてない。それから、村の森にだって入ってない」
 ヴァンとナッジの間に、まるで立ちはだかるように入り込んだ孤児は、やはりその図体にまかせてたいそう威圧的に、敵意を剥き出しにして冷たい目で威嚇してくる。ヴァンは思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。再び殴られたくはない。
「するなといわれた事は、全部やってない。山羊は、ナッジの爺さんのもんだ。用なんてないはずだ。帰れよ」
 果たして、ヴァンは再度小さな頭を悩ませる羽目になってしまった。どうも、この、黒い少年のほうの言っている事というのが、いまひとつ理解できないのだ。おれはべつに鶏とか、広場だとか、山羊だか羊だかとか、そんなこと一度も言ってやいないのに。
 そう言葉にしてしまいたかったのだが、喉まであがってきているそれは、どうしても口をついて出てはくれない。多分、ヴァンを睨んでいるその目が、あんまりにも冷たすぎるからなのかもしれない。

「ね、ねえアル…そんなに怒らなくてもいいんじゃない?別に、この子は、僕らの山羊を取りに来たわけじゃないんでしょ」
 ナッジの助け舟にも、イアルパが応じる気配はない。どころか、視線に不審さがいっそう漂っている。
「そ、そうだよ。おれ別に、おまえらの、その、山羊とか犬とか鶏とか、畑とか、とっかえそうだとか、もらおうとか、悪戯しちまおうとか、そういうことは考えてなくて」
 けれど精霊憑きそこないのイアルパが黙り込んだのは、ヴァンにとっては千載一遇のチャンスだった。
 少年は、まるで動物じみた勘で閃いて、すぐさまそのよく喋る舌で言い訳を開始した。立ち上がって、土ぼこりを払って、よし、痛みは大分ひいてる。喧嘩は負けてしまった、という事が少しだけ、面白くはないのだが、負けは負けだろう。
 目の前に立ちはだかる相手をやはりどこかで恐いと思いながらも、友好の証にヴァンは二歩ほど、近付いてみせた。イアルパは一睨みするだけで、手を出そうとかするわけでもない。聞く耳はまるで持ってはいないようだが。
「ただ、森の家っていう村のはずれにすむやつらを、おれが知らないってのが、面白くないし」
 さあ、つぎが大事なんだ。どうやら角つきナッジのほうは友好的になってくれそうだけれども、この、変な髪の色をした少年ときたら、未だにこちらを信用していないようなのだから。
「仲直り、しようぜ?俺、お前らとなら友達になれると思う」
 父親ゆずりの精一杯の笑みを浮かべてみせると、殴られた痛みと負けてしまった悔しさは、ほとんどヴァンの胸中からは消え失せていた。
 口にするのはまったくもって自分勝手な理屈だったが、根に持たずまた偏見も殆どない、というのはこの単純な少年のたいそうな美点だ。そうなのだ。ヴァンにしてみれば、事の発端は好奇心と、あわよくば悪戯仲間を増やそう単純明解な理由によるものだった。
 だけれどもどうもとっかかりを思いきり挫いたらしく、殴られて痛い思いをしてしまっただけなのだ。

「友、だち………?」

 友達という単語に、イアルパの瞳はいよいよ不審に彩られる。警戒も解いているとはいいがたい。
 順調にいくかと高をくくっていたヴァンが、その雲行きの怪しさに挫けかけていると、イアルパの後ろから恐る恐る二度目の助け舟を出してくれたのは、ナッジだった。
「君は、じゃあ、僕らと、仲良くしたいだとか、そんなこと思っていたっていうの?」
 態度こそ穏やかなのだが、それでもどこかこの突然の訪問者には驚いて、あるいは怯えているのだろうか、ナッジは決して近付いてはこない。それでも懸命に、イアルパの影からヴァンの様子を伺っている。
 ああ、やっぱり相手をするなら数段もこっちのほうがよさそうだ。それに、こいつを言い包めたら、多分もう一人の面倒なほうもなんとかなる。たぶん。
「そんなに、俺が言ってることって、おかしいのか?」
 ことさら不思議そうに、そこに別段意図が含まれてはいないのだが、ヴァンは腰に手を当て首を傾げてみせる。そう、おれはこいつらと友だちになろうとして、ここに来たんだからな。親父もおふくろも、まるで化け物がいるみたいな言い方してたけど、ぜんぜん、ふつうじゃないのか。確かに見てくれがちょっと違うけど。それだけで。

