風が、少し冷たい。
かさかさという草葉の音と、土ぼこり。灰色の空に、わずかに覗く、すみれ色と黄金色の光。
大陸からはるか南に位置するエルズ島。ラミリー山から下ろす風は、強いがけれど決して厳しさだけの冷たさは伴わない。穏やかな土地、穏やかな場所だ。
場所も、気候も、まるで似てはいない。森はあるけれど、そこに並び立つ木々は故郷のそれとはまるで別物の色彩と高さを持っている。
けれどそこに吹く風と土ぼこりの臭いは、青年を故郷の荒野を連想させ、一時、感傷に浸らせるには十分だった。
絶望が背中まで迫っていても、意外に健かなのは、人間、か。
空を見上げたことなどは、そういえば数年ぶりなのかもしれず、風に耳を傾けたことも、では何時以来だったろう。
腰を下ろせば、金属音があとにつく。重いと感じたこともない。当たり前に、すっかり手に馴染んでしまった感触を乱暴に投げる。鉄の臭いが遠ざかると、少しだけ開放された気分になれた。
ああ、大丈夫だ、ここは、不思議に静かな場所だ。風の島。穏やかな島。
もうこの地の偉大なる巫女も守護する竜もいないというのに、けれどもこのエルズというところは至って平穏だ。人々は、信頼という綱をしっかり握り、絶望に引きずり込まれぬよう上手に生きている。大陸からこうも離れていると、絶望というものも、或いは薄らいでしまうのだろうか。もしくは過酷な現実から目を逸らし、騙し騙され生きゆく人々か。
「風、少し、冷てぇな…………」
ひゅう、と、鳴くような風が草原を吹き抜けた。秋の風だ。灰色の雲が、光を浴びて飛んでいっている。灰色と、紫がかった少し気味の悪い影と、ほんのわずかに除く黄金色の光。
ざあざあと哭く草の海の中に、トオヤは無防備にも寝転がっていた。
「巫女さまの御加護か、それとも、竜の守護ってのは、死んでも、残るもんなんかな」
誰一人答えるものはなく、ただ、トオヤは空に向かって己の疑問を投げかけた。
行動を共にしている仲間たちは、遠慮して姿を見せなでいるだけで、側にいるのは、気配でわかる。
けれども、ここ半年ほどは、彼はひどく無口になり、笑顔を見せなくなった。快活だった少年のそれを奪ったものは多く、奪われてゆく度、その影は濃くなり口数は減っていった。
決定的だったのは、半年前。兄弟同前に育っていたコーンス族の少年を失うこととなったあの事件があってから、まるで別人のようになったのだと、疲れた顔でやっと吐き出すように語ったのはかの封士・イオンズだった。
そんなトオヤを見守るように、しかし裏切らず、付き従ってきてくれる存在に、また、彼自身も助けられていることはよくよく身にしみてはいたけれども、これ以上もう何も奪われたくはない、こんな痛みなどは沢山だ…そんな思いから彼は人を遠ざけ、接触をさけるようになっていた。
「そんなとこに寝ころがってさ、ねえ、お兄ちゃん…!ヴァイも心配してるよ!」
だが、そんな目論見も最近は破られる事が多い。突然快活な声が降ってきた。一緒に、ふっと影が、落ちてくる。
「…………ヴィア」
せめて内心は悟られまいと、出来うる限りは優しく取り繕ったはずだったのに、どこか棘の混じる声色なのは、けれど、反面声の主の訪問を有難いと感じてしまっている己への戒めだ。
「ヴィア、じゃないよ」
責めるような口調で畳み掛けると、無造作に隣に座ってしまったしなやかな肢体。赤い、宝石。
緑の目立たない荒野じゃ、あんまり映えやしないかな。ここはきっとエルズの原だから、テラネの荒野とは違う。多分、夕日の色も、風の声も。
トオヤは顔を向ける事もなく、相変わらず曇り空を見ていた。先ほどより、少し、暗い。風も冷たい。
「何そんなひとりで空を見てるの?何か面白い?」
やっぱり責めるような声だ。まるでこれでは、下らない悪さをしているようではないか。そう思ったとたん、懐かしい記憶が呼び起こされて、トオヤは口の中で笑った。
ヴィアリアリは顔をしかめる。
「楽しいってのとはちょっと違うさ。ただ」
「ただ?」
怪訝そうに見つめて来る彼女には、けれど答えず、トオヤはじっと空を睨んでいた。
思いだされる記憶は、温かくて、優しくて、楽しい。
決して優しいだけの記憶じゃないけれど、どうして、思いだしてなかったのだろう。
「お兄ちゃん」
冷たい風。風の音。
遠くとおくに見える、雪を頂いた山並。広大な、荒野と、山裾に群生する、針葉樹林。
温もりと、厳しさが混じる森の音。風に鳴く木の葉に、ざわめく枝。冬の色をより濃くした景色。
刈り取られた麦畑と、年老いた山羊の声。
雪、降らないかな。
降るわけないだろ、ばか。
でももうすぐ、霜がおりるから、小屋も修理しなきゃねえよな、おっしゃ、俺、手伝うぜ
些細な会話だったのに、どうして、こんなにも鮮明に、今になって。
「悪ィ、ヴィア。俺、もうちょいそのへん散歩してくっからさ。…心配はいらねえ、すぐ戻る」
突然トオヤは立ち上がると、ヴィアリアリに背を向け、身体に張り付いた枯れ草や土ぼこりを払う。
ああ、これは、まずい。
「え?え、う、うん」
突然のことで、…まるで眠っているかのように微動だにしなかった相手が起き上がったのだから、本当に、突然のことで、流石にヴィアリアリも驚いてしまった。
その背中に声をかけようと、ヴィアリアリも続いて立ち上がって、片腕を伸ばそうとしたのだが。
「ひとりに、してくれ」
「………………」
声は小さく、風音にすらも掻き消されそうであったけれど、その背中は、明らかに他者を拒絶していた。トオヤが、ヴィアリアリに対してここまで強い拒絶の態度を取る事は初めてだったので、彼女はそれ以上動く事も出来ず、声をかけることも、出来なかった。
まるで逃げるようにして、トオヤは、肩を落ししゃがみ込んだ彼女の元を立ち去った。
「………ごめんな、ヴィア」
ヴィアリアリが悪いのではなく、ただ、誰かの側に身を置きたくはなかった。
いたたまれなかった。胸の奥から、掻きむしられるような、痛切な叫びが、頭の中で爆発しそうになって、たまらなかった。喉の奥まで、熱い声が叫びをあげたがって暴れている。
けれど悲痛な声は、喉元からは出てこなかった。
けれども、思いのたけは、言葉には、ならなかった。
再び見上げた秋の空は、夕暮れ時へと刻一刻変化していっている。
雲が途切れることはなく、時折光が覗く、幻想的といってもいい光景に、山風の声。やがて訪れる冬の足音が、もう少しというところまできている。
「もう、俺、…一人になっちまった」
風は答えてはくれない。それもその筈。ここはテラネではない。
けれどもトオヤの心は、遥か北の彼方、今はもう白く雪化粧をした霊峰トールを目にすることもできよう、痩せた土地に貧しいあの町へと飛んでいた。
ばかでどうしようもなくて、勝手な事ばかりいって、突っ走ってばかりだったヴァン。あいつ、また勝手な事ばっかしやがって………一体、どこ、いっちまったんだ。クソ、馬鹿やろう。
いつだって穏やかで、気がきいて、けど意外に頑固者だったナッジ。謝っていた。謝ってばかりだった。だから俺、謝れなかった。本当は俺が謝らなきゃならなかったのに。チクショウ。
覚えてないわけがない。忘れてたかった、わけじゃない。考えなかったんだ。
一人でいれば、思いだすことはなかった。
思いだしたくなかった。
逃げられるのなら、逃げていたかった。俺は弱い人間だ。忘れることなんか、出来ない。
誰も、だって、悪くないだなんて言って欲しいわけじゃない。
悪かったのは俺だ。だから謝って欲しかったわけでもない。そうじゃなかったのに。
泣きたいだなんて、思っちゃいない。
風が、冷たくとも、雪が降りそうでも、もうナッジはいない。俺が悪かった。俺が。
ヴァンも、いない。
「クソッ、ちくしょう………なんで」
なんで。エルズの風の声が、こんなに、故郷に似てるんだよ。