「……なあおい」
魔人は唐突に切り出すと、有無をいわせんといわんばかりに、その小さな身体でもってしてトオヤの前に立ちふさがって、毛繕いを始めてみせる。
突如行く手を遮られた冒険者は、一瞬顔をしかめたものの、後ろに、見守るようにして立つかの賢者に困ったように視線を投げたのだが、とうの本人は肩をすくめるのみ。
さてもうこれは、このやんごとなきお猫さまの有難い御講釈に付き合わなければ、向こう数年はろくでもない噂を流されるに違いない。トオヤは溜息とともにその場に腰を下ろして、毛繕いに余念のないかつての円卓の騎士に向かい合った。
「なんだよ。この後に及んでまたくだんねー小言か?それとも、ありがたい御忠告か?」
「ふん、わかってきたみたいだな。第一お前は危なっかしくて見てられない。近頃じゃ屍人みたいな顔してきたり、浮遊霊と見まごうばかりだったり、だいたいなあ、考えなさすぎなんだよ。お前、人間なんだから、無茶したらすーぐ死んじまうのに」
ネモの小言は容赦がないのだが、かといってトオヤには心当たりも逐一あるので、面倒臭そうにボリボリと頭を掻いてはいるものの、それはそれなりには真剣に耳を傾けているようだ。
思わず忍び笑いを漏らしつつ、その様子を見守っていたオルファウスだったが、自らの出番はないだろう、と、こちらも木陰に座り込み、この穏やかな日射しを楽しむことにした。ことこの二人のやりとりは、近頃耳に心地よくなっている。絶好の休息の時間だ。
そんな賢者の様子などはいざしらず、口調こそ険悪なのだがそれはそれ、お互いにしてみればやりやすい相手なのだろう。
「あーあーわかった、今のいままで俺が死ななかったのは、そりゃありがたーいネモ様の御加護、ってやつのお陰だとかいいたいわけだ」
「は?俺がそんなことするかよ、ただお前は運が馬鹿みたいによかったから、死ななかったって……て、そういう話じゃねえよ。ただ単にこれは俺の知的好奇心からなる純粋な疑問だ。いいか。真面目に答えろよ」
「んだよめんどくせー言い回ししやがって。ふつうに言えつうの」
「いいから真面目に答えろ」
「………はいはい。で。何。その偉大なるかの円卓の騎士さまが、チンケな俺ごときの一体何を疑問に思ったんだい」
「お前、前はいつもあのナッジてやつと金魚のフンよろしく常に行動一緒にしてただろ?」
ナッジの名が出たとたん、トオヤの顔色がわずかに変わったのを、流石にネモは見逃しはしなかった。そもそも、こんなことを聞くこと自体が、トオヤにとって半ば拷問のようなものであるということも、ある程度は理解していた。
だがそれでも、ネモは聞いておきたかったのだ。何故そういう感情を持ったのかは、いまいちわからない。が、気になって仕方がなかった。ゆえに、この魔人は己の知的好奇心を優先した。
「……あいつ、死んじまったんだろ。お前らは脆いからな……すぐ、死んじまいやがる」
出来うる限り、声色には気をつかったつもりだったのだが、トオヤは黙ったままだった。
その空気が、何故だかネモにはいささか息苦しく感じられた。少し、イライラした。何故黙っている。答えろよ。それこそ喉元まで出てきている言葉も、出なかった。
けれども、やはり、トオヤは目を閉じたまま、黙りこくっている。
その時間は、ネモに、過去を思い出させるには十分なそれだった。
そもそも、前はこいつはこんなやつじゃなかった。もっと思う事を、思うように、狭い視野で得意げに語ってなかったか。もっと、無駄な自信に満ちあふれていて、一体どうしてそんなに弱いのに積極的になれるのかと、心底疑問な存在ではなかったか。
こんな弱っちいパっと見たいしたことなさそうなチンケやつが、よりによって無限のソウルの持ち主?初めてトオヤがここを訪れたときは、運命の神ってやつの皮肉さに爆笑しそうだった。
だから…興味を惹かれたのか。
幾たびもここを訪れるトオヤとたいして実のない会話を交わしながら、時にアドバイスをしながら、ネモはじっくりと、この頼りない冒険者を観察してきていた。驚く程のスピードで成長し、力をつけてゆくその様も、世の中にその名が知れ渡る事の迅速さも、やはり無限のソウルの持ち主だからなせるのか、と、ネモですらもいささか舌を巻いていた。
