北海から長い河筋をたどってくる涼しげな川風と、うっそうとしげる森がその暑を緩和してくれるテラネの夏は、バイアシオン南部のロストール王国などにくらべれば圧倒的に過ごしやすかった。
それでも日中ともなれば、川から来る湿気は時にじっとりと皮膚にまとわりつくし、じりじりと灼けつくような日射しは木々の間から容赦なく肌を刺す。
季節の良い夏期は、こと巡礼客の増える時期でもあった。
ゆえに、町では宿の主人を始めとした住人たちが大わらわなのだ。
常に駐屯しているわけではない神官騎士と呼ばれる、巡礼者の護衛を役目とした怪物達との戦いに長けた神官たちも、この時期だけはテラネの町に滞在し、息つく暇もなく駆り出されていた。彼らの接待は、町の人間の役目でもあり、徳行とみなされる。流石に直轄地とまでは行かないので、そこまで熱心に、人々が集う聖地という側面こそないものの、それでも首都エンシャントなどにくらべ、テラネは宗教的なものに意義を感じる人間が多かった。
だが町の外れ、森の入り口に居を構える一家にとって、その喧噪はほとんど無関係だった。
それとは別に日常的な行いとして、ジルダにはエンシャントへの文をしたため冒険者ギルドに頼んだり、同じく町の外れに住まうボンガ夫妻の元を訪れたり、などという用向きがあったものの、子供たちは大いに自由だった。
日射しの強さが伺える抜けるような青空が広がる早朝。
朝露は乾ききらず、この時期、この土地にのみわずかの間にだけもたらされる、一時の涼けさがゆきわたる。そんな刻限だった。
「おじいちゃん!大変だよ!あの子がいない!」
森から戻ってきた祖父を迎えるには興奮した様子で、ナッジは転がり落ちて来るかのように小屋から飛び出してきた。
文字通りに転げて来るのではないかと、ジルダは滲んでいた汗が一気に冷たいものに変わりそうなほど、肝を潰すも、なんとかその小さな身体を受け止め、無事を確かめる事が出来た。
「わかっておる、今、少し森を捜してきたところじゃ。そう急くな…そのように急いては、見つかるものも見つからぬぞ」
「でも、でも、もし間違って川になんか落ちちゃったら、きっと助からないよ…!」
「それもわかっておる。わかっておるから落ち着くんじゃ、ナッジ」
「…………でも」
納得しかねている孫の頭を抱き寄せて撫でながら、老人は思案していた。
あの孤児が愛情を欲していたことだけは、間違いはない。
慣れぬ他者からの温もりと愛情とが、恐怖となって徐々に心を乱していたのか、その束縛から逃れようとがむしゃらに飛び出してしまったのだろうか。何にせよ哀しい事だった。
もともと、ジルダはイアルパを知っているのだ。彼の両親と知らぬ仲ではなかった。
彼の両親は流れ者だった。
余所者を嫌うこの宿場町に、彼らが敢えて居を構えたのは、イアルパの母が熱心なノトゥーン信者だったからだ、とは聞いている。聖地アルノートゥンの厳しい気候では、彼女の病弱な身体は持たない、だからせめて霊峰トールにほど近いこの町ならば、と考えたらしかった。余所者を嫌う無言の敵意にもめげず、彼らはこの町を愛していた。森と水の豊かな、穏やかなこの町を、心地よいとすら言っていた。
だが、数年前、ロセン王国とディンガル帝国の間に争いが勃発する。
ランバガン略奪戦争…英雄ネメアが28騎で6000の大軍を打ち破った武勇譚は有名だが、かの戦争に傭兵として参加する、そう言い残すと、幼いイアルパと子供を喪ったばかりの病弱な妻を残し、イアルパの父は戦地に赴いた。蓄えなどもある筈のない流民が、決して豊かではない土地に畑を持つ事すらもままならず、同じように余所者であったボンガと共に林に入ったりもしていたが、それでも貧しさは補いきれなかったのか、多くの傭兵がそうであるように、イアルパの父もまた、一攫千金を夢見、傭兵として戦いに参加した。
そして、結局彼は帰らぬ人となり、病弱な妻はその後を追うようにして亡くなった。
あの時に、自分が引き取っていたのであれば…或いはイアルパは不幸な目には遭わず、ナッジと共に何不自由なくとまではいかずとも、幼子が幼子として享受すべき愛情を受け、育つ事も出来たであろう。が、その決断を、ジルダは出来なかった。
イアルパを引き取るといったノトゥーン神官に或いは、という期待をわずかにも持っていた。思えば、それが間違いだったのだ。
彼は確かに余所者を厭う傾向があったが、それは冒険者といわれるような、時に暴力を手段として用いる事に抵抗を持たない人種と聞いていた。まさか、天空神ノトゥーンの熱心な信者のその子を、無下に扱うなどとは、ジルダは想像は出来なかった。
ここまで考えて、ジルダははたと気がつく。
儂は後悔しているのだ。あの子を、あの時に己の皺だらけの手に抱かなかった事を。
ノトゥーン教会の神官を批判などは出来ない。彼は、彼なりにイアルパの世話をした。しかし自分はどうだ。事の一切を知りながら、確かに育てねばならぬ孫がいて、さらには種族が違うとはいえ、見過ごした事実に変わりはない。
ジルダは、大きな瞳を不安げに揺らす孫の体温に、思わず縋る。
「あの子、悪い子じゃないよ……あの子となら仲良くなれると、思ったのに」
その声色はまるで泣き出しそうで、もう両の瞳は潤んでいる。こんな、まだろくに世間を知らぬ我が孫ですら、不信の塊になってしまったあの子を思い、心を痛めているというに。ジルダは力なく、首を左右に振った。