「おまえばっかじゃねえの」

 ヴァンの言葉に沈黙することで困惑を露にしているナッジを庇うように、イアルパは突然大声で言ってのけた。上体をそらせて、まるでヴァンに挑むような態度で。

「おまえ、ばかじゃねえの」

 二度目。流石にこれにはヴァンもカチンときた。なんだよ、こっちは、仲良くしたいっていってるだけじゃねえか。殴った事も、背中と口と頬の痛みだって、こちとら我慢したってのに。それなのに。

「おまえ、だって、あの、でかいとこの子供だろ。宿屋の、アユテランとこの。なんでそんなとこの坊やが、俺らとおともだちごっこしたがるんだよ?意味わかんねえ」

 その言葉も態度も、やはりどう取繕っても敵意が剥き出しだった。和睦などはありえない。わかり合うなんてのはそもそもが絵空事で妄想でしかない。横たわる溝を修復する手立てなどはない。
 イアルパの拒絶はとにかく徹底していた。裏を返せば、彼はそれほどまでに、この町の人間に絶望していたということになる。 「アル!」
 遮ろうとするナッジすら邪険に振り払うと、もう一度イアルパは正面から、ヴァンを睨み付け、叫んだ。
「今度はそうやって、何とってくつもりだよ?もう何も、くれてやるもんなんかねぇんだよ。麦のひと粒だって、あまっちゃいないんだ。お前のとこは、そんなことしなくたって、麦も、玉ねぎも、とうもろこしも、チーズも、山程あるくせに」

 だがヴァンも、負けじと叫ぶ。
「誰もそんなこといってねえだろ!お前こそ、馬鹿じゃねえか!ひとのはなし、きけよ!」
「俺もナッジももう何もしてねぇだろ。だのに、そうやって、こんどはお前みたいなばか使ってまた騙すのかよ。なんでだよ、俺はともかく、ナッジが何したってんだ…なんでそうやって、お前らときたらいつでもそうやって奪うんだ」
「なんでおれがお前騙すんだよ?第一お前らとだって今始めて会ったんじゃねえか?何いってんだよ!お前!」

 よくはわからないが、イアルパはどうも怒っていた。感情を押し殺している分、怒っているのだ。お前ら、というイアルパの言い方に気がつくことは、イアルパの怒りにつられて感情を爆発させていたこの時のヴァンには無理だった。

 ぶん殴ってやろうかとちらと思ったけれど、寸でのところでヴァンは我慢をした。相手も我慢をしているらしいのに、自分が我慢出来ないのでは、話にならない。お陰で今の数分間の間だけで、三日分くらいの我慢を、ヴァンはしていた。

 そもヴァンがここまでの行動に至った、本当の理由。
 同じ年頃の友だちが、欲しくて欲しくて仕方がなかったから、なのだ。



 確かに村に友だちがいないわけではない。なにせ、ヴァンは、村一番の実力者のアユテラン家の、遅い子供だ。大人たちだって優しいし、同じ年頃の子供たちと遊ぶ事も多い。彼は彼なりに、楽しい日々を送っていた。
 けれども、どこか面白くなくて、…それが一体何故なのか、ということは、まだヴァンは気がつけないではいたのだが…とにかく、優しいだけの大人たちとか、ついてくるだけの友だちってのが、楽しいだけではないなと勘付いてしまったヴァンは、ある日を境に、大人たちからは敵視され、いわゆる「悪ガキ」のレッテルを張られて、とたんに面白くない日々をよぎなくされてしまっていた。
 喧嘩して何が悪いんだ。ちゃあんと、仲直りは、したはずなのに。だのに、隣のイェスンは最近さっぱり遊んでくれやしない。奥の家のジェスは、手伝いが忙しいとかってばかりいいわけをして。
 けれどそんなヴァンの幼い疑問には、両親はまったく要領を得ない答えばかりするものだから、ヴァンの悪戯はより悪化の一途を辿るほかなかった。

