夜明け前

 酒のまわった頭には、朝の光ほど忌々しいものはあるまい。ことそれが安酒であれば、尚更だ。
 タルテュバは、隣に眠る娼婦の顔をふと眺め、薄汚れたカーテンからこぼれおちる光からは目をそらした。暗がりで見た時はそれなりの女だと思っていたが、こうして冷静に見てみるとたいした事はない。ないどころか、素性すら怪しげな女には相応しくない、ただそこだけが唯一この女の美点でもある、けれどくたびれてしまったブロンドですら、忌々しい。
 頭が痛い。
 こみ上げてくる吐き気を抑えながら、タルテュバは起き上がり、そそくさと煙草と酒の臭いの染み付いた外套をまとって、狭苦しく埃っぽい一室を後にした。視界の端にちらと、いまだ眠りこける女のブロンドが目に止まったが、タルテュバの足は止まらなかった。とりたてて美人でもなく、豊かでもなく、ただ、まるでこの俺におあつらえむきのブロンド女だな。自嘲気味な思いが、こみ上げて来た。


 あたりをはばかるようにひなびた売春宿から出て来ると、初夏の朝の光は見事なまでにみじめなその姿を世の中に浮き彫りにした。しんと静まり返る街並と、朝の到来を歓迎する小鳥の声は、タルテュバにとっては何の価値もない。昨日は女を殴らないで済んだ、酒は最悪だった。世の中はとっくに朝を迎えているというのに、タルテュバの頭の中はいまだ昨晩の記憶で満たされている。夜があける事などは、ないのだ。
 
 ふと目の前を、燕が横切った。
 見上げれば、この崩れかかったスラムの掃き溜めの中に、傑作な事にこの燕ときたら、巣を作っていた。見るからにみすぼらしいその巣の中には、小さな声で鳴く雛がいて、親鳥の運んできたごちそうを、我先にと、まるで奪い合うようにして貪り食っている。タルテュバは、思わず舌打ちをした。
 朝の空気と光というものは、例えそこが汚物とゴミにまみれた貧民窟であっても、清々しいものだ。太陽の昇りきらない時間、わずかに闇の色がまだ足元にはとどまっている。親鳥はやがて再び、育ち盛りの子供たちの為に、糧を探しに飛び立った。

 あの、ブロンドは。生意気にも、まるでティアナのようなその髪の色で、そんな女が、俺に媚びて腰を振っていた。
 
 思い出すだけでも、反吐が出る。

 衝動的に、タルテュバは足元に落ちている石を掴むと、売春宿に巣食っている馬鹿な燕に向けて、何度も、投げ付けた。
 


 それみろ、目を離すから、いけないんだ。こんなゴミ溜めに、巣食うから駄目なんだ。
 

 朝靄が出てきた。
 肩で息をして、しばらくゼイゼイと昂りを抑えていたタルテュバだったが、鼻の頭にふれた冷たい空気に、もう一度唇をゆがめる。
「ハ、ハハ、ハハハ……それみろ、はは、ははははははは……」
 タルテュバは、足元に無惨に転がった屍骸に向けて、ひきつった笑いを浴びせかける。
 愉快なわけがない。面白くもなんともない、こんなのは、狩りでも何でもない。
「は、は、はは………クソ、クソ、クソ、クソ、クソ!」
 なんだって、朝が来る。俺は、まったく望んじゃいないというのに。
 なんだって、あの女は、俺にはおあつらえむきのあの女は、ブロンドだったんだ。
 なんだって、俺は、こんなに、憎いんだ。

 ふと顔をあげると、真っ黒な目とぶつかった。

 年の頃は5つくらいだろうか。薄汚れた子供は、脅えのあまり、瞳を見開いてタルテュバを凝視している。その小さな手には、明らかに相応しくはない、甘い香を放つパンが握られたまま。
 タルテュバは鼻白んだが、すぐさま高慢な笑みを浮かべる。
「フン、何だ?貴様みたいな何の価値もない下衆が、いよいよ無様な俺を嘲笑いにきたのか?」
 子供は、何も言わない。足元に滞っていた闇の気配は、もう立ち去ろうとしている。
「有難く思え、俺は今、最高に気分がいい、こんな朝は、まるで生まれ変わったようにな」
 そしてくるりと振り返り、大股で貧民窟を後にした。