「………ああ、そうじゃな。あの子はきっと、お前の一番の友達になるよ」
こうなってしまった以上、哀れな孤児に手を差し伸べるのは同胞ではなく、自分たち以外にはありえない。
現に一度その手を差し伸べてしまったのだ。今ここで見放せば、あの子供は多分簡単に闇に落ちて虚無に食われてしまう。
それだけは、何としても防がねばなるまい。恐怖と不信の奥にひそむ、強い力を持つ瞳は、決して曇らせてはならない。
一体何が高齢のジルダを急き立てたのかはわからない。
或いは何者かの意志なのか。ただの老いぼれの自己満足か。
「…お主が捜しにいってみるか?子供の事は、子供の方が理解出来るのかもしれん」
目覚めてみると、隅にうずくまっていた筈の影がなかった。きれいに折り畳まれた毛布に触れると、温もりは残っていた。まだ闇の支配する時間といってもいい時刻で、しかも子供の足なのだ。そう遠くにはいけまいと、風の精霊に呼び掛けて訪ねてみたが、芳しい情報は得られなかった。更に、彼の境遇を考えれば、町の中に戻ったとは考えにくい。案外近くにいるのではないだろうか。
孫を抱く両の腕の束縛を緩めると、不安げに揺れる二つの瞳に、もう一度老人は問いかけた。
「どうじゃ、ナッジ。頼まれてくれるか。儂は、朝餉の仕度をせねばならん」
老人の言葉に、ナッジの顔に喜色が広がる。言わんとすることを悟った少年は、力強く頷いて駆け出した。
心当たりといわれても、ナッジには最初にあの子供と出会った、町と森の入り口を結ぶ小道しか思い浮かばなかった。
あの時は枯れていた川柳の葉も茂っているだろうし、背丈の低い植物の群れも多分背を隠すのには役に立つ。
多分町には戻ってないだろうし、祖父の言葉では森にいた様子はないという。
テラネの外れ、森と川の、ちょうど間がナッジの住処だ。手っ取り早く町の外に出る手段は、川を渡る事なのだが、生憎と橋が掛けられるほどの要路にはなりえないこの場所は、流れも急で深さもそれなりにある。とてもではないが、子供が泳いで渡る事が可能なそれではなかった。
それらを考えてみれば、川辺を捜すのが、最も妥当だとナッジには思えた。とりあえずの方向性が決まれば、あとは動くだけだ。
ふと見上げれば、空は澄み渡るように青い。そしてその青さを目にしたとたん、押し寄せるような不安に襲われてしまう。
どうして急に、こんなことになってしまったのだろう。
太陽は今日も変わりなく、遥か彼方、東の稜線から顔をのぞかせて、大地を照らしている。
変わる事がなく日常は過ぎゆくはずだった。新しい家族とも、やっと打ち解けてきていたというのに。
考えれば、視線と頭とは、自ずと垂れ下がっていた。
様々なことで小さな頭を一杯にして、それでもナッジは確信を持って群生する葦やシダを分けてゆく。川柳は、風をゆけてそれは優雅に枝を揺らしていた。
「ねえ、おじいちゃんも、僕も、すごく心配してるんだから、出ておいでよ。怒ってないからさ」
呼掛ける声は、自然にのぼってきた。手を止め、あたりをがむしゃらに見回すのも止めて、ナッジはもう一度、呼掛ける。
「僕、待ってるよ。君が、きっと出てきてくれるって思うから」
言うと、すとんとその場に腰を下ろしてしまった。
少年はここにいる。
そう、先ほどはあわてていたから気がつかなかったが、そこかしこに小さな足跡が沢山残っていたのだ。
その事に気がついたナッジは、足跡をたどっていたのだ。
無理強いは出来ない。元々、無理強いしようとすれば、拒絶するような子供だった。それにナッジは、あの少年を信用していた。
幼いコーンスの少年にとって、コーンスという種族そのものを狩りの対象と考えたり、忌み嫌い疎外する人間という連中は、できれば関わりたくはない存在だった。
ジルダにその考えを咎められた事も幾度かあったのだが、それでも幾度か危ない目に遭わせられた身としては、素直に従えないところがある。そういう意味では、ナッジはイアルパとは共有出来る価値観が、例えそれが誉められたものではないにせよ、あるには違いなかった。
もっとも、ナッジがイアルパを信用するに至る過程には、もっと沢山の、それこそ共に過ごしてきた日々の平穏さからくるものがあった。
きちんと仕事をこなし、口こそきかないものの、ナッジよりも頭一つ分背の高かったイアルパは、何かにつけ、辛い仕事をやりたがった。そんな事が幾度かあり、ナッジのほうはすっかりイアルパに対して心を開いていたし、相手もそうなのだ、となんとなく感じていた。なれば、イアルパはナッジの問いかけには必ず何らかの反応を示していたし、動く事の少ない表情が、最近はそれでも豊かになってきていたからだ。
もっと記憶を辿れば、それこそ出会った当初から、あの少年に対し、ナッジは人間に対する恐怖というものを、まるきり忘れていた。
冷静に、今でこそそのように当時を思い出して分析出来たが、あの時はもっと直感的な出会い方をしていた。
あの時、冬の朝。ナッジは確かに妙な確信をもって、少年の手を握った。
「それと、できれば色々話をしてみたいんだ。あのね、僕、…僕は、同じ年頃の子と、一緒に遊んだ事、なくて」
すべて、本心だった。
素性もよくわからない孤児相手に、けれどもナッジは必死に戻ってきて欲しいと願っていた。
ある日突然姿を消してしまう、という可能性は、考えた事もなかった。