 両親はヴァンに仕事というものはさせてくれるわけでもなく、そのお陰で、ひたすら鬱々とした、たいした面白みのない時間を過ごす事を余儀無くされてしまっていたヴァンにとって、村のはずれの、他所ものボンガ夫妻が面倒を見ていると言う、変わり種兄弟の話というものは、ヴァンにとっては何よりも嬉しい知らせとなった。
 確かに、大人たちは嫌っているようだけれども、と、いうことは、めんどうな大人たちの介入をしないですむ相手かもしれない!聡明なアユテラン少年は、一夜のうちに、なんとそこまで考えていたのだ。
 だから日が高くなって、両親や使用人たちが忙しさにかまけて自分から目を離したそのスキに、ヴァンは脱走を試みて、わざわざ人目につきにくい林をぬって、こんな、町の、外れまで駆けてきた、というのに、一体何をやっているのだろう。

「だから、ああもう、ちくしょうめ!さっきから言ってるじゃねえか!おれ、別に喧嘩しにきたわけじゃないって、麦も山羊も鶏もとらねぇし、おまえのこと馬鹿にだってしてねぇし、だから、話、きけっていうんだよ!なのにお前ときたら、いきなりおれのこと殴りやがって…」

 なんだかもう、一体自分で何を言ってるんだろう。なんでこんな必死になってるんだろうか。わけもなく悔しくなってきて、ヴァンは気がついたら両目を腫して涙までこぼしていた。
 折角の天気なのに。

「……何、泣いてんだ。お前やっぱ馬鹿じゃねえか」
 悔しくて、顔を真っ赤にして鼻水を啜るヴァンに対して、流石に悪いと感じはじめたのだろうか、イアルパの口調はいささか弛んだようだ。勢いもなくなってるし、威圧的な態度も和らいでいる。

「うっせぇな!さっきから、おれのこと、馬鹿ばかいいやがって!」
 ヴァンは首を横にぶんぶんとふりまわして、否定してみせた。相手の態度の変化は喜ばしいのだが、しかしだからといって頭ごなしに馬鹿にされっぱなしというのも、それはそれで別問題だった。

「ばーか。馬鹿はお前だろ、変なやつのくせして、泣きやがって」 
 なにやら居心地の悪そうな顔をしながら、それでもイアルパが一歩、こちらに近付いてきた。お供のナッジも一緒だ。

 その様子を伺いながらも、鼻水も涙も止まってくれないので、ヴァンは泥だらけの両手でごしごしと顔を全部こすってぷいと他所を向いた。泣き顔をずっと見られているのはぶざまだし、フェアじゃないと思ったのだ。


「……なあナッジ。こいつ、馬鹿だぜ」
「……アル……」

「こいつ、うそは言ってないかもしれない」

 弟分を安心させるように(実際この時、イアルパとナッジはひとまわりくらいは体格の差があったのだ)、埃だらけの顔にわずかに笑みを浮かべてみせてから、イアルパは改めて突っ立って鼻をぐずぐずいわせているヴァンに向かいあった。
 相手の態度が好ましい方向に変わったのは、素直に嬉しい。嬉しかったのだが、しかし、先ほどからのやりとりで、ヴァンは己がとるべき行動というものがよくわからなくなっていた。

 いきなり殴られた、これは、自分にもちょっと原因があった。「角つき」という言い方は、そういえば、親父の口癖だった。大人たちが顔をしかめて言う言い方だった。だからてっきり「角つき」てのはすごく醜くて、臭くて、おっかない、化け物みたいなやつだと、少年はすっかり信じ込んでいたものだから。しかしその思い込み自体が、そもそも間違いだったのだ!……だから、悪かったのは、自分のほうだ。
 それから、殴られてから、わけのわからないことばかりいわれた。これはパス。
 そして、おれが角つきナッジと仲良くしようとしたら、イアルパはそれを邪魔してのけた。……これはおれが悪いのか?
 それから、馬鹿と何度もいわれた。おれ悪くないぞ。

 ので、しばらくそっぽを向くことにした。そうしているうちに、ひゃっくりも収まるかもしれないし。 

 そんなことをずっと考えている間じゅう、実はイアルパが、ずっとヴァンの方を見て、何か言いたそうにしていたのだが、肝心のヴァンがそれに気がついたのは、気を揉んだナッジが声をあげそうになったその時だった。

「…殴った事は、あやまる。悪かった」

 不服そうではあったが、ついでに、あまり謝っているようには見えなかったのだが、イアルパは確かにそう言った。

「山羊を盗みにきたんじゃないっぽいのも、わかった。お前、ひとりだしな。ひとりでそんなことするばかいねえ」
「だから違うってさっきからずっと言ってんだろ!」

 イアルパが小さく頷いた。やっぱり、不服そうに。
「………で…何の用だったんだ?」

 やっとだ。やっとだった。
 痛い思いをして、不愉快な思いをして、やまほど我慢をさせられて。
 やっとの思いで、ヴァンは当初の目的に辿り着けた。

 イアルパの視線は相変わらず不審そうだったのだが、けれどヴァンは構わずもう一度、これでもかとにっこり笑ってやった。やや理不尽だったが、喧嘩が出来たのも久しぶりで、おかしなことに、ヴァンはそれすらも嬉しかったものだから、このどうも変わったやつらは、歓迎すべき友人たちだったのだ。
 何度も同じ事を言わせられるのは、面倒なのでヴァンは大嫌いだったのだけれども、多分イアルパは、わかってわざと言っているのだ。
 そうなると、相手の策略に乗ってしまうことになる。
 だから、ふふん、と得意げにヴァンは鼻を鳴らしてから、わざとらしく答えてみせる。「さっきのことは、あやまる。ごめんな。もう、いわねえ」
 言い訳もやめた。こういうときの言い訳は、潔くないし、折角謝っても、意味がなくなるんだ。悪いと思った時は謝れ。親父はよくよく小さな頃からヴァンにそう言い聞かせてくれていた。
 そういって両手を差し出してみせてから。

「だから、おれたち、友だちになれるよな?」


 しかし、納得していたのはヴァン一人。あまりにも簡単にそんな結論に飛んでしまうものだから、イアルパは面喰らった顔をして、身じろぎをした。ナッジも、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「おれは、ヴァンだ。な、いいだろ。おまえらの犬、おれにも、見せてくれよ」

 そこまでいっても、二人ともまだためらっている。
 気持ちが急いて仕方のなかったヴァンは、面倒臭くなって、無理矢理二人のてのひらをつかんで、ぶんぶんと振り回してやった。もうこれは、無理矢理ペースにのせてやれ。
「おれ、犬って好きなんだ、たまに客が連れてくるのみて、ずっとまえから、触ってみたいって思ってた」
 顔をよせて、頭ひとつぶんも大きいイアルパに向かって、楽しくて仕方がないんだ、という感情を顔面いっぱいに表現してくるヴァンの中に、どう頑張っても悪意というものは、かけらほども見当たらない。
 だからついに、イアルパは意地を張る事をやめることにした。なんたって、この、自称友だちは、遠慮というものをまるきり知らないし、諦めるということともどうやら無縁らしい。どころか、勝手に話を始めてしまう始末。これでは、まるでこちらの理屈というものは、通用しないのだから。

「ボーゲンは、頑固だぞ。家族以外には唸るし、デカい」
「じゃあ、そいつが懐いてくれたら、俺はお前らの家族だな!」

 面喰らったままのイアルパの手は握ったまま、会話を続けてくれるナッジのほうに今度は顔をよせて、やっぱりヴァンの顔には満面の笑みがたたえられている。



   テラネに降りて来る秋の午後の風は、決して暖かくはなかった。木枯らしの吹く季節はもう少し先で、その前に、沢山の麦を刈り取ってから、今度は轢いて、粉にする。
 できる限り薪を集めて、頃合よく育った木を切り倒して、乾燥させてから小屋に仕舞う。
 そうすると、そのうち冬が来る。

 ぎこちない様子で、けれど懸命に会話をしながら、老いた山羊と子山羊の面倒を見る三人の少年の間には、穏やかな空気が確かに、あった。
 

 やがて森の梢がが黄金色に輝く頃には、三人は簡単に笑い、簡単に小突きあって、太った老犬と共に、山羊を小屋へと連れて帰る道を歩んでいた。