ほらごらん、そこにある世界は 4

 イアルパが目覚めた時、皺だらけの老人の姿がなかった。
 すぐ傍、手の届く距離で眠っている少年は、規則的に寝息を立てている。
 彼らは、口も聞かない孤児の自分を受け入れてくれている変わり者だった。親身に世話をしてくれる、少年にとっては恩人だ。今だって、多分姿の見えない老人は、食料を捜しに森にいっているのだろう。
 イアルパはしばらく、薄やみの中で思案をしていたのだが、急に恐ろしくなって、涙が出てきた。
 一度堰を切ってしまった涙は止まらず、ぽたぽたとイアルパの手の甲を、衣服を濡らしてゆく。

 どうして、自分はこんな風に穏やかに過ごす事ができるんだろう。
 あの、口煩い老神官は言ってなかったか。忌み子だと、精霊が落して行った忌み子、と。
 不幸をもたらす子供で、だからこそ両親も兄弟も死神に食われたんだ、と。
 罵る老人の醜く歪んだ顔が思い出された。まるで骸骨みたいだった。死ぬ前の、母親の、落窪んだ目元と、罵る神官の顔が重なる。
 少年は瞼をぎゅっと強く閉じた。多分、自分の顔も同じようにほんとうは醜い。だから嫌われる。
 愛される事が許されるとでも思ったら大間違いだ、温もりを欲する事自体が間違いなのだ。
 少年の脳裏に焼きついた亡霊は、母の顔をした神官になり、記憶定かではない父親の顔になり、やがて、生まれてまもなく世を去った弟の姿になる。
 感覚のわからぬ闇の中、彼らは口々に罵ってきた。
 一体なんでお前ごときが、そんな風に他人の温情に甘えてぬくぬくと過ごしているのか。
 一体どうして、お前だけが。
 お前だけが生き残った。お前だけが、光の世界にいる。お前は、不幸の子だ。

 ここにいてはいけない。
 イアルパは、記憶の幻惑に苦しみながらも、とっさにそう考えた。
 この穏やかな人たちを、忌わしい闇になど渡したくはない。
 亡霊の責め苦は、自分に向いている。自分がここにいることは、闇の化け物が常にこの場所に在るということに他ならない。
 忌わしい記憶は薄闇を幻覚と魔物にすり替え、記憶がつくり出した幻覚は、経験の浅い子供にとっては、恐ろしい怪物そのものだった。
 全身で息をしながら、びっしょりと汗をかいたまま、がむしゃらに少年は飛び出した。
 扉を開けると、地上に降りる梯子を縺れるように降りた。
 最後の数段を踏み外し、尻から地面に強かに落ちる。
 臀部から来る鈍い痛みにも関わらず、まるで野生の犬か猫のごとくすばしこく体勢を立て直し、目の前の草むらに飛び込んだ。まだ、太陽が昇りきってはいない。
 朝露にぬれる草むらに飛び込み、人心地つくも、まるでイアルパをあざ笑うかのように川風が背丈の低い草葉をゆらし、少年の姿を世界に晒してしまう。
 逃げ出したいという、どうしようもない衝動に、少年は駆られていた。
 朝の冷たい恵みは、幼い子供身体を濡らし、裸足の足裏は泥濘にのめり込んでゆく。足掻けば足掻くほど、全身から汗が噴き出してくる。
 体勢をそれでもなんとか保ちながら、イアルパは全力でもがいた。ぬかるみがそれほどに深くはなかったのが、幸いしていた。
 恐怖に突き動かされ、ひたせまる幻想の闇から逃れようと、膝から下に全力を込め、泥濘の中を何度も何度も、転びながら、それでもがむしゃらに進んだ。
 どこでもいい、姿を隠してしたい。
 泥濘と必死に格闘しながらやっと見つけたそこは、川のある方角からは離れた、うっそうとしげった丈の低い植物が密集する場所だった。
 少年は、何かに引っ張られるかのようにその影に飛び込むと、四肢をついて息を吐いた。乾いた地面にぽたぽたと汗が次々に滴り落ちる。黒くなってゆく砂地をみつめながら、イアルパはまずは呼吸を整えた。
 呼吸が収まってくると、それまですっかり忘れていた全身の痛みが急に少年を襲う。
 けれども無理に四肢を動かし、尻をつくとぎゅっと膝を抱える。喉が渇いていた。
 膝をかかえ、ひざ頭に顔を押しつける。
 何やら腕や脇腹やつま先がちくちくと痛む。
 それでも構わず、息まで止めているかのように、イアルパはじっと動かなかった。
 唇を噛んで、強く瞼を閉じると、視界に闇が訪れた。
 太陽の光は、届かない。
 安堵とは言いがたい。だが、先ほどまであれほどに感じていた恐怖は、少しだけ遠ざかったように思う。
 早鐘のような心臓の鼓動は、ほとんど収まっていた。全身に出来ている切り傷や擦り傷よりも、打ち付けた尻の痛みが、気になった。
 そうして、どれくらいの時が過ぎただろうか。
 太陽はすっかりと辺を照らしているのだが、イアルパが潜り込んだ茂みまでは初夏の日射しはまだ届かない。
 何もイアルパを追い詰めるものはそこにはなかった。
 さらさらと川面を撫でる風の音だけが、イアルパの世界に存在する音だった。思い掛けない侵入者が、そこを訪れるまでは。

 自分以外の存在を示す音に、イアルパは再び心臓が早鐘のように脈打った。
 更には、その声を耳にするや否や、臓腑を掴まれるような恐怖を感じ、胃液がこみ上げてくる。イアルパは、衝動的な吐き気をなんとか堪えた。
 ろくに生え揃っていない歯茎がかたかたと小刻みに音をたて、震えている。
 逃げ出してきた恩知らずな子供を、まさか捜しに来るとは思っていなかった。
 怒られるかもしれない、落胆するかもしれないし、恨まれるかもしれないけれども、心配されている、などという想像をするには、少年は他人から愛される事を知らず、そして信用も出来なかった。
 イアルパの瞳は恐怖に見開かれ、恐怖からせめて少しでも逃れようと、自分の頭を抱え込み、いっそう小さく縮こまる。
 足音は、すぐ側までやってきた。立ち止まる素振りを気配で感じるも、それから少し離れて行った。
 イアルパは、知らぬうちに唇を強く噛んでいた。どうか見つけてくれるなと、信じもしない神に願っていた。
 心臓の鼓動すらも五月蝿い。全身が、まるで血管になってしまったかのように、その鼓動を感じる事が出来る。全身が震えている事に、イアルパは気づいてはいなかった。
 イアルパは、目を閉じた。
 耳を塞ぎたくなった。
 望んで離れたのだ。
 孤独は、むしろ嫌われものの自分にはぴったりの相棒だ。
 孤独でいれば、辛い思いをこれ以上することもない。喪失の恐怖は、幼い心にあまり無惨な爪痕を、残していた。
 もう二度とあんな思いをするくらいなら。
「頼むよ、ねえ、頼むから、出てきておくれよ」
 二度と、あんな思いはしたくはない。嫌なんだ、もう、これ以上、怖い思いをするのは、嫌なんだ。
「兄弟が出来たみたいで、嬉しかったんだよ。誰かがいつでも側にいるって、幸せな事だって、思えた。楽しかった」
 穏やかなナッジの声は、イアルパの唇をわななかせて、いっそう頑に瞼を閉じさせた。顔をあげるのが、恐ろしかったのだ。
 だってもう、嫌なんだ。哀しい思いをするのは、ごめんだ。身体が裂けてしまうような、辛い思いを、したくないんだ。
 イアルパは唇をもういちど、噛みしめた。
 少し痛くて、血が滲んだ。
「ねえ、ちゃんと、話したいんだ」
 どうしてだろう。こいつときたら、俺に親切にしてくる。なんでだ。
 よくわからない。おかしい。
 恐怖は、疑念を浮かべさせるイアルパの精神的余裕から、圧倒的な絶望ではなく徐々に不安に変わってきていた。
 そもそも、彼らの元から姿を消したという時点で、愛された経験の少ない孤児にとっては、初めて他人の為の行動だったのだ。
 一度知ってしまった温もりや優しさは、イアルパの頑なだった心を弱めていた。
 更に、ほぼ時を同じように過ごしていたナッジの言葉はとにかく誠実で、優しくて、真っ直ぐだ。
 それらはすべて、弱っていた少年の心に、不安と動揺を、恐怖よりも多く与え、その不安や動揺そのものを変質させてゆく。
 足音が、再び、近付いてきた。
 少年は顔を思わず、顔をあげてしまう。その所為でカサリと、耳もとの葉が音を立てた。
 頭上で気配が動くのを感じる。見つかる。そう思った。けれども己の位置を相手に伝えてしまうそれを、耳障りだとは、思わなくなっていた。
「出てきてよ、どうして、隠れるんだよ」
 声が、すぐそばにある。
 思わず浮きかけた腰を、それでも一度は制するが、イアルパは茂みの隙間からナッジの表情をとらえてしまった。
 そして、息を飲まずにはいられなかった。

 なんで、そんなに哀しそうな顔をしてるんだろうか。
 不安そうで、哀しい顔をして。
 嫌われものの孤児なんか、いなくなったらせいせいするはずじゃなかったのか?
 無駄飯食らいの役立たずなんか、何の存在意義があるんだ。
 イアルパは自分自身の在り方を、頑なにそう信じるしか、外の世界から己を守る手段を知らない。
 この後に及んでも、イアルパはいまだに他人の善意というものに不信を抱いていたのだ。
「隠れる必要なんか、ないじゃない。僕は君の事、嫌ってもいない、怖くもない、邪魔だなんて思ってない、そうじゃないよ……」
 何やら先程とは様子が変わってきた。語尾がかすれ、言葉が不明瞭になってきている。時に嗚咽が混じっているように思えるのは、イアルパの気のせいではない。
「僕はコーンスだよ、君とは違う。でも、君は僕のこと、怖がらなかった。化け物みたいだ、なんて言わなかった。逃げなかった。だから、僕、君となら仲良くなれると思ったんだ」
 その声を聞いたとたん、少年の胸の奥が刺すように疼いた。記憶が、よみがえる。

 突然姿を消した背中と、謝罪の言葉。

 息が詰まる。父は、二度と少年の前に姿を現さなかった。
 覚えているのは、ひどく憔悴した父の顔。
 まるで骸骨のような、見た事もない、他人の顔。頬の肉がそげ落ちた老神官の侮蔑に満ちた顔。


「一緒に、帰ろう」
 声がきこえた。
 その瞬間に、イアルパに襲いかかろうとしていた、幻影は、霧散する。
 
 
 少年は、衝動に突き動かされ腰を上げた。

 まぶしい初夏の日射しと青い空が広がる。

 目の前にいた見なれた顔が驚いて、それから、歪んで、真っ赤になって。
 少年は、他人の体温を温かいものだと、痛感していた。




 少年はイアルパと名乗った。
 遠慮がちな口が開くまで、やはり食事を済ませてそれから大分時間を要したのだが、済まなそうに俯く少年の頭を、老人は何度も何度も穏やかに撫でていた。
 そうして、名乗ってからまた俯いてしまったのだが、やがて何かを思いついたのか、顔をあげると隣に座るナッジに向かいぶしつけに手を差し出したのだ。
 ナッジが困惑してみせるも、少年はやはり黙ったまま、ただまっすぐに見つめて来る。老人が子供たちから離れてみせると、イアルパはそれを機に口を再び開いた。「俺が、兄貴だ」
 単純に体格差から少年がそのように思い込んだのかどうか、それはナッジにはわからなかった。実は理由があるのかもしれないが、多分問いただしたところで芳しい答えが帰って来るとも思えない。
 だが、この際そんな理由は、どうでもよかった。事態は良い方に転がったのだ。彼の姿が見えなかった時は、本当に息が止まるのかと思うくらいに動転していた。
 理由は、そのうち機会があれば聞く事ができるのかもしれない。
 何にせよ、彼は戻ってきたのだ。その安堵から、ナッジは差し出された手をとらぬ理由は、見つからなかったし、拒む理由も見当たらなかった。