しかし、ここ最近、この若き冒険者の様子が一変していた。
無口になり、愛想もなくなった。ネモのからかいにも、ほとんど反応をしめさなくなり、あれだけ妙に馴れ合っていたはずの仲間とかいうのからも、妙に距離を置きだしていた。
第一、とりまく空気が変わっているし、そこにたたえられる表情そのものが変わっていたのだ。
その原因が、おおよそナッジの死なのだろう、ということはわかっていた。
トオヤが豹変する一ヵ月程前のことだろうか。言い争い、とまではいかないのだが、なにやらボソボソと声が聞こえて、うたた寝をしていたネモはそのよく聞こえる耳をそばだてて聞いてみると、何やらトオヤとナッジが仲違いのようなものを起こして、それでコーンスのほうがその場を立ち去ったらしかった。
人間の仲違いなどは別に珍しくもなかったのだけれども、それでもこの二人がそうなるという事態は、いささかネモにしても意外なそれだった。
すると今度は、ヴァンという名のたいそう喧しいだけの少年が、怒濤のように喚き出して、いよいよネモは昼寝どころではなくなったのだ。だが昼寝を邪魔されたという憤りよりも、煮え切らないトオヤの態度に、むしろ興味を惹かれてしまって、彼らの靴音が遠ざかるまで、結局昼寝は中断されてしまっていた。
その次に、トオヤが猫屋敷に訪れた時、彼は一人だった。やがてちょっと遅れてから老ドワーフがその後を追ってきたが、どちらの顔も、疲労の色は濃く、そして無口だった。
それは何かを、途方もなく大事に抱えていた何かを失くしてしまった人間の、とりかえしのつかないことをしでかした時の人間の、 顔だということを、ネモは知っていた。
「ああ。あいつ、死んじまったな。ひとりでさ。……いや、ひとりじゃねえか。きっと仲間もいたよな」
またこの声だ。さっきまでの軽い調子がぶっとんじまってる。自虐的に歪む表情も、虚ろな距離を見つめる瞳も、以前ならば絶対に見られなかった影だ。いや、悟らせなかった、といったほうが正しいか。
そのトオヤの変化を面白く興味深く感じるのではなく、どうにも居心地の悪い苛立ちと、そのようにネモは感じていた。
「俺も知らなかったからな。しょうがねえよ。もう、済んだことだ」
「ウソつくなよ。お前がショックだったってことくらい、判らないとでも思ってんのか?お前馬鹿か?この後に及んで、そんなわかりやすい嘘つきやがって。第一俺は言ったはずだ。真面目に答えろって」
思わずネモは口を挟んでしまった。イライラは、最高潮に達していた。
「今度は拷問でもおっぱじめようってのかい、円卓の騎士様は」
流石にトオヤも追求されたくなかったのだろう。眉間に皺をよせ、その溜息には迷惑だ、という意志が明確に備わっていた。
そもそも、済んだ事だ、そう言った事で、敢えて深入りはしてくれるな、との意思表示をしたはずだった。相手が短絡直球型のヴァンならいざしらず、あのネモだ。その心情は理解できないかもしれないが、言葉の意味くらいはわかるはずだ。
だのに、ネモは騙されてはくれない。面倒臭げに肩を竦めてみせても、ネモの態度はこれっぽっちも変わる様子がない。
「俺は確かに弱っちいからな。だからこそ、そのちっぽけで脆弱な身体ってやつを守ろうと必死だ。何もそれは身体だけじゃねえ。その精神にしたって、笑えるくらいに弱いだろ。………そういうことだ。あんたら魔人にしたら、馬鹿馬鹿しい下らないんだろうが、その下らないとこで足掻いてるのが、俺だ」
そんなこた、俺がいうまでもなくお見通しなんだろう。
つけくわえるべき言葉を飲み込み、そのかわり皮肉な笑みを浮かべて、悪意を隠そうともしないトオヤの言葉は、意外であった。
確かに脆弱な存在である人間というやつは、時として意外なところで反撃をしてくる。その理屈がイマイチ理解できず、それゆえにネモはこの若き冒険者に目をつけて、観察してきていたのだ。
しかしながら、今トオヤのとる態度は、やはりネモにしてみると意外なそれなのだ。
一体何がこの青年を刺激したんだろうか。単に、純粋に、その変貌ぶりがあまりにも劇的すぎたがゆえに、原因を問いただそうとした、ただそれだけの事なのに。
もう少しこいつの立場を想像してみた言い方をすれば、あれだけ馴れ合っていたやつらが、なんだって突然仲違いをして、バラバラになって死んでるんだ。いや、馴れ合いどころじゃあなかったはずだ。このトオヤという青年は、印象よりも大分疑り深くて他人を信用しないところがあり、どう見ても胡散臭いオルファウスは兎も角、ケリュネイアあたりに関しては未だに信用はしてない。かわりに、あいつはナッジとヴァンに関しては、ほんとうに笑えるくらいに大事にしてた。それらは、すべて、表面的な態度ではなかった。
「なんでそういう話になるんだ。そうじゃねえ、お前はあれだけナッジとお仲間ごっこして馴れ合って、ベタベタしてて、それでなんで死んだって知らなかったんだ?そんなにショック受けるくらいなんだから、だったら何で一緒にいなかったんだ?それに、もう一人いたあいつ…」
あはははは。
突然、軽快な笑い声があたりに響いた。
場にそぐわぬ空気のそれに、ネモは思わず、突如笑い出したその本人を憮然とした表情で睨み付けた。なんだ、人が真面目に話をしてるっていうのに。
「はは、ははは…面白れぇよなあ、あんたら魔人てのはよ」
膝を叩きながら、笑いをおさめようとするトオヤの目は、しかし全く笑ってはいない。
ネモは、ふいにこみあげてくる不快感に、思わず鼻を鳴らした。
「…なあ、もう止めてくんねえか」」
冗談めいて肩を竦めてみせる仕種に、必要以上に軽い口調。再び面倒臭そうに後頭部を掻いているトオヤから、ネモは視線を外せなかった。
「俺だって言いたい事と言いたくない事と、それから、考えたくない事や見たくない現実なんて、山程あるんだよ、臆病だからな」
それが彼流の、それも確固たる拒絶だった。
確かにトオヤは強くなっていた。
なにせ、あの、竜ですら屠るくらいの力を身につけているし、かつてのネモの知り合いも、幾人か闇へと還しているくらいなのだから、以前のように簡単に見下せるような相手ではなくなっていた。
それもあるのだろうが、それ以上に、その拒絶は強い意志をもってしてのものだった。
だから、ネモはこれ以上の言葉をつむぐことが、出来なくなってしまっていた。
この、不愉快な空気は何だというんだ。
この、はっきりと言いあらわせないそれは、一体何か。
「悪ぃな。無駄話はまた今度だ」
先程までの協力的な姿勢などはどこへやら、一方的に話を途切れさせるやいなや、トオヤは立ち上がると同時に、ろくに挨拶もせずにこの場をそそくさと立ち去ってしまった。
「……ネモ、ちょっと今回は言い過ぎですよ。モノは言い様、とも、いいますけどね。あなたにしては、些か思慮が浅かったんじゃないですか」
背後の気配がけだるそうに動く。いつでも穏やかな木漏れ日と木々のさざめきの主人は、そのたたずまいを裏切らない、穏やかな表情をしていた。
「きいてたのかよ」
相変わらず悪趣味だよな。腹の中だけでそっと呟いた後は、ネモは、もう冷静ないつもの皮肉屋に戻っていた。
「ええ。だって、あなたがたときたら、たいそうな大音量で言い争って下さってましたから。赤ん坊なんかいたら、きっと泣いてましたよ」
「……………」
たくめんどくさいやつに聞かれたな。
「もうあれじゃ、しばらくトオヤはあなたの疑問には答えてくれませんね。きっと」
オルファウスの声はいつだって愉しげなのだが、この時に限っては、たいそう腹立たしい。
まったく、俺としたことが、何をやっているんだ。
どうにも頼りない背中が無性に苛立っただとか、それに気がついてしまった自分が憎たらしかっただとか、なんで笑えるんだよ、馬鹿野郎、とか、オルファウスから逃げるように顔をそむけると、またとたんに、不器用に傷を負ったままの青年の眼差しが思い出されて、苛々してきた。
もう見えなくなってしまった背中に向かって、ネモは、唾を吐